2023年03月16日
渡辺 幻門さんからのつながりリクエストに対応しましょう
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Posted by 渡辺幻門 at
10:41
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2023年03月09日
渡辺 幻門さんからのつながりリクエストに対応しましょう
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Posted by 渡辺幻門 at
10:33
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2014年01月20日
蚕と繭
毛織物の工場にいるときに、上司に質問したことがあるんです。
当時、婦人の方で80のボイルという非常に薄くてむこうが透けて見える様な生地を造っていたんですが、私が担当していた輸出の生地は60のトロピカルと言って、分厚い。
何が違うんですか?と聞いたら、
『糸が違う』
当たり前ですよね。
『そんなんは解ってますよ』というと、
『もちろん、原料=毛が違う』という訳です。
つまり、織物は組織や密度などの設計によって違うのは当たり前。
その前の原糸加工、糸が違うところまでは想像できると思うんです。
じゃ、細い毛糸はどうやって造るのか?
毛糸の構成本数を減らしただけじゃダメなんです。
毛糸、獣毛と言っても色々です。
カシミヤやビキューナ、アルパカなんかがそれぞれ違うことは解りますよね。
じゃ、ウールでどれだけ違うのか?
同じウールでも全然違うんです。
原料となる毛が違うから、結果としての糸が違うんです。
毛の細さ、品質によって出来上がる毛糸は違う。
ところが、表示される番手にその品質までは表示されません。
60なら60,48なら48です。
毛糸の番手は単位長さあたりの重さで表示されます。
もうはるか前の話ですが、私が見ただけでも明らかに糸の品質は違います。
見ただけで解る程違う。
原糸は撚糸や染色されて、織物になります。
当然、織物の品質は糸、糸への加工、製織方法、いちばんは原毛の品質に影響されるわけです。
いくら技術があっても48の糸で80のボイルを織ることは出来ない。
薄けりゃいい、軽けりゃいい、という訳ではないからです。
輸出品ならJWIFという団体の輸出検査を受けますし、内地物でも、具合が悪ければ、縫い上がっていても返品されたり、製品直しで戻ってきます。
着物よりはるかに厳しい世界です。
それを踏まえて、絹織物、つまり着物の世界を見てみると・・・
糸が良いと、良い織物が出来るというのは誰もが持つ共通の感覚ですよね。
だから、手紬だの、座繰り糸だの、生絹だの、小石丸だの、と言うわけです。
では、小石丸は別として、手紬したから、座繰りでひいたから、良い糸になるんでしょうか?
蚕、繭の品質に言及した話はされているでしょうか?
否です。
織物作家でも、出来てきた糸の状態でしか品質を判断できません。
良い毛糸にするためには良い羊が良い状態で飼育されていなければならないのと同じで、
良い絹糸を取るためには良い蚕が良い状態で飼育されていなければならないはずです。
調べてみると、『繭検定』という制度がある(あった?)様です。
http://www.nias.affrc.go.jp/silkwave/hiroba/Library/SeisiKiso/mokuji.htm
これによれば、繭の状態では品質の善し悪しはわからない。
また、その善し悪しも生産効率が上がるかどうかが判定の基準になっているような感じがします。
ということは、蚕の吐く糸の品質は、ひかれて糸にならないと解らないということです。
織物にする人は、その出来上がった糸を見て、良いとか悪いとか言う訳ですね。
でも、本当はその糸が良いのは、蚕が吐くその細い糸が良いから何じゃないでしょうか。
よい蚕が吐く良い原料を使えば、良い糸は自然に出来るはずです。
良い焼き物には良い土が必要なのと同じです。
あと、どんな加工をするかは、求める風合い、味わいに合致しているかによって選択されるだけです。
特別な手法や、昔ながらの方法をとっているから、良い糸ができるとは限らないのです。
また、繭に関しては素人であろう、織物作家が、繭を買ってきて、良い糸がひけるでしょうか?
前述のとおり、繭の状態ではどんな糸になるかまでの品質判断はできないそうです。
良い布は、良い糸と良い染料と良い技術から生まれます。
良い糸は、良い原料からしか生まれない。
悪い原料をどれだけこねくり回しても、本当に良い糸にはならないし、良い布も出来ない。
それが真実ではないでしょうか。
国産だとか、手引きだとか、座繰りだとか、色々付加価値は付けられますが、一番大事なのは、蚕の吐くその糸ではないでしょうか。
その割に、蚕や繭の話はほとんど聞いたことがありません。
とても不思議です。
何故でしょう?
あのシルクワームを思い出すのは着物を売る上でマイナスだからでしょうか?
蚕の品質の差別化が難しいからでしょうか?
養蚕家がここまで減ってしまっては聞く術もありません。
芭蕉や苧麻ではどうでしょうか?
芭蕉は、糸の色や柔らかさなどによって厳密に選別され、使い分けられていると聞きます。
苧麻も同じです。
しかし、同じ 芭蕉布や宮古上布でも、造られた年代や作品の個体によって、布の品質は
大きく違います。
それは、芭蕉や苧麻の品質が変わったからでしょうか?
織物の品質というのは、
原料の品質×原料の加工技術×糸の加工技術×製織技術
で決まり、どれ一つ欠けても良い物にはならないと思うのですが、
絹織物に関しては、原料の品質についてもっと勉強しなければならないし、
付加価値を付けるための加工技術に眼を奪われすぎているような気がします。
工芸は素材から。素材は自然の恵みから。
染織というものには、農業的視野が不可欠だと思います。
当時、婦人の方で80のボイルという非常に薄くてむこうが透けて見える様な生地を造っていたんですが、私が担当していた輸出の生地は60のトロピカルと言って、分厚い。
何が違うんですか?と聞いたら、
『糸が違う』
当たり前ですよね。
『そんなんは解ってますよ』というと、
『もちろん、原料=毛が違う』という訳です。
つまり、織物は組織や密度などの設計によって違うのは当たり前。
その前の原糸加工、糸が違うところまでは想像できると思うんです。
じゃ、細い毛糸はどうやって造るのか?
毛糸の構成本数を減らしただけじゃダメなんです。
毛糸、獣毛と言っても色々です。
カシミヤやビキューナ、アルパカなんかがそれぞれ違うことは解りますよね。
じゃ、ウールでどれだけ違うのか?
同じウールでも全然違うんです。
原料となる毛が違うから、結果としての糸が違うんです。
毛の細さ、品質によって出来上がる毛糸は違う。
ところが、表示される番手にその品質までは表示されません。
60なら60,48なら48です。
毛糸の番手は単位長さあたりの重さで表示されます。
もうはるか前の話ですが、私が見ただけでも明らかに糸の品質は違います。
見ただけで解る程違う。
原糸は撚糸や染色されて、織物になります。
当然、織物の品質は糸、糸への加工、製織方法、いちばんは原毛の品質に影響されるわけです。
いくら技術があっても48の糸で80のボイルを織ることは出来ない。
薄けりゃいい、軽けりゃいい、という訳ではないからです。
輸出品ならJWIFという団体の輸出検査を受けますし、内地物でも、具合が悪ければ、縫い上がっていても返品されたり、製品直しで戻ってきます。
着物よりはるかに厳しい世界です。
それを踏まえて、絹織物、つまり着物の世界を見てみると・・・
糸が良いと、良い織物が出来るというのは誰もが持つ共通の感覚ですよね。
だから、手紬だの、座繰り糸だの、生絹だの、小石丸だの、と言うわけです。
では、小石丸は別として、手紬したから、座繰りでひいたから、良い糸になるんでしょうか?
蚕、繭の品質に言及した話はされているでしょうか?
否です。
織物作家でも、出来てきた糸の状態でしか品質を判断できません。
良い毛糸にするためには良い羊が良い状態で飼育されていなければならないのと同じで、
良い絹糸を取るためには良い蚕が良い状態で飼育されていなければならないはずです。
調べてみると、『繭検定』という制度がある(あった?)様です。
http://www.nias.affrc.go.jp/silkwave/hiroba/Library/SeisiKiso/mokuji.htm
これによれば、繭の状態では品質の善し悪しはわからない。
また、その善し悪しも生産効率が上がるかどうかが判定の基準になっているような感じがします。
ということは、蚕の吐く糸の品質は、ひかれて糸にならないと解らないということです。
織物にする人は、その出来上がった糸を見て、良いとか悪いとか言う訳ですね。
でも、本当はその糸が良いのは、蚕が吐くその細い糸が良いから何じゃないでしょうか。
よい蚕が吐く良い原料を使えば、良い糸は自然に出来るはずです。
良い焼き物には良い土が必要なのと同じです。
あと、どんな加工をするかは、求める風合い、味わいに合致しているかによって選択されるだけです。
特別な手法や、昔ながらの方法をとっているから、良い糸ができるとは限らないのです。
また、繭に関しては素人であろう、織物作家が、繭を買ってきて、良い糸がひけるでしょうか?
前述のとおり、繭の状態ではどんな糸になるかまでの品質判断はできないそうです。
良い布は、良い糸と良い染料と良い技術から生まれます。
良い糸は、良い原料からしか生まれない。
悪い原料をどれだけこねくり回しても、本当に良い糸にはならないし、良い布も出来ない。
それが真実ではないでしょうか。
国産だとか、手引きだとか、座繰りだとか、色々付加価値は付けられますが、一番大事なのは、蚕の吐くその糸ではないでしょうか。
その割に、蚕や繭の話はほとんど聞いたことがありません。
とても不思議です。
何故でしょう?
あのシルクワームを思い出すのは着物を売る上でマイナスだからでしょうか?
蚕の品質の差別化が難しいからでしょうか?
養蚕家がここまで減ってしまっては聞く術もありません。
芭蕉や苧麻ではどうでしょうか?
芭蕉は、糸の色や柔らかさなどによって厳密に選別され、使い分けられていると聞きます。
苧麻も同じです。
しかし、同じ 芭蕉布や宮古上布でも、造られた年代や作品の個体によって、布の品質は
大きく違います。
それは、芭蕉や苧麻の品質が変わったからでしょうか?
織物の品質というのは、
原料の品質×原料の加工技術×糸の加工技術×製織技術
で決まり、どれ一つ欠けても良い物にはならないと思うのですが、
絹織物に関しては、原料の品質についてもっと勉強しなければならないし、
付加価値を付けるための加工技術に眼を奪われすぎているような気がします。
工芸は素材から。素材は自然の恵みから。
染織というものには、農業的視野が不可欠だと思います。
Posted by 渡辺幻門 at
14:30
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2014年01月17日
クレヨンとスモック
もずや民藝館開館から1週間が経とうとしています。
おかげさまで、順調に会員数が増えています。
有り難い事だと思います。
羽曳野の民藝館の方でも少しでもPRしようと、冬用の暖簾と看板を造り始めました。
今ある暖簾は麻地で寒々しいですし、看板は玄関に掛かっていて目立たないので、
人通りが少しでも多い、バス通りに面したところに新しいのを立てようと思っています。
前も手作りでしたが、今回も独力で手作りしようと思っています。
不器用な私が、こういう風に自分でやってみようと思う様になったのは、大阪芸大で勉強していたおかげです。
かといって、器用になったわけでもなく、相変わらず下手くそをさらしているのですが、度胸だけはついたようです。
展示会の案内状もいつも手書きですし、作品の反末文字も自分で書いたものを使ってもらってます。
普通は、パソコンで編集したり、誰か字の上手い人に書いてもらったりするのでしょうが、
何故そうしないか、といえば、『自分と自分がやったことに責任を持つ』という意思表示のつもりなんです。
パソコンの文字や、他人が書いた字を使えば、誰が書いたか解りません。
でも、自分で書いた文字なら、逃れようがないのです。
いわば、私のサインです。
暖簾も看板も、見てもらうためのものですし、うちの前を通る人は
『なんか知らんけど、下手くそやなぁ』
と笑っているかも知れません。
もしかしたら、
『ウマイと勘違いしてるんちゃうか?』
と思われているかも知れませんが、違います。
自分でも下手だと解っています。
でもね、もの作りしてる人で、私の作品見て笑う人は居ませんよ。
いわばね、ちっちゃい子の図画工作みたいなもんなんです。
上手下手じゃなく、造る事が楽しいから、図画の授業って楽しいんでしょう。
今でもたまに下手な絵を描きますが、自分自身で苦笑いしながら楽しんでいるんです。
そんな中から思わぬ発見があったりもします。
私は私がお世話になっている物作りの方々の足下にも遠く及びませんが、それでも『ものづくりの楽しみ』
は知っているつもりです。
だから、強く言えるんです。
『邪念が入っているでしょう!?』って。
私は私の作品を売るつもりも無いし、売れるはずもないので、自分の思うままに配色したり、絵を描いたり出来ます。
50歳近くになって、下手な絵を描こうとすると、子供に戻らないと描けないんです。
幼稚園の時に、スモックを着て、クレヨンで描いた、あの気持ちです。
だから、絵を描くときはクレヨン、パステルを使います。
看板を彫るのには学校用の彫刻刀。
染めは、筒描です。
だれでも出来る簡単な方法で、あまり考えないで、ぶっつけ本番でやります。
そうすると、もちろん立派なものは出来ませんが、やっぱり自分らしいものができる。
自分でも
『あー、私そのものやなぁ・・』
と思うのです。
それでもね・・きちんと見てる人は見てくれていて、
『もずやさん、少しずつ上達してますね』
って、言ってくれるんですよ。
それで十分なんです。
お金をかけてプロに頼むより、自分でやれることはやる。
それで、自分が伝えたいことが伝われば、大成功なんです。
自分で作った物、造ろうとする気持ち、作った物を見せようとする気持ち、出来たときの喜び、
これはお金では買えないんですよ。
それとね・・
これから手しごとの世界は、ますます厳しい局面を迎えると思うんですよ。
もう造っても売れないからやめようか・・そんな風に思う時も来るかも知れません。
そんなとき、このオッサンが嬉しそうに絵を描いたり、木を彫ったり、フェルトをこねてる姿を想像してほしいんです。
織物も染め物も、初めは好きでこの道に入ってくるんでしょう?
それがいつのまにか、目的がお金にかわっていく。
お金は大事ですよ。
お金を得ることは、仕事をする上で一番重要な目標です。
でも、続けられる環境にあるなら、好きな仕事を続けていって欲しい、そう思うんですよ。
あなたの作品はあなたしか生み出せないんですから。
http://mozuya.com/
おかげさまで、順調に会員数が増えています。
有り難い事だと思います。
羽曳野の民藝館の方でも少しでもPRしようと、冬用の暖簾と看板を造り始めました。
今ある暖簾は麻地で寒々しいですし、看板は玄関に掛かっていて目立たないので、
人通りが少しでも多い、バス通りに面したところに新しいのを立てようと思っています。
前も手作りでしたが、今回も独力で手作りしようと思っています。
不器用な私が、こういう風に自分でやってみようと思う様になったのは、大阪芸大で勉強していたおかげです。
かといって、器用になったわけでもなく、相変わらず下手くそをさらしているのですが、度胸だけはついたようです。
展示会の案内状もいつも手書きですし、作品の反末文字も自分で書いたものを使ってもらってます。
普通は、パソコンで編集したり、誰か字の上手い人に書いてもらったりするのでしょうが、
何故そうしないか、といえば、『自分と自分がやったことに責任を持つ』という意思表示のつもりなんです。
パソコンの文字や、他人が書いた字を使えば、誰が書いたか解りません。
でも、自分で書いた文字なら、逃れようがないのです。
いわば、私のサインです。
暖簾も看板も、見てもらうためのものですし、うちの前を通る人は
『なんか知らんけど、下手くそやなぁ』
と笑っているかも知れません。
もしかしたら、
『ウマイと勘違いしてるんちゃうか?』
と思われているかも知れませんが、違います。
自分でも下手だと解っています。
でもね、もの作りしてる人で、私の作品見て笑う人は居ませんよ。
いわばね、ちっちゃい子の図画工作みたいなもんなんです。
上手下手じゃなく、造る事が楽しいから、図画の授業って楽しいんでしょう。
今でもたまに下手な絵を描きますが、自分自身で苦笑いしながら楽しんでいるんです。
そんな中から思わぬ発見があったりもします。
私は私がお世話になっている物作りの方々の足下にも遠く及びませんが、それでも『ものづくりの楽しみ』
は知っているつもりです。
だから、強く言えるんです。
『邪念が入っているでしょう!?』って。
私は私の作品を売るつもりも無いし、売れるはずもないので、自分の思うままに配色したり、絵を描いたり出来ます。
50歳近くになって、下手な絵を描こうとすると、子供に戻らないと描けないんです。
幼稚園の時に、スモックを着て、クレヨンで描いた、あの気持ちです。
だから、絵を描くときはクレヨン、パステルを使います。
看板を彫るのには学校用の彫刻刀。
染めは、筒描です。
だれでも出来る簡単な方法で、あまり考えないで、ぶっつけ本番でやります。
そうすると、もちろん立派なものは出来ませんが、やっぱり自分らしいものができる。
自分でも
『あー、私そのものやなぁ・・』
と思うのです。
それでもね・・きちんと見てる人は見てくれていて、
『もずやさん、少しずつ上達してますね』
って、言ってくれるんですよ。
それで十分なんです。
お金をかけてプロに頼むより、自分でやれることはやる。
それで、自分が伝えたいことが伝われば、大成功なんです。
自分で作った物、造ろうとする気持ち、作った物を見せようとする気持ち、出来たときの喜び、
これはお金では買えないんですよ。
それとね・・
これから手しごとの世界は、ますます厳しい局面を迎えると思うんですよ。
もう造っても売れないからやめようか・・そんな風に思う時も来るかも知れません。
そんなとき、このオッサンが嬉しそうに絵を描いたり、木を彫ったり、フェルトをこねてる姿を想像してほしいんです。
織物も染め物も、初めは好きでこの道に入ってくるんでしょう?
それがいつのまにか、目的がお金にかわっていく。
お金は大事ですよ。
お金を得ることは、仕事をする上で一番重要な目標です。
でも、続けられる環境にあるなら、好きな仕事を続けていって欲しい、そう思うんですよ。
あなたの作品はあなたしか生み出せないんですから。
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Posted by 渡辺幻門 at
14:47
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2014年01月16日
センスを磨くには
偉そうに書くほど、センスが良いのか?と言われたら困るのですが・・・(^_^;)
私自身も自信あるような、無い様な・・そんな感じではあるのですが。
私がこの仕事に就いた時、何が良いのか悪いのか、全然解りませんでした。
何処で学んだか?といえば、お客様が教えてくださったんですね。
『あ〜、売れたということは、これが良い物なんだな』
そんな事の積み重ねで、だんだん『売れ筋』という物から掴めてきた様な気がし
ます。
20歳台の頃なんて、花を見てもそんなに感動しないし、良い景色を見ても、何に
も感じませんでした。
人間というのは、歳をとるほどに感受性が増すものなのでしょうか。
私が解らなくても、お客様はきちんと反応してくださいます。
良い物は早くに売れるし、良くないモノは足が遅い。
この業界では買い取りだの委託だのというのが問題にされる事がよくありますが、
お客様がお買い上げになる要素の強い物を仕入れたら良いわけで、特に買い取り
が難しい訳ではないのです。
ただ、買い取って、売れ残ってしまうと、
『なんでやろ?』
と、その作品を見る度に、何度も何度も反省させられるので、身にしみるのです。
そこで、
『もう買い取りしないでおこう』
と思うか、
『次は絶対失敗しない』
と思うかの違いなんでしょうね。
キモノの商売や染織の制作活動をされている方は、それなりに自分のセンスに自
信を持っているだろうと思います。
自信が無ければ、出来ませんからね。
ただ、それをつまみ食いするのと、生み出すのとでは次元が違うのは確かです。
良い物は誰が見ても良いわけで、それが自分の算盤に合えば、欲しいと思うのは
当たり前です。
10の商品があったとして、1つだけ一番良いのを買い取る、これは簡単なんです。
物作りの場においては、10造ったら、10が良くなければいけない。
100発100中でないと、上手くいかないのです。
10造って、その中の2つか3つが売れて、あとは売れ残ったら、これは仕事にな
りません。
手仕事の世界では、造れる量が決まっているのですから、作り手にとっては完売
が基本です。
昔、首里にすごい作家さんがいて、造る作品造る作品、すべてが素晴らしい。
入荷したら1週間以内に、完売していました。
作品の次元が、他とは全く違っていたんです。
何が違うのか、どうしたら、あの作品をよみがえらせることが出来るのか・・・
私にとっては、とてつもなく大きな課題なんです。
お弟子さんもいらっしゃったから、技法は付け継がれているはずなんです。
でも、出来ない。違うんです。
センス+努力としか今のところ、結論が出せていません。
センスがあれば、選び出す事はたやすいですが、そこに努力とか執念というもの
が無いと、持っているセンス通りの結果は出てきません。
私自身が自分の力だけで、私のプロデュースしている作品が造れるか?といえば
出来ないのは、そこに努力・執念がないからです。
でも、これはこう、それはそう、と指示することは出来る。
良いモノを選び出すことももちろん出来ます。
さらによい結果がでるように、また、そのセンスが十分に発揮されるようにアイ
デアを出すこともできる。
作り手は作り手の、私は私の、『美の世界』というものがあって、それぞれ形は
違うけれども、すりあわせて一つの作品となる、という事でしょうか。
つまりは、センスというのは、もっている『美の世界』の事なんですね。
では、センスというのは、どういう意味で使われ、どう定義されているんでしょ
うか。
センス=天分でしょうか。
私の様な販売の世界では、『営業センス』と言う言葉が使われます。
スポーツでも『センスがある』とか言いますよね。
つまり、才能、天分という事なんです。
では、染織やその他の工芸ではどうでしょう?
やはりそう、『美的センス』なんですね。
美に対する天分・才能・・・これってなんでしょう?
多くの人が美しいと思える物を表現出来る力?
そういう事でしょうか。
そうだとしたら、簡単です。
セオリーに則って造れば、多くの人が美しいと思えるものは出来ます。
ファッション辞典をみれば、どんな色合わせをするのが良いか書いてあります。
カラー・コーディネート。これが美的センスの核心でしょうか。
経験的に言って、違うと思います。
カラー・コーディネートのセオリーを無視した作品でも、すごい作品はたくさん
あります。
強烈なパンチ力のある作品はむしろそちらの方が多い。
美的センス、それは、美に対する天分です。
人の心をうつ美、それは何か?
カラー・コーディネートもその一つでしょうし、造形美もそうでしょう。
でも、一番ガツンとくるのは、『色』だと私は思っています。
人間は多くのことを色で判断しています。
食べ物の色
顔色
空の色
海の色・・・
色で、様々な情報を得、行動を決めています。
色に吉兆を感じたとき、人間は幸せに感じるのではないでしょうか。
人工的に作り上げた枯山水の庭園。
咲き乱れる山々の花。
枯山水の庭には、中には見苦しい物もあるかも知れません。
しかし、自然に咲く花がどんなに混じり合って咲いていても、不快に感じる事は
ないでしょう。
小さな花一輪、殺風景な部屋に生けるだけでも、心が安らぎます。
なぜ?
植物にとって、花は種族を守る為に咲くものだからです。
つまり、美とは、生命体が生命を維持し、次に繋げるために必要なサインなんです。
男性が美しい女性にひかれ、女性が逞しい男性にひかれるのも、同じ理由だと聞
いたことがあります。
おいしいは美味しいと書きますが、美味しいものは本当は体に良いハズなんですね。
美味しいはずの無いものを美味しいと感じたり、美味しいものを食べても美味し
いと感じないのは、
どこか、調子が狂っているからなんです。
料理人は風邪を引いてはならないと言いますが、体調が悪いと味がわからなくな
るんですね。
脱線したようですが、つまりは、こういう事だと思うんです。
美的センスを育み、磨くためには、心身の健康を保ち、美しいものを常に見よ
う、味わおうとすること。
たいていの場合、強い自我が入り込むと、センスは乱れます。
自我や欲が強くなって、作品が乱れた人を私は何人も知っています。
その作品に対して、自分の心も我欲でねじ曲げて、自分を無理矢理納得させよう
とするから、さらに病は深くなる。
作品に心が出るというのは、そういう事なんです。
私もまだまだ、修行が足りませんが、極めて遠き道を歩いて行きたいと思ってい
ます。
私自身も自信あるような、無い様な・・そんな感じではあるのですが。
私がこの仕事に就いた時、何が良いのか悪いのか、全然解りませんでした。
何処で学んだか?といえば、お客様が教えてくださったんですね。
『あ〜、売れたということは、これが良い物なんだな』
そんな事の積み重ねで、だんだん『売れ筋』という物から掴めてきた様な気がし
ます。
20歳台の頃なんて、花を見てもそんなに感動しないし、良い景色を見ても、何に
も感じませんでした。
人間というのは、歳をとるほどに感受性が増すものなのでしょうか。
私が解らなくても、お客様はきちんと反応してくださいます。
良い物は早くに売れるし、良くないモノは足が遅い。
この業界では買い取りだの委託だのというのが問題にされる事がよくありますが、
お客様がお買い上げになる要素の強い物を仕入れたら良いわけで、特に買い取り
が難しい訳ではないのです。
ただ、買い取って、売れ残ってしまうと、
『なんでやろ?』
と、その作品を見る度に、何度も何度も反省させられるので、身にしみるのです。
そこで、
『もう買い取りしないでおこう』
と思うか、
『次は絶対失敗しない』
と思うかの違いなんでしょうね。
キモノの商売や染織の制作活動をされている方は、それなりに自分のセンスに自
信を持っているだろうと思います。
自信が無ければ、出来ませんからね。
ただ、それをつまみ食いするのと、生み出すのとでは次元が違うのは確かです。
良い物は誰が見ても良いわけで、それが自分の算盤に合えば、欲しいと思うのは
当たり前です。
10の商品があったとして、1つだけ一番良いのを買い取る、これは簡単なんです。
物作りの場においては、10造ったら、10が良くなければいけない。
100発100中でないと、上手くいかないのです。
10造って、その中の2つか3つが売れて、あとは売れ残ったら、これは仕事にな
りません。
手仕事の世界では、造れる量が決まっているのですから、作り手にとっては完売
が基本です。
昔、首里にすごい作家さんがいて、造る作品造る作品、すべてが素晴らしい。
入荷したら1週間以内に、完売していました。
作品の次元が、他とは全く違っていたんです。
何が違うのか、どうしたら、あの作品をよみがえらせることが出来るのか・・・
私にとっては、とてつもなく大きな課題なんです。
お弟子さんもいらっしゃったから、技法は付け継がれているはずなんです。
でも、出来ない。違うんです。
センス+努力としか今のところ、結論が出せていません。
センスがあれば、選び出す事はたやすいですが、そこに努力とか執念というもの
が無いと、持っているセンス通りの結果は出てきません。
私自身が自分の力だけで、私のプロデュースしている作品が造れるか?といえば
出来ないのは、そこに努力・執念がないからです。
でも、これはこう、それはそう、と指示することは出来る。
良いモノを選び出すことももちろん出来ます。
さらによい結果がでるように、また、そのセンスが十分に発揮されるようにアイ
デアを出すこともできる。
作り手は作り手の、私は私の、『美の世界』というものがあって、それぞれ形は
違うけれども、すりあわせて一つの作品となる、という事でしょうか。
つまりは、センスというのは、もっている『美の世界』の事なんですね。
では、センスというのは、どういう意味で使われ、どう定義されているんでしょ
うか。
センス=天分でしょうか。
私の様な販売の世界では、『営業センス』と言う言葉が使われます。
スポーツでも『センスがある』とか言いますよね。
つまり、才能、天分という事なんです。
では、染織やその他の工芸ではどうでしょう?
やはりそう、『美的センス』なんですね。
美に対する天分・才能・・・これってなんでしょう?
多くの人が美しいと思える物を表現出来る力?
そういう事でしょうか。
そうだとしたら、簡単です。
セオリーに則って造れば、多くの人が美しいと思えるものは出来ます。
ファッション辞典をみれば、どんな色合わせをするのが良いか書いてあります。
カラー・コーディネート。これが美的センスの核心でしょうか。
経験的に言って、違うと思います。
カラー・コーディネートのセオリーを無視した作品でも、すごい作品はたくさん
あります。
強烈なパンチ力のある作品はむしろそちらの方が多い。
美的センス、それは、美に対する天分です。
人の心をうつ美、それは何か?
カラー・コーディネートもその一つでしょうし、造形美もそうでしょう。
でも、一番ガツンとくるのは、『色』だと私は思っています。
人間は多くのことを色で判断しています。
食べ物の色
顔色
空の色
海の色・・・
色で、様々な情報を得、行動を決めています。
色に吉兆を感じたとき、人間は幸せに感じるのではないでしょうか。
人工的に作り上げた枯山水の庭園。
咲き乱れる山々の花。
枯山水の庭には、中には見苦しい物もあるかも知れません。
しかし、自然に咲く花がどんなに混じり合って咲いていても、不快に感じる事は
ないでしょう。
小さな花一輪、殺風景な部屋に生けるだけでも、心が安らぎます。
なぜ?
植物にとって、花は種族を守る為に咲くものだからです。
つまり、美とは、生命体が生命を維持し、次に繋げるために必要なサインなんです。
男性が美しい女性にひかれ、女性が逞しい男性にひかれるのも、同じ理由だと聞
いたことがあります。
おいしいは美味しいと書きますが、美味しいものは本当は体に良いハズなんですね。
美味しいはずの無いものを美味しいと感じたり、美味しいものを食べても美味し
いと感じないのは、
どこか、調子が狂っているからなんです。
料理人は風邪を引いてはならないと言いますが、体調が悪いと味がわからなくな
るんですね。
脱線したようですが、つまりは、こういう事だと思うんです。
美的センスを育み、磨くためには、心身の健康を保ち、美しいものを常に見よ
う、味わおうとすること。
たいていの場合、強い自我が入り込むと、センスは乱れます。
自我や欲が強くなって、作品が乱れた人を私は何人も知っています。
その作品に対して、自分の心も我欲でねじ曲げて、自分を無理矢理納得させよう
とするから、さらに病は深くなる。
作品に心が出るというのは、そういう事なんです。
私もまだまだ、修行が足りませんが、極めて遠き道を歩いて行きたいと思ってい
ます。
Posted by 渡辺幻門 at
15:56
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2014年01月16日
もずや民藝館 開店いたしました。
昨年12月から取りかかりました『もずや民藝館』のECサイト、ようやく開店に漕ぎ着けました。
私はHPやFacebookに作品画像を公開しないことにしておりますが、お客様や親しくしてくださる方、染織に興味をお持ちの方にお見せできる形は無いかと常々考えておりました。
Googleドライブでの閲覧や、HPでのアクセスリミットなども試みましたが、上手くいきませんでした。
このもずや民藝館の開館でようやく夢が実現しました。
基本的に染織品・工芸品の魅力は作品を直に見ないと解らないと思います。
言葉だけではどうしても伝わらない事が多いのです。
民芸論を論じるにも、作品への視点を語るにも、視覚に訴える事がどうしても必要なのです。
柳宗悦の民藝論も文字だけ追っていたのでは全く意味がわかりません。
それは作品を見て、初めて合点がいくのです。
否、作品を先に見る方がわかりやすく、深く理解できるのだろうと思います。
ECサイトですので、ご購入して頂く事もできます。
お買い物もさることながら、このサイトを通して、作品に興味を持って頂き、
『もずやが言っている事はこういう事なのかな』
とお感じいただければこれ以上の事はありません。
単純なお買い物サイトでないからこそ、会員制にする必要もありました。
だからこそ、『民藝館』なのです。
しかし、掲載されている作品はすべて『商品』でもあります。
商品というのは、いつかどなたかの持ち物になるものです。
機械的に大量生産されているものはありません。
この世に一つしかないもの、二度と作られることのない物もあります。
その貴重な作品をご覧になるために遠くから展示会にお越し頂くお客様もいらっしゃいます。
私は、いつかはその作品の持ち主となられるお客様から、お預かりしているのだと思っています。
入会にはお手間を取らせる事になっておりまして、まことに申し訳なく思います。
その分、充実した内容にして、楽しんで頂けるようにしたいと思います。
掲載される作品は、私がひとつひとつ吟味して、あるいは、作り手と共に試行錯誤しながら、集め、造ったものばかりです。
不器用な私がポチポチとキーボードを打ちながら造ったサイトです。
拙くて恥ずかしいのですが、ご愛顧いただければ幸いです。
会員になってくださった方には、この萬代屋宗晏、心をこめて、誠心誠意、おつくし申し上げる覚悟でございます。
末長くお引き立ての程、よろしくお願い申し上げます。
萬代屋宗晏 拝
http://www.mozuya.co.jp
私はHPやFacebookに作品画像を公開しないことにしておりますが、お客様や親しくしてくださる方、染織に興味をお持ちの方にお見せできる形は無いかと常々考えておりました。
Googleドライブでの閲覧や、HPでのアクセスリミットなども試みましたが、上手くいきませんでした。
このもずや民藝館の開館でようやく夢が実現しました。
基本的に染織品・工芸品の魅力は作品を直に見ないと解らないと思います。
言葉だけではどうしても伝わらない事が多いのです。
民芸論を論じるにも、作品への視点を語るにも、視覚に訴える事がどうしても必要なのです。
柳宗悦の民藝論も文字だけ追っていたのでは全く意味がわかりません。
それは作品を見て、初めて合点がいくのです。
否、作品を先に見る方がわかりやすく、深く理解できるのだろうと思います。
ECサイトですので、ご購入して頂く事もできます。
お買い物もさることながら、このサイトを通して、作品に興味を持って頂き、
『もずやが言っている事はこういう事なのかな』
とお感じいただければこれ以上の事はありません。
単純なお買い物サイトでないからこそ、会員制にする必要もありました。
だからこそ、『民藝館』なのです。
しかし、掲載されている作品はすべて『商品』でもあります。
商品というのは、いつかどなたかの持ち物になるものです。
機械的に大量生産されているものはありません。
この世に一つしかないもの、二度と作られることのない物もあります。
その貴重な作品をご覧になるために遠くから展示会にお越し頂くお客様もいらっしゃいます。
私は、いつかはその作品の持ち主となられるお客様から、お預かりしているのだと思っています。
入会にはお手間を取らせる事になっておりまして、まことに申し訳なく思います。
その分、充実した内容にして、楽しんで頂けるようにしたいと思います。
掲載される作品は、私がひとつひとつ吟味して、あるいは、作り手と共に試行錯誤しながら、集め、造ったものばかりです。
不器用な私がポチポチとキーボードを打ちながら造ったサイトです。
拙くて恥ずかしいのですが、ご愛顧いただければ幸いです。
会員になってくださった方には、この萬代屋宗晏、心をこめて、誠心誠意、おつくし申し上げる覚悟でございます。
末長くお引き立ての程、よろしくお願い申し上げます。
萬代屋宗晏 拝
http://www.mozuya.co.jp
Posted by 渡辺幻門 at
14:16
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2014年01月08日
もずや民藝館ECサイトの楽しみ方
明後日10日にオープンします。
こちらにその楽しみ方が書いてあります。
よろしくお願いもうしあげます。
萬代屋宗晏の眼
http://mozuya.blogspot.jp" target="_blank">http://mozuya.blogspot.jp
こちらにその楽しみ方が書いてあります。
よろしくお願いもうしあげます。
萬代屋宗晏の眼
http://mozuya.blogspot.jp" target="_blank">http://mozuya.blogspot.jp
Posted by 渡辺幻門 at
22:08
│Comments(0)
2013年12月07日
HPリニューアル、メインブログ変更します。
ECサイトオープンにともない、HPもそれに沿ったモノにしようと、リニューアルをしました。
いままでは、Macについているiwebというソフトを使っていたのですが、これでは、構築したPCからしか更新ができず、またアップルコンピューター自体がiwebを廃止してしまったので、Bind6というソフトで新たに作り直しました。
これで出張先からも更新が可能になりました。
そして、ブログもこちらの中に造りましたので、メインに設定致します。
しばらくはこのブロマガとオオサカジンと三者併用という形にします。
HPはまだまだ発展途上で、これからどんどん肉付けして、私と同じくらい肥満体にしますから、よろしくお願い申し上げます。
http://mozuya.com/diary/index.html
いままでは、Macについているiwebというソフトを使っていたのですが、これでは、構築したPCからしか更新ができず、またアップルコンピューター自体がiwebを廃止してしまったので、Bind6というソフトで新たに作り直しました。
これで出張先からも更新が可能になりました。
そして、ブログもこちらの中に造りましたので、メインに設定致します。
しばらくはこのブロマガとオオサカジンと三者併用という形にします。
HPはまだまだ発展途上で、これからどんどん肉付けして、私と同じくらい肥満体にしますから、よろしくお願い申し上げます。
http://mozuya.com/diary/index.html
Posted by 渡辺幻門 at
15:25
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2013年12月03日
来年1月10日 『もずや民藝館』オープン!
来る平成26年1月10日に『もずや民藝館』をオープンします。
民藝館の施設をどこかに造るのではなくて、ECサイト、つまり、インターネットのショッピングサイトを立ち上げます。
URLは
http://www.mozuya.co.jp/
です。
現在は『お支度中』の下げ札がかかっています。
『もずや民藝館』は完全会員制です。
私と面識のある方か、その方の紹介がある方のみ会員として入館頂くシステムにしています。
このサイトを立ち上げるに当たっては、色々と悩むところもあり、上記の方であっても、現状において、お取引いただいているデパートのお客様には入館をお断りさせて頂く事にしております。
完全会員制にしておりますのは、それなりの理由があるわけでございまして、
ひとつには、現実的に小職ひとりが対応に当たるので手が回らないこと。
ふたつには、会員登録して、ご入館いただいたお客様にはできるだけ懇切丁寧に対応させていただきたいこと。
みっつには、オープンにしてしまうと、既存の流通を乱してしまうこと・・
等々です。
沖縄や他の所でも、作り手に直接発注したり、そこから買い付けしたものを、私が売るのですが、それなりの事になる、という事です。
また、ECサイトは自力で造っておりますし、維持費もほとんどかかりません。
いわば、私が道ばたで戸板を置いて商品を売っているような感じです。
ですから、もずや会やお知り合いの方に、いろんなご意見を聞きながら、少しずつコマシなサイトにして行ければ、と思っております。
mozuya.co.jpの独自ドメインを新たに入手したのですが、ここではいきなり販売サイトになってしまいます。
それで、いろんなご案内はツイッター、FBやブログを使うのですが、あまり、商品のご案内ばかりになると、ブログも面白くなくなるので、既存の
http://mozuya.com/
にあるHPを作り替えようと思ってます。
これも、新たに造らないと行けないので大変です!!
『もずや民藝館』の一番のウリは、価格はさておき、(^_-)
商品に関して私が全責任をもってセレクトし、仕入れし、万全の自信をもってお勧めする事。
そして、そこに書いてある説明は、私が25年の経験と学習で得た知識を元に、自分の言葉で書いているということ、です。
問屋の受け売りでいい加減な事をかいている所もよく見かけますが、もずや民藝館の説明はワケが違います!
様々な質問お問い合わせにも、すべて、完璧にお応え致します。
もちろん、アフターケアも、安全安心です。
沖縄染織以外にもちょっとずついろんな着物や帯、小物類も載せていくつもりです。
地元大阪のものとか。
タペストリーとかインテリア類も。
民藝館なので、陶器とかガラスも。
まぁ、今、必死に造っているんですが、ほんま大変です!
サイトは6割方出来たんですが、これから商品の写真撮りが莫大!!!
年末年始もあまり休んでいられません。
とにかく、やりますんで、よろしくお願い申し上げます。
なんで1月10日か?って?
それはそれ。
えべっさんやし、福澤先生の誕生日やし、という事です。
内容の詳細は,もう少し進んでからお知らせしたいと思います。
『もずや民藝館』末長くお引き立ての程、お願い申し上げます。
もずや宗晏 拝
民藝館の施設をどこかに造るのではなくて、ECサイト、つまり、インターネットのショッピングサイトを立ち上げます。
URLは
http://www.mozuya.co.jp/
です。
現在は『お支度中』の下げ札がかかっています。
『もずや民藝館』は完全会員制です。
私と面識のある方か、その方の紹介がある方のみ会員として入館頂くシステムにしています。
このサイトを立ち上げるに当たっては、色々と悩むところもあり、上記の方であっても、現状において、お取引いただいているデパートのお客様には入館をお断りさせて頂く事にしております。
完全会員制にしておりますのは、それなりの理由があるわけでございまして、
ひとつには、現実的に小職ひとりが対応に当たるので手が回らないこと。
ふたつには、会員登録して、ご入館いただいたお客様にはできるだけ懇切丁寧に対応させていただきたいこと。
みっつには、オープンにしてしまうと、既存の流通を乱してしまうこと・・
等々です。
沖縄や他の所でも、作り手に直接発注したり、そこから買い付けしたものを、私が売るのですが、それなりの事になる、という事です。
また、ECサイトは自力で造っておりますし、維持費もほとんどかかりません。
いわば、私が道ばたで戸板を置いて商品を売っているような感じです。
ですから、もずや会やお知り合いの方に、いろんなご意見を聞きながら、少しずつコマシなサイトにして行ければ、と思っております。
mozuya.co.jpの独自ドメインを新たに入手したのですが、ここではいきなり販売サイトになってしまいます。
それで、いろんなご案内はツイッター、FBやブログを使うのですが、あまり、商品のご案内ばかりになると、ブログも面白くなくなるので、既存の
http://mozuya.com/
にあるHPを作り替えようと思ってます。
これも、新たに造らないと行けないので大変です!!
『もずや民藝館』の一番のウリは、価格はさておき、(^_-)
商品に関して私が全責任をもってセレクトし、仕入れし、万全の自信をもってお勧めする事。
そして、そこに書いてある説明は、私が25年の経験と学習で得た知識を元に、自分の言葉で書いているということ、です。
問屋の受け売りでいい加減な事をかいている所もよく見かけますが、もずや民藝館の説明はワケが違います!
様々な質問お問い合わせにも、すべて、完璧にお応え致します。
もちろん、アフターケアも、安全安心です。
沖縄染織以外にもちょっとずついろんな着物や帯、小物類も載せていくつもりです。
地元大阪のものとか。
タペストリーとかインテリア類も。
民藝館なので、陶器とかガラスも。
まぁ、今、必死に造っているんですが、ほんま大変です!
サイトは6割方出来たんですが、これから商品の写真撮りが莫大!!!
年末年始もあまり休んでいられません。
とにかく、やりますんで、よろしくお願い申し上げます。
なんで1月10日か?って?
それはそれ。
えべっさんやし、福澤先生の誕生日やし、という事です。
内容の詳細は,もう少し進んでからお知らせしたいと思います。
『もずや民藝館』末長くお引き立ての程、お願い申し上げます。
もずや宗晏 拝
Posted by 渡辺幻門 at
14:40
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2013年11月29日
沖縄4日目
今日で今回の沖縄廻りも最終日。
もう、仕入れは済みましたが、午前中に一軒だけお久しぶりの作家さんに会ってきました。
ご無沙汰している間にいろいろあったようで、ちょっと長めにお話ししました。
お話が終わってから、糸満まで走って、『まぐろ基地』
これで880円。
鉄火丼も天ぷらもボリュームたっぷりで食べ応えがありました。
味もまずまず。
お腹いっぱいになったので、糸満の海を見ながら、しばらくボーッと。
今回のお話しした内容や、仕入れた商品を反省してみました。
もうすこしどこか廻ろうかと想ったのですが、欲張らず。
レンタカーを返して2時過ぎにホテルに帰りました。
今回は特に、現実が浮き彫りになってきたような気がしましたね。
というか、予想通りになっています。
問屋も作り手も、仁義なき戦い、なりふり構わず、という感じになってきました。
でも、それは間違っています。
こんな時こそ、衿を正して、天に恥じない行動をすべきだと私は思います。
自分の力以上の事であれば、必ず破裂します。
それを知らないで、調子に乗って、大きな振る舞いをすれば、かならず揺り戻しとして、しぼむんです。
必ずそうなります。
それは私たち商人とて同じ事です。
良いときはおごらず高ぶらず、そして悪いときも腐らずたゆまず。
私たちは手仕事に生きる人間です。
人間にそんな超人的なことができる訳がないのです。
自分は才能がある、と想うのはただの勘違い。
ただ、その時の時流にのっているに過ぎない場合がほとんどです。
ですから、そんなモノに流されない、絶対的なモノを目指さないといけないのです。
また、その絶対的なモノとは何か、を考える長い長い旅でもあるのです。
沖縄もずや会の若いメンバーを連れて廻っているのも、そういう作家さんたちの心がけと生活を見て何かを感じて欲しいからです。
そういう気持ちがあれば、どんなに苦しいときも仕事が続けられるはずです。
儲からないならやらない、そう思うのであれば、さっさとおやめなさい。
生活の糧が得られないのであれば、趣味でやってもいいじゃないですか。
そのくらい、この染織の仕事が好きだと思える人だけが、残ってくれたらいい。
私はそう思います。
手仕事の正念場はまだまだこれからです。
もう、仕入れは済みましたが、午前中に一軒だけお久しぶりの作家さんに会ってきました。
ご無沙汰している間にいろいろあったようで、ちょっと長めにお話ししました。
お話が終わってから、糸満まで走って、『まぐろ基地』
これで880円。
鉄火丼も天ぷらもボリュームたっぷりで食べ応えがありました。
味もまずまず。
お腹いっぱいになったので、糸満の海を見ながら、しばらくボーッと。
今回のお話しした内容や、仕入れた商品を反省してみました。
もうすこしどこか廻ろうかと想ったのですが、欲張らず。
レンタカーを返して2時過ぎにホテルに帰りました。
今回は特に、現実が浮き彫りになってきたような気がしましたね。
というか、予想通りになっています。
問屋も作り手も、仁義なき戦い、なりふり構わず、という感じになってきました。
でも、それは間違っています。
こんな時こそ、衿を正して、天に恥じない行動をすべきだと私は思います。
自分の力以上の事であれば、必ず破裂します。
それを知らないで、調子に乗って、大きな振る舞いをすれば、かならず揺り戻しとして、しぼむんです。
必ずそうなります。
それは私たち商人とて同じ事です。
良いときはおごらず高ぶらず、そして悪いときも腐らずたゆまず。
私たちは手仕事に生きる人間です。
人間にそんな超人的なことができる訳がないのです。
自分は才能がある、と想うのはただの勘違い。
ただ、その時の時流にのっているに過ぎない場合がほとんどです。
ですから、そんなモノに流されない、絶対的なモノを目指さないといけないのです。
また、その絶対的なモノとは何か、を考える長い長い旅でもあるのです。
沖縄もずや会の若いメンバーを連れて廻っているのも、そういう作家さんたちの心がけと生活を見て何かを感じて欲しいからです。
そういう気持ちがあれば、どんなに苦しいときも仕事が続けられるはずです。
儲からないならやらない、そう思うのであれば、さっさとおやめなさい。
生活の糧が得られないのであれば、趣味でやってもいいじゃないですか。
そのくらい、この染織の仕事が好きだと思える人だけが、残ってくれたらいい。
私はそう思います。
手仕事の正念場はまだまだこれからです。
Posted by 渡辺幻門 at
18:12
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2013年11月28日
沖縄3日目
今日は10時に出発。今日は女性2人を同伴。
中部のあるところに行ってきました。
昼前についたのですが、事前に頼んでおいた商品が全く集まっていませんでした。
温厚な私もさすがに激高!
数点はあるということでしたが、全く見ずに去りました。
全くふざけてますね。商売をなめているとしか言いようがありません。
気を取り直して、お昼ご飯。
大宜味村まで走って、いつもの前田食堂でいつもの牛肉そば。
ぴりっと胡椒が効いていて美味しいんです。
お腹いっぱいになったところで、名護の上山さんちへ。
到着すると先客が来ていて、しばらく他所で休憩。
しゃくしまーる?という何度か行ったことのあるカフェでお茶。
木の実のケーキとコーヒー。
ケーキには特製のはちみつをかけていただきます。
3時前にカフェを出て、再度上山さん。
商売の話はなしで、人生論。
上山さんは今日もすばらしいお話をしてくださいました。
私がもっとも尊敬する工人の1人です。
1時間ちょっとお話しして、今度は車をとばして宜野座へ。
お友達の鈴木さんの芭蕉布工房を訪ねました。
作品も初めて見せていただいたのですが、とてもきちんとキレイに丁寧につくられていて感心。
5時半には暗くなってきたので、同伴の1人をうるま市まで送り、もう1人を乗せて糸満へ。
一緒に焼肉を食べて、用事に付き合って、家まで送り、9時ころホテルに帰ってきました。
仕事としては直接の成果のなかった一日でしたが、とても充実していましたし、勉強になりました。
中部のあるところに行ってきました。
昼前についたのですが、事前に頼んでおいた商品が全く集まっていませんでした。
温厚な私もさすがに激高!
数点はあるということでしたが、全く見ずに去りました。
全くふざけてますね。商売をなめているとしか言いようがありません。
気を取り直して、お昼ご飯。
大宜味村まで走って、いつもの前田食堂でいつもの牛肉そば。
ぴりっと胡椒が効いていて美味しいんです。
お腹いっぱいになったところで、名護の上山さんちへ。
到着すると先客が来ていて、しばらく他所で休憩。
しゃくしまーる?という何度か行ったことのあるカフェでお茶。
木の実のケーキとコーヒー。
ケーキには特製のはちみつをかけていただきます。
3時前にカフェを出て、再度上山さん。
商売の話はなしで、人生論。
上山さんは今日もすばらしいお話をしてくださいました。
私がもっとも尊敬する工人の1人です。
1時間ちょっとお話しして、今度は車をとばして宜野座へ。
お友達の鈴木さんの芭蕉布工房を訪ねました。
作品も初めて見せていただいたのですが、とてもきちんとキレイに丁寧につくられていて感心。
5時半には暗くなってきたので、同伴の1人をうるま市まで送り、もう1人を乗せて糸満へ。
一緒に焼肉を食べて、用事に付き合って、家まで送り、9時ころホテルに帰ってきました。
仕事としては直接の成果のなかった一日でしたが、とても充実していましたし、勉強になりました。
Posted by 渡辺幻門 at
21:55
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2013年11月28日
沖縄2日目
朝8時に出発しました。
中部の作家さんのところに行ってから玉泉洞を目指したんですが、南部であることが判明。
なんか、かんちがい〜
とって返して南へ。
しかたが無いので、あとは南部を廻りました。
天気に恵まれて、気分よかったです。
お昼は玉泉洞で『ハブカレー』
ハブのエキスが入っているそうです。
甘いカレーでした。
夜は沖縄もずや会
今回は参加できませんでしたが、新しいメンバーも増えてうれしい限りです。
どこの作り手でどんな話をしたかを書かないのは・・・
他所の業者がちょっかいだすからです。
私は自分のノウハウを作家さんに教えますよね。
それを生かした作品を造る。
それも作家さんの実力なんですが、私のノウハウが生きている作品を他所に持って行かれると、ノウハウごとその業者に提供するのと同じ事です。
でも、他には出すなというほどたくさん仕入れられる訳でもないし、造ったら全部うちがとる!といえば、どんどん造られて困るのは目に見えています。
作家さんが無節操に商品を出してしまうことが、問屋と作り手の関係を希薄にしている原因のひとつだと想います。
沖縄の人はとくにその事に無頓着です。
長いスパンで見て、作り手と一緒に良いモノを造っていこうという問屋ほど、馬鹿を見ることになる。
まぁ、それで作家さんの為になるなら、良いと言えば良いのですが、要はケッタクソの問題です。
良識のある業者なら私も全く文句言わないのですが、ちょっかい出してくるのはたいていそうじゃない。
使い捨てにされて困るのは作家さんです。
最後は『だから〜いったじゃないの〜』としか言いようがない。
でも、ボロボロにされた後では私も救いようが無いときがあるんです。
『ほんきにほんきにするなんて〜まったくアンタはうぶなのね』
という感じです。そして
『帰るもんかよ〜あの男〜』 ♪松山恵子 だからいったじゃないの♪より
でもね・・・言っても聞かないんですよ。たいていは。
そんな時は、距離を置きます。
結末が見えているんだもの。
そうならないように・・・作り手情報、商品情報は書かない、載せないんです。
若い人でこれから問屋や呉服屋さんとつきあいを始めようと想う方は、できれば、沖縄と長く付き合っていて、沖縄を愛している、沖縄染織の魅力をよくわかっている業者をえらんだ方が良いですね。
たいていは、沖縄ブームに載ってとか、ちょっとかすめ取ってやろう、というのが多いです。
でも良識ある、染織を愛している問屋もありますから。
問題は、人間性、最後はやっぱり『愛』なんですよ。
今回も長いつきあいの作り手さんに久しぶりに会ったら、びっくりするくらい作品が良くなっていた人がいました。
それは、上手に私のアドバイスを取り入れて、作品に生かした結果だと言っておられました。
私にとって、これほどうれしいことはありません。
でも、これもいろんな作家さんから教えていただいた知恵を元に蓄積したノウハウです。
私が独占しようなんてケチな事は想いません。
しかしながら、せっかく得た宝物を、ドブに捨てるようなもったいないことはして欲しくない、そう思うのです。
中部の作家さんのところに行ってから玉泉洞を目指したんですが、南部であることが判明。
なんか、かんちがい〜
とって返して南へ。
しかたが無いので、あとは南部を廻りました。
天気に恵まれて、気分よかったです。
お昼は玉泉洞で『ハブカレー』
ハブのエキスが入っているそうです。
甘いカレーでした。
夜は沖縄もずや会
今回は参加できませんでしたが、新しいメンバーも増えてうれしい限りです。
どこの作り手でどんな話をしたかを書かないのは・・・
他所の業者がちょっかいだすからです。
私は自分のノウハウを作家さんに教えますよね。
それを生かした作品を造る。
それも作家さんの実力なんですが、私のノウハウが生きている作品を他所に持って行かれると、ノウハウごとその業者に提供するのと同じ事です。
でも、他には出すなというほどたくさん仕入れられる訳でもないし、造ったら全部うちがとる!といえば、どんどん造られて困るのは目に見えています。
作家さんが無節操に商品を出してしまうことが、問屋と作り手の関係を希薄にしている原因のひとつだと想います。
沖縄の人はとくにその事に無頓着です。
長いスパンで見て、作り手と一緒に良いモノを造っていこうという問屋ほど、馬鹿を見ることになる。
まぁ、それで作家さんの為になるなら、良いと言えば良いのですが、要はケッタクソの問題です。
良識のある業者なら私も全く文句言わないのですが、ちょっかい出してくるのはたいていそうじゃない。
使い捨てにされて困るのは作家さんです。
最後は『だから〜いったじゃないの〜』としか言いようがない。
でも、ボロボロにされた後では私も救いようが無いときがあるんです。
『ほんきにほんきにするなんて〜まったくアンタはうぶなのね』
という感じです。そして
『帰るもんかよ〜あの男〜』 ♪松山恵子 だからいったじゃないの♪より
でもね・・・言っても聞かないんですよ。たいていは。
そんな時は、距離を置きます。
結末が見えているんだもの。
そうならないように・・・作り手情報、商品情報は書かない、載せないんです。
若い人でこれから問屋や呉服屋さんとつきあいを始めようと想う方は、できれば、沖縄と長く付き合っていて、沖縄を愛している、沖縄染織の魅力をよくわかっている業者をえらんだ方が良いですね。
たいていは、沖縄ブームに載ってとか、ちょっとかすめ取ってやろう、というのが多いです。
でも良識ある、染織を愛している問屋もありますから。
問題は、人間性、最後はやっぱり『愛』なんですよ。
今回も長いつきあいの作り手さんに久しぶりに会ったら、びっくりするくらい作品が良くなっていた人がいました。
それは、上手に私のアドバイスを取り入れて、作品に生かした結果だと言っておられました。
私にとって、これほどうれしいことはありません。
でも、これもいろんな作家さんから教えていただいた知恵を元に蓄積したノウハウです。
私が独占しようなんてケチな事は想いません。
しかしながら、せっかく得た宝物を、ドブに捨てるようなもったいないことはして欲しくない、そう思うのです。
Posted by 渡辺幻門 at
08:14
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2013年11月26日
沖縄1日目
12時過ぎに那覇空港に着陸しました。
到着すると、暑い!
スタンドカラーの藍染めシャツと薄手のウインドブレーカーを着ていたのですが、ウインドブレーカーは脱ぎ捨てました。
タクシーでホテルまで行き、荷物を預けて、とりあえずはご飯。
58沿いの名護そばで、平打ちソーキそば。
お昼がすんだら、レンタカーを借りて行動開始です。
3軒廻りましたが、思った通りの感触・・・でしょうか。
ま、ちょっと、全部は書けませんけどね。
想うところもありました。
明日は、中部を廻ります。
沖縄に来るとどうしても、食べ過ぎるので、節制を心がけます。
何で食べ過ぎるの?って・・
ご飯の盛りが多いのです!
いわゆる、てんこ盛りというので来るので、残すのを嫌がると、お腹がキンキンになるんです。
ご飯を残す!これが肝心です。
明日は8時に出発します。
到着すると、暑い!
スタンドカラーの藍染めシャツと薄手のウインドブレーカーを着ていたのですが、ウインドブレーカーは脱ぎ捨てました。
タクシーでホテルまで行き、荷物を預けて、とりあえずはご飯。
58沿いの名護そばで、平打ちソーキそば。
お昼がすんだら、レンタカーを借りて行動開始です。
3軒廻りましたが、思った通りの感触・・・でしょうか。
ま、ちょっと、全部は書けませんけどね。
想うところもありました。
明日は、中部を廻ります。
沖縄に来るとどうしても、食べ過ぎるので、節制を心がけます。
何で食べ過ぎるの?って・・
ご飯の盛りが多いのです!
いわゆる、てんこ盛りというので来るので、残すのを嫌がると、お腹がキンキンになるんです。
ご飯を残す!これが肝心です。
明日は8時に出発します。
Posted by 渡辺幻門 at
21:39
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2013年11月25日
明日から沖縄です。
久しぶりですが明日から沖縄に行ってきます。
30日(土)午後の便で帰ります。
正味3日ちょっとの訪問活動ですが、精力的にまわりたいと思っています。
北部には行く時間がたぶん無いと思うので、今回は中南部中心です。
電話でアポイントを取った感じでは、やっぱりというかちょっと停滞気味の様なので、じっくり話をしてきます。
前の方もどんどん売り先が細ってきているし、消費税増税による需要減も予想されるので、今回の仕入れはひと工夫必要でしょうか。
祖国復帰を果たしてから、染織界を引っ張ってきた人達がそろそろ引退し始めて、第二世代・第三世代になってきましたが、ここいらで、いままでの歴史を振り返って反省する事も必要かと思います。
今日、訪問の資料あつめがてら、昔の見本を見ていて思ったことは、確かに作風は洗練されて、生産は安定してきているのでしょうが、染織としての実力は落ちているな、という事です。
昔のは荒っぽいけど、工夫してあって、とても面白い。無地にしてもいろんな色にチャレンジして、エネルギーを感じます。
いまは、すぐに金にならない仕事をしたがらないせいか、マス見本を造る事さえ拒否されます。
作り手の参考になるようにと、資料や見本を渡しても、それを土台にした作品を造ってきた試しがない。また、同じような作品を造って同じように私を失望させるのです。
ここに来て、やる気がある産地、やる気のある作り手とそうでないのがハッキリと色分けされてきている様な感じがします。
私の言うことを聞け!というつもりは全くありませんが、良い作り手ほど、芯がしっかりしていてその上で素直で柔軟です。
聞いたことを形にする能力がある、という方が当たっているのかも知れません。
昔の作品の片々を見ていると、『今の人は本当にやる気があるんだろうか?』とさえ思ってしまいます。
もちろん、復帰直後に活躍された作り手の人達も、お金を稼ぐ手段として仕事をしていたのは同じでしょう。
でも、それは自分の技量の向上や創意工夫を前提としていたはずです。
いまは、それが感じにくい、と言わざるを得ません。
行く前からこんな事を書いて、ケンカを売っているみたいですが、これからの沖縄染織の事を考えると、心配にならずにはおられないのです。
もちろん、それは作り手だけの責任ではないでしょう。
私達問屋も、産地に方向性を示してきた自治体も罪は深いと思います。
作品の優劣に対して何の正当な評価をせず、ただ数だけを造らせてきました。
それで、工夫しろ、情熱を持て、という方がむりなのかも知れません。
何の個性も感じられない、作り手の情熱が伝わってこない、のっぺらぼうな作品ばかりになってしまったのは、同じように感性も情熱もない繋ぎ手の責任でもあります。
物作りは楽しい。その楽しい仕事をして、お金がもらえたら最高!
もちろんそうですし、そうでなければなりません。
でも、ここまで市場が成熟してきたら、もう一歩踏み出さなければいけません。
大阪弁でいうなら、
『ちょっと一発、いわしたんねん!』
という気持ちが必要だと思います。
つまりは、
ビックリさせてやる!感動させてやる!という挑戦的な気持ちです。
売る作品を造ろうとするから、手も目も頭もびびるんです。
そうじゃなくて、自分の感性イッパイイッパイのところまで追い込んで作品にしてみる。
そのためには、前述の『聞いたことを形にする力』が必要なんでしょう。
私は、沖縄の作り手は基本的にインプットが非常に貧弱だと思います。
物作りに必要となる美を吸収する機会がすくなく、またそれに対して消極的すぎます。
もっともっといろんな作品をみて、交通費がなければ、図書館で図録を見ても良い。
県内の作家さんを訪ねて作品を見せてもらっても良い。それは染織だけでなく、絵でも陶器でも良いんです。
また、文学を読んだり、美しい音楽を聴いて、感性を研ぎ澄ますことも必要でしょう。
インプットをしないで、良いアウトプットがでる訳がないのです。
そんな天才は1万人に一人です。
内地の作家さんは美術館に出かけたり、いろんな染織展をみたりして勉強されていますよ。
それ以下の事をしていて、遠く離れた沖縄で、勝てる道理がないのです。
今はもはや、沖縄染織は珍品ではなくなりました。
上手に造るだけでは、ダメな時代になったんです。
そこで必要とされる物は何か?
遠く離れた沖縄の産地で、どうやって数多い内地の作り手に対峙していくのか?
沖縄は作り手が多い分、一人一人の生存競争は厳しいものになると思います。
今回は、情熱と才能に溢れた若い作り手を出会えれば良いな、と思っています。
30日(土)午後の便で帰ります。
正味3日ちょっとの訪問活動ですが、精力的にまわりたいと思っています。
北部には行く時間がたぶん無いと思うので、今回は中南部中心です。
電話でアポイントを取った感じでは、やっぱりというかちょっと停滞気味の様なので、じっくり話をしてきます。
前の方もどんどん売り先が細ってきているし、消費税増税による需要減も予想されるので、今回の仕入れはひと工夫必要でしょうか。
祖国復帰を果たしてから、染織界を引っ張ってきた人達がそろそろ引退し始めて、第二世代・第三世代になってきましたが、ここいらで、いままでの歴史を振り返って反省する事も必要かと思います。
今日、訪問の資料あつめがてら、昔の見本を見ていて思ったことは、確かに作風は洗練されて、生産は安定してきているのでしょうが、染織としての実力は落ちているな、という事です。
昔のは荒っぽいけど、工夫してあって、とても面白い。無地にしてもいろんな色にチャレンジして、エネルギーを感じます。
いまは、すぐに金にならない仕事をしたがらないせいか、マス見本を造る事さえ拒否されます。
作り手の参考になるようにと、資料や見本を渡しても、それを土台にした作品を造ってきた試しがない。また、同じような作品を造って同じように私を失望させるのです。
ここに来て、やる気がある産地、やる気のある作り手とそうでないのがハッキリと色分けされてきている様な感じがします。
私の言うことを聞け!というつもりは全くありませんが、良い作り手ほど、芯がしっかりしていてその上で素直で柔軟です。
聞いたことを形にする能力がある、という方が当たっているのかも知れません。
昔の作品の片々を見ていると、『今の人は本当にやる気があるんだろうか?』とさえ思ってしまいます。
もちろん、復帰直後に活躍された作り手の人達も、お金を稼ぐ手段として仕事をしていたのは同じでしょう。
でも、それは自分の技量の向上や創意工夫を前提としていたはずです。
いまは、それが感じにくい、と言わざるを得ません。
行く前からこんな事を書いて、ケンカを売っているみたいですが、これからの沖縄染織の事を考えると、心配にならずにはおられないのです。
もちろん、それは作り手だけの責任ではないでしょう。
私達問屋も、産地に方向性を示してきた自治体も罪は深いと思います。
作品の優劣に対して何の正当な評価をせず、ただ数だけを造らせてきました。
それで、工夫しろ、情熱を持て、という方がむりなのかも知れません。
何の個性も感じられない、作り手の情熱が伝わってこない、のっぺらぼうな作品ばかりになってしまったのは、同じように感性も情熱もない繋ぎ手の責任でもあります。
物作りは楽しい。その楽しい仕事をして、お金がもらえたら最高!
もちろんそうですし、そうでなければなりません。
でも、ここまで市場が成熟してきたら、もう一歩踏み出さなければいけません。
大阪弁でいうなら、
『ちょっと一発、いわしたんねん!』
という気持ちが必要だと思います。
つまりは、
ビックリさせてやる!感動させてやる!という挑戦的な気持ちです。
売る作品を造ろうとするから、手も目も頭もびびるんです。
そうじゃなくて、自分の感性イッパイイッパイのところまで追い込んで作品にしてみる。
そのためには、前述の『聞いたことを形にする力』が必要なんでしょう。
私は、沖縄の作り手は基本的にインプットが非常に貧弱だと思います。
物作りに必要となる美を吸収する機会がすくなく、またそれに対して消極的すぎます。
もっともっといろんな作品をみて、交通費がなければ、図書館で図録を見ても良い。
県内の作家さんを訪ねて作品を見せてもらっても良い。それは染織だけでなく、絵でも陶器でも良いんです。
また、文学を読んだり、美しい音楽を聴いて、感性を研ぎ澄ますことも必要でしょう。
インプットをしないで、良いアウトプットがでる訳がないのです。
そんな天才は1万人に一人です。
内地の作家さんは美術館に出かけたり、いろんな染織展をみたりして勉強されていますよ。
それ以下の事をしていて、遠く離れた沖縄で、勝てる道理がないのです。
今はもはや、沖縄染織は珍品ではなくなりました。
上手に造るだけでは、ダメな時代になったんです。
そこで必要とされる物は何か?
遠く離れた沖縄の産地で、どうやって数多い内地の作り手に対峙していくのか?
沖縄は作り手が多い分、一人一人の生存競争は厳しいものになると思います。
今回は、情熱と才能に溢れた若い作り手を出会えれば良いな、と思っています。
Posted by 渡辺幻門 at
20:56
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2013年11月13日
作り手 あんな人こんな人 第3話
一昨日から、下関に来ました。
こちらも寒いです。
さて、今日はちょっと私の失敗というか笑い話の方をご紹介しましょう。
もう10年くらい前の話でしょうか。
まだあちこちの作家さんを訪問して、口説き倒していた時代の話です。
インターネットで沖縄の新聞を見て、そこで紹介されていた記事と作品の写真に興味を持って、訪ねてみる事にしたんです。
連絡先はうまいこと、ある本に載ってました。
当時はまだ個人情報とかゆるかったんですかね。
紹介無しでも興味を持てば私はガンガン突っ込んでいきます。
電話をすると快くアポイント。
沖縄ではアポをとったら即、行かなければいけません。
前日とかその前のアポイントは無いのと同じです。
行くまえにアポイントを取る、取ったらすぐに行く、というのが沖縄でナイチャーが商売するときの大原則です。
『沖縄の人は時間を守らない』とか『約束を守らない』とかよく言いますが、そんな事解っていて、待ちぼうけを食わされたり、アポを反故にされたりするのは、それは沖縄の人が悪いのはなくて、アポを取ったナイチャーが悪いのです。
解っていて対策を取らないのは怠慢です。
絶対にその日時に会いたい、時間をムダにしたくないと想えば、行く直前に電話するんです。
それはさておき、そんな感じでアポとってすぐに向かいました。
まぁ、それはそれは話が弾みました。
他の業者の悪口を含めて、びっしり3時間近く話し込んで、意気投合。
さて、とクロージングに入ったら、スルリ・・・
注文は受けないというんです。
は?
あれだけ意気投合して楽しく話をしたのに、取引しない???
私は頭がおかしくなりそうでした。
まだ、沖縄の人の事を解っていなかったんですねぇ。
つまり、来ても良いし、来客とは楽しく話をするけれども、それは仕事を一緒にすることとは別なんですね。
私達なら、初めからやる気が無ければ、訪問を断りますよね。
でも、沖縄の人は断らない人が多いみたいです。
このパターンで何度もハシゴを外されました。
やる気が無くても『どじょ〜』と言うんです。
他の人に意見を聞いてみると、『そんな事言わないでやってくださいよって、言って欲しかったんじゃない?』という意見もありました。
なるほど、そうかな、とも想いますが、私はそういうのしないんです。
主義とかじゃなく、しない。
1,2回は言うかも知れないけど、その時はしつこく食い下がらないで、また半年か一年後くらいにまたお茶のみに行くんです。
その時、また話したいな、と想うかどうか、それがポイントですね。
作り手と問屋もウマが合うというか、そりが合うというか、そういうの大事なんですよ。
親子二代に渡って、何度接触してもうまくいかない作家さんもいるんです。
私は、人間的に尊敬できないとか、嫌いな人とは取引しないんです。
ビジネスなんだから、そんな事いってちゃだめよ!という意見もあるでしょうけど、ただ商品をやりとりするだけならともかく、一緒にものづくりという大仕事をするのに、気持ちが沿わなければ良い仕事ができるわけがないからです。
遠くまで出かけていって、長時間話をした結果、どんでん返しをくらって、成果なし、というのは他にもありましたね。
沖縄の人は饒舌な人でもちゃんと論理立てて話をするのが苦手な人が多い様で、マイナスの回答を得ると、全然理由が分からないし、むかつきます。
とくに貴重な時間を無駄にした!という後悔はキツイです。
でも、これは自分が未熟だったからなんだ、と今になって想います。
港に船が出入りするように、入る船もあれば出て行く船もある。また港内に入らないで、そとで停泊している船もあるわけです。
すべては縁、そう割り切ることにしていますが、沖縄での限られた時間の中で、確実な成果をあげなければならないので、そこはコツが必要です。
私は、雑誌に出ている作家を追っかけたり、売れていると言う作家を狙い撃ちにしたりすることはしません。
基本的には紹介と、作品展ですね。
作品展を見て、良い作品だなぁ、と想ったら、名前を覚えておいて、あちこちで聞いてみる。
また、先生方に、有望な若手は居ませんか?と聞いてみる。
作品を一目見たら、モノになるかどうかは解ります。
あと、本気で落としたい!と想ったら、奥の手を使うんです。
奥の手は秘密です(^_^)
なんでもそうですけど、痛い目にあわないと身につかないもんですね。
こちらも寒いです。
さて、今日はちょっと私の失敗というか笑い話の方をご紹介しましょう。
もう10年くらい前の話でしょうか。
まだあちこちの作家さんを訪問して、口説き倒していた時代の話です。
インターネットで沖縄の新聞を見て、そこで紹介されていた記事と作品の写真に興味を持って、訪ねてみる事にしたんです。
連絡先はうまいこと、ある本に載ってました。
当時はまだ個人情報とかゆるかったんですかね。
紹介無しでも興味を持てば私はガンガン突っ込んでいきます。
電話をすると快くアポイント。
沖縄ではアポをとったら即、行かなければいけません。
前日とかその前のアポイントは無いのと同じです。
行くまえにアポイントを取る、取ったらすぐに行く、というのが沖縄でナイチャーが商売するときの大原則です。
『沖縄の人は時間を守らない』とか『約束を守らない』とかよく言いますが、そんな事解っていて、待ちぼうけを食わされたり、アポを反故にされたりするのは、それは沖縄の人が悪いのはなくて、アポを取ったナイチャーが悪いのです。
解っていて対策を取らないのは怠慢です。
絶対にその日時に会いたい、時間をムダにしたくないと想えば、行く直前に電話するんです。
それはさておき、そんな感じでアポとってすぐに向かいました。
まぁ、それはそれは話が弾みました。
他の業者の悪口を含めて、びっしり3時間近く話し込んで、意気投合。
さて、とクロージングに入ったら、スルリ・・・
注文は受けないというんです。
は?
あれだけ意気投合して楽しく話をしたのに、取引しない???
私は頭がおかしくなりそうでした。
まだ、沖縄の人の事を解っていなかったんですねぇ。
つまり、来ても良いし、来客とは楽しく話をするけれども、それは仕事を一緒にすることとは別なんですね。
私達なら、初めからやる気が無ければ、訪問を断りますよね。
でも、沖縄の人は断らない人が多いみたいです。
このパターンで何度もハシゴを外されました。
やる気が無くても『どじょ〜』と言うんです。
他の人に意見を聞いてみると、『そんな事言わないでやってくださいよって、言って欲しかったんじゃない?』という意見もありました。
なるほど、そうかな、とも想いますが、私はそういうのしないんです。
主義とかじゃなく、しない。
1,2回は言うかも知れないけど、その時はしつこく食い下がらないで、また半年か一年後くらいにまたお茶のみに行くんです。
その時、また話したいな、と想うかどうか、それがポイントですね。
作り手と問屋もウマが合うというか、そりが合うというか、そういうの大事なんですよ。
親子二代に渡って、何度接触してもうまくいかない作家さんもいるんです。
私は、人間的に尊敬できないとか、嫌いな人とは取引しないんです。
ビジネスなんだから、そんな事いってちゃだめよ!という意見もあるでしょうけど、ただ商品をやりとりするだけならともかく、一緒にものづくりという大仕事をするのに、気持ちが沿わなければ良い仕事ができるわけがないからです。
遠くまで出かけていって、長時間話をした結果、どんでん返しをくらって、成果なし、というのは他にもありましたね。
沖縄の人は饒舌な人でもちゃんと論理立てて話をするのが苦手な人が多い様で、マイナスの回答を得ると、全然理由が分からないし、むかつきます。
とくに貴重な時間を無駄にした!という後悔はキツイです。
でも、これは自分が未熟だったからなんだ、と今になって想います。
港に船が出入りするように、入る船もあれば出て行く船もある。また港内に入らないで、そとで停泊している船もあるわけです。
すべては縁、そう割り切ることにしていますが、沖縄での限られた時間の中で、確実な成果をあげなければならないので、そこはコツが必要です。
私は、雑誌に出ている作家を追っかけたり、売れていると言う作家を狙い撃ちにしたりすることはしません。
基本的には紹介と、作品展ですね。
作品展を見て、良い作品だなぁ、と想ったら、名前を覚えておいて、あちこちで聞いてみる。
また、先生方に、有望な若手は居ませんか?と聞いてみる。
作品を一目見たら、モノになるかどうかは解ります。
あと、本気で落としたい!と想ったら、奥の手を使うんです。
奥の手は秘密です(^_^)
なんでもそうですけど、痛い目にあわないと身につかないもんですね。
Posted by 渡辺幻門 at
21:37
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2013年11月05日
私の鐘紡時代 その一
先週とこの連休を利用して、近場の生産現場を回ってきました。
先週は徳島の『阿波正藍しじら織』
今週は『郡上紬』と『伊勢木綿』
を見てきました。
今は、絹、麻、芭蕉をやっていて、綿はミンサーくらいしか関わりがないのですが、関西圏といえば綿の産地でしたし、大阪といえば綿業で栄えたところで、かつては『太物屋』という綿織物の問屋がたくさんありました。その発展系が『繊維の街・船場』なんですね。
時代と共に、綿から毛織、化繊、合繊といろんな繊維が出てきましたが、大阪の船場が日本の繊維業の中心であることは今でも変わりがありません。
大昔は、応仁の乱の後、堺が日本最大の機業地であったことは知られていますし、西陣織も京都から来た職人が堺で学んで持ち帰ったモノだと言われています。
私は父が羅紗屋(毛織物業)だった事もあって、ずっと繊維商にあこがれていて、大学4年の就職活動も商社の繊維部門か紡績に狙いを絞っていました。
劣等生だったんですが、なんとか鐘紡に拾ってもらったという訳です。
鐘紡はマトリックス組織という組織形態を採っていて、事業部別か職種別に自由に選べました。職種というのは人事コースか経理コース。この人達は人事を選べば一生人事・労務畑ですし、経理を選んでも一生経理です。
一方、事業部別というのは、当時鐘紡は繊維素材、ファッション、化粧品、薬品、不動産、産業資材と多角経営をしていましたので、自分の希望で配属の事業部を決められたんです。
そのかわり、一生その事業部です。
私は当然、繊維素材を選びました。
繊維素材というのは、糸と布の事です。
服はファッション事業部の管轄でした。
繊維素材事業部も、羊毛、綿、絹、化繊と別れていて、私は羊毛事業部に配属されました。
毛織をやりたかったので非常に幸運だったと想います。
入社して3ヶ月間は研修期間なんですが、大阪で少し研修を受けた後、大垣工場で現場研修となりました。
大垣工場は羊毛の一貫工場で当時日本の最先端・最大の羊毛工場のひとつと言われていました。
とりあえずはここで1ヶ月の研修です。
これがまた二交代。
二交代というのは朝5時から13時半までの早番と13時半から10時までの遅番の交代番で勤務するんです。
大阪で育って東京で華やかな学生生活をしてきた者が大垣に赴任させられただけでも寂しくて仕方ないのに、二交代。交代番の前後にまたレクチャーとかがあるんです。
『君たち、勉強させてもらって給料もらってんだから文句言うな』と言われば長い拘束時間にも文句は言えませんでした。
当然ですよね。バリバリ仕事をしている高卒の職工さんより高い給料をもらっていたんですから。
他の事業部の人達も一緒に大垣で研修したんですが、1ヶ月ほどしたら自分の事業部の研修に入って、羊毛事業部の3人だけは大垣に残ってさらに2ヶ月の研修。
紡毛紡績、織布、染色、加工、設計、連繋管理、工務管理、総務、経理、倉庫と各部を回りました。
事務系は二人だけだったんですが、赴任先は大垣か愛知県の津島(ニットの染色・加工)、三重県の鈴鹿(梳毛紡績)のうちのどこかということになっていました。
当時の担当重役の方針で5年間は工場に居ろ!という方針だったんです。
研修した中で、工務管理が一番きつかったので、同期の同僚と『工務管理だけはいややな』と話していたんですが、同僚は鈴鹿(紡績)、私は大垣の工務管理に配属されました。
目の前が真っ暗になりましたね。
工務管理というのは、大垣工場内のコントロールセンターみたいなところで、大垣工場の織布課や外注の機屋から入って来た生機(きばた)を納期通りに加工して出荷する進行係です。
加工課にも進行係がいるのですが、その加工課の進行係に指示をするだけでは足らないので、自分で現場に入って、反物の進行をすることも多いのです。
工程の中で行方不明になる反物も出てきます。それを探し出して工程に再度乗せるのも重要な仕事でした。
これが後になって大きな経験となりました。
モノが解らないと反物の山の中から目的の反物を探し出す事が出来ないからです。
いまでも覚えています。研修中に探せといわれた反物。
反番は720153。
これを1ヶ月来る日も来る日も探させられたんです。
ちいさなサンプルを渡されて、それで新人にさがせ、と言うんです。
足は棒になるし、反物は見つからないしで、本当に参ってしまいました。
だから『工務管理だけはいややな〜』と想っていたんです。
でも、配属は工務管理でした。
はじめは、見本の進行からスタートでした。
アパレルに出す、見本、だいたい3メートルくらいなんですが、これの進行をやるんです。
当時加工課にも専門のおばさんがいて、そのおばさんに色々教えてもらいました。
見本は婦人先染、婦人後染、紳士先染、紳士後染、輸出とすべてのジャンルをやるので、全部の工程と品物が覚えられたんです。
すべての工程が解ると言う事は、すべての機械を持って居る女子従業員と接するということなんです。
毛織物の加工工場といのは、たくさんの工程別の機械が並んでいて、その間をトロと言われる台車に乗せられて反物が移動していきます。
洗い、縮絨、煮絨、乾燥、ヒートセット、ノリ、ガス焼き。これが下場。
蒸絨、プレス、ハリ(起毛)、ケイセン(起毛のカット)。これが上場。
上場と下場の間に中間補修、上場が終わってから見直し検査、見直し補修、最終検査がはいってようやく出荷となります。
なんですが、女の子に上手に言わないと、機械に掛けてもらえません。
もちろん、係長に言えばやるように言ってくれますが、職制はあまりいつもいつも使えない。
となると、台持ちの女の子との人間関係がとても大切になるんです。
このあたりの人間関係の事も勉強になりました。
相手は理屈が通じないですから。
やってくれないときは、女の子と一緒にミシンをかけたり、仕事を手伝って上げたりして機嫌を取るわけです。
信じられないでしょうけど、反物を繋ぐミシン、私もかけられるんですよ。
検査は4:45でみんな帰ってしまうので、本検査以外は私もやっていました。
3ヶ月したら正式に仕事が与えられました。
輸出生産係です。
当時、プラザ合意の後で円高になっていたのでもう輸出は儲からなくなっていましたが、これも担当重役の方針で継続されていたんです。
輸出だと後染め、先染め、紳士、婦人、全部やることになります。
一番のキーポイントはロット完了と納期厳守でした。
輸出は100反の約定なら100反全部揃えないと船積みできないんです。
それも、納期に1日でも遅れたらダメなんです。
ということは100反が99反でも、10月31日納期が11月1日になっても、全部キャンセルされてしまうと言う事です。
いちおう、工場としても輸出最優先主義を採っていましたが、それでも非常に厳しかったですね。
だいぶ長くなって来たので、複数回に分けますね。
輸出生産係になってからの話はまた今度。
今日はこのくらいにしときます。
先週は徳島の『阿波正藍しじら織』
今週は『郡上紬』と『伊勢木綿』
を見てきました。
今は、絹、麻、芭蕉をやっていて、綿はミンサーくらいしか関わりがないのですが、関西圏といえば綿の産地でしたし、大阪といえば綿業で栄えたところで、かつては『太物屋』という綿織物の問屋がたくさんありました。その発展系が『繊維の街・船場』なんですね。
時代と共に、綿から毛織、化繊、合繊といろんな繊維が出てきましたが、大阪の船場が日本の繊維業の中心であることは今でも変わりがありません。
大昔は、応仁の乱の後、堺が日本最大の機業地であったことは知られていますし、西陣織も京都から来た職人が堺で学んで持ち帰ったモノだと言われています。
私は父が羅紗屋(毛織物業)だった事もあって、ずっと繊維商にあこがれていて、大学4年の就職活動も商社の繊維部門か紡績に狙いを絞っていました。
劣等生だったんですが、なんとか鐘紡に拾ってもらったという訳です。
鐘紡はマトリックス組織という組織形態を採っていて、事業部別か職種別に自由に選べました。職種というのは人事コースか経理コース。この人達は人事を選べば一生人事・労務畑ですし、経理を選んでも一生経理です。
一方、事業部別というのは、当時鐘紡は繊維素材、ファッション、化粧品、薬品、不動産、産業資材と多角経営をしていましたので、自分の希望で配属の事業部を決められたんです。
そのかわり、一生その事業部です。
私は当然、繊維素材を選びました。
繊維素材というのは、糸と布の事です。
服はファッション事業部の管轄でした。
繊維素材事業部も、羊毛、綿、絹、化繊と別れていて、私は羊毛事業部に配属されました。
毛織をやりたかったので非常に幸運だったと想います。
入社して3ヶ月間は研修期間なんですが、大阪で少し研修を受けた後、大垣工場で現場研修となりました。
大垣工場は羊毛の一貫工場で当時日本の最先端・最大の羊毛工場のひとつと言われていました。
とりあえずはここで1ヶ月の研修です。
これがまた二交代。
二交代というのは朝5時から13時半までの早番と13時半から10時までの遅番の交代番で勤務するんです。
大阪で育って東京で華やかな学生生活をしてきた者が大垣に赴任させられただけでも寂しくて仕方ないのに、二交代。交代番の前後にまたレクチャーとかがあるんです。
『君たち、勉強させてもらって給料もらってんだから文句言うな』と言われば長い拘束時間にも文句は言えませんでした。
当然ですよね。バリバリ仕事をしている高卒の職工さんより高い給料をもらっていたんですから。
他の事業部の人達も一緒に大垣で研修したんですが、1ヶ月ほどしたら自分の事業部の研修に入って、羊毛事業部の3人だけは大垣に残ってさらに2ヶ月の研修。
紡毛紡績、織布、染色、加工、設計、連繋管理、工務管理、総務、経理、倉庫と各部を回りました。
事務系は二人だけだったんですが、赴任先は大垣か愛知県の津島(ニットの染色・加工)、三重県の鈴鹿(梳毛紡績)のうちのどこかということになっていました。
当時の担当重役の方針で5年間は工場に居ろ!という方針だったんです。
研修した中で、工務管理が一番きつかったので、同期の同僚と『工務管理だけはいややな』と話していたんですが、同僚は鈴鹿(紡績)、私は大垣の工務管理に配属されました。
目の前が真っ暗になりましたね。
工務管理というのは、大垣工場内のコントロールセンターみたいなところで、大垣工場の織布課や外注の機屋から入って来た生機(きばた)を納期通りに加工して出荷する進行係です。
加工課にも進行係がいるのですが、その加工課の進行係に指示をするだけでは足らないので、自分で現場に入って、反物の進行をすることも多いのです。
工程の中で行方不明になる反物も出てきます。それを探し出して工程に再度乗せるのも重要な仕事でした。
これが後になって大きな経験となりました。
モノが解らないと反物の山の中から目的の反物を探し出す事が出来ないからです。
いまでも覚えています。研修中に探せといわれた反物。
反番は720153。
これを1ヶ月来る日も来る日も探させられたんです。
ちいさなサンプルを渡されて、それで新人にさがせ、と言うんです。
足は棒になるし、反物は見つからないしで、本当に参ってしまいました。
だから『工務管理だけはいややな〜』と想っていたんです。
でも、配属は工務管理でした。
はじめは、見本の進行からスタートでした。
アパレルに出す、見本、だいたい3メートルくらいなんですが、これの進行をやるんです。
当時加工課にも専門のおばさんがいて、そのおばさんに色々教えてもらいました。
見本は婦人先染、婦人後染、紳士先染、紳士後染、輸出とすべてのジャンルをやるので、全部の工程と品物が覚えられたんです。
すべての工程が解ると言う事は、すべての機械を持って居る女子従業員と接するということなんです。
毛織物の加工工場といのは、たくさんの工程別の機械が並んでいて、その間をトロと言われる台車に乗せられて反物が移動していきます。
洗い、縮絨、煮絨、乾燥、ヒートセット、ノリ、ガス焼き。これが下場。
蒸絨、プレス、ハリ(起毛)、ケイセン(起毛のカット)。これが上場。
上場と下場の間に中間補修、上場が終わってから見直し検査、見直し補修、最終検査がはいってようやく出荷となります。
なんですが、女の子に上手に言わないと、機械に掛けてもらえません。
もちろん、係長に言えばやるように言ってくれますが、職制はあまりいつもいつも使えない。
となると、台持ちの女の子との人間関係がとても大切になるんです。
このあたりの人間関係の事も勉強になりました。
相手は理屈が通じないですから。
やってくれないときは、女の子と一緒にミシンをかけたり、仕事を手伝って上げたりして機嫌を取るわけです。
信じられないでしょうけど、反物を繋ぐミシン、私もかけられるんですよ。
検査は4:45でみんな帰ってしまうので、本検査以外は私もやっていました。
3ヶ月したら正式に仕事が与えられました。
輸出生産係です。
当時、プラザ合意の後で円高になっていたのでもう輸出は儲からなくなっていましたが、これも担当重役の方針で継続されていたんです。
輸出だと後染め、先染め、紳士、婦人、全部やることになります。
一番のキーポイントはロット完了と納期厳守でした。
輸出は100反の約定なら100反全部揃えないと船積みできないんです。
それも、納期に1日でも遅れたらダメなんです。
ということは100反が99反でも、10月31日納期が11月1日になっても、全部キャンセルされてしまうと言う事です。
いちおう、工場としても輸出最優先主義を採っていましたが、それでも非常に厳しかったですね。
だいぶ長くなって来たので、複数回に分けますね。
輸出生産係になってからの話はまた今度。
今日はこのくらいにしときます。
Posted by 渡辺幻門 at
22:04
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2013年10月31日
ギャラリー白雲 『もずやのキモノ展』 平成26年3月15日(土)・16日(日)
今年も3月にやった大阪堂島のギャラリー白雲を予約してきました。
来年の3月15日(土)、16日(日)の二日間です。
北新地のすぐそばで、難波よりはわかりやすいと想います(^_^;)
ギャラリー・白雲〒530-0003 大阪市北区堂島2-2-23白雲ビル1F●TEL・FAX :06-6341-5571●開廊時間:AM10:00~PM6:00 (最終日はPM4:00まで)
前回と同じく、弊社商品の総合展となります。
11月末に沖縄に行ってきますが、今回は、お値頃品をたっぷり仕入れてきたいと想っています。
沖縄の染織品はちょっと油断すると高額品ばかりになってしまうのですが、その気になれば、お値頃の物をそろえる事はできます。
これは永年の蓄積の賜物ですね。
4月には消費税も上がることですし、よい作品を上手に仕入れて、喜んでもらおうと想います。
来年からはいろいろと新しい試みを企ててもおりますし、展示会も増やしていくつもりです。
だからこそ、買いやすい物を!という事ですね。
値頃だからって、そこは『もずや』
品質はバッチリ安定です。
来年からは本当に腕の見せ所ですし、真価を問われるところなんだと想います。
というわけで、またプリンを食べたり、新地で美味しい物食べたりしましょうね!
ご光来、心よりお待ち申し上げております。
来年の3月15日(土)、16日(日)の二日間です。
北新地のすぐそばで、難波よりはわかりやすいと想います(^_^;)
ギャラリー・白雲〒530-0003 大阪市北区堂島2-2-23白雲ビル1F●TEL・FAX :06-6341-5571●開廊時間:AM10:00~PM6:00 (最終日はPM4:00まで)
前回と同じく、弊社商品の総合展となります。
11月末に沖縄に行ってきますが、今回は、お値頃品をたっぷり仕入れてきたいと想っています。
沖縄の染織品はちょっと油断すると高額品ばかりになってしまうのですが、その気になれば、お値頃の物をそろえる事はできます。
これは永年の蓄積の賜物ですね。
4月には消費税も上がることですし、よい作品を上手に仕入れて、喜んでもらおうと想います。
来年からはいろいろと新しい試みを企ててもおりますし、展示会も増やしていくつもりです。
だからこそ、買いやすい物を!という事ですね。
値頃だからって、そこは『もずや』
品質はバッチリ安定です。
来年からは本当に腕の見せ所ですし、真価を問われるところなんだと想います。
というわけで、またプリンを食べたり、新地で美味しい物食べたりしましょうね!
ご光来、心よりお待ち申し上げております。
Posted by 渡辺幻門 at
21:16
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2013年10月31日
もずや店内展のお知らせ 12/15−17
期日は12月15日(日)〜17日(火)です。
10時〜17時まで。
年末の大掃除前に、ちょっとノンビリやりましょう、という感じです。
本社所在地はここです。
大阪府羽曳野市羽曳が丘5−1−1
車で来られるのでしたら、カーナビに萬代商事(まんだいしょうじ)、あるいは電話番号0729574166と入れて頂ければ表示されると思います。
近鉄南大阪線の藤井寺か古市で降りて、そこからバスです。
羽曳が丘5丁目で降りてすぐ。
不便なところですし、普通の住宅ですので、いつもは難波とか堂島で場所をかりてやるんですが、今回は時期的に中途半端なので、本社でやります。
今回は、案内状もお出ししませんので、このサイトをご覧いただいた方のみ、という感じになります。
うちですので、時間の制限もなく、南河内ののんびりした環境で、ゆっくり着物をみられるのも良いかと思います。
年末ですので、小物から陶器・ガラスまですべての商品が揃っています。
ご不便おかけしますが、ご光来の程、お待ち申し上げます。
10時〜17時まで。
年末の大掃除前に、ちょっとノンビリやりましょう、という感じです。
本社所在地はここです。
大阪府羽曳野市羽曳が丘5−1−1
車で来られるのでしたら、カーナビに萬代商事(まんだいしょうじ)、あるいは電話番号0729574166と入れて頂ければ表示されると思います。
近鉄南大阪線の藤井寺か古市で降りて、そこからバスです。
羽曳が丘5丁目で降りてすぐ。
不便なところですし、普通の住宅ですので、いつもは難波とか堂島で場所をかりてやるんですが、今回は時期的に中途半端なので、本社でやります。
今回は、案内状もお出ししませんので、このサイトをご覧いただいた方のみ、という感じになります。
うちですので、時間の制限もなく、南河内ののんびりした環境で、ゆっくり着物をみられるのも良いかと思います。
年末ですので、小物から陶器・ガラスまですべての商品が揃っています。
ご不便おかけしますが、ご光来の程、お待ち申し上げます。
Posted by 渡辺幻門 at
11:11
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2013年10月23日
作り手 あんな人こんな人 第2話
ふたつくらい早めに書いておかないと忘れてしまうので、昨夜に続いて連投です。
月日はかなり飛んで、34歳の時、亡父が大病を患って、一線を退かねばならなくなって、私が実質的なトップになったときの話です。
私は、その前はまだ単なる販売員くらいの仕事しかしていなかったんですが、私以外適任がいなかった、というのが本当のところでしょうね。
私にバトンタッチするときに、『また、沖縄の織物に力をいれたらどうかな』と亡父からアドバイスをもらって、それで、沖縄に行くことになったんです。
沖縄とはずっと親交も取引もあったんですが、伝統染織の分野はあまり力を入れていなかった、というか、当時の弊社の規模としては、沖縄の産地は小さすぎたんですね。
だんだん所帯も小さくなってきていましたし、私自身が沖縄に対する熱い気持ちをもっていたので、そういってくれたのかもしれません。
なにせ、幼稚園に行く前から、父が沖縄から持って帰ってくるチューインガムやチョコレートを腹一杯たべて、鼻血を出していた私です。
そんじょそこらの沖縄好きとは訳が違います。
うちにあった在庫の紬や帯を私が独占してほとんど一人で売っていたんです。
それで、とにかく沖縄に行ってみよう!と飛んでいきました。
平成11年の春くらいだったと想います。
とりあえず、行くところといえば、昔お世話になったところ、という事になります。
昔は組合もそんなにしっかりしたモノではなくて、南風原が産地問屋の機能を果たしていたんです。
つまり、南風原の機屋が沖縄じゅうからモノを集めて、内地の問屋に売っていた、という事です。
うちが沖縄のキモノをやり出したのも、その南風原の機屋さんに、糸や染料、機料(染織に使う道具)を売っていたからです。
染料で有名な田中直や織機の津田駒の代理店をしていたんですよ。
そのご縁で沖縄のキモノを内地、特に関西圏に広めてくれと、県の委託もあって、取り組んだということなんです。
南風原でお世話になった機屋さんを廻ると・・・
全然だめでした。
疎遠にしていたのと、昔のうちの対応が悪かったのもあって、非常に冷たくされたのを覚えています。
また、当時は、ある問屋が沖縄染織の7割方を独占していて、入り込む余地が無くなっていたんです。
うちは検査が厳しいので、10反送れば半分は不合格で返品するという事になることがあります。
その返品分をとっていた会社があったんです。
結局はそこに全部とられてしまうことになったわけです。
まぁ、人情としては解りますよね。
行けども行けども、そんな感じで、全然仕入れできません。
みんなうちの事は知っているけど、商品が無いんです。
ちょうど第3次沖縄ブームの頃だったんですね。
アテがはずれてフラフラになって、ふと立ち寄ったのが、昔からお世話になっているあるお店でした。
私も昔から知っている店でしたので、困り果てて、寄ってみた、そんな感じでした。
沖縄の工芸にはとてつもない情熱を傾けている人で、私もいろんな事を教えてもらいました。
実は、父はあまり沖縄の事は語らなかったんです。
というか、とくとくと語り、教えるということはなかった。
今思い起こせば・・・という感じで、つなぎ合わせて行っているという感じです。
父は、翌11年に亡くなってしまったので、それから私の工芸の師匠は、その方でした。
その店で、ある作品を見て、ご縁をつないでいただいたのが、私の琉球染織の第一歩だった、と言っても過言ではありません。
どこへ行っても、こじ開けられなかったドアが、スッと開いて、開けると、そこにはお花畑が広がっていた。
まさにそんな感じでした。
そこで作り手の人とお話しするときに、役に立ったのが父やその店主から教えてもらった話でした。
いま考えると、あんな損得抜きでいろいろ教えてくれる人がいまの沖縄にいるだろうか?と想います。
それだけの情熱を沖縄の工芸に注いでいらっしゃったということでしょうね。
私は今でも大変尊敬しています。
その後、いろいろ行き違いがあって、ここでは書けないような事もありましたが、私は十分にご恩返しができたと想っています。
たいへん人の良い方でしたので、沖縄の工芸人や内地の業者に利用されて、ご苦労なさったのだろうか、と想います。
普通なら、もっと尊敬されて、語り継がれ、恩に着る人が大勢いていいはずです。
いまでも、沖縄でも著名な染織家のある方は大変に恩義におもって、決してお忘れにならないそうです。
その染織家の方は、ご苦労な去っていた時期にお子さんを背負って、その店で機織りの実演をしていたと聞いています。その時の恩を忘れないでいらっしゃるのです。
私はその店の店主も、その染織家も大変にご立派だと想いますし、見習いたいと想います。
ただ、その店主は、あまりにも工芸への情熱が勝ちすぎたのが仇になったようです。
工人と生で接し、すばらしい工芸品を手にすると、どうしても没入してしまうのです。
工人をないがしろにし、工芸品をいい加減に扱う人は、人や作品の解らない、情の無い人なのだろうと私は思います。
情がからむから、抜けられない、何とかしてあげたい、なんとかこの美しい品物を世に広めたい、そういう想いと、商いという現実との戦いなんですね。
民芸運動家や工芸家と違って、商人が民芸運動に足を踏み入れるというのは、ある意味で危険な事なんです。
『情』のコントロールをしないといけないからです。
またそれが大変難しい。
商人はある意味で冷淡でなくてはなりません。
また、冷淡であることで、工人に伝わることもあるのだろうと想います。
この店主は商人としての工芸運動家、民芸運動家の大先輩でした。
やっぱり、現地の沖縄でこういう存在の人が絶対に必要だな、と想うのです。
月日はかなり飛んで、34歳の時、亡父が大病を患って、一線を退かねばならなくなって、私が実質的なトップになったときの話です。
私は、その前はまだ単なる販売員くらいの仕事しかしていなかったんですが、私以外適任がいなかった、というのが本当のところでしょうね。
私にバトンタッチするときに、『また、沖縄の織物に力をいれたらどうかな』と亡父からアドバイスをもらって、それで、沖縄に行くことになったんです。
沖縄とはずっと親交も取引もあったんですが、伝統染織の分野はあまり力を入れていなかった、というか、当時の弊社の規模としては、沖縄の産地は小さすぎたんですね。
だんだん所帯も小さくなってきていましたし、私自身が沖縄に対する熱い気持ちをもっていたので、そういってくれたのかもしれません。
なにせ、幼稚園に行く前から、父が沖縄から持って帰ってくるチューインガムやチョコレートを腹一杯たべて、鼻血を出していた私です。
そんじょそこらの沖縄好きとは訳が違います。
うちにあった在庫の紬や帯を私が独占してほとんど一人で売っていたんです。
それで、とにかく沖縄に行ってみよう!と飛んでいきました。
平成11年の春くらいだったと想います。
とりあえず、行くところといえば、昔お世話になったところ、という事になります。
昔は組合もそんなにしっかりしたモノではなくて、南風原が産地問屋の機能を果たしていたんです。
つまり、南風原の機屋が沖縄じゅうからモノを集めて、内地の問屋に売っていた、という事です。
うちが沖縄のキモノをやり出したのも、その南風原の機屋さんに、糸や染料、機料(染織に使う道具)を売っていたからです。
染料で有名な田中直や織機の津田駒の代理店をしていたんですよ。
そのご縁で沖縄のキモノを内地、特に関西圏に広めてくれと、県の委託もあって、取り組んだということなんです。
南風原でお世話になった機屋さんを廻ると・・・
全然だめでした。
疎遠にしていたのと、昔のうちの対応が悪かったのもあって、非常に冷たくされたのを覚えています。
また、当時は、ある問屋が沖縄染織の7割方を独占していて、入り込む余地が無くなっていたんです。
うちは検査が厳しいので、10反送れば半分は不合格で返品するという事になることがあります。
その返品分をとっていた会社があったんです。
結局はそこに全部とられてしまうことになったわけです。
まぁ、人情としては解りますよね。
行けども行けども、そんな感じで、全然仕入れできません。
みんなうちの事は知っているけど、商品が無いんです。
ちょうど第3次沖縄ブームの頃だったんですね。
アテがはずれてフラフラになって、ふと立ち寄ったのが、昔からお世話になっているあるお店でした。
私も昔から知っている店でしたので、困り果てて、寄ってみた、そんな感じでした。
沖縄の工芸にはとてつもない情熱を傾けている人で、私もいろんな事を教えてもらいました。
実は、父はあまり沖縄の事は語らなかったんです。
というか、とくとくと語り、教えるということはなかった。
今思い起こせば・・・という感じで、つなぎ合わせて行っているという感じです。
父は、翌11年に亡くなってしまったので、それから私の工芸の師匠は、その方でした。
その店で、ある作品を見て、ご縁をつないでいただいたのが、私の琉球染織の第一歩だった、と言っても過言ではありません。
どこへ行っても、こじ開けられなかったドアが、スッと開いて、開けると、そこにはお花畑が広がっていた。
まさにそんな感じでした。
そこで作り手の人とお話しするときに、役に立ったのが父やその店主から教えてもらった話でした。
いま考えると、あんな損得抜きでいろいろ教えてくれる人がいまの沖縄にいるだろうか?と想います。
それだけの情熱を沖縄の工芸に注いでいらっしゃったということでしょうね。
私は今でも大変尊敬しています。
その後、いろいろ行き違いがあって、ここでは書けないような事もありましたが、私は十分にご恩返しができたと想っています。
たいへん人の良い方でしたので、沖縄の工芸人や内地の業者に利用されて、ご苦労なさったのだろうか、と想います。
普通なら、もっと尊敬されて、語り継がれ、恩に着る人が大勢いていいはずです。
いまでも、沖縄でも著名な染織家のある方は大変に恩義におもって、決してお忘れにならないそうです。
その染織家の方は、ご苦労な去っていた時期にお子さんを背負って、その店で機織りの実演をしていたと聞いています。その時の恩を忘れないでいらっしゃるのです。
私はその店の店主も、その染織家も大変にご立派だと想いますし、見習いたいと想います。
ただ、その店主は、あまりにも工芸への情熱が勝ちすぎたのが仇になったようです。
工人と生で接し、すばらしい工芸品を手にすると、どうしても没入してしまうのです。
工人をないがしろにし、工芸品をいい加減に扱う人は、人や作品の解らない、情の無い人なのだろうと私は思います。
情がからむから、抜けられない、何とかしてあげたい、なんとかこの美しい品物を世に広めたい、そういう想いと、商いという現実との戦いなんですね。
民芸運動家や工芸家と違って、商人が民芸運動に足を踏み入れるというのは、ある意味で危険な事なんです。
『情』のコントロールをしないといけないからです。
またそれが大変難しい。
商人はある意味で冷淡でなくてはなりません。
また、冷淡であることで、工人に伝わることもあるのだろうと想います。
この店主は商人としての工芸運動家、民芸運動家の大先輩でした。
やっぱり、現地の沖縄でこういう存在の人が絶対に必要だな、と想うのです。
Posted by 渡辺幻門 at
21:15
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2013年10月22日
作り手 あんな人こんな人 第1話
今日から始めます。
ブロマガと同時投稿です。
どなたの話から書こうかな、と少し考えたのですが、やっぱり時系列的に書いていった方が良いかな、と想います。
物作りをしている人の話ではありませんが・・・
私が沖縄に初めて行ったのは、小学校5年生の時だったと思います。
1964年生まれですから、当時11歳で1975年ですか。
沖縄本土復帰が1972年ですから、復帰してから3年たったころです。
あんまりよく覚えていないのですが、沖縄に着いたら、父に連れられて当時お世話になっていた繊維会社に行きました。
道からすぐ座敷に入れるような作りで戸はなく、フルオープンになっていました。
そのお座敷の奥の棚には反物がいっぱい。
亡父もそこの会社に商品を買ってもらっていたんです。
その会社は女性3人が経営していて、当時もうすでにかなりのご年配でした。
おばさんの一人が私にコカコーラをくださって、それたとても美味しかったのを記憶しています。
そのコーラの王冠の裏が、まだコルクでした。内地ではもう無くなっていましたからね。
亡父は、沖縄と東南アジアとの貿易をやっていて、萬代商事もそういう会社でした。
沖縄でも古い人は、まだ毛織物をやっていると想っている人もいるようです。
亡父はそのおばさん達にとてもお世話になったようで、当時もう復帰していて商売はなかったでしょうに、私たち兄弟にも大変優しくしてくれました。
私の沖縄女性に対して持っている原風景という感じの人たちですね。
おばさん達はとても商売が上手で、亡父は20歳の時から世話になっていたようです。
亡父が沖縄に行くと、やっぱり、まずはじめにそこの会社に行く。
見本を見せるわけです。
おばさんは『選んでおくから、遊んでおいで。帰るときに来ればいいさ』
亡父は沖縄の言葉など全然解らなかったと想いますが、おばさんたちは解っていると想っていたらしいです。
それで、気持ちよく遊んで、帰るときにおばさんの所に行くと、
『あ、忘れてた。まだ選んでないさ』
亡父は大慌てな訳です。
見本を預けているわけですから、他では商売ができません。
その一件にかけているわけです。
そこが決まっていなければ手ぶらで大阪に帰らなければなりません。
父は恥ずかしがり屋なので、『おばさんはよくしてくれた。見本を預かって勝手に注文してくれた』としか言いませんでしたが、亡くなった後に関係者に聞くと、おばさんの手にまんまとはめられていたんです。
つまり、そういう事態に追い込まれると、イヤでも値引きせねばなりません。
注文するつもりではいるわけですが、叩くつもりで追い込んでいるわけです。
それでも、身を切られるような事をされていないから、また行くし、商売が無くなっても挨拶に行っていたんでしょうね。
亡父も、20歳の時に沖縄に初めて渡って、単身で駐在員もして、沖縄の人たちにいろいろ商売を教わったのだろうと想います。
まだ幼い私をつれて、ここのお店の人はこんな人、こんなお世話になったなどと話しながら公設市場の中を歩いたのを覚えています。
亡父は、ここが私の商売の原点だと言っていましたし、私もそう思います。
ですから、いまでも公設市場の洋服屋を見ると、懐かしく、また、初心に返れるような気がするのです。
私は沖縄でモノを売るという仕事はしていませんが、言葉も十分に通じない沖縄で亡父はさぞ寂しく、不自由な想いをしたことと想います。
でも、あんなたくましいおばさん達に支えられて、一人前の商売人になったんだな、と想うと、胸に迫るモノがあるんです。
沖縄でも、大阪でも、昔は、後輩の商売人を育てようという気持ちがみんなにあったそうです。
そのおばさん達も、萬代商事設立の時に出資してくれて、父が亡くなるまで株主だったんです。
父が亡くなったと言うことで、母と二人で沖縄を訪れ、おばさんたちはもうお亡くなりになっていましたが、そのご子息に出資金をお返ししたという次第です。
当時の沖縄の人たちは、いまよりずっと貧しかったと想いますが、とても優しかったです。
独立心があって、世話好きでもあった。
はじめて沖縄を訪れる前に、父が持って帰ってきてくれたカステラ(大きなカマボコ)やラフティは、そのおばさんたちの手作りだと知ったのは、ずいぶん後のことでした。
ブロマガと同時投稿です。
どなたの話から書こうかな、と少し考えたのですが、やっぱり時系列的に書いていった方が良いかな、と想います。
物作りをしている人の話ではありませんが・・・
私が沖縄に初めて行ったのは、小学校5年生の時だったと思います。
1964年生まれですから、当時11歳で1975年ですか。
沖縄本土復帰が1972年ですから、復帰してから3年たったころです。
あんまりよく覚えていないのですが、沖縄に着いたら、父に連れられて当時お世話になっていた繊維会社に行きました。
道からすぐ座敷に入れるような作りで戸はなく、フルオープンになっていました。
そのお座敷の奥の棚には反物がいっぱい。
亡父もそこの会社に商品を買ってもらっていたんです。
その会社は女性3人が経営していて、当時もうすでにかなりのご年配でした。
おばさんの一人が私にコカコーラをくださって、それたとても美味しかったのを記憶しています。
そのコーラの王冠の裏が、まだコルクでした。内地ではもう無くなっていましたからね。
亡父は、沖縄と東南アジアとの貿易をやっていて、萬代商事もそういう会社でした。
沖縄でも古い人は、まだ毛織物をやっていると想っている人もいるようです。
亡父はそのおばさん達にとてもお世話になったようで、当時もう復帰していて商売はなかったでしょうに、私たち兄弟にも大変優しくしてくれました。
私の沖縄女性に対して持っている原風景という感じの人たちですね。
おばさん達はとても商売が上手で、亡父は20歳の時から世話になっていたようです。
亡父が沖縄に行くと、やっぱり、まずはじめにそこの会社に行く。
見本を見せるわけです。
おばさんは『選んでおくから、遊んでおいで。帰るときに来ればいいさ』
亡父は沖縄の言葉など全然解らなかったと想いますが、おばさんたちは解っていると想っていたらしいです。
それで、気持ちよく遊んで、帰るときにおばさんの所に行くと、
『あ、忘れてた。まだ選んでないさ』
亡父は大慌てな訳です。
見本を預けているわけですから、他では商売ができません。
その一件にかけているわけです。
そこが決まっていなければ手ぶらで大阪に帰らなければなりません。
父は恥ずかしがり屋なので、『おばさんはよくしてくれた。見本を預かって勝手に注文してくれた』としか言いませんでしたが、亡くなった後に関係者に聞くと、おばさんの手にまんまとはめられていたんです。
つまり、そういう事態に追い込まれると、イヤでも値引きせねばなりません。
注文するつもりではいるわけですが、叩くつもりで追い込んでいるわけです。
それでも、身を切られるような事をされていないから、また行くし、商売が無くなっても挨拶に行っていたんでしょうね。
亡父も、20歳の時に沖縄に初めて渡って、単身で駐在員もして、沖縄の人たちにいろいろ商売を教わったのだろうと想います。
まだ幼い私をつれて、ここのお店の人はこんな人、こんなお世話になったなどと話しながら公設市場の中を歩いたのを覚えています。
亡父は、ここが私の商売の原点だと言っていましたし、私もそう思います。
ですから、いまでも公設市場の洋服屋を見ると、懐かしく、また、初心に返れるような気がするのです。
私は沖縄でモノを売るという仕事はしていませんが、言葉も十分に通じない沖縄で亡父はさぞ寂しく、不自由な想いをしたことと想います。
でも、あんなたくましいおばさん達に支えられて、一人前の商売人になったんだな、と想うと、胸に迫るモノがあるんです。
沖縄でも、大阪でも、昔は、後輩の商売人を育てようという気持ちがみんなにあったそうです。
そのおばさん達も、萬代商事設立の時に出資してくれて、父が亡くなるまで株主だったんです。
父が亡くなったと言うことで、母と二人で沖縄を訪れ、おばさんたちはもうお亡くなりになっていましたが、そのご子息に出資金をお返ししたという次第です。
当時の沖縄の人たちは、いまよりずっと貧しかったと想いますが、とても優しかったです。
独立心があって、世話好きでもあった。
はじめて沖縄を訪れる前に、父が持って帰ってきてくれたカステラ(大きなカマボコ)やラフティは、そのおばさんたちの手作りだと知ったのは、ずいぶん後のことでした。
Posted by 渡辺幻門 at
19:46
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