2013年02月19日
『もずやと学ぶアーツ&クラフツ』第7話
【ホイッスラーとジャポニズム】
『ジェームス・マックニール・ホイッスラーはアメリカ人で、パリでファンタン・ラトゥールやブラックモンと共に画家の修業をした。
ブラックモンは1856年に日本から送られた陶器の詰め物につかわれた紙くずから北斎の漫画を発見し、ホイッスラーたちに見せた。
ここに日本の浮世絵の美がヨーロッパで発見され、印象派に影響する。』
どうやら、このホイッスラーという人がキーマンなようです。
この本の中では前述のラスキンとホイッスラーの争いの事が書かれていますが、それはおいといて、問題はこういうことです。
『なぜイギリスにアール・ヌーボーが生まれながら、コンチネンタル・アール・ヌーボーが成長した時に、、イギリスでは失われたか、モリスにおいてモダン・デザインの糸口がつけられながら、なぜモダン・デザインがイギリスでは発展しなかったか』
この原因をイギリスの先進性と保守性にあるとして、ハーバート・リードという人が以下の様に書いているそうです。
『なんらかの理由の為に、コンスタブルやターナーの作品に至現された近代的な意義に対しては、彼らはぴたりと心の扉を閉ざしてしまい、衒学と俗物性の臭気に包まれた異様な隠れ家に逃避しているのだ』
『美の為の美』の概念がイギリスとフランスでは違ったようです。
イギリスでは常に倫理的。
フランスでは印象派が現れている。
ハーバート・リードはこの理由を『イギリス社会のピューリタニズム、ヴィクトリアンの繁栄のスノビズムから来る』としています。
そもそも、イギリスの美術が線的(グラフィック)で、世俗的であって、反印象主義的性格をもっていたともされています。
あと、グチャグチャかかれていますが、要するにこういうことです。
『グラフィックであることが、そしてストイックであることが、イギリスにアール・ヌーボーを生み出した。しかし、その社会の保守性、ピューリタニズムがついにそれに革命性を与えない。イギリスにおいては自由な芸術はまだ存在していなかった』
そしたら、なんでそこから、大陸に渡ってアール・ヌーボーが発展したのか?です。
イギリスにおいてアールヌーボーは反印象主義であった、それを印象派と接近させ、後期印象派との類縁性を示さしめたのは、
『日本の浮世絵の発見』である、としています。
『東洋の芸術では、装飾的な性質と、印象派的な性質とが、独特のかたちで総合されているため、印象派の人々も、その正反対の極に立つアールヌーボーの創始者たちも、共に日本版画や中国の陶器が教えるものを使うことができた』
つまり、日本の浮世絵によって『ヨーロッパの歴史を超え、ヨーロッパの文脈では理解不能な美の発見、美の相対化による普遍的な美の発見』がなされた、ということです。
ラスキンとホイッスラーが喧嘩してた。
ラスキンは『線や!グラフィックや!倫理や道徳や!』
ホイッスラーは『なにゆうてんねん、きれいかったらええやんか!』
と言い争いをしていたわけです。
周りで聞いて居る人も、『そやなぁ、どっちなんやろ、キレイやったら何してもええてわけやないやろし・・・』
そこにせせら笑うように、北斎の版画がシューって出来てきた。
度肝を抜かれたわけです。
言い争っているラスキンとホイッスラーの溝埋める概念、すなわち、『平面性』がそこにはあったわけです。
エーッ!!!って感じなわけですよ。
こんなん、しらんかった!って。
立体的なモノを、立体として三次元で描くか、一次元で描くかと争っているときに、
『二次元は?結構ええかんじやよ』
って、出てきたわけですよ。
そしたら、これは、いろんな事に使えるわけですよ。
平面に装飾できる。
一番大事なことは、『高度に抽象化できる』ということだと想います。
1867年にはパリ万博には日本の茶室が造られ、漆器、袱紗、浮世絵などが展示されたそうです。
ホイッスラーはこの後、熱狂的な日本愛好家になって、イギリスにも日本趣味が紹介されることになったそうです。
『ホイッスラーにとって、東洋の発見は、歴史主義の意味と枠から彼を解放し、抽象主義への道を開いてくれるものであり、プレラファエルの抽象趣味とはまったくちがっていた』
キリスト教的な道徳や倫理というものから解放された芸術が、東洋の発見によって初めて実現した、ということです。
さらにホイッスラーは、パリにボヘミアにズムとデカダンスをもたらしました。
つまり、『芸術における道徳的責任の解除、自由なる芸術の概念をもちこんだ』ということです。
日本でいえば、曼荼羅やら、仏教がを描いていた人が、急に『何描いてもええよ』と言われた。
『そうは、いうてもなぁ、やっぱり他人様のためになる絵を描かなあかん』
そう想ってたら、『そんなん、古い古い。絵はキレイなんがいちばんや。説教くさい絵はやめてくれ』
どっちもどっちですけど、流れ的には、芸術家は自由を選びたかった。
その背中を押したというか、流れを力強いものにしたのが浮世絵などの日本美術だった、ということでしょうね。
日本側から考えると、前にも描きましたが、いかにわが国の大衆文化が成熟していたか、ということです。
そして、美的才能にあふれていたか、ということでもあります。
が、しかし、この本の著者は、こう書いています。
『モリスと白樺派の柳宗悦の民芸運動との関係など、これから解明されるべき問題である。なぜ前者はモダン・デザインにつながり、日本の民藝が孤立しているか』
まさしく、この事が、この『アーツ&クラフツ』の連載のテーマです。
これから、まだまだ先は長いので、みなさんも考えながら、読み進めてくださいね。
『ジェームス・マックニール・ホイッスラーはアメリカ人で、パリでファンタン・ラトゥールやブラックモンと共に画家の修業をした。
ブラックモンは1856年に日本から送られた陶器の詰め物につかわれた紙くずから北斎の漫画を発見し、ホイッスラーたちに見せた。
ここに日本の浮世絵の美がヨーロッパで発見され、印象派に影響する。』
どうやら、このホイッスラーという人がキーマンなようです。
この本の中では前述のラスキンとホイッスラーの争いの事が書かれていますが、それはおいといて、問題はこういうことです。
『なぜイギリスにアール・ヌーボーが生まれながら、コンチネンタル・アール・ヌーボーが成長した時に、、イギリスでは失われたか、モリスにおいてモダン・デザインの糸口がつけられながら、なぜモダン・デザインがイギリスでは発展しなかったか』
この原因をイギリスの先進性と保守性にあるとして、ハーバート・リードという人が以下の様に書いているそうです。
『なんらかの理由の為に、コンスタブルやターナーの作品に至現された近代的な意義に対しては、彼らはぴたりと心の扉を閉ざしてしまい、衒学と俗物性の臭気に包まれた異様な隠れ家に逃避しているのだ』
『美の為の美』の概念がイギリスとフランスでは違ったようです。
イギリスでは常に倫理的。
フランスでは印象派が現れている。
ハーバート・リードはこの理由を『イギリス社会のピューリタニズム、ヴィクトリアンの繁栄のスノビズムから来る』としています。
そもそも、イギリスの美術が線的(グラフィック)で、世俗的であって、反印象主義的性格をもっていたともされています。
あと、グチャグチャかかれていますが、要するにこういうことです。
『グラフィックであることが、そしてストイックであることが、イギリスにアール・ヌーボーを生み出した。しかし、その社会の保守性、ピューリタニズムがついにそれに革命性を与えない。イギリスにおいては自由な芸術はまだ存在していなかった』
そしたら、なんでそこから、大陸に渡ってアール・ヌーボーが発展したのか?です。
イギリスにおいてアールヌーボーは反印象主義であった、それを印象派と接近させ、後期印象派との類縁性を示さしめたのは、
『日本の浮世絵の発見』である、としています。
『東洋の芸術では、装飾的な性質と、印象派的な性質とが、独特のかたちで総合されているため、印象派の人々も、その正反対の極に立つアールヌーボーの創始者たちも、共に日本版画や中国の陶器が教えるものを使うことができた』
つまり、日本の浮世絵によって『ヨーロッパの歴史を超え、ヨーロッパの文脈では理解不能な美の発見、美の相対化による普遍的な美の発見』がなされた、ということです。
ラスキンとホイッスラーが喧嘩してた。
ラスキンは『線や!グラフィックや!倫理や道徳や!』
ホイッスラーは『なにゆうてんねん、きれいかったらええやんか!』
と言い争いをしていたわけです。
周りで聞いて居る人も、『そやなぁ、どっちなんやろ、キレイやったら何してもええてわけやないやろし・・・』
そこにせせら笑うように、北斎の版画がシューって出来てきた。
度肝を抜かれたわけです。
言い争っているラスキンとホイッスラーの溝埋める概念、すなわち、『平面性』がそこにはあったわけです。
エーッ!!!って感じなわけですよ。
こんなん、しらんかった!って。
立体的なモノを、立体として三次元で描くか、一次元で描くかと争っているときに、
『二次元は?結構ええかんじやよ』
って、出てきたわけですよ。
そしたら、これは、いろんな事に使えるわけですよ。
平面に装飾できる。
一番大事なことは、『高度に抽象化できる』ということだと想います。
1867年にはパリ万博には日本の茶室が造られ、漆器、袱紗、浮世絵などが展示されたそうです。
ホイッスラーはこの後、熱狂的な日本愛好家になって、イギリスにも日本趣味が紹介されることになったそうです。
『ホイッスラーにとって、東洋の発見は、歴史主義の意味と枠から彼を解放し、抽象主義への道を開いてくれるものであり、プレラファエルの抽象趣味とはまったくちがっていた』
キリスト教的な道徳や倫理というものから解放された芸術が、東洋の発見によって初めて実現した、ということです。
さらにホイッスラーは、パリにボヘミアにズムとデカダンスをもたらしました。
つまり、『芸術における道徳的責任の解除、自由なる芸術の概念をもちこんだ』ということです。
日本でいえば、曼荼羅やら、仏教がを描いていた人が、急に『何描いてもええよ』と言われた。
『そうは、いうてもなぁ、やっぱり他人様のためになる絵を描かなあかん』
そう想ってたら、『そんなん、古い古い。絵はキレイなんがいちばんや。説教くさい絵はやめてくれ』
どっちもどっちですけど、流れ的には、芸術家は自由を選びたかった。
その背中を押したというか、流れを力強いものにしたのが浮世絵などの日本美術だった、ということでしょうね。
日本側から考えると、前にも描きましたが、いかにわが国の大衆文化が成熟していたか、ということです。
そして、美的才能にあふれていたか、ということでもあります。
が、しかし、この本の著者は、こう書いています。
『モリスと白樺派の柳宗悦の民芸運動との関係など、これから解明されるべき問題である。なぜ前者はモダン・デザインにつながり、日本の民藝が孤立しているか』
まさしく、この事が、この『アーツ&クラフツ』の連載のテーマです。
これから、まだまだ先は長いので、みなさんも考えながら、読み進めてくださいね。
Posted by 渡辺幻門 at 22:24│Comments(0)
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