作り手 あんな人こんな人 第1話

渡辺幻門

2013年10月22日 19:46

今日から始めます。

ブロマガと同時投稿です。

どなたの話から書こうかな、と少し考えたのですが、やっぱり時系列的に書いていった方が良いかな、と想います。

物作りをしている人の話ではありませんが・・・


私が沖縄に初めて行ったのは、小学校5年生の時だったと思います。

1964年生まれですから、当時11歳で1975年ですか。

沖縄本土復帰が1972年ですから、復帰してから3年たったころです。

あんまりよく覚えていないのですが、沖縄に着いたら、父に連れられて当時お世話になっていた繊維会社に行きました。

道からすぐ座敷に入れるような作りで戸はなく、フルオープンになっていました。

そのお座敷の奥の棚には反物がいっぱい。

亡父もそこの会社に商品を買ってもらっていたんです。

その会社は女性3人が経営していて、当時もうすでにかなりのご年配でした。

おばさんの一人が私にコカコーラをくださって、それたとても美味しかったのを記憶しています。

そのコーラの王冠の裏が、まだコルクでした。内地ではもう無くなっていましたからね。

亡父は、沖縄と東南アジアとの貿易をやっていて、萬代商事もそういう会社でした。

沖縄でも古い人は、まだ毛織物をやっていると想っている人もいるようです。

亡父はそのおばさん達にとてもお世話になったようで、当時もう復帰していて商売はなかったでしょうに、私たち兄弟にも大変優しくしてくれました。

私の沖縄女性に対して持っている原風景という感じの人たちですね。

おばさん達はとても商売が上手で、亡父は20歳の時から世話になっていたようです。

亡父が沖縄に行くと、やっぱり、まずはじめにそこの会社に行く。

見本を見せるわけです。

おばさんは『選んでおくから、遊んでおいで。帰るときに来ればいいさ』

亡父は沖縄の言葉など全然解らなかったと想いますが、おばさんたちは解っていると想っていたらしいです。

それで、気持ちよく遊んで、帰るときにおばさんの所に行くと、

『あ、忘れてた。まだ選んでないさ』

亡父は大慌てな訳です。

見本を預けているわけですから、他では商売ができません。

その一件にかけているわけです。

そこが決まっていなければ手ぶらで大阪に帰らなければなりません。

父は恥ずかしがり屋なので、『おばさんはよくしてくれた。見本を預かって勝手に注文してくれた』としか言いませんでしたが、亡くなった後に関係者に聞くと、おばさんの手にまんまとはめられていたんです。

つまり、そういう事態に追い込まれると、イヤでも値引きせねばなりません。

注文するつもりではいるわけですが、叩くつもりで追い込んでいるわけです。

それでも、身を切られるような事をされていないから、また行くし、商売が無くなっても挨拶に行っていたんでしょうね。

亡父も、20歳の時に沖縄に初めて渡って、単身で駐在員もして、沖縄の人たちにいろいろ商売を教わったのだろうと想います。

まだ幼い私をつれて、ここのお店の人はこんな人、こんなお世話になったなどと話しながら公設市場の中を歩いたのを覚えています。

亡父は、ここが私の商売の原点だと言っていましたし、私もそう思います。

ですから、いまでも公設市場の洋服屋を見ると、懐かしく、また、初心に返れるような気がするのです。

私は沖縄でモノを売るという仕事はしていませんが、言葉も十分に通じない沖縄で亡父はさぞ寂しく、不自由な想いをしたことと想います。

でも、あんなたくましいおばさん達に支えられて、一人前の商売人になったんだな、と想うと、胸に迫るモノがあるんです。

沖縄でも、大阪でも、昔は、後輩の商売人を育てようという気持ちがみんなにあったそうです。

そのおばさん達も、萬代商事設立の時に出資してくれて、父が亡くなるまで株主だったんです。

父が亡くなったと言うことで、母と二人で沖縄を訪れ、おばさんたちはもうお亡くなりになっていましたが、そのご子息に出資金をお返ししたという次第です。

当時の沖縄の人たちは、いまよりずっと貧しかったと想いますが、とても優しかったです。

独立心があって、世話好きでもあった。

はじめて沖縄を訪れる前に、父が持って帰ってきてくれたカステラ(大きなカマボコ)やラフティは、そのおばさんたちの手作りだと知ったのは、ずいぶん後のことでした。