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2013年01月04日

『日本の歴史 本当は何がすごいのか』田中英道著 




すばらしい本でした。時代に沿って日本の文化・芸術について著者独特の考察が付け加えられています。田中英道氏の本は『日本の芸術』を始め何冊も読んでいますが、この本はコンパクトにまとめられていて、読みやすく書かれています。紹介したい内容はたくさんありましたが、『わび・さびの文化は人間の行動と意志、そのエネルギーが根底にあってこそ、成り立つ文化である』つまり『見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ、は花を見、紅葉を見る眼の輝き・エネルギーがあってこそ、浦の苫屋の秋の夕暮れの寂しさが浮き立ってくるのだ』
この部分はわび・さびに関する私の解釈と全く一致する物でした。その他、日本の文化論、精神論について深く書かれていて、ご一読をお勧めしたい本です。私も何度も読み返してみたいと想っています。
  
Posted by 渡辺幻門 at 23:24Comments(0)文化

2010年08月02日

やっぱりお茶を習おうと想います

東京に来て、早5日。これだけ長期滞在したのは久しぶりです。

特に変わってしまった銀座にばビックリ。

昔は、ちいさいお店にもきちんとした物がおかれていて、店ごとの特色もあったと想うのですが、いまは・・・

これじゃ、消費者がホンモノを見て鑑識眼を育てる場所がありません。

銀座のお店には厳選された良い物が置かれていて、その店では詳しい説明が聞けて、そこで買った物を購入し使うことで、モノを目と体で感じる事ができたのだと想うのです。

私は普段、ベテランの茶人をお相手に商売をさせて頂いておりますが、茶道の功罪はあるにせよ、モノを直に見て鑑識眼を育てるという部分においてこれ以上の習い事・趣味はないように想います。

茶道は総合芸術といいますが、正しく学べばこれ以上に文化を凝縮して感じられるものはないだろうと想います。

陶器・漆器・竹製品・きもの・花・書、ありとあらゆる日本の美がそこに宿っているだけでなく、立ち居振る舞いや行儀も茶道が原点となっています。

茶道には効果性と効率性、すなわち、合理と非合理、文化と文明など、あるいみで二律背反するものが共生しているのです。

いままでは茶人のお客様からいろんな事を学ばせて頂きましたが、本格的とは言わないまでも、茶道にさらに親しみ、自分を磨き上げて行きたいと想います。  
Posted by 渡辺幻門 at 09:05Comments(0)文化

2010年08月02日

やっぱりお茶を習おうと想います

東京に来て、早5日。これだけ長期滞在したのは久しぶりです。

特に変わってしまった銀座にばビックリ。

昔は、ちいさいお店にもきちんとした物がおかれていて、店ごとの特色もあったと想うのですが、いまは・・・

これじゃ、消費者がホンモノを見て鑑識眼を育てる場所がありません。

銀座のお店には厳選された良い物が置かれていて、その店では詳しい説明が聞けて、そこで買った物を購入し使うことで、モノを目と体で感じる事ができたのだと想うのです。

私は普段、ベテランの茶人をお相手に商売をさせて頂いておりますが、茶道の功罪はあるにせよ、モノを直に見て鑑識眼を育てるという部分においてこれ以上の習い事・趣味はないように想います。

茶道は総合芸術といいますが、正しく学べばこれ以上に文化を凝縮して感じられるものはないだろうと想います。

陶器・漆器・竹製品・きもの・花・書、ありとあらゆる日本の美がそこに宿っているだけでなく、立ち居振る舞いや行儀も茶道が原点となっています。

茶道には効果性と効率性、すなわち、合理と非合理、文化と文明など、あるいみで二律背反するものが共生しているのです。

いままでは茶人のお客様からいろんな事を学ばせて頂きましたが、本格的とは言わないまでも、茶道にさらに親しみ、自分を磨き上げて行きたいと想います。  
Posted by 渡辺幻門 at 09:05Comments(0)文化

2010年08月02日

やっぱりお茶を習おうと想います

東京に来て、早5日。これだけ長期滞在したのは久しぶりです。

特に変わってしまった銀座にばビックリ。

昔は、ちいさいお店にもきちんとした物がおかれていて、店ごとの特色もあったと想うのですが、いまは・・・

これじゃ、消費者がホンモノを見て鑑識眼を育てる場所がありません。

銀座のお店には厳選された良い物が置かれていて、その店では詳しい説明が聞けて、そこで買った物を購入し使うことで、モノを目と体で感じる事ができたのだと想うのです。

私は普段、ベテランの茶人をお相手に商売をさせて頂いておりますが、茶道の功罪はあるにせよ、モノを直に見て鑑識眼を育てるという部分においてこれ以上の習い事・趣味はないように想います。

茶道は総合芸術といいますが、正しく学べばこれ以上に文化を凝縮して感じられるものはないだろうと想います。

陶器・漆器・竹製品・きもの・花・書、ありとあらゆる日本の美がそこに宿っているだけでなく、立ち居振る舞いや行儀も茶道が原点となっています。

茶道には効果性と効率性、すなわち、合理と非合理、文化と文明など、あるいみで二律背反するものが共生しているのです。

いままでは茶人のお客様からいろんな事を学ばせて頂きましたが、本格的とは言わないまでも、茶道にさらに親しみ、自分を磨き上げて行きたいと想います。  
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2010年07月31日

情報洪水の功罪

東京に来て今日で4日目。圧倒的な情報量である。

伝統工芸、伝統芸能、をはじめ様々な分野での情報の露出は、ダントツで、まさに洪水である。

そのせいか、知識の豊富な人が多い。

これでは、各界のプロもよほど勉強しないと十分な対応はできないだろう。

しかし、である。

知識があることと、物を正しく観る事が出来ることはまた別である。

往々にして、知識というものが鑑識眼を曇らせる場合が多い。

柳宗悦の民藝論の中で一番素晴らしいのは、物を直観で観ることを勧めたことであると私は思う。

伝統芸能を観る場合、私は、一切の予備知識を持たないで、劇場に向かう。

もちろん、筋を追うための予習はするが、細かな事は全く知らないで置く。

イヤフォンガイドも使わない。

基本的に一人で観に行く。

一切の予断を排するためだ。

基本的に、芸術を観るのに、予備知識は必要ないと私は思う。

どう観たか、何を観たか、よりも大切なのは何を感じたかだと想うからだ。

私は遊びで観に行くわけではない。

仕事の一貫としていくのである。

私の仕事に活かすには、その感じた『何か』が大切なのである。

その『何か』という抽象的な物は普遍性を持ち、あらゆる表現に影響を及ぼす。

それは、いわば『美の凝縮』である。

『美の凝縮』は頭ではとらえられない。

魂でとらえるのである。

染織でいえば、物を観て、それが京都の物か、沖縄の物かはその物に対して何を感じるかにおいては関係の無いことである。

日本画が西洋画かが感動に関係ないのと同じ事だ。

もちろん技法も全く関係がない。

そう考えると、東京の情報洪水は、かえって鑑賞者の目を曇らせる事になっているのではないか。

グルメ本で美味しいと紹介されているところが、自分では美味しいと想わなくても、無理矢理自分を納得させてしまう人が多いのもそのせいではないだろうか。

良い物は良い、旨い物は旨いのである。

物を観ると言うことは、その表面を観る事ではない。

その物に含まれている核の部分を精神で透視する事なのである。

眼ではない。頭脳でもない。精神で観るのである。

すなわち、物を観る上で必要な事は精神性である。

それは、倫理観であり宗教観であり人生観である。

自分が肉体を脱ぎ捨てて、核になって初めて、物も核を現す。

芸術教育が必要であるとすれば、まさにその一点を知るためである。

情報は棄てる作業にこそ価値がある。

芸術も不要を間引きしてこそ完成するのである。  
Posted by 渡辺幻門 at 08:34Comments(0)文化

2010年07月31日

情報洪水の功罪

東京に来て今日で4日目。圧倒的な情報量である。

伝統工芸、伝統芸能、をはじめ様々な分野での情報の露出は、ダントツで、まさに洪水である。

そのせいか、知識の豊富な人が多い。

これでは、各界のプロもよほど勉強しないと十分な対応はできないだろう。

しかし、である。

知識があることと、物を正しく観る事が出来ることはまた別である。

往々にして、知識というものが鑑識眼を曇らせる場合が多い。

柳宗悦の民藝論の中で一番素晴らしいのは、物を直観で観ることを勧めたことであると私は思う。

伝統芸能を観る場合、私は、一切の予備知識を持たないで、劇場に向かう。

もちろん、筋を追うための予習はするが、細かな事は全く知らないで置く。

イヤフォンガイドも使わない。

基本的に一人で観に行く。

一切の予断を排するためだ。

基本的に、芸術を観るのに、予備知識は必要ないと私は思う。

どう観たか、何を観たか、よりも大切なのは何を感じたかだと想うからだ。

私は遊びで観に行くわけではない。

仕事の一貫としていくのである。

私の仕事に活かすには、その感じた『何か』が大切なのである。

その『何か』という抽象的な物は普遍性を持ち、あらゆる表現に影響を及ぼす。

それは、いわば『美の凝縮』である。

『美の凝縮』は頭ではとらえられない。

魂でとらえるのである。

染織でいえば、物を観て、それが京都の物か、沖縄の物かはその物に対して何を感じるかにおいては関係の無いことである。

日本画が西洋画かが感動に関係ないのと同じ事だ。

もちろん技法も全く関係がない。

そう考えると、東京の情報洪水は、かえって鑑賞者の目を曇らせる事になっているのではないか。

グルメ本で美味しいと紹介されているところが、自分では美味しいと想わなくても、無理矢理自分を納得させてしまう人が多いのもそのせいではないだろうか。

良い物は良い、旨い物は旨いのである。

物を観ると言うことは、その表面を観る事ではない。

その物に含まれている核の部分を精神で透視する事なのである。

眼ではない。頭脳でもない。精神で観るのである。

すなわち、物を観る上で必要な事は精神性である。

それは、倫理観であり宗教観であり人生観である。

自分が肉体を脱ぎ捨てて、核になって初めて、物も核を現す。

芸術教育が必要であるとすれば、まさにその一点を知るためである。

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芸術も不要を間引きしてこそ完成するのである。  
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2010年07月31日

情報洪水の功罪

東京に来て今日で4日目。圧倒的な情報量である。

伝統工芸、伝統芸能、をはじめ様々な分野での情報の露出は、ダントツで、まさに洪水である。

そのせいか、知識の豊富な人が多い。

これでは、各界のプロもよほど勉強しないと十分な対応はできないだろう。

しかし、である。

知識があることと、物を正しく観る事が出来ることはまた別である。

往々にして、知識というものが鑑識眼を曇らせる場合が多い。

柳宗悦の民藝論の中で一番素晴らしいのは、物を直観で観ることを勧めたことであると私は思う。

伝統芸能を観る場合、私は、一切の予備知識を持たないで、劇場に向かう。

もちろん、筋を追うための予習はするが、細かな事は全く知らないで置く。

イヤフォンガイドも使わない。

基本的に一人で観に行く。

一切の予断を排するためだ。

基本的に、芸術を観るのに、予備知識は必要ないと私は思う。

どう観たか、何を観たか、よりも大切なのは何を感じたかだと想うからだ。

私は遊びで観に行くわけではない。

仕事の一貫としていくのである。

私の仕事に活かすには、その感じた『何か』が大切なのである。

その『何か』という抽象的な物は普遍性を持ち、あらゆる表現に影響を及ぼす。

それは、いわば『美の凝縮』である。

『美の凝縮』は頭ではとらえられない。

魂でとらえるのである。

染織でいえば、物を観て、それが京都の物か、沖縄の物かはその物に対して何を感じるかにおいては関係の無いことである。

日本画が西洋画かが感動に関係ないのと同じ事だ。

もちろん技法も全く関係がない。

そう考えると、東京の情報洪水は、かえって鑑賞者の目を曇らせる事になっているのではないか。

グルメ本で美味しいと紹介されているところが、自分では美味しいと想わなくても、無理矢理自分を納得させてしまう人が多いのもそのせいではないだろうか。

良い物は良い、旨い物は旨いのである。

物を観ると言うことは、その表面を観る事ではない。

その物に含まれている核の部分を精神で透視する事なのである。

眼ではない。頭脳でもない。精神で観るのである。

すなわち、物を観る上で必要な事は精神性である。

それは、倫理観であり宗教観であり人生観である。

自分が肉体を脱ぎ捨てて、核になって初めて、物も核を現す。

芸術教育が必要であるとすれば、まさにその一点を知るためである。

情報は棄てる作業にこそ価値がある。

芸術も不要を間引きしてこそ完成するのである。  
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2010年04月10日

銀座の柳の由来

今日、ジムで自転車こぎをしながら『むかしの堺』という本を読みました。

昭和51年に発行された古い本ですが、教育委員会が編集に携わっている教育本です。

この本の『堺町と柳』という章を読んで驚きました。

大阪に堺筋という大きな通りがありますが、これは秀吉が大阪城を造ったときに堺の商人を大阪に呼び寄せて街を作ったところから名付けられていて、全国の大名はこれにならって、自分の城下に堺商人を呼んで住まわせ、そこを堺町と名付けたという事です。

広島、高知、姫路、岸和田、京都、倉敷、大和郡山、北九州、長崎に堺町があり、そのほか栄町というのも同じなんだそうです。

堺から移り住んだ人は、昔から堺に多くあった柳のを自分たちの町に植え、ふるさと堺をしのんだといいます。

家康も堺商人を江戸に呼び寄せ、その商人達はやはり柳を植えた。それが銀座の柳なんだそうです。すなわち、銀座は江戸の堺町なんだそうです。

おどろきましたねぇ。

銀座の柳といえば、歌になるほど有名で、銀座の象徴でもあります。

そのルーツは堺だったんです。

なるほど、銀座はその名の通り、銀を加工していたところなんでしょうが、西日本の貨幣は銀でしたから、銀の加工技術は西日本から、それも、金属加工のメッカ堺であったのは当然のことです。金の小判は江戸で流通していましたが、関西では銀だったんです。

歴史はどうしても為政者やヒーローを追ってしまいますが、私達民衆の歴史は身近で奥深い物ですね。
  
Posted by 渡辺幻門 at 23:01Comments(0)文化

2010年04月10日

銀座の柳の由来

今日、ジムで自転車こぎをしながら『むかしの堺』という本を読みました。

昭和51年に発行された古い本ですが、教育委員会が編集に携わっている教育本です。

この本の『堺町と柳』という章を読んで驚きました。

大阪に堺筋という大きな通りがありますが、これは秀吉が大阪城を造ったときに堺の商人を大阪に呼び寄せて街を作ったところから名付けられていて、全国の大名はこれにならって、自分の城下に堺商人を呼んで住まわせ、そこを堺町と名付けたという事です。

広島、高知、姫路、岸和田、京都、倉敷、大和郡山、北九州、長崎に堺町があり、そのほか栄町というのも同じなんだそうです。

堺から移り住んだ人は、昔から堺に多くあった柳のを自分たちの町に植え、ふるさと堺をしのんだといいます。

家康も堺商人を江戸に呼び寄せ、その商人達はやはり柳を植えた。それが銀座の柳なんだそうです。すなわち、銀座は江戸の堺町なんだそうです。

おどろきましたねぇ。

銀座の柳といえば、歌になるほど有名で、銀座の象徴でもあります。

そのルーツは堺だったんです。

なるほど、銀座はその名の通り、銀を加工していたところなんでしょうが、西日本の貨幣は銀でしたから、銀の加工技術は西日本から、それも、金属加工のメッカ堺であったのは当然のことです。金の小判は江戸で流通していましたが、関西では銀だったんです。

歴史はどうしても為政者やヒーローを追ってしまいますが、私達民衆の歴史は身近で奥深い物ですね。
  
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2010年04月10日

銀座の柳の由来

今日、ジムで自転車こぎをしながら『むかしの堺』という本を読みました。

昭和51年に発行された古い本ですが、教育委員会が編集に携わっている教育本です。

この本の『堺町と柳』という章を読んで驚きました。

大阪に堺筋という大きな通りがありますが、これは秀吉が大阪城を造ったときに堺の商人を大阪に呼び寄せて街を作ったところから名付けられていて、全国の大名はこれにならって、自分の城下に堺商人を呼んで住まわせ、そこを堺町と名付けたという事です。

広島、高知、姫路、岸和田、京都、倉敷、大和郡山、北九州、長崎に堺町があり、そのほか栄町というのも同じなんだそうです。

堺から移り住んだ人は、昔から堺に多くあった柳のを自分たちの町に植え、ふるさと堺をしのんだといいます。

家康も堺商人を江戸に呼び寄せ、その商人達はやはり柳を植えた。それが銀座の柳なんだそうです。すなわち、銀座は江戸の堺町なんだそうです。

おどろきましたねぇ。

銀座の柳といえば、歌になるほど有名で、銀座の象徴でもあります。

そのルーツは堺だったんです。

なるほど、銀座はその名の通り、銀を加工していたところなんでしょうが、西日本の貨幣は銀でしたから、銀の加工技術は西日本から、それも、金属加工のメッカ堺であったのは当然のことです。金の小判は江戸で流通していましたが、関西では銀だったんです。

歴史はどうしても為政者やヒーローを追ってしまいますが、私達民衆の歴史は身近で奥深い物ですね。
  
Posted by 渡辺幻門 at 23:01Comments(0)文化

2010年03月22日

カラー版 日本美術史 読了

カラー版 日本美術史
レビュー

2002
美術出版社
辻 惟雄

書評まで行く知識がありませんので、感想です。

教科書としては良い本だったと想います。

先般の工芸史や工芸論とも重なるので、内容的にも理解しやすかったですね。

全体の美術史を通して見てみると、仏教関係の美術から入って、貴族の需要に併せた物、そして、民衆に合わせた物と対象が変わってきます。これは欧米でも同じ流れです。

しかし、どちらも、自己表現とか言い出して、シュールレアリズム、前衛と言ったところで、急に元気がなくなって頓挫している。

芸術家は食えないのは当たり前で、それが美しい姿だなんていうのはここ100年の事のようです。

それ以前は、需要家に合わせて作品を作っていた。

それがなぜ、こうなってしまったのでしょうか。

ヨーロッパの流れからすると、世紀末デカダンスの影響が美術に現れ、それを先進と思い込んだ当時留学していた画家たちが勘違いしてその考えを取り込んだ。そんなところじゃないかと想います。

伝統工芸の世界でもそうですが、食えない職業の人に良い仕事をしろというのは無理です。自己表現を追求して飲まず食わずで絵を描いているなんて、傍目からみればかっこいいですが、あまりにも内向的で誰も幸せにしません。社会的損失です。芸術が人を感動させるためにあるなら、もっとわかりやすくする努力をせねばならないと私は思います。芸術家が自分でできないなら、それを手助けする人が必要です。昨日書いた美術史家・批評家もそうですが、画商も話題作家の作品を振り回すだけで、そこのところの努力をしているのでしょうか。

そういう哲学や思想に裏打ちされた芸術ならば、他の芸術分野にも波及せねばならないはずです。アーツ&クラフツ運動が元をたどればディアギレフのバレエ・リュスが原点だというように、芸術の発展には大きな潮流が必要です。現代にそれがあるでしょうか。どうも、全体的にあまりに内向的で小粒のような気がします。

伝統工芸の世界でも、もう一度、手作りの良い物を見直そうという運動を起こさねばならないと想います。機械生産の大企業の市場寡占化が進み、手作りの品物はその価値さえ正当に評価されずに、棚の隅っこで誇りを被らされています。もし、染織がその運動の端緒になれるとしたら・・・

着物を愛する人、伝統工芸に携わるひとならば、自分たちも手作りの工芸品を生活の中で使いましょう。そして、できれば、作り手と逢って、自分の考えを伝え、意見を交わしましょう。そうすることで、伝統工芸全体で大きな流れができるかもしれません。

手作りの工芸品が評価されない国で、芸術が花開くなんてことは絶対にないと私は思います。


この本は、あと1回熟読して、もう一回は精読。そしてレポートにかかります。
  
Posted by 渡辺幻門 at 22:54Comments(0)文化

2010年03月22日

カラー版 日本美術史 読了

カラー版 日本美術史
レビュー

2002
美術出版社
辻 惟雄

書評まで行く知識がありませんので、感想です。

教科書としては良い本だったと想います。

先般の工芸史や工芸論とも重なるので、内容的にも理解しやすかったですね。

全体の美術史を通して見てみると、仏教関係の美術から入って、貴族の需要に併せた物、そして、民衆に合わせた物と対象が変わってきます。これは欧米でも同じ流れです。

しかし、どちらも、自己表現とか言い出して、シュールレアリズム、前衛と言ったところで、急に元気がなくなって頓挫している。

芸術家は食えないのは当たり前で、それが美しい姿だなんていうのはここ100年の事のようです。

それ以前は、需要家に合わせて作品を作っていた。

それがなぜ、こうなってしまったのでしょうか。

ヨーロッパの流れからすると、世紀末デカダンスの影響が美術に現れ、それを先進と思い込んだ当時留学していた画家たちが勘違いしてその考えを取り込んだ。そんなところじゃないかと想います。

伝統工芸の世界でもそうですが、食えない職業の人に良い仕事をしろというのは無理です。自己表現を追求して飲まず食わずで絵を描いているなんて、傍目からみればかっこいいですが、あまりにも内向的で誰も幸せにしません。社会的損失です。芸術が人を感動させるためにあるなら、もっとわかりやすくする努力をせねばならないと私は思います。芸術家が自分でできないなら、それを手助けする人が必要です。昨日書いた美術史家・批評家もそうですが、画商も話題作家の作品を振り回すだけで、そこのところの努力をしているのでしょうか。

そういう哲学や思想に裏打ちされた芸術ならば、他の芸術分野にも波及せねばならないはずです。アーツ&クラフツ運動が元をたどればディアギレフのバレエ・リュスが原点だというように、芸術の発展には大きな潮流が必要です。現代にそれがあるでしょうか。どうも、全体的にあまりに内向的で小粒のような気がします。

伝統工芸の世界でも、もう一度、手作りの良い物を見直そうという運動を起こさねばならないと想います。機械生産の大企業の市場寡占化が進み、手作りの品物はその価値さえ正当に評価されずに、棚の隅っこで誇りを被らされています。もし、染織がその運動の端緒になれるとしたら・・・

着物を愛する人、伝統工芸に携わるひとならば、自分たちも手作りの工芸品を生活の中で使いましょう。そして、できれば、作り手と逢って、自分の考えを伝え、意見を交わしましょう。そうすることで、伝統工芸全体で大きな流れができるかもしれません。

手作りの工芸品が評価されない国で、芸術が花開くなんてことは絶対にないと私は思います。


この本は、あと1回熟読して、もう一回は精読。そしてレポートにかかります。
  
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2010年03月22日

カラー版 日本美術史 読了

カラー版 日本美術史
レビュー

2002
美術出版社
辻 惟雄

書評まで行く知識がありませんので、感想です。

教科書としては良い本だったと想います。

先般の工芸史や工芸論とも重なるので、内容的にも理解しやすかったですね。

全体の美術史を通して見てみると、仏教関係の美術から入って、貴族の需要に併せた物、そして、民衆に合わせた物と対象が変わってきます。これは欧米でも同じ流れです。

しかし、どちらも、自己表現とか言い出して、シュールレアリズム、前衛と言ったところで、急に元気がなくなって頓挫している。

芸術家は食えないのは当たり前で、それが美しい姿だなんていうのはここ100年の事のようです。

それ以前は、需要家に合わせて作品を作っていた。

それがなぜ、こうなってしまったのでしょうか。

ヨーロッパの流れからすると、世紀末デカダンスの影響が美術に現れ、それを先進と思い込んだ当時留学していた画家たちが勘違いしてその考えを取り込んだ。そんなところじゃないかと想います。

伝統工芸の世界でもそうですが、食えない職業の人に良い仕事をしろというのは無理です。自己表現を追求して飲まず食わずで絵を描いているなんて、傍目からみればかっこいいですが、あまりにも内向的で誰も幸せにしません。社会的損失です。芸術が人を感動させるためにあるなら、もっとわかりやすくする努力をせねばならないと私は思います。芸術家が自分でできないなら、それを手助けする人が必要です。昨日書いた美術史家・批評家もそうですが、画商も話題作家の作品を振り回すだけで、そこのところの努力をしているのでしょうか。

そういう哲学や思想に裏打ちされた芸術ならば、他の芸術分野にも波及せねばならないはずです。アーツ&クラフツ運動が元をたどればディアギレフのバレエ・リュスが原点だというように、芸術の発展には大きな潮流が必要です。現代にそれがあるでしょうか。どうも、全体的にあまりに内向的で小粒のような気がします。

伝統工芸の世界でも、もう一度、手作りの良い物を見直そうという運動を起こさねばならないと想います。機械生産の大企業の市場寡占化が進み、手作りの品物はその価値さえ正当に評価されずに、棚の隅っこで誇りを被らされています。もし、染織がその運動の端緒になれるとしたら・・・

着物を愛する人、伝統工芸に携わるひとならば、自分たちも手作りの工芸品を生活の中で使いましょう。そして、できれば、作り手と逢って、自分の考えを伝え、意見を交わしましょう。そうすることで、伝統工芸全体で大きな流れができるかもしれません。

手作りの工芸品が評価されない国で、芸術が花開くなんてことは絶対にないと私は思います。


この本は、あと1回熟読して、もう一回は精読。そしてレポートにかかります。
  
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2009年06月25日

理想の酒場

明日で長かった下関大丸の外販も終了。
〆にまんなおしで一杯。
アテは、ヒラソのハラミ刺身、合鴨の串焼き、そしていつもの骨蒸し。

 私は、夜遊びを早くに卒業してしまいましたが、今でもやっぱりくつろげる酒場を探しています。

 で、私の思い描く、理想の酒場とは・・・

 5〜6人入ったら一杯、カウンターだけの小さな店。場所は四天王寺の近くの路地裏。ママは香西かおりみたいな、絣の着物が似合う、ちょっと崩れた美人。そう、あまりきれいすぎてはいけません。年の頃は40〜60歳。ママの話す言葉は上品な大阪弁。アテはママ手作りの漬け物。夏は水なす、河内名物のキュウリとなすをショウガと醤油を入れてまぜこぜにしたヤツ。冬は粕汁があるといいなぁ。お酒は日本酒なら大阪の地酒、ワインは河内ワイン、ウィスキーなら仲良くニッカの黒とサントリーオールド。ボトルキープ無しの一杯売り。音楽は、たまに歌うママのアカペラ。これが心にしみるほどうまい。料金は、2000円くらい。ママはいつも優しく微笑み、寡黙ながらたまにウイットに富んだ言葉を差し挟む。営業時間は午後3時から12時まで。
  
Posted by 渡辺幻門 at 21:55Comments(0)文化

2009年06月25日

理想の酒場

明日で長かった下関大丸の外販も終了。
〆にまんなおしで一杯。
アテは、ヒラソのハラミ刺身、合鴨の串焼き、そしていつもの骨蒸し。

 私は、夜遊びを早くに卒業してしまいましたが、今でもやっぱりくつろげる酒場を探しています。

 で、私の思い描く、理想の酒場とは・・・

 5〜6人入ったら一杯、カウンターだけの小さな店。場所は四天王寺の近くの路地裏。ママは香西かおりみたいな、絣の着物が似合う、ちょっと崩れた美人。そう、あまりきれいすぎてはいけません。年の頃は40〜60歳。ママの話す言葉は上品な大阪弁。アテはママ手作りの漬け物。夏は水なす、河内名物のキュウリとなすをショウガと醤油を入れてまぜこぜにしたヤツ。冬は粕汁があるといいなぁ。お酒は日本酒なら大阪の地酒、ワインは河内ワイン、ウィスキーなら仲良くニッカの黒とサントリーオールド。ボトルキープ無しの一杯売り。音楽は、たまに歌うママのアカペラ。これが心にしみるほどうまい。料金は、2000円くらい。ママはいつも優しく微笑み、寡黙ながらたまにウイットに富んだ言葉を差し挟む。営業時間は午後3時から12時まで。
  
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2009年06月25日

理想の酒場

明日で長かった下関大丸の外販も終了。
〆にまんなおしで一杯。
アテは、ヒラソのハラミ刺身、合鴨の串焼き、そしていつもの骨蒸し。

 私は、夜遊びを早くに卒業してしまいましたが、今でもやっぱりくつろげる酒場を探しています。

 で、私の思い描く、理想の酒場とは・・・

 5〜6人入ったら一杯、カウンターだけの小さな店。場所は四天王寺の近くの路地裏。ママは香西かおりみたいな、絣の着物が似合う、ちょっと崩れた美人。そう、あまりきれいすぎてはいけません。年の頃は40〜60歳。ママの話す言葉は上品な大阪弁。アテはママ手作りの漬け物。夏は水なす、河内名物のキュウリとなすをショウガと醤油を入れてまぜこぜにしたヤツ。冬は粕汁があるといいなぁ。お酒は日本酒なら大阪の地酒、ワインは河内ワイン、ウィスキーなら仲良くニッカの黒とサントリーオールド。ボトルキープ無しの一杯売り。音楽は、たまに歌うママのアカペラ。これが心にしみるほどうまい。料金は、2000円くらい。ママはいつも優しく微笑み、寡黙ながらたまにウイットに富んだ言葉を差し挟む。営業時間は午後3時から12時まで。
  
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2009年06月25日

夏や!大阪や!

明日帰りますけど、また、あつ〜い、あつ〜い、大阪の夏が始まります。

大阪の夏といえば、PL花火、河内音頭、だんじり・・・

ほんま元気がでるもんばっかりです。

PL花火は日本一!
全国でいろんな花火大会を見てきた私が断言します。
最近ちょっと不景気の影響でおとなしめですが。
とくに最後のスターマイン。
河内平野が真っ昼間の様に明るくなり、終わった跡は南河内中が煙にまみれる花火の乱れ打ちです。まさに、かつての近鉄バファローズいてまえ打線の乗りです。私はかつてPL教団の隣に住んでいたので首が痛くなる位側で見ていましたが、ほんまサブイボが立ちました。ことしは芸大のスクーリングの最中なので、同期で仲良くなった人がいたら、何かイベントしようかな、と思っています。来るのはいいけど、宿泊施設がないし、道路も電車も混むので偉い目にあいますけど。

あと、河内音頭。
これ、聞くと力がわき上がってくるんです。
絶対に負けへん!どりゃ!かかってきさらせ!という気持ちになってくる。幼い頃から聞いていたリズムで、骨の髄までしみこんで居るんでしょうね。河内音頭は江州音頭からはじまったとされ、そのご正調河内音頭が一般的に歌われて今したがその後、天才『鉄砲光三郎』の登場で様相が一変します。リズミカルでハイテンポな鉄砲節はあっという間に盆踊りの櫓の占領し、いまでは河内音頭といえば鉄砲節です。私が危機なじんでいるのもこの鉄砲節です。

 私が日本全国の地方文化を大切に思うのは、こういう大阪の地元の文化を誇りに思うからです。別にPL花火も河内音頭もだんじりも観光客に知られているわけでもなく、洗練されてもいません。でも、心の奥深くに流れて、そこに生まれ育った物を勇気づけ、懐かしさを覚えさせる。
何も上品で高尚なだけが文化ではありません。こういう民衆の肌にあって、深く愛されているものが文化の本質なのだと私は想います。そして、民衆の気質に深く根ざしているからこそ末永く愛され伝統となるのだと思います。

 大文字や祇園さんもええけど、PL花火や河内音頭もいいですよ。

大阪の夏は今年も元気いっぱいです。   
Posted by 渡辺幻門 at 21:54Comments(1)文化

2009年06月25日

夏や!大阪や!

明日帰りますけど、また、あつ〜い、あつ〜い、大阪の夏が始まります。

大阪の夏といえば、PL花火、河内音頭、だんじり・・・

ほんま元気がでるもんばっかりです。

PL花火は日本一!
全国でいろんな花火大会を見てきた私が断言します。
最近ちょっと不景気の影響でおとなしめですが。
とくに最後のスターマイン。
河内平野が真っ昼間の様に明るくなり、終わった跡は南河内中が煙にまみれる花火の乱れ打ちです。まさに、かつての近鉄バファローズいてまえ打線の乗りです。私はかつてPL教団の隣に住んでいたので首が痛くなる位側で見ていましたが、ほんまサブイボが立ちました。ことしは芸大のスクーリングの最中なので、同期で仲良くなった人がいたら、何かイベントしようかな、と思っています。来るのはいいけど、宿泊施設がないし、道路も電車も混むので偉い目にあいますけど。

あと、河内音頭。
これ、聞くと力がわき上がってくるんです。
絶対に負けへん!どりゃ!かかってきさらせ!という気持ちになってくる。幼い頃から聞いていたリズムで、骨の髄までしみこんで居るんでしょうね。河内音頭は江州音頭からはじまったとされ、そのご正調河内音頭が一般的に歌われて今したがその後、天才『鉄砲光三郎』の登場で様相が一変します。リズミカルでハイテンポな鉄砲節はあっという間に盆踊りの櫓の占領し、いまでは河内音頭といえば鉄砲節です。私が危機なじんでいるのもこの鉄砲節です。

 私が日本全国の地方文化を大切に思うのは、こういう大阪の地元の文化を誇りに思うからです。別にPL花火も河内音頭もだんじりも観光客に知られているわけでもなく、洗練されてもいません。でも、心の奥深くに流れて、そこに生まれ育った物を勇気づけ、懐かしさを覚えさせる。
何も上品で高尚なだけが文化ではありません。こういう民衆の肌にあって、深く愛されているものが文化の本質なのだと私は想います。そして、民衆の気質に深く根ざしているからこそ末永く愛され伝統となるのだと思います。

 大文字や祇園さんもええけど、PL花火や河内音頭もいいですよ。

大阪の夏は今年も元気いっぱいです。   
Posted by 渡辺幻門 at 21:54Comments(1)文化

2009年06月25日

夏や!大阪や!

明日帰りますけど、また、あつ〜い、あつ〜い、大阪の夏が始まります。

大阪の夏といえば、PL花火、河内音頭、だんじり・・・

ほんま元気がでるもんばっかりです。

PL花火は日本一!
全国でいろんな花火大会を見てきた私が断言します。
最近ちょっと不景気の影響でおとなしめですが。
とくに最後のスターマイン。
河内平野が真っ昼間の様に明るくなり、終わった跡は南河内中が煙にまみれる花火の乱れ打ちです。まさに、かつての近鉄バファローズいてまえ打線の乗りです。私はかつてPL教団の隣に住んでいたので首が痛くなる位側で見ていましたが、ほんまサブイボが立ちました。ことしは芸大のスクーリングの最中なので、同期で仲良くなった人がいたら、何かイベントしようかな、と思っています。来るのはいいけど、宿泊施設がないし、道路も電車も混むので偉い目にあいますけど。

あと、河内音頭。
これ、聞くと力がわき上がってくるんです。
絶対に負けへん!どりゃ!かかってきさらせ!という気持ちになってくる。幼い頃から聞いていたリズムで、骨の髄までしみこんで居るんでしょうね。河内音頭は江州音頭からはじまったとされ、そのご正調河内音頭が一般的に歌われて今したがその後、天才『鉄砲光三郎』の登場で様相が一変します。リズミカルでハイテンポな鉄砲節はあっという間に盆踊りの櫓の占領し、いまでは河内音頭といえば鉄砲節です。私が危機なじんでいるのもこの鉄砲節です。

 私が日本全国の地方文化を大切に思うのは、こういう大阪の地元の文化を誇りに思うからです。別にPL花火も河内音頭もだんじりも観光客に知られているわけでもなく、洗練されてもいません。でも、心の奥深くに流れて、そこに生まれ育った物を勇気づけ、懐かしさを覚えさせる。
何も上品で高尚なだけが文化ではありません。こういう民衆の肌にあって、深く愛されているものが文化の本質なのだと私は想います。そして、民衆の気質に深く根ざしているからこそ末永く愛され伝統となるのだと思います。

 大文字や祇園さんもええけど、PL花火や河内音頭もいいですよ。

大阪の夏は今年も元気いっぱいです。   
Posted by 渡辺幻門 at 21:54Comments(1)文化

2009年05月24日

勉強 <とりとめもないはなし>

芸大に入学して、教科書が届き、それから毎日2時間くらい勉強しています。それまで読書はしていましたが、教科書とノート・ペンを持って机にかじりつくのは大学を卒業してから無かったことです。
 そもそも、私は記憶力が弱いんです。先生は『こんなん暗記モンやから』と簡単にいう科目がなかなか覚えられない。とくにカタカナが覚えられない。なのに、世界史を選択してしまったことが、あとで受験勉強の苦労につながってしまうのですが。国語は得意、英語も得意、社会は政治経済は得意、世界史は大の苦手。理科は化学も生物もまぁまぁ。数学は苦手でしたねぇ。これは家系的なもので叔父・オバ、兄弟、従兄弟を全部合わせても理科系の人は一人もいません。だから、理論経済学なんて全然おもしろくも無かったし、『せっかく大学に入ったのに、おもろない勉強すんのイヤや』という気持ちが強かったので、単位にもならないのに商学部のマーケティングのゼミで勉強していた、というような事なのです。マーケティングはおもしろかったですね。
 そういう訳であんまり頭脳明晰ではないので、共通一次の5教科7科目というのは私にとって、あまりにもしんどい事でした。浪人してもあんまり実力が伸びなかったのは、もう頭が限界に達していたのだろうと思います。慶應に滑り込んだときはもうヘロヘロでしたから。
 でも、やっぱり頭の良い人はいるもので、短期間に実力をつけていく友人を目の当たりにして、『あー俺は頭勝負では生きて行かれへんな』と痛感しましたね。そこで、自分の能力の限界を知った事が、とても人生において大切な事だったように思いますね。『俺はさして頭の良い方には入らないけど、あの人らより優れたところもあるし、それで勝負しよ』と思いましたよ。そんな私でもできることといったら、愚直にまじめに人に信頼されるように生きていくこと。それと人の話をよく聞くこと。素直であること。間違っていると思ったらすぐ改めること。これはアホでもできることです。でも、案外賢い人は能力におぼれてできない。それと賢くないのに、賢いと勘違いしている人はたちが悪いですね。アホはアホと自覚して、まじめに生きていく。その自覚を持つことが勉強することの目的の一つじゃないかと思うんです。
 私は縁あって沖縄染織の仕事をしてますけど、頭のええ人だったら、やらない仕事かもしれません。でも、こんな男にでも神様が与えてくれた喜びをもってやれる仕事なんですよね。みんな賢い人の真似して投資やらマネーゲームやらギャンブルやらやってるけど、そんな賢い人はたくさんいません。もっと自分を良く知って、身の丈にあった生き方を心がけるべきじゃないか、私はそう思います。
  
Posted by 渡辺幻門 at 23:06Comments(1)文化