2013年02月27日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第15話
【弘前手織】
もうほとんど無いらしいですが、最後は機械織だったんだそうです。
手織と名前のついた機械織なんて、カニかまぼこみたいですね(^o^)
起源:津軽藩が南部から独立して弘前に白を築いた頃(1610年)より古く、戦乱を逃れた京都の公卿たちが当時の南部津軽群竹函村に来たり、土地の婦人たちに織物を教えたのが始まりと言われる。
ついで、藩の中興・四代信政が殖産興業に努め、山城国から野本道玄を招いて、茶・工芸・織物に力を入れ、そののちも多くの職人を京都から呼んだ。
最初は麻織物で、養蚕は信政のころからはじまった。
武士(下級)も町人も織っていた。
ここでは士族の生業として発展した点が珍しい。
製品は縞物が主で絣は相当あとになって取り入れられた。そのために伊予に人を送って技術を習得させたりした。
弘前手織が退潮したのは、洋服が普及したのと、リンゴ産業がさかんとなって、人手がそれに移ったためと言われている。
・・・・という感じです。
昔はみんなおおらかだったんですねぇ。
流通も限られていたし、たくさんできなかったから、みんな教え合ってたんですよ。
ところがたくさんできるようになって、全国津津浦々まで行き届くようになると、他産地は敵となってしまうんですね。
沖縄なんて、同じ沖縄県内で、技術やデザインの流出を警戒して牽制しあってる。
前に載せた雑誌『青い海』で外村吉之助氏が米琉もOK!と言っていたのは、この時代の事なんですね。
今じゃ、国内どころか、技術もデザインも、海外で簡単にコピーされてしまいます。
前に、芭蕉布そっくりの麻織物を中華人民共和国で作った業者がいると、紹介しましたよね。
あんな事は氷山の一角だと想います。
商品の供給体制が整い、というか肥大化し、流通がブロードバンド級になれば、どこからどんなシロモノがでてくるか解らないのです。
きちんとした物を作る努力をする人は少ないのに、まがい物やニセ物をつくる努力は惜しまないという人はいつの時代でもいるわけです。
今、染め物はすっかりインクジェットプリントに席巻されていますが、その先端を行っている地域では、技術を隠して教えないのだそうです。
それも、この弘前手織と同じように、『昔の名前ででています』なんだそうです。
なんか日本人は人間がちっちゃくなってしまったんですかねぇ。
インクジェットなんて、世界中でやっているんだから、そのうち外国企業がもっと安価で受注するようになるかもしれないですよ。
データをネット経由で送ったら、フランスから反物が送られて来る、なんて時代になるのかもしれません。
伝統工芸から離れるのなら、それでも良いと想いますが、お互い技術情報を交換して、日本として良い物に仕上げないと、いくらでも海外に持って行ける時代です。
居内さんがやっている仕事なんて、1反から発注できるですから、私だって『はい、これプリントしといて』で小紋の1反くらいすぐにできるわけです。
別に国内に限ったわけでなくて、ラテン系の色が良いなと想ったらイタリアに注文するかもしれないし、安いのが良いのならミャンマーとかでもできるようになるかもしれない。
それがグローバリゼーションというものでしょう。
私なんかは伝統の世界に居るわけですから、それとは全く逆方向のドメスティックで内向きなベクトルで動いていくわけです。
でも、これだけネットで作品の画像がさらされて、織物教本もたくさんある時代、まねするなんて簡単ですよね。
だから、『まねできない何か』を持っていないと行けないし、持っていないとか認識していないといすれば、具合悪いです。
花織だ、花倉織だ、といっても、もうすでに全国で織られているし、紅型も全国あちこちに教室がありますよ。
たぶんね、この弘前手織も代替品に潰されたんですよ。
同じような物なら、消費地に近い方が有利です。
津軽地方に圧倒的な優位性をもっていたから、弘前手織も存在価値があった。
ところが、都会には売れない、津軽にはよそからもっと安い似たような物が入ってくる。
そうなると工賃は下げられる、収入は減る・・・リンゴ作ってるほうがいいわ!となったんでしょうね。
被服全体でみと、紡績が拡大し、自動織機で綿織物は爆発的な生産拡大をしたはずです。
そして、羊毛、絹も交えて、カラフルな洋装へと消費は流れた。
『戦後の弘前手織は農家のモンペ程度に使われるようになった』という話は象徴的でしょう。
着物だからダメだったのではなくて、織物として需要に対応できなかったのです。
機械生産にしたのに、用途やデザインにまで工夫がいかなかったんです。
この場合、伝統というものが二の足を踏ませたのかもしれません。
でも、こういった伝統染織が全国にあったからこそ、日本がガチャマン時代を迎えて、繊維産業が栄えたんですね。
変動為替になったり、日米繊維交渉で、日本の繊維産業は斜陽産業といわれて、かつての輝きを失いました。
私は大学を卒業してからずっとこの繊維業界に身を置いていますので、悔しい思いでいっぱいです。
何故、日本の繊維産業があれだけ輸出で栄えたと想いますか?
もちろん為替、品質の事もありますが、一番は『検査』です。
日本人はまじめで、ごまかさず、その上、目が良いのです。
同じ反物を仕入れても、日本のは歩留まりが良い、つまり無駄が少ないのです。
着物用の小幅反物、3丈2尺とすれば、この中にただの一つも傷があってはならないのです。
毛織物だと50メートルでエス(瑕疵)3個までです。
織り傷、織りムラ、染めムラ、色抜け、ツヤムラ、織り段などなど、数あるエスが50メートルの中にたった3つです。
実は、着尺、とくに紬類の検品は一般的に言って毛織物業界より甘いです。
うちは検査が厳しい事で知られていますが、これは毛織物の基準で検査しているからです。
手織であろうが、なんであろうが容赦しません。
たぐって、すかして、何度も何度も見ます。
よその問屋の反物をたまに見ると、びっくりするようなのがあります。
うちでは絶対に通らないものがたくさんあるんです。
作り手さんからも『こんなん文句いうのもずやさんだけですよ』と言われますが、全く動じませんね。
私はお客様の為に厳しく検品をしてるんですから。
話はそれましたが、殖産興業的に産地ごと勢いに乗って、という時代は終わりましたね。
作家個人、工房主、機屋の経営者レベルで創意工夫をこらさないと、仕事は続けていけないだろうと想います。
成熟したマーケットには、それなりの対応が必要だという事ですね。
もうほとんど無いらしいですが、最後は機械織だったんだそうです。
手織と名前のついた機械織なんて、カニかまぼこみたいですね(^o^)
起源:津軽藩が南部から独立して弘前に白を築いた頃(1610年)より古く、戦乱を逃れた京都の公卿たちが当時の南部津軽群竹函村に来たり、土地の婦人たちに織物を教えたのが始まりと言われる。
ついで、藩の中興・四代信政が殖産興業に努め、山城国から野本道玄を招いて、茶・工芸・織物に力を入れ、そののちも多くの職人を京都から呼んだ。
最初は麻織物で、養蚕は信政のころからはじまった。
武士(下級)も町人も織っていた。
ここでは士族の生業として発展した点が珍しい。
製品は縞物が主で絣は相当あとになって取り入れられた。そのために伊予に人を送って技術を習得させたりした。
弘前手織が退潮したのは、洋服が普及したのと、リンゴ産業がさかんとなって、人手がそれに移ったためと言われている。
・・・・という感じです。
昔はみんなおおらかだったんですねぇ。
流通も限られていたし、たくさんできなかったから、みんな教え合ってたんですよ。
ところがたくさんできるようになって、全国津津浦々まで行き届くようになると、他産地は敵となってしまうんですね。
沖縄なんて、同じ沖縄県内で、技術やデザインの流出を警戒して牽制しあってる。
前に載せた雑誌『青い海』で外村吉之助氏が米琉もOK!と言っていたのは、この時代の事なんですね。
今じゃ、国内どころか、技術もデザインも、海外で簡単にコピーされてしまいます。
前に、芭蕉布そっくりの麻織物を中華人民共和国で作った業者がいると、紹介しましたよね。
あんな事は氷山の一角だと想います。
商品の供給体制が整い、というか肥大化し、流通がブロードバンド級になれば、どこからどんなシロモノがでてくるか解らないのです。
きちんとした物を作る努力をする人は少ないのに、まがい物やニセ物をつくる努力は惜しまないという人はいつの時代でもいるわけです。
今、染め物はすっかりインクジェットプリントに席巻されていますが、その先端を行っている地域では、技術を隠して教えないのだそうです。
それも、この弘前手織と同じように、『昔の名前ででています』なんだそうです。
なんか日本人は人間がちっちゃくなってしまったんですかねぇ。
インクジェットなんて、世界中でやっているんだから、そのうち外国企業がもっと安価で受注するようになるかもしれないですよ。
データをネット経由で送ったら、フランスから反物が送られて来る、なんて時代になるのかもしれません。
伝統工芸から離れるのなら、それでも良いと想いますが、お互い技術情報を交換して、日本として良い物に仕上げないと、いくらでも海外に持って行ける時代です。
居内さんがやっている仕事なんて、1反から発注できるですから、私だって『はい、これプリントしといて』で小紋の1反くらいすぐにできるわけです。
別に国内に限ったわけでなくて、ラテン系の色が良いなと想ったらイタリアに注文するかもしれないし、安いのが良いのならミャンマーとかでもできるようになるかもしれない。
それがグローバリゼーションというものでしょう。
私なんかは伝統の世界に居るわけですから、それとは全く逆方向のドメスティックで内向きなベクトルで動いていくわけです。
でも、これだけネットで作品の画像がさらされて、織物教本もたくさんある時代、まねするなんて簡単ですよね。
だから、『まねできない何か』を持っていないと行けないし、持っていないとか認識していないといすれば、具合悪いです。
花織だ、花倉織だ、といっても、もうすでに全国で織られているし、紅型も全国あちこちに教室がありますよ。
たぶんね、この弘前手織も代替品に潰されたんですよ。
同じような物なら、消費地に近い方が有利です。
津軽地方に圧倒的な優位性をもっていたから、弘前手織も存在価値があった。
ところが、都会には売れない、津軽にはよそからもっと安い似たような物が入ってくる。
そうなると工賃は下げられる、収入は減る・・・リンゴ作ってるほうがいいわ!となったんでしょうね。
被服全体でみと、紡績が拡大し、自動織機で綿織物は爆発的な生産拡大をしたはずです。
そして、羊毛、絹も交えて、カラフルな洋装へと消費は流れた。
『戦後の弘前手織は農家のモンペ程度に使われるようになった』という話は象徴的でしょう。
着物だからダメだったのではなくて、織物として需要に対応できなかったのです。
機械生産にしたのに、用途やデザインにまで工夫がいかなかったんです。
この場合、伝統というものが二の足を踏ませたのかもしれません。
でも、こういった伝統染織が全国にあったからこそ、日本がガチャマン時代を迎えて、繊維産業が栄えたんですね。
変動為替になったり、日米繊維交渉で、日本の繊維産業は斜陽産業といわれて、かつての輝きを失いました。
私は大学を卒業してからずっとこの繊維業界に身を置いていますので、悔しい思いでいっぱいです。
何故、日本の繊維産業があれだけ輸出で栄えたと想いますか?
もちろん為替、品質の事もありますが、一番は『検査』です。
日本人はまじめで、ごまかさず、その上、目が良いのです。
同じ反物を仕入れても、日本のは歩留まりが良い、つまり無駄が少ないのです。
着物用の小幅反物、3丈2尺とすれば、この中にただの一つも傷があってはならないのです。
毛織物だと50メートルでエス(瑕疵)3個までです。
織り傷、織りムラ、染めムラ、色抜け、ツヤムラ、織り段などなど、数あるエスが50メートルの中にたった3つです。
実は、着尺、とくに紬類の検品は一般的に言って毛織物業界より甘いです。
うちは検査が厳しい事で知られていますが、これは毛織物の基準で検査しているからです。
手織であろうが、なんであろうが容赦しません。
たぐって、すかして、何度も何度も見ます。
よその問屋の反物をたまに見ると、びっくりするようなのがあります。
うちでは絶対に通らないものがたくさんあるんです。
作り手さんからも『こんなん文句いうのもずやさんだけですよ』と言われますが、全く動じませんね。
私はお客様の為に厳しく検品をしてるんですから。
話はそれましたが、殖産興業的に産地ごと勢いに乗って、という時代は終わりましたね。
作家個人、工房主、機屋の経営者レベルで創意工夫をこらさないと、仕事は続けていけないだろうと想います。
成熟したマーケットには、それなりの対応が必要だという事ですね。
Posted by 渡辺幻門 at 21:33│Comments(0)
│日本の伝統織物
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