作り手 あんな人こんな人 第2話

渡辺幻門

2013年10月23日 21:15

ふたつくらい早めに書いておかないと忘れてしまうので、昨夜に続いて連投です。

月日はかなり飛んで、34歳の時、亡父が大病を患って、一線を退かねばならなくなって、私が実質的なトップになったときの話です。

私は、その前はまだ単なる販売員くらいの仕事しかしていなかったんですが、私以外適任がいなかった、というのが本当のところでしょうね。

私にバトンタッチするときに、『また、沖縄の織物に力をいれたらどうかな』と亡父からアドバイスをもらって、それで、沖縄に行くことになったんです。

沖縄とはずっと親交も取引もあったんですが、伝統染織の分野はあまり力を入れていなかった、というか、当時の弊社の規模としては、沖縄の産地は小さすぎたんですね。

だんだん所帯も小さくなってきていましたし、私自身が沖縄に対する熱い気持ちをもっていたので、そういってくれたのかもしれません。

なにせ、幼稚園に行く前から、父が沖縄から持って帰ってくるチューインガムやチョコレートを腹一杯たべて、鼻血を出していた私です。

そんじょそこらの沖縄好きとは訳が違います。

うちにあった在庫の紬や帯を私が独占してほとんど一人で売っていたんです。

それで、とにかく沖縄に行ってみよう!と飛んでいきました。

平成11年の春くらいだったと想います。

とりあえず、行くところといえば、昔お世話になったところ、という事になります。

昔は組合もそんなにしっかりしたモノではなくて、南風原が産地問屋の機能を果たしていたんです。

つまり、南風原の機屋が沖縄じゅうからモノを集めて、内地の問屋に売っていた、という事です。

うちが沖縄のキモノをやり出したのも、その南風原の機屋さんに、糸や染料、機料(染織に使う道具)を売っていたからです。

染料で有名な田中直や織機の津田駒の代理店をしていたんですよ。

そのご縁で沖縄のキモノを内地、特に関西圏に広めてくれと、県の委託もあって、取り組んだということなんです。

南風原でお世話になった機屋さんを廻ると・・・

全然だめでした。

疎遠にしていたのと、昔のうちの対応が悪かったのもあって、非常に冷たくされたのを覚えています。

また、当時は、ある問屋が沖縄染織の7割方を独占していて、入り込む余地が無くなっていたんです。

うちは検査が厳しいので、10反送れば半分は不合格で返品するという事になることがあります。

その返品分をとっていた会社があったんです。

結局はそこに全部とられてしまうことになったわけです。

まぁ、人情としては解りますよね。

行けども行けども、そんな感じで、全然仕入れできません。

みんなうちの事は知っているけど、商品が無いんです。

ちょうど第3次沖縄ブームの頃だったんですね。

アテがはずれてフラフラになって、ふと立ち寄ったのが、昔からお世話になっているあるお店でした。

私も昔から知っている店でしたので、困り果てて、寄ってみた、そんな感じでした。

沖縄の工芸にはとてつもない情熱を傾けている人で、私もいろんな事を教えてもらいました。

実は、父はあまり沖縄の事は語らなかったんです。

というか、とくとくと語り、教えるということはなかった。

今思い起こせば・・・という感じで、つなぎ合わせて行っているという感じです。

父は、翌11年に亡くなってしまったので、それから私の工芸の師匠は、その方でした。

その店で、ある作品を見て、ご縁をつないでいただいたのが、私の琉球染織の第一歩だった、と言っても過言ではありません。

どこへ行っても、こじ開けられなかったドアが、スッと開いて、開けると、そこにはお花畑が広がっていた。

まさにそんな感じでした。

そこで作り手の人とお話しするときに、役に立ったのが父やその店主から教えてもらった話でした。

いま考えると、あんな損得抜きでいろいろ教えてくれる人がいまの沖縄にいるだろうか?と想います。

それだけの情熱を沖縄の工芸に注いでいらっしゃったということでしょうね。

私は今でも大変尊敬しています。

その後、いろいろ行き違いがあって、ここでは書けないような事もありましたが、私は十分にご恩返しができたと想っています。

たいへん人の良い方でしたので、沖縄の工芸人や内地の業者に利用されて、ご苦労なさったのだろうか、と想います。

普通なら、もっと尊敬されて、語り継がれ、恩に着る人が大勢いていいはずです。

いまでも、沖縄でも著名な染織家のある方は大変に恩義におもって、決してお忘れにならないそうです。

その染織家の方は、ご苦労な去っていた時期にお子さんを背負って、その店で機織りの実演をしていたと聞いています。その時の恩を忘れないでいらっしゃるのです。

私はその店の店主も、その染織家も大変にご立派だと想いますし、見習いたいと想います。

ただ、その店主は、あまりにも工芸への情熱が勝ちすぎたのが仇になったようです。

工人と生で接し、すばらしい工芸品を手にすると、どうしても没入してしまうのです。

工人をないがしろにし、工芸品をいい加減に扱う人は、人や作品の解らない、情の無い人なのだろうと私は思います。

情がからむから、抜けられない、何とかしてあげたい、なんとかこの美しい品物を世に広めたい、そういう想いと、商いという現実との戦いなんですね。

民芸運動家や工芸家と違って、商人が民芸運動に足を踏み入れるというのは、ある意味で危険な事なんです。

『情』のコントロールをしないといけないからです。

またそれが大変難しい。

商人はある意味で冷淡でなくてはなりません。

また、冷淡であることで、工人に伝わることもあるのだろうと想います。

この店主は商人としての工芸運動家、民芸運動家の大先輩でした。

やっぱり、現地の沖縄でこういう存在の人が絶対に必要だな、と想うのです。