2013年04月26日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第20話
【精好仙台平】 宮城県仙台市
『植物染料による特殊な和染めと生糸を全く撚らずに平のまま染色して織り込む技法は日本でも珍しいものである。経糸は二本引き揃えて一本にして織られる。織上がった後もその引き揃えた二本の糸に撚り箇所がなく、反物の端から端にいたるまで平に揃ったままになっている』
<製造工程>
①原糸の選定
昔は陸奥の絹、金華山を用いたが、今では宮城県産の繭を使い、太めの生糸を使う。
②糸の精練技術
仙台平は生練染色をするが、科学的な精錬剤は一切用いない。わら灰をフルイにとおして灰練にしてこれを使う。この練り加減が難しい。
③染色方法
染めは植物染料をもって行っている。仙台地方では採集できる矢車・附子・漆の葉・五倍子・刈安・藍・ヤマモモ・栗木皮など、多種類の植物を使って、おもに黒と茶系との色に染める。
④製織方法
重要無形文化財の袴地はすべて投ヒの手織で織られる。織り方は二度打ち織法による。織加減は永年の経験にようるもので説明は難しい。
(以上引用)
この精好仙台平、謡曲・仕舞の舞台で着けるのに手に入れようと、メーカーに電話したことがあるんですよ。
震災前でした。
出す所が決まっているとかで、卸してもらえなかったんですが、小売りで買うとかなり高価みたいですね。
でも、たしかに作品の内容は素晴らしいらしく、シワにもならないそうです。
仕舞の時、ひとくさり謡ってから立ち上がるのですが、その時、袴のシワを後ろにいる地謡の人が直してくれるんです。
それが、普通の決まり事の動作の様になっているほど、袴というのはシワになるんですね。
硬いしゴワゴワしているので、シワになるのが当たり前なんですが、シワになっまま舞っても格好つかないですよね。
でも、シャキッとしていないと、いけないだろうし。
ということは布が柔らかでいて腰が強くないといけない。
足で踏んだ讃岐うどんの様でないといけないわけですよね。
どんなにしたら、こんな風合いの織物ができるのか解りませんが、袴を着ける機会のある人ならいつかは欲しいですよね。
私みたいに太っていると、着物の裾がだんだん広がってくるので、袴を着けたいと思うことも多いのですが、行灯や馬上だと、何事か!?という感じになりますよね。
何かの本で読んだ事があるのですが、昔の町人は町人であることの誇りとして袴を着けず、前掛けを正装とした人もいたんだとか。
野袴など気楽に着けられるモノもいいと思うのですが、袴の中には長着が入っているわけで、素材と仕立て方を間違えると、モッチャリしちゃいますよね。
仕立て方は色々アイデアがあるのですが、素材的にどんなものが良いのか、まだ良くつかめていません。
既存の袴地となると、決まった感じになるでしょうし。
冬になると足下が寒いし、裾の乱れも気になるので、早く何とかしたい課題のひとつです。
『植物染料による特殊な和染めと生糸を全く撚らずに平のまま染色して織り込む技法は日本でも珍しいものである。経糸は二本引き揃えて一本にして織られる。織上がった後もその引き揃えた二本の糸に撚り箇所がなく、反物の端から端にいたるまで平に揃ったままになっている』
<製造工程>
①原糸の選定
昔は陸奥の絹、金華山を用いたが、今では宮城県産の繭を使い、太めの生糸を使う。
②糸の精練技術
仙台平は生練染色をするが、科学的な精錬剤は一切用いない。わら灰をフルイにとおして灰練にしてこれを使う。この練り加減が難しい。
③染色方法
染めは植物染料をもって行っている。仙台地方では採集できる矢車・附子・漆の葉・五倍子・刈安・藍・ヤマモモ・栗木皮など、多種類の植物を使って、おもに黒と茶系との色に染める。
④製織方法
重要無形文化財の袴地はすべて投ヒの手織で織られる。織り方は二度打ち織法による。織加減は永年の経験にようるもので説明は難しい。
(以上引用)
この精好仙台平、謡曲・仕舞の舞台で着けるのに手に入れようと、メーカーに電話したことがあるんですよ。
震災前でした。
出す所が決まっているとかで、卸してもらえなかったんですが、小売りで買うとかなり高価みたいですね。
でも、たしかに作品の内容は素晴らしいらしく、シワにもならないそうです。
仕舞の時、ひとくさり謡ってから立ち上がるのですが、その時、袴のシワを後ろにいる地謡の人が直してくれるんです。
それが、普通の決まり事の動作の様になっているほど、袴というのはシワになるんですね。
硬いしゴワゴワしているので、シワになるのが当たり前なんですが、シワになっまま舞っても格好つかないですよね。
でも、シャキッとしていないと、いけないだろうし。
ということは布が柔らかでいて腰が強くないといけない。
足で踏んだ讃岐うどんの様でないといけないわけですよね。
どんなにしたら、こんな風合いの織物ができるのか解りませんが、袴を着ける機会のある人ならいつかは欲しいですよね。
私みたいに太っていると、着物の裾がだんだん広がってくるので、袴を着けたいと思うことも多いのですが、行灯や馬上だと、何事か!?という感じになりますよね。
何かの本で読んだ事があるのですが、昔の町人は町人であることの誇りとして袴を着けず、前掛けを正装とした人もいたんだとか。
野袴など気楽に着けられるモノもいいと思うのですが、袴の中には長着が入っているわけで、素材と仕立て方を間違えると、モッチャリしちゃいますよね。
仕立て方は色々アイデアがあるのですが、素材的にどんなものが良いのか、まだ良くつかめていません。
既存の袴地となると、決まった感じになるでしょうし。
冬になると足下が寒いし、裾の乱れも気になるので、早く何とかしたい課題のひとつです。
2013年04月16日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第19話
【冷染】 (宮城県栗駒町)
・千葉あやのさんというおばあさんがやっていた。
・初夏の5月頃から気温の上昇によって藍が自然に発酵する時期だけ染め、しかも桶(こが)に建てるという、いままで見聞しなかった原始的な自然染色法。
・いつごろからはじめられたのかは不明。奈良時代か?平泉文化の民間伝承か?
・明治時代はこの地で盛んに行われていた。
あと、長々と工程が書かれていますが省略します。本買ってください。
これって後染なんですね。
苧麻を自分で栽培して、糸をうみ、織った麻布を藍に漬けて染めるんです。
伸子20本を1反に張って、30分ほど染める工程を3回。
えらい簡単ですね。
でも、沖縄の上山さんも、藍の一番状態の良い秋に3反染めるのがやっとだと言ってました。
千葉あやのさんも年間3反しか染めなかったそうで、やっぱりそれが限界なんですね。
でも、こういうのって、限定版でやってみても面白いと想いますね。
先染には先染の、後染には後染の味わいがあるから、宮古島や石垣島でも、生地を織って藍の状態の良い時期に後染めの無地なんてつくってもいいと想います。
伝統は大事ですが、伝統のものしか作ってはいけないというのは、いかがなものか、と私は思いますね。
もちろん、伝統を守っているプライドは解りますが、工夫を加えて新たな伝統を作り出していくことも必要なんじゃないでしょうか。
そもそも、今ある形が昔からあったものの全てでは無いわけですし。
昔のやり方で昔ながらのモノをというけど、私達商人は飛行機や新幹線に乗って遠くまで行くのだし、時代に合わせていろんなものにチャレンジすることを白眼視するのは、間違っていると想いますけどね。
新しい事を持ち込むと、伝統の技が崩れるというけど、そうでしょうか?
伝統の技を下地にしたような良い物でないと、挑戦する意味はないと想いますし、仕事が増えれば技はどんどん上がっていくんじゃないのでしょうか?
ただ、やっぱり何が特徴で、何が良くてお客様がお求めになるのかをよく知っていることは必要でしょうね。
でないと、ただのコストカットや安物作りに終わってしまいます。
他産地のコピーなんて言うのも、全く面白く無いですね。
もうこの冷染というのは無くなってしまったんでしょうが、誰かが復元しても良いような気がします。
・千葉あやのさんというおばあさんがやっていた。
・初夏の5月頃から気温の上昇によって藍が自然に発酵する時期だけ染め、しかも桶(こが)に建てるという、いままで見聞しなかった原始的な自然染色法。
・いつごろからはじめられたのかは不明。奈良時代か?平泉文化の民間伝承か?
・明治時代はこの地で盛んに行われていた。
あと、長々と工程が書かれていますが省略します。本買ってください。
これって後染なんですね。
苧麻を自分で栽培して、糸をうみ、織った麻布を藍に漬けて染めるんです。
伸子20本を1反に張って、30分ほど染める工程を3回。
えらい簡単ですね。
でも、沖縄の上山さんも、藍の一番状態の良い秋に3反染めるのがやっとだと言ってました。
千葉あやのさんも年間3反しか染めなかったそうで、やっぱりそれが限界なんですね。
でも、こういうのって、限定版でやってみても面白いと想いますね。
先染には先染の、後染には後染の味わいがあるから、宮古島や石垣島でも、生地を織って藍の状態の良い時期に後染めの無地なんてつくってもいいと想います。
伝統は大事ですが、伝統のものしか作ってはいけないというのは、いかがなものか、と私は思いますね。
もちろん、伝統を守っているプライドは解りますが、工夫を加えて新たな伝統を作り出していくことも必要なんじゃないでしょうか。
そもそも、今ある形が昔からあったものの全てでは無いわけですし。
昔のやり方で昔ながらのモノをというけど、私達商人は飛行機や新幹線に乗って遠くまで行くのだし、時代に合わせていろんなものにチャレンジすることを白眼視するのは、間違っていると想いますけどね。
新しい事を持ち込むと、伝統の技が崩れるというけど、そうでしょうか?
伝統の技を下地にしたような良い物でないと、挑戦する意味はないと想いますし、仕事が増えれば技はどんどん上がっていくんじゃないのでしょうか?
ただ、やっぱり何が特徴で、何が良くてお客様がお求めになるのかをよく知っていることは必要でしょうね。
でないと、ただのコストカットや安物作りに終わってしまいます。
他産地のコピーなんて言うのも、全く面白く無いですね。
もうこの冷染というのは無くなってしまったんでしょうが、誰かが復元しても良いような気がします。
2013年04月16日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第18話
【南部古代型染】 (岩手県盛岡市)
すみません。
ながいことサボってました。
これは蛭子屋というところが作っていたそうです。
命名されたのはそんなに昔ではないそうですが、型染の歴史自体は鎌倉時代からあるのだと書かれています。
南部古代染は草木染を主とした引き染めで、ことに正藍の引き染めは落ち着いた藍の美しさを引き出している。
昔、漬け染め以外の藍染めの話をしたら、藍は酸化還元によって発色するのだから、そんなのあり得ないと言った人がいましたが、
やっぱり引き染めもできるのは出来るのですね。
藍の場合は常温で染められるのですから、たっぷりと浸すように引き重ねれば可能だと想います。
多くの草木染は染液の温度を上げないといけないので、引き染めが難しいのじゃないでしょうか。
今はどうなっているのかと、調べてみると・・・
http://iwate.info.co.jp/ono/
やっているみたいですけど、藍も漬け染めみたいですね。
歴史的には南部家のお抱え染め師だったわけですから、これって民芸とは言えないですよね。
すみません。
ながいことサボってました。
これは蛭子屋というところが作っていたそうです。
命名されたのはそんなに昔ではないそうですが、型染の歴史自体は鎌倉時代からあるのだと書かれています。
南部古代染は草木染を主とした引き染めで、ことに正藍の引き染めは落ち着いた藍の美しさを引き出している。
昔、漬け染め以外の藍染めの話をしたら、藍は酸化還元によって発色するのだから、そんなのあり得ないと言った人がいましたが、
やっぱり引き染めもできるのは出来るのですね。
藍の場合は常温で染められるのですから、たっぷりと浸すように引き重ねれば可能だと想います。
多くの草木染は染液の温度を上げないといけないので、引き染めが難しいのじゃないでしょうか。
今はどうなっているのかと、調べてみると・・・
http://iwate.info.co.jp/ono/
やっているみたいですけど、藍も漬け染めみたいですね。
歴史的には南部家のお抱え染め師だったわけですから、これって民芸とは言えないですよね。
2013年03月30日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第17話
【ホームスパン】
これは毛織物です。
○主に岩手県で生産されている
○良い物になったのは昭和9年以降
①原糸は、現在外国からの輸入原毛の他、小岩井農場製も使っている
②洗剤で羊毛をよく洗う
③羊毛のまま植物染料で染色する
④つむぎ車を分で糸をつくる
⑤手機で織る
という感じですが、んーという感じですね。
というのは、毛織物の品質に大きく影響する加工工程に関する記述が全くないからです。
ツィード系という事なので、そんなに複雑な加工はないと想うのですが、羊毛を毛の状態で染めて糸にして織る。
というだけじゃ、何がどう良いのか解らないですよね。
毛織物には染色のタイミングで三種類に分かれます。
このホームスパンのように毛の状態で染めるのをトップ・ダイド。
糸の状態で染めるのをヤーン・ダイド。
白生地の状態で染めるのをピース・ダイド。
といいます。
トップつまり毛の状態で染めると、マーブル上のかすれ感のある織物ができることになります。
ここでは植物染料を使う、となっていますが、植物染料を使うと縮絨がしにくくなります。
というのは縮絨には石けんを使うので、染料が溶解して流れ出してしまうからです。
私は自分のジャケットでハリス・ツィードというのを持っていますが、確かに風合いはガサガサです。
独特の味わい深い織物ですが、ミルド物ではないですね。
ということは、洗って、幅だし、乾燥して、蒸す。
そのくらいの簡単な加工工程だと想います。
それにしても、トップで染めて、カードにかけて服地一反分の糸を紡ぐのは大変だと想います。
糸は撚らなければなりませんし、洋服地となると幅も広く引き通しも大変です。
織るのは簡単ですけどね。
私が勤めていた当時の鐘紡でも、まだ見本は手織りでした。
マス見本という先染(ヤーン・ダイド)の見本は二人がかりでヒを投げあって織っていたと記憶しています。
当時、もうほとんど紡毛織物は無かったのですが、たまに受注すると加工工程も短いし、戻しになりにくいので楽だったように想います。
毛織物には梳毛と紡毛というのがあって、普通のビジネススーツに使われるような感じのを梳毛織物、オーバーやツィードのジャケットのような感じのを紡毛織物と言います。
羊のどの部分の毛なのかによって違うのですが、それは自分で調べてくださいね。
また、縮絨をするかどうかによっても分かれます。
縮絨をしないものをクリア物、するものをミルド物といいます。
ミルド物の代表的なのがフラノ、サキソニー。
クリア物は、サージ、ギャバ、トロピカル、等々です。
組織や糸使いによっておもしろい名付けがされています。
絹、麻、芭蕉もおもしろいですが、羊毛もおもしろいんですよ。
これは毛織物です。
○主に岩手県で生産されている
○良い物になったのは昭和9年以降
①原糸は、現在外国からの輸入原毛の他、小岩井農場製も使っている
②洗剤で羊毛をよく洗う
③羊毛のまま植物染料で染色する
④つむぎ車を分で糸をつくる
⑤手機で織る
という感じですが、んーという感じですね。
というのは、毛織物の品質に大きく影響する加工工程に関する記述が全くないからです。
ツィード系という事なので、そんなに複雑な加工はないと想うのですが、羊毛を毛の状態で染めて糸にして織る。
というだけじゃ、何がどう良いのか解らないですよね。
毛織物には染色のタイミングで三種類に分かれます。
このホームスパンのように毛の状態で染めるのをトップ・ダイド。
糸の状態で染めるのをヤーン・ダイド。
白生地の状態で染めるのをピース・ダイド。
といいます。
トップつまり毛の状態で染めると、マーブル上のかすれ感のある織物ができることになります。
ここでは植物染料を使う、となっていますが、植物染料を使うと縮絨がしにくくなります。
というのは縮絨には石けんを使うので、染料が溶解して流れ出してしまうからです。
私は自分のジャケットでハリス・ツィードというのを持っていますが、確かに風合いはガサガサです。
独特の味わい深い織物ですが、ミルド物ではないですね。
ということは、洗って、幅だし、乾燥して、蒸す。
そのくらいの簡単な加工工程だと想います。
それにしても、トップで染めて、カードにかけて服地一反分の糸を紡ぐのは大変だと想います。
糸は撚らなければなりませんし、洋服地となると幅も広く引き通しも大変です。
織るのは簡単ですけどね。
私が勤めていた当時の鐘紡でも、まだ見本は手織りでした。
マス見本という先染(ヤーン・ダイド)の見本は二人がかりでヒを投げあって織っていたと記憶しています。
当時、もうほとんど紡毛織物は無かったのですが、たまに受注すると加工工程も短いし、戻しになりにくいので楽だったように想います。
毛織物には梳毛と紡毛というのがあって、普通のビジネススーツに使われるような感じのを梳毛織物、オーバーやツィードのジャケットのような感じのを紡毛織物と言います。
羊のどの部分の毛なのかによって違うのですが、それは自分で調べてくださいね。
また、縮絨をするかどうかによっても分かれます。
縮絨をしないものをクリア物、するものをミルド物といいます。
ミルド物の代表的なのがフラノ、サキソニー。
クリア物は、サージ、ギャバ、トロピカル、等々です。
組織や糸使いによっておもしろい名付けがされています。
絹、麻、芭蕉もおもしろいですが、羊毛もおもしろいんですよ。
2013年03月09日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第16話
しばらくサボっていましたが、また書きますね。
【南部紫根染】(南部紬:岩手県岩泉町、盛岡市)
○紫根染には後染と先染がある。
○後染は盛岡市紺屋町の藤田謙さんが、綿または絹に絞り加工をして紫根染めを行い、現代風の感覚。
○岩泉町の八重樫フジ・フキさんは手つむぎの絹糸を紫根に染めて手機(高機)で織っている。
○県の無形文化財には八重樫さんたちが指定されている。
○現在、南部紫根染の由来を語る文献はない。八重樫家に保存されている縞帳から推察すると、この縞帳は1825〜7年の間に当家2代目の八重樫ツチ女が、自分でも製織しながら収集したもので、これより以前から伝えられたものであるのは確かである。
○この地は元々養蚕が盛んで、地元で使うのはもとより、八王子や横浜に絹糸を出荷していた。
○下染は灰汁→灰汁→灰汁→ご汁の染め作業が前後4回繰り返される。
○その後1年間寝かされ、十分に枯らされてから、本染めとなる。
○本染めはむらさき科の多年生草木「むらさき」の根を染料とする。
○本染めの順序
1.根を石臼に入れて杵でつく。
2.麻袋に入れてその上から熱湯をかけ、紫の液を出し、これをたらいに受ける。
また麻袋の紫根を石臼に返してふたたびひく。
同じ事を2〜3回続けて根から染液をとる。
3.すでに灰染めしていある絹糸を、2カ所麻糸で結んでこれを第1回の熱い紫染液につける。
4.絹糸をひたしたまま蓋をし、染液がぬるま湯になるまで置く。
5.焼く30分後、絹糸をたらいから取り出し、染木から下げたカギに麻糸の部分をかけてつるし、染液をしたたり落として水を切る。
6.これを5回繰り返して終わる。
7.染め終えた糸は家の中に内干しにする。
○盛岡市内の後染は種々異なる点があると想われるが、残念ながらその技法は藤田家の秘伝とされている。
○古代染料の一種としての紫は、おそらくはこの地方で古来からごく手近なものとして、用いられて来たようである。江戸時代には、遠く京都からも需要がある程だったが、そのため南部藩では、他領持ち出し禁止の措置をとったこともある。
(以上引用)
いまは絞りの後染を見る方が多いのですかね。
ご他聞にもれず、織物、つまり先染というのは織るまでの工程が恐ろしいほど長い。
よくお客様に『もうこんなの織る人少ないんでしょう』と言われますが、織る人は沢山いるんですね。
その前の、糸作りやら、染料作りやらが、大変で、織り始めたら織り手さんはもう次の作品の事を考えながら織っていると言います。
紫根染ですから、もちろん天然染料なのでしょうが、今はおそらく100%というわけじゃないでしょうね。
藍でも、100%天然の発酵建ての藍で染めている人はごく一部だと聞きます。
藍の話をするととてつもなく長くなるので、また別の機会にしますが、今の時代、天然染料100%というのはきわめて難しいしリスクが大きいと想います。
お客様方は天然染料100%をお望みになる方が多くいらっしゃると想いますが、そうであるならば、それにともなうお客様の手間とリスクをも理解していただかなくてはなりません。
天然のモノだから、と大らかにいろんな出来事を許してくださる方はまだまだ極極少数だろうと想います。
100%でないと要らないと言われるし、100%にするとクレームになるし・・・と言うことで、作り手も商人も戸惑っているわけですね。
私の場合は、リスクをおかしてまで、天然染料100%を作り手に課さない事にしています。
今の時点では、化学と天然の併用が最善の選択だろうと想いますね。
琉球藍など100%のモノで、堅牢度などに問題がある場合は、私が抱え込んで、私が直に説明して買って頂いています。
他の販売員に託すことをしない、ということです。
ありのままを申し上げ、十分な情報を聞いて頂いた上で買って頂くようにしています。
それは、他の人には任せられないことなんです。
場合によっては『お客様を選ばせていただく』事もあります。
生意気な様ですが、天然染料100%というのは色が素晴らしい事と引き替えに、もろい部分もあり、それを受け入れて頂くには、キモノや染織、そしてメンテナンス・保管に十分な知識をお持ち頂いている事が必要な場合があるんです。
逆に言えば、そこまでしてお客様にお勧めする作品というのは、超弩級のモノということが言えます。
超弩級のモノを知っているから、要らぬまやかしは必要ないとも言えるわけですね。
画像をググってみると、一杯出てきますがやっぱり絞りですねぇ。
先染の現物が見てみたいなぁ。
でも、草木染めなのに先染が消えて、後染めが残っているなんて、なんか不思議ですね。
【南部紫根染】(南部紬:岩手県岩泉町、盛岡市)
○紫根染には後染と先染がある。
○後染は盛岡市紺屋町の藤田謙さんが、綿または絹に絞り加工をして紫根染めを行い、現代風の感覚。
○岩泉町の八重樫フジ・フキさんは手つむぎの絹糸を紫根に染めて手機(高機)で織っている。
○県の無形文化財には八重樫さんたちが指定されている。
○現在、南部紫根染の由来を語る文献はない。八重樫家に保存されている縞帳から推察すると、この縞帳は1825〜7年の間に当家2代目の八重樫ツチ女が、自分でも製織しながら収集したもので、これより以前から伝えられたものであるのは確かである。
○この地は元々養蚕が盛んで、地元で使うのはもとより、八王子や横浜に絹糸を出荷していた。
○下染は灰汁→灰汁→灰汁→ご汁の染め作業が前後4回繰り返される。
○その後1年間寝かされ、十分に枯らされてから、本染めとなる。
○本染めはむらさき科の多年生草木「むらさき」の根を染料とする。
○本染めの順序
1.根を石臼に入れて杵でつく。
2.麻袋に入れてその上から熱湯をかけ、紫の液を出し、これをたらいに受ける。
また麻袋の紫根を石臼に返してふたたびひく。
同じ事を2〜3回続けて根から染液をとる。
3.すでに灰染めしていある絹糸を、2カ所麻糸で結んでこれを第1回の熱い紫染液につける。
4.絹糸をひたしたまま蓋をし、染液がぬるま湯になるまで置く。
5.焼く30分後、絹糸をたらいから取り出し、染木から下げたカギに麻糸の部分をかけてつるし、染液をしたたり落として水を切る。
6.これを5回繰り返して終わる。
7.染め終えた糸は家の中に内干しにする。
○盛岡市内の後染は種々異なる点があると想われるが、残念ながらその技法は藤田家の秘伝とされている。
○古代染料の一種としての紫は、おそらくはこの地方で古来からごく手近なものとして、用いられて来たようである。江戸時代には、遠く京都からも需要がある程だったが、そのため南部藩では、他領持ち出し禁止の措置をとったこともある。
(以上引用)
いまは絞りの後染を見る方が多いのですかね。
ご他聞にもれず、織物、つまり先染というのは織るまでの工程が恐ろしいほど長い。
よくお客様に『もうこんなの織る人少ないんでしょう』と言われますが、織る人は沢山いるんですね。
その前の、糸作りやら、染料作りやらが、大変で、織り始めたら織り手さんはもう次の作品の事を考えながら織っていると言います。
紫根染ですから、もちろん天然染料なのでしょうが、今はおそらく100%というわけじゃないでしょうね。
藍でも、100%天然の発酵建ての藍で染めている人はごく一部だと聞きます。
藍の話をするととてつもなく長くなるので、また別の機会にしますが、今の時代、天然染料100%というのはきわめて難しいしリスクが大きいと想います。
お客様方は天然染料100%をお望みになる方が多くいらっしゃると想いますが、そうであるならば、それにともなうお客様の手間とリスクをも理解していただかなくてはなりません。
天然のモノだから、と大らかにいろんな出来事を許してくださる方はまだまだ極極少数だろうと想います。
100%でないと要らないと言われるし、100%にするとクレームになるし・・・と言うことで、作り手も商人も戸惑っているわけですね。
私の場合は、リスクをおかしてまで、天然染料100%を作り手に課さない事にしています。
今の時点では、化学と天然の併用が最善の選択だろうと想いますね。
琉球藍など100%のモノで、堅牢度などに問題がある場合は、私が抱え込んで、私が直に説明して買って頂いています。
他の販売員に託すことをしない、ということです。
ありのままを申し上げ、十分な情報を聞いて頂いた上で買って頂くようにしています。
それは、他の人には任せられないことなんです。
場合によっては『お客様を選ばせていただく』事もあります。
生意気な様ですが、天然染料100%というのは色が素晴らしい事と引き替えに、もろい部分もあり、それを受け入れて頂くには、キモノや染織、そしてメンテナンス・保管に十分な知識をお持ち頂いている事が必要な場合があるんです。
逆に言えば、そこまでしてお客様にお勧めする作品というのは、超弩級のモノということが言えます。
超弩級のモノを知っているから、要らぬまやかしは必要ないとも言えるわけですね。
画像をググってみると、一杯出てきますがやっぱり絞りですねぇ。
先染の現物が見てみたいなぁ。
でも、草木染めなのに先染が消えて、後染めが残っているなんて、なんか不思議ですね。
2013年02月27日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第15話
【弘前手織】
もうほとんど無いらしいですが、最後は機械織だったんだそうです。
手織と名前のついた機械織なんて、カニかまぼこみたいですね(^o^)
起源:津軽藩が南部から独立して弘前に白を築いた頃(1610年)より古く、戦乱を逃れた京都の公卿たちが当時の南部津軽群竹函村に来たり、土地の婦人たちに織物を教えたのが始まりと言われる。
ついで、藩の中興・四代信政が殖産興業に努め、山城国から野本道玄を招いて、茶・工芸・織物に力を入れ、そののちも多くの職人を京都から呼んだ。
最初は麻織物で、養蚕は信政のころからはじまった。
武士(下級)も町人も織っていた。
ここでは士族の生業として発展した点が珍しい。
製品は縞物が主で絣は相当あとになって取り入れられた。そのために伊予に人を送って技術を習得させたりした。
弘前手織が退潮したのは、洋服が普及したのと、リンゴ産業がさかんとなって、人手がそれに移ったためと言われている。
・・・・という感じです。
昔はみんなおおらかだったんですねぇ。
流通も限られていたし、たくさんできなかったから、みんな教え合ってたんですよ。
ところがたくさんできるようになって、全国津津浦々まで行き届くようになると、他産地は敵となってしまうんですね。
沖縄なんて、同じ沖縄県内で、技術やデザインの流出を警戒して牽制しあってる。
前に載せた雑誌『青い海』で外村吉之助氏が米琉もOK!と言っていたのは、この時代の事なんですね。
今じゃ、国内どころか、技術もデザインも、海外で簡単にコピーされてしまいます。
前に、芭蕉布そっくりの麻織物を中華人民共和国で作った業者がいると、紹介しましたよね。
あんな事は氷山の一角だと想います。
商品の供給体制が整い、というか肥大化し、流通がブロードバンド級になれば、どこからどんなシロモノがでてくるか解らないのです。
きちんとした物を作る努力をする人は少ないのに、まがい物やニセ物をつくる努力は惜しまないという人はいつの時代でもいるわけです。
今、染め物はすっかりインクジェットプリントに席巻されていますが、その先端を行っている地域では、技術を隠して教えないのだそうです。
それも、この弘前手織と同じように、『昔の名前ででています』なんだそうです。
なんか日本人は人間がちっちゃくなってしまったんですかねぇ。
インクジェットなんて、世界中でやっているんだから、そのうち外国企業がもっと安価で受注するようになるかもしれないですよ。
データをネット経由で送ったら、フランスから反物が送られて来る、なんて時代になるのかもしれません。
伝統工芸から離れるのなら、それでも良いと想いますが、お互い技術情報を交換して、日本として良い物に仕上げないと、いくらでも海外に持って行ける時代です。
居内さんがやっている仕事なんて、1反から発注できるですから、私だって『はい、これプリントしといて』で小紋の1反くらいすぐにできるわけです。
別に国内に限ったわけでなくて、ラテン系の色が良いなと想ったらイタリアに注文するかもしれないし、安いのが良いのならミャンマーとかでもできるようになるかもしれない。
それがグローバリゼーションというものでしょう。
私なんかは伝統の世界に居るわけですから、それとは全く逆方向のドメスティックで内向きなベクトルで動いていくわけです。
でも、これだけネットで作品の画像がさらされて、織物教本もたくさんある時代、まねするなんて簡単ですよね。
だから、『まねできない何か』を持っていないと行けないし、持っていないとか認識していないといすれば、具合悪いです。
花織だ、花倉織だ、といっても、もうすでに全国で織られているし、紅型も全国あちこちに教室がありますよ。
たぶんね、この弘前手織も代替品に潰されたんですよ。
同じような物なら、消費地に近い方が有利です。
津軽地方に圧倒的な優位性をもっていたから、弘前手織も存在価値があった。
ところが、都会には売れない、津軽にはよそからもっと安い似たような物が入ってくる。
そうなると工賃は下げられる、収入は減る・・・リンゴ作ってるほうがいいわ!となったんでしょうね。
被服全体でみと、紡績が拡大し、自動織機で綿織物は爆発的な生産拡大をしたはずです。
そして、羊毛、絹も交えて、カラフルな洋装へと消費は流れた。
『戦後の弘前手織は農家のモンペ程度に使われるようになった』という話は象徴的でしょう。
着物だからダメだったのではなくて、織物として需要に対応できなかったのです。
機械生産にしたのに、用途やデザインにまで工夫がいかなかったんです。
この場合、伝統というものが二の足を踏ませたのかもしれません。
でも、こういった伝統染織が全国にあったからこそ、日本がガチャマン時代を迎えて、繊維産業が栄えたんですね。
変動為替になったり、日米繊維交渉で、日本の繊維産業は斜陽産業といわれて、かつての輝きを失いました。
私は大学を卒業してからずっとこの繊維業界に身を置いていますので、悔しい思いでいっぱいです。
何故、日本の繊維産業があれだけ輸出で栄えたと想いますか?
もちろん為替、品質の事もありますが、一番は『検査』です。
日本人はまじめで、ごまかさず、その上、目が良いのです。
同じ反物を仕入れても、日本のは歩留まりが良い、つまり無駄が少ないのです。
着物用の小幅反物、3丈2尺とすれば、この中にただの一つも傷があってはならないのです。
毛織物だと50メートルでエス(瑕疵)3個までです。
織り傷、織りムラ、染めムラ、色抜け、ツヤムラ、織り段などなど、数あるエスが50メートルの中にたった3つです。
実は、着尺、とくに紬類の検品は一般的に言って毛織物業界より甘いです。
うちは検査が厳しい事で知られていますが、これは毛織物の基準で検査しているからです。
手織であろうが、なんであろうが容赦しません。
たぐって、すかして、何度も何度も見ます。
よその問屋の反物をたまに見ると、びっくりするようなのがあります。
うちでは絶対に通らないものがたくさんあるんです。
作り手さんからも『こんなん文句いうのもずやさんだけですよ』と言われますが、全く動じませんね。
私はお客様の為に厳しく検品をしてるんですから。
話はそれましたが、殖産興業的に産地ごと勢いに乗って、という時代は終わりましたね。
作家個人、工房主、機屋の経営者レベルで創意工夫をこらさないと、仕事は続けていけないだろうと想います。
成熟したマーケットには、それなりの対応が必要だという事ですね。
もうほとんど無いらしいですが、最後は機械織だったんだそうです。
手織と名前のついた機械織なんて、カニかまぼこみたいですね(^o^)
起源:津軽藩が南部から独立して弘前に白を築いた頃(1610年)より古く、戦乱を逃れた京都の公卿たちが当時の南部津軽群竹函村に来たり、土地の婦人たちに織物を教えたのが始まりと言われる。
ついで、藩の中興・四代信政が殖産興業に努め、山城国から野本道玄を招いて、茶・工芸・織物に力を入れ、そののちも多くの職人を京都から呼んだ。
最初は麻織物で、養蚕は信政のころからはじまった。
武士(下級)も町人も織っていた。
ここでは士族の生業として発展した点が珍しい。
製品は縞物が主で絣は相当あとになって取り入れられた。そのために伊予に人を送って技術を習得させたりした。
弘前手織が退潮したのは、洋服が普及したのと、リンゴ産業がさかんとなって、人手がそれに移ったためと言われている。
・・・・という感じです。
昔はみんなおおらかだったんですねぇ。
流通も限られていたし、たくさんできなかったから、みんな教え合ってたんですよ。
ところがたくさんできるようになって、全国津津浦々まで行き届くようになると、他産地は敵となってしまうんですね。
沖縄なんて、同じ沖縄県内で、技術やデザインの流出を警戒して牽制しあってる。
前に載せた雑誌『青い海』で外村吉之助氏が米琉もOK!と言っていたのは、この時代の事なんですね。
今じゃ、国内どころか、技術もデザインも、海外で簡単にコピーされてしまいます。
前に、芭蕉布そっくりの麻織物を中華人民共和国で作った業者がいると、紹介しましたよね。
あんな事は氷山の一角だと想います。
商品の供給体制が整い、というか肥大化し、流通がブロードバンド級になれば、どこからどんなシロモノがでてくるか解らないのです。
きちんとした物を作る努力をする人は少ないのに、まがい物やニセ物をつくる努力は惜しまないという人はいつの時代でもいるわけです。
今、染め物はすっかりインクジェットプリントに席巻されていますが、その先端を行っている地域では、技術を隠して教えないのだそうです。
それも、この弘前手織と同じように、『昔の名前ででています』なんだそうです。
なんか日本人は人間がちっちゃくなってしまったんですかねぇ。
インクジェットなんて、世界中でやっているんだから、そのうち外国企業がもっと安価で受注するようになるかもしれないですよ。
データをネット経由で送ったら、フランスから反物が送られて来る、なんて時代になるのかもしれません。
伝統工芸から離れるのなら、それでも良いと想いますが、お互い技術情報を交換して、日本として良い物に仕上げないと、いくらでも海外に持って行ける時代です。
居内さんがやっている仕事なんて、1反から発注できるですから、私だって『はい、これプリントしといて』で小紋の1反くらいすぐにできるわけです。
別に国内に限ったわけでなくて、ラテン系の色が良いなと想ったらイタリアに注文するかもしれないし、安いのが良いのならミャンマーとかでもできるようになるかもしれない。
それがグローバリゼーションというものでしょう。
私なんかは伝統の世界に居るわけですから、それとは全く逆方向のドメスティックで内向きなベクトルで動いていくわけです。
でも、これだけネットで作品の画像がさらされて、織物教本もたくさんある時代、まねするなんて簡単ですよね。
だから、『まねできない何か』を持っていないと行けないし、持っていないとか認識していないといすれば、具合悪いです。
花織だ、花倉織だ、といっても、もうすでに全国で織られているし、紅型も全国あちこちに教室がありますよ。
たぶんね、この弘前手織も代替品に潰されたんですよ。
同じような物なら、消費地に近い方が有利です。
津軽地方に圧倒的な優位性をもっていたから、弘前手織も存在価値があった。
ところが、都会には売れない、津軽にはよそからもっと安い似たような物が入ってくる。
そうなると工賃は下げられる、収入は減る・・・リンゴ作ってるほうがいいわ!となったんでしょうね。
被服全体でみと、紡績が拡大し、自動織機で綿織物は爆発的な生産拡大をしたはずです。
そして、羊毛、絹も交えて、カラフルな洋装へと消費は流れた。
『戦後の弘前手織は農家のモンペ程度に使われるようになった』という話は象徴的でしょう。
着物だからダメだったのではなくて、織物として需要に対応できなかったのです。
機械生産にしたのに、用途やデザインにまで工夫がいかなかったんです。
この場合、伝統というものが二の足を踏ませたのかもしれません。
でも、こういった伝統染織が全国にあったからこそ、日本がガチャマン時代を迎えて、繊維産業が栄えたんですね。
変動為替になったり、日米繊維交渉で、日本の繊維産業は斜陽産業といわれて、かつての輝きを失いました。
私は大学を卒業してからずっとこの繊維業界に身を置いていますので、悔しい思いでいっぱいです。
何故、日本の繊維産業があれだけ輸出で栄えたと想いますか?
もちろん為替、品質の事もありますが、一番は『検査』です。
日本人はまじめで、ごまかさず、その上、目が良いのです。
同じ反物を仕入れても、日本のは歩留まりが良い、つまり無駄が少ないのです。
着物用の小幅反物、3丈2尺とすれば、この中にただの一つも傷があってはならないのです。
毛織物だと50メートルでエス(瑕疵)3個までです。
織り傷、織りムラ、染めムラ、色抜け、ツヤムラ、織り段などなど、数あるエスが50メートルの中にたった3つです。
実は、着尺、とくに紬類の検品は一般的に言って毛織物業界より甘いです。
うちは検査が厳しい事で知られていますが、これは毛織物の基準で検査しているからです。
手織であろうが、なんであろうが容赦しません。
たぐって、すかして、何度も何度も見ます。
よその問屋の反物をたまに見ると、びっくりするようなのがあります。
うちでは絶対に通らないものがたくさんあるんです。
作り手さんからも『こんなん文句いうのもずやさんだけですよ』と言われますが、全く動じませんね。
私はお客様の為に厳しく検品をしてるんですから。
話はそれましたが、殖産興業的に産地ごと勢いに乗って、という時代は終わりましたね。
作家個人、工房主、機屋の経営者レベルで創意工夫をこらさないと、仕事は続けていけないだろうと想います。
成熟したマーケットには、それなりの対応が必要だという事ですね。
2013年02月26日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第14話
【津軽刺しこぎん】
〜特産品となった農民の生活の知恵〜
○津軽地方に発生した農民の労働着
○藍染した麻布に白い紡績糸で様々な幾何文様をたんねんに刺したもの
○起源は幕末の頃と推定される
『藩政時代の農民は藩のさだめによって木綿物の常用をぜいたく品として制限されていたので、麻布が四季を通じての衣服になっていた。そこで少量の木綿糸を入手した当時の農民はこれを織るのではなく、、紺の麻布に白い綿糸を刺し添えて、肌触りの冷たい麻布にあたたかさを加え、しかも、これに模様を刺し込む事を考案した。こうして、一本の白い糸は深雪の中に生きる津軽地方の農村に新しい用と美を提供したのであった』
実用品としてのこぎんは、綿糸の普及と共に必然的に消滅していきますが、その後は民芸的価値を見いだされて特産品として生産されているということです。
私は刺し子が好きで、津軽は持っていませんが、飛騨刺し子の作務衣を愛用しています。
伝統織物というのは、沖縄の様に貢納布だったり、越後のように問屋制家内工業で作られたものであったりしますが、津軽こぎん刺しは本当に家庭から直接出てきた感じがしますね。
刺し子の密度も細かくて、非常に美しいです。
刺す人は図案が完璧に頭に入っていて、いきなり差し始めることができるそうですが、とても美しい物なので手芸的にもっと広がればいいのに、と想ってしまいます。
江戸小紋や紬なんかもそうですが、為政者から圧迫をうけても、庶民はいろんな工夫をして寒さをしのいだり、おしゃれをしたりしていたんですね。
日本人というのは本当にすごいと想いますし、芸術的センスが備わっているんだろうと想います。
刺し子の糸が紡績糸なので幕末の起源だろうと言うことですが、ということは、それ以前は刺し子もなく、麻布の着物を年がら年中着ていたんでしょうか?
次に出てくる『弘前手織』があるように、1690年(元禄3年)に山城国から野元道元を招き、桑の栽培、製糸、製織を教えたということです。
これは殖産興業政策として行われたもののようですが、武士や町人も織っていたそうですから、それなりの量ができていたんでしょうか。
だのに、農民は麻布を着ざるを得なかった。
わたしはこういう階級闘争史観が嫌いなのですが、津軽地方の農民がけっこうつらい目に遭っていたことは間違いないんでしょうね。
駒場の日本民芸館で古い見たことがありますが、とても丁寧に刺されていました。
きまじめで、粘り強い、この地方の女性の姿が目に浮かぶようです。
大阪に住んでいると、東北というのは本当に遠いんですよ。
たしか、青森、岩手、宮城は足を踏み入れたことがありません。
沖縄の手花とよく似た感じがありますが、ティサージと比べると紺地に白の刺し子ですし、スカッ!とした気品を感じます。
織物は寒いところから暖かいところへ移るに従って、おおらかに、ゆるやかになっていきます。
津軽こぎん刺しというと民芸の代表格のような物ですが、民芸の定義からすると実は外れています。
多産されるものではありませんし、分業されているものでもありません。
でも、民芸的な美しさ、魅力は持っていますよね。
民芸というのは『常用に適したもの』そして『常用するために作られ、使われて美しくなる物』なのだろうと想うんです。
資源も、素材も、手間も制限がある。
その中で、実用に即した最高の物を家族の為に作ろうとした。
そこに民芸の美しさが生まれるのだろうと想うんです。
作為が美をゆがめるなんて嘘です。
このこぎん刺しだって、お母さんが家族の為に少しでも良い物、しゃれた構図にしようと思案したはずですし、良い物ができれば、近所に自慢したはずです。
抽象的、観念的になって恐縮ですが、問題はそこに『愛』があるかどうか、なんですね。
昔の織物を見て、暖かみを感じるのはそのせいです。
商業化が進むに従って、それが感じにくくなるのは当然なんです。
つまり、民芸というのは愛のいっぱい染みついた手で作られたから、商業化されたものでも美しかった、ということなのでしょう。
はじめから商業化されているものに、かつてのような民芸美はあるはずがないのです。
刺し子でも一針一針、家族の為に心を込めて優しい気持ちで刺すのと、納期に追われてチャカチャカ刺すのと、できばえが違うのは当たり前なんです。
逆に言えば、私たちの立場の人間にとっては、いかに前者、つまり愛情もって優しい気持ちで作れる環境を作るかが問題なんですね。
鑑賞者の立場から言えば、こういうシンプルな物ほど、じっと見る。
とにかく、じっと見る。
何も考えないで5分くらいじっと見て、眼と心に焼き付けるんです。
そのとき、感想をもってはいけません。
とにかく、そのままを心に刻むんです。
たぶん、それ以外にもいろんな染織品を見るでしょう。
展示会場から出た跡、すこしお茶でも飲みながら、思い返してみるんです。
まだ、深く心に残っている物を大事にとっておけばいいんです。
それが必ず、次の下地になります。
キレイ!とか細かい!とか、余計な事を考えたり、叫んではいけないんです。
それは自分で自分を暗示にかけているだけなんです。
鑑賞者は、キレイな物はキレイ、まずい物はまずいと思えないと行けない。
そのためには、いかに先入観や偏見、予断を排除するかが大事なんです。
茶会などでは、お道具を手にとって鑑賞することが許されます。
その時も同じことです。
私は、自分の修練として、道具のいわれや銘などを耳に入れない事にしています。
心に残った物だけ、あとで宗匠に伺えば良い、と私は思っています。
『眼から入った物を腹に入れる』というかんじでしょうか。
続けていくと、どんどん参考書がお腹の中で積み上がっていきます。
しょうむない物は自然にどんどん排泄されていくはずです。
作品も他人の話も、まずは黙ってじっくり自分の中に取り込んでみる、ということなのでしょうね。
〜特産品となった農民の生活の知恵〜
○津軽地方に発生した農民の労働着
○藍染した麻布に白い紡績糸で様々な幾何文様をたんねんに刺したもの
○起源は幕末の頃と推定される
『藩政時代の農民は藩のさだめによって木綿物の常用をぜいたく品として制限されていたので、麻布が四季を通じての衣服になっていた。そこで少量の木綿糸を入手した当時の農民はこれを織るのではなく、、紺の麻布に白い綿糸を刺し添えて、肌触りの冷たい麻布にあたたかさを加え、しかも、これに模様を刺し込む事を考案した。こうして、一本の白い糸は深雪の中に生きる津軽地方の農村に新しい用と美を提供したのであった』
実用品としてのこぎんは、綿糸の普及と共に必然的に消滅していきますが、その後は民芸的価値を見いだされて特産品として生産されているということです。
私は刺し子が好きで、津軽は持っていませんが、飛騨刺し子の作務衣を愛用しています。
伝統織物というのは、沖縄の様に貢納布だったり、越後のように問屋制家内工業で作られたものであったりしますが、津軽こぎん刺しは本当に家庭から直接出てきた感じがしますね。
刺し子の密度も細かくて、非常に美しいです。
刺す人は図案が完璧に頭に入っていて、いきなり差し始めることができるそうですが、とても美しい物なので手芸的にもっと広がればいいのに、と想ってしまいます。
江戸小紋や紬なんかもそうですが、為政者から圧迫をうけても、庶民はいろんな工夫をして寒さをしのいだり、おしゃれをしたりしていたんですね。
日本人というのは本当にすごいと想いますし、芸術的センスが備わっているんだろうと想います。
刺し子の糸が紡績糸なので幕末の起源だろうと言うことですが、ということは、それ以前は刺し子もなく、麻布の着物を年がら年中着ていたんでしょうか?
次に出てくる『弘前手織』があるように、1690年(元禄3年)に山城国から野元道元を招き、桑の栽培、製糸、製織を教えたということです。
これは殖産興業政策として行われたもののようですが、武士や町人も織っていたそうですから、それなりの量ができていたんでしょうか。
だのに、農民は麻布を着ざるを得なかった。
わたしはこういう階級闘争史観が嫌いなのですが、津軽地方の農民がけっこうつらい目に遭っていたことは間違いないんでしょうね。
駒場の日本民芸館で古い見たことがありますが、とても丁寧に刺されていました。
きまじめで、粘り強い、この地方の女性の姿が目に浮かぶようです。
大阪に住んでいると、東北というのは本当に遠いんですよ。
たしか、青森、岩手、宮城は足を踏み入れたことがありません。
沖縄の手花とよく似た感じがありますが、ティサージと比べると紺地に白の刺し子ですし、スカッ!とした気品を感じます。
織物は寒いところから暖かいところへ移るに従って、おおらかに、ゆるやかになっていきます。
津軽こぎん刺しというと民芸の代表格のような物ですが、民芸の定義からすると実は外れています。
多産されるものではありませんし、分業されているものでもありません。
でも、民芸的な美しさ、魅力は持っていますよね。
民芸というのは『常用に適したもの』そして『常用するために作られ、使われて美しくなる物』なのだろうと想うんです。
資源も、素材も、手間も制限がある。
その中で、実用に即した最高の物を家族の為に作ろうとした。
そこに民芸の美しさが生まれるのだろうと想うんです。
作為が美をゆがめるなんて嘘です。
このこぎん刺しだって、お母さんが家族の為に少しでも良い物、しゃれた構図にしようと思案したはずですし、良い物ができれば、近所に自慢したはずです。
抽象的、観念的になって恐縮ですが、問題はそこに『愛』があるかどうか、なんですね。
昔の織物を見て、暖かみを感じるのはそのせいです。
商業化が進むに従って、それが感じにくくなるのは当然なんです。
つまり、民芸というのは愛のいっぱい染みついた手で作られたから、商業化されたものでも美しかった、ということなのでしょう。
はじめから商業化されているものに、かつてのような民芸美はあるはずがないのです。
刺し子でも一針一針、家族の為に心を込めて優しい気持ちで刺すのと、納期に追われてチャカチャカ刺すのと、できばえが違うのは当たり前なんです。
逆に言えば、私たちの立場の人間にとっては、いかに前者、つまり愛情もって優しい気持ちで作れる環境を作るかが問題なんですね。
鑑賞者の立場から言えば、こういうシンプルな物ほど、じっと見る。
とにかく、じっと見る。
何も考えないで5分くらいじっと見て、眼と心に焼き付けるんです。
そのとき、感想をもってはいけません。
とにかく、そのままを心に刻むんです。
たぶん、それ以外にもいろんな染織品を見るでしょう。
展示会場から出た跡、すこしお茶でも飲みながら、思い返してみるんです。
まだ、深く心に残っている物を大事にとっておけばいいんです。
それが必ず、次の下地になります。
キレイ!とか細かい!とか、余計な事を考えたり、叫んではいけないんです。
それは自分で自分を暗示にかけているだけなんです。
鑑賞者は、キレイな物はキレイ、まずい物はまずいと思えないと行けない。
そのためには、いかに先入観や偏見、予断を排除するかが大事なんです。
茶会などでは、お道具を手にとって鑑賞することが許されます。
その時も同じことです。
私は、自分の修練として、道具のいわれや銘などを耳に入れない事にしています。
心に残った物だけ、あとで宗匠に伺えば良い、と私は思っています。
『眼から入った物を腹に入れる』というかんじでしょうか。
続けていくと、どんどん参考書がお腹の中で積み上がっていきます。
しょうむない物は自然にどんどん排泄されていくはずです。
作品も他人の話も、まずは黙ってじっくり自分の中に取り込んでみる、ということなのでしょうね。
2013年02月25日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第13話
【アツシ(厚司織】
今回からいよいよ、個別の織物について考えていきますね。
もう無くなってしまって、現物を確認できないものもありますが、それはそれでナンカカンカ話して行きましょう。
アツシ織のサブタイトルとして『アイヌが生んだ樹皮の織物』とあります。
産地:北海道、平取・白老などアイヌの人々が住んでいる日高・胆振地方
素材:オヒヨウ(ニレ科)の木の皮の繊維を手で紡いで糸とする
一部高級品にはイラサクの繊維を使う
製織法:いざり織(アツシカラベ)
その他特徴:
着物に仕立てて、晴れ着または平常着として使った
着物には刺繍あるいは切伏(切れ布を縫い付ける)の手法によってアイヌ独特の括弧紋(ミクノカ)渦巻紋(モレウ)など様々な文様を描いていく。
このアツシ織を見たとき、この言葉を思い出すんです。
『衣服とは第二の皮膚である』
私がアツシ織の文様を見て、まず連想するのは、昔、沖縄のおばあさん達が手などにしていた刺青です。
外国でも皮膚に直接絵を描いたりする民族がありますが、これはたいてい呪術的な意味を持っています。
自分の身をなにがしかの悪いモノから守るため、良いモノに近づいてもらうために、この刺青や身体装飾をするんです。
この延長線上に衣服があるのです。
ですから、衣服には呪術性を含めて、様々な願いや想いが盛り込まれるんです。
日本の刺青でもそうですよね。
強くなりたいとか、美しくなりたいとか、何かのかなえたい願いを肌に彫り込むんでしょう。
私が子供のころは沖縄にはまだ刺青をしたおばあさんがかなりいらっしゃって、不思議な感じがしたもんです。
アツシ織を見ると、それを思い出すんです。
寒い土地ですから、綿も育たないし麻じゃ寒い。
木の皮をはいで糸を作り、さらに刺繍や端切れを貼り付けて暖かく、堅牢にする。
願いが込められているから労働着にもなるし、晴れ着にもなるわけですね。
安全や豊作・豊漁の願い、幸福・子孫繁栄の願い、それぞれの生活シーンにおいてこの布は適切に用いられた訳でです。
よく、『琉球びんがたの小紋は結婚式に着られますか?』と聞かれます。
基本的には小紋は着られません。
紋付きの色無地以上が礼儀です。
でも、その方が沖縄になんらかのゆかりをお持ちの場合、例えばご先祖様が沖縄出身であるとか言う場合であれば、着用は問題ないであろうと想いますし、私は『堂々と着ていらしてください』と申し上げます。
ですから、沖縄県民の方が、自らの歴史に照らして良いと想うモノを着ていらっしゃることは何も問題ありません。
そもそも、沖縄には訪問着も留め袖もないんですから。
自分たちの誇るべき衣装としてお召しになればいいと想いますし、そのことを批判する人はいないどころか、敬意を表するであろうと想います。
ですから、このアツシ織をアイヌにゆかりを持つ方がお召しになって結婚式に出られても、問題はないだろうと想います。
久米島では久米島紬を、奄美大島では大島紬を成人式や結婚式に着るのです。
それで良いと想います。
しかし、だからと言って久米島紬が一般的に礼装として着られるかといえば否です。
琉球びんがたしかり、このアツシ織も同じです。
つまりは、衣類というものは、その地方の風土・歴史・文化・伝統と共にあるという事です。
アツシ織に描かれている文様がどんな意味を持つのか、私は知りませんが、とても興味のあるところです。
沖縄の絣には様々な意味が込められている事はよく知られていると想います。
自然やら、生活用具やら、いろんなモノが絣がらとして織り込まれています。
それにはすべて願いや想いがあるんですね。
そういう意味で、絣柄を他の地方が使うというのは、どんなのもんだろうか?と想うのですね。
そもそも、商業化された時点でそんな話はナンセンスなのかもしれませんが。
私は沖縄以外の浮き織は花織というべきでないと想うし、ロートン織も同じ事です。
花倉織は本場首里の織物保存会が商標を持っていますから、首里以外では使えないことになっています。
伝統染織というものは、原則として、少なくともその地域内で作られないとダメだと想っています。
技法ではありません。
伝統染織というのは、自然とその中で暮らす人間が作るんです。
水、太陽、土、その下で育つ木、草、そんなものが永年はぐくんで人間の手によって形にされたモノが伝統染織・伝統工芸なんですよ。
同じ技法だから、同じ素材だから、他地域に持って行って作っても、同じ名前で良いなんて本気で思っているとしたら、これは『伝統』というモノに対する重大な冒涜です。
それが、商業的な理由でやむを得ずという気持ちがあるなら、できるだけ元のモノに近づけようとするでしょう。
そうなれば、もしかしたら、その地で新たな伝統染織の芽になるかもしれません。
このアツシ織をうちの近所で作って、アツシ織と言えるでしょうか?
河内アツシ織なんて、漫才師みたいな名前で納得されますか?
このアツシ織のような民族のにおいがプンプンして、心にグサッと来るような織物・着物を見ると、どうしても熱くなってしまうんですよ。
今回からいよいよ、個別の織物について考えていきますね。
もう無くなってしまって、現物を確認できないものもありますが、それはそれでナンカカンカ話して行きましょう。
アツシ織のサブタイトルとして『アイヌが生んだ樹皮の織物』とあります。
産地:北海道、平取・白老などアイヌの人々が住んでいる日高・胆振地方
素材:オヒヨウ(ニレ科)の木の皮の繊維を手で紡いで糸とする
一部高級品にはイラサクの繊維を使う
製織法:いざり織(アツシカラベ)
その他特徴:
着物に仕立てて、晴れ着または平常着として使った
着物には刺繍あるいは切伏(切れ布を縫い付ける)の手法によってアイヌ独特の括弧紋(ミクノカ)渦巻紋(モレウ)など様々な文様を描いていく。
このアツシ織を見たとき、この言葉を思い出すんです。
『衣服とは第二の皮膚である』
私がアツシ織の文様を見て、まず連想するのは、昔、沖縄のおばあさん達が手などにしていた刺青です。
外国でも皮膚に直接絵を描いたりする民族がありますが、これはたいてい呪術的な意味を持っています。
自分の身をなにがしかの悪いモノから守るため、良いモノに近づいてもらうために、この刺青や身体装飾をするんです。
この延長線上に衣服があるのです。
ですから、衣服には呪術性を含めて、様々な願いや想いが盛り込まれるんです。
日本の刺青でもそうですよね。
強くなりたいとか、美しくなりたいとか、何かのかなえたい願いを肌に彫り込むんでしょう。
私が子供のころは沖縄にはまだ刺青をしたおばあさんがかなりいらっしゃって、不思議な感じがしたもんです。
アツシ織を見ると、それを思い出すんです。
寒い土地ですから、綿も育たないし麻じゃ寒い。
木の皮をはいで糸を作り、さらに刺繍や端切れを貼り付けて暖かく、堅牢にする。
願いが込められているから労働着にもなるし、晴れ着にもなるわけですね。
安全や豊作・豊漁の願い、幸福・子孫繁栄の願い、それぞれの生活シーンにおいてこの布は適切に用いられた訳でです。
よく、『琉球びんがたの小紋は結婚式に着られますか?』と聞かれます。
基本的には小紋は着られません。
紋付きの色無地以上が礼儀です。
でも、その方が沖縄になんらかのゆかりをお持ちの場合、例えばご先祖様が沖縄出身であるとか言う場合であれば、着用は問題ないであろうと想いますし、私は『堂々と着ていらしてください』と申し上げます。
ですから、沖縄県民の方が、自らの歴史に照らして良いと想うモノを着ていらっしゃることは何も問題ありません。
そもそも、沖縄には訪問着も留め袖もないんですから。
自分たちの誇るべき衣装としてお召しになればいいと想いますし、そのことを批判する人はいないどころか、敬意を表するであろうと想います。
ですから、このアツシ織をアイヌにゆかりを持つ方がお召しになって結婚式に出られても、問題はないだろうと想います。
久米島では久米島紬を、奄美大島では大島紬を成人式や結婚式に着るのです。
それで良いと想います。
しかし、だからと言って久米島紬が一般的に礼装として着られるかといえば否です。
琉球びんがたしかり、このアツシ織も同じです。
つまりは、衣類というものは、その地方の風土・歴史・文化・伝統と共にあるという事です。
アツシ織に描かれている文様がどんな意味を持つのか、私は知りませんが、とても興味のあるところです。
沖縄の絣には様々な意味が込められている事はよく知られていると想います。
自然やら、生活用具やら、いろんなモノが絣がらとして織り込まれています。
それにはすべて願いや想いがあるんですね。
そういう意味で、絣柄を他の地方が使うというのは、どんなのもんだろうか?と想うのですね。
そもそも、商業化された時点でそんな話はナンセンスなのかもしれませんが。
私は沖縄以外の浮き織は花織というべきでないと想うし、ロートン織も同じ事です。
花倉織は本場首里の織物保存会が商標を持っていますから、首里以外では使えないことになっています。
伝統染織というものは、原則として、少なくともその地域内で作られないとダメだと想っています。
技法ではありません。
伝統染織というのは、自然とその中で暮らす人間が作るんです。
水、太陽、土、その下で育つ木、草、そんなものが永年はぐくんで人間の手によって形にされたモノが伝統染織・伝統工芸なんですよ。
同じ技法だから、同じ素材だから、他地域に持って行って作っても、同じ名前で良いなんて本気で思っているとしたら、これは『伝統』というモノに対する重大な冒涜です。
それが、商業的な理由でやむを得ずという気持ちがあるなら、できるだけ元のモノに近づけようとするでしょう。
そうなれば、もしかしたら、その地で新たな伝統染織の芽になるかもしれません。
このアツシ織をうちの近所で作って、アツシ織と言えるでしょうか?
河内アツシ織なんて、漫才師みたいな名前で納得されますか?
このアツシ織のような民族のにおいがプンプンして、心にグサッと来るような織物・着物を見ると、どうしても熱くなってしまうんですよ。
2013年02月17日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第12話
【心でつくり心で着る】
表題の通り、ここには少々センチメンタルな事が書かれていますが、その中で私の心に残るところだけを紹介しておきます。
『伝統の純粋さを守る為に、特定の人だけでひっそりとそれを見守り、愛好しようとするようないき方がいままでの研究者にないわけではなかった。だがそれは、結局は伝統それ自身を衰退に追いやる道ではないか』
『技術が幼稚だったといってしまえば、それまでである。むしろ、その幼稚な技術のままに、人間がどれほど想いをこめて、より丈夫な、そしてより美しい衣服を求めてきたか。その営みの重厚さ深遠さに、私達は深い味わいを感じ、また人間の温かさを想うのである』
初めの文に関してですが、ここでは民芸運動家の事を言っているだろうと想います。
柳宗悦を初め、外村吉之助などは、『そのままで』と何度も言い続けて、化学染料や機械を使ったものをボロ雑巾のごとくけなし、それを使う工人を罵倒したんです。
では、『そのまま』のやり方で工人が長く生活していくための道を彼らは開いたのか?
『そのまま』の人は、半ば職業として染織をやることを諦めざるを得ず、『好きだから続けよう』という熱い気持ちに支えられてるに過ぎない状態なのです。
しかし、『そのまま』がいけないとは私も思いません。
でも、『そのまま』に拘泥するあまり、仕事すべてが消滅したのでは、元も子もないではないですか。
『そのままが残せないなら、歴史上の名品になってもいい』
彼らはそう想っていたのでしょうか?
柳宗悦の民藝論が正しい事を実証するためにのみ、工人の仕事は使われたのでしょうか。
『そのまま』は無理なら、どうして、『捨てて良い物は捨てる』選択肢を与えなかったのでしょう。
昔ながらの『そのまま』のやり方をしたのでは、工人は世間並みの生活をすることさえできません。
最低賃金法に則らなくても、せめて、家族が糊口をしのぐ事ができなければ、仕事とはいえないのではないでしょうか。
取捨選択を教えなかったために、捨ててはならないモノまで捨てる事になったのではないか、と私は思っています。
それは、技法であり、素材であり、そして物作りの心でしょう。
適切な取捨選択がされていれば、もう少しは伝統染織が生きながらえたのではないかと、残念に思います。
二番目の文章ですが、柳流にいえば『下手モノの美』ですね。
技術が細かい、精密だからと言って、美しいモノが出来るわけではありませんし、幼稚な技術からは醜いモノしか生まれないという事もありません。
幼稚で単純が技法でも、熟練と修練によって、美しいモノは生まれてくるのです。
柳は『神の手』と表しました。
技巧をこらし、わざとらしい美を演出したものよりも、無名な工人が作った物のほうが美しい。
あたりまえです。
その無名な工人は、何十年もその仕事をやっている熟練工で、名人なんですから。
大学や有名工房で学んで、何年かで独立したような芸術家とは訳が違うのです。
地元で何十年も愛されているうどん屋が、辻調理師学校出身のシェフより美味しいうどんを作るのは当たり前です。
要は、『使う為に美しく造り、使われて美しくなる』ということなのだろうと想います。
茶道具でも批判はあると想いますが、よい道具は使いやすく、また使いやすいから度々使われて美しくなるのだと想います。
なにも宗教哲学など持ち出す必要は無いのです。
着やすいキモノ、美しいキモノをつくろうとして、真面目に仕事をすれば良い物はできるのです。
よく質問をうけるのに、こういう事があります。
『もずやさん、どんなキモノをつくったら売れますか?』
私はこう応えます。
『そんなもん、簡単ですわ。今売れてるのと同じようなのを作ったらええんです。でも、あなた、それができますか?』
できっこないし、やっても似たようなモノは出来ても良い物は出来ないのです。
気に沿わない、作りたくない物を作るのは、時間と資源のムダです。
良い物を作るには、楽しい気持ちで『絶対ええもんつくったんねん』くらいの気持ちがないとダメなんです。
でも、手仕事というのはある意味で工程的に制限があります。
良い仕事をするというのは、一つ一つの工程に手を抜かない、気を入れるという事なんだろうと想います。
単純な仕事は機械化されがちです。
でも、本来はその単純作業の連続に手仕事の妙味があるんでしょうね。
問題はね・・・私達、玄人も良い仕事を評価できない人が多くなっている、否、今やほとんどがそうだということなんです。
手織かそうでないか、型なら手彫りかそうでないか。
本来、結果として出来る作品は歴然とした違いがあります。
でも、『大して変わらへんやん』と想っている人が多いんです。
違いを感じて、説明できるのなら、手仕事は廃らなかったはずです。
また、逆に言えば、その違いを出せなかった手仕事が衰退したんです。
その目を持ってさえいれば、技法に惑わされることもない。
手仕事でも拙いものは拙いし、機械でもうまく出来ているモノはたくさんあります。
センスも大事です。
でも、それより大事なのは、『技と気』だと私は思います。
この本の著者は盛んに心の故郷だとか、人間的充足感だとか書いていますが、手仕事だからと言って、それが盛り込まれている作品ばかりとは言えないのです。
のっぺらぼうで無機質な、ただの、織物、染めモノもたくさんあります。
染織を初めとする伝統工芸などの物作り、芸能、サービス、すべてに於いて、主役は受容者である使う人、見る人、受ける人です。
その受容者が正当な評価をしなければ、財やサービスを発信する側はどんどん落ちていくのです。
そういう意味で、つなぎ手である私達商人の責任は重大ですね。
門前の小僧のたとえはありますが、身につける気が無ければ、審美眼は養われないと私は思います。
審美眼は、なかなか身につきませんが、ある時期に、ヒョイとレベルアップするような気がします。
そしてまた、平坦な時期が続き、迷い、失敗し、また時期を経てヒョイと上がる。
それを身につけなくても売れる時代が長かったのが原因なのかも知れません。
私もまだまだ修行の身ですが、常に研鑽を心がけているんです。
手仕事は、稚拙な技術の集積で作られる物が少なくないと想います。
だからこそ、本当の美を見抜く力が必要なんです。
なんの変哲もない無地、縞を美しいと感じる。
技巧や装飾に惑わされない、確かな目を持たなければ、それを満たしてくれる工人など出るわけが無いのです。
次回からは、個別の織物の話に入っていきます。
どういう内容にしようか、いまから、考え込んでいます(-_-)
表題の通り、ここには少々センチメンタルな事が書かれていますが、その中で私の心に残るところだけを紹介しておきます。
『伝統の純粋さを守る為に、特定の人だけでひっそりとそれを見守り、愛好しようとするようないき方がいままでの研究者にないわけではなかった。だがそれは、結局は伝統それ自身を衰退に追いやる道ではないか』
『技術が幼稚だったといってしまえば、それまでである。むしろ、その幼稚な技術のままに、人間がどれほど想いをこめて、より丈夫な、そしてより美しい衣服を求めてきたか。その営みの重厚さ深遠さに、私達は深い味わいを感じ、また人間の温かさを想うのである』
初めの文に関してですが、ここでは民芸運動家の事を言っているだろうと想います。
柳宗悦を初め、外村吉之助などは、『そのままで』と何度も言い続けて、化学染料や機械を使ったものをボロ雑巾のごとくけなし、それを使う工人を罵倒したんです。
では、『そのまま』のやり方で工人が長く生活していくための道を彼らは開いたのか?
『そのまま』の人は、半ば職業として染織をやることを諦めざるを得ず、『好きだから続けよう』という熱い気持ちに支えられてるに過ぎない状態なのです。
しかし、『そのまま』がいけないとは私も思いません。
でも、『そのまま』に拘泥するあまり、仕事すべてが消滅したのでは、元も子もないではないですか。
『そのままが残せないなら、歴史上の名品になってもいい』
彼らはそう想っていたのでしょうか?
柳宗悦の民藝論が正しい事を実証するためにのみ、工人の仕事は使われたのでしょうか。
『そのまま』は無理なら、どうして、『捨てて良い物は捨てる』選択肢を与えなかったのでしょう。
昔ながらの『そのまま』のやり方をしたのでは、工人は世間並みの生活をすることさえできません。
最低賃金法に則らなくても、せめて、家族が糊口をしのぐ事ができなければ、仕事とはいえないのではないでしょうか。
取捨選択を教えなかったために、捨ててはならないモノまで捨てる事になったのではないか、と私は思っています。
それは、技法であり、素材であり、そして物作りの心でしょう。
適切な取捨選択がされていれば、もう少しは伝統染織が生きながらえたのではないかと、残念に思います。
二番目の文章ですが、柳流にいえば『下手モノの美』ですね。
技術が細かい、精密だからと言って、美しいモノが出来るわけではありませんし、幼稚な技術からは醜いモノしか生まれないという事もありません。
幼稚で単純が技法でも、熟練と修練によって、美しいモノは生まれてくるのです。
柳は『神の手』と表しました。
技巧をこらし、わざとらしい美を演出したものよりも、無名な工人が作った物のほうが美しい。
あたりまえです。
その無名な工人は、何十年もその仕事をやっている熟練工で、名人なんですから。
大学や有名工房で学んで、何年かで独立したような芸術家とは訳が違うのです。
地元で何十年も愛されているうどん屋が、辻調理師学校出身のシェフより美味しいうどんを作るのは当たり前です。
要は、『使う為に美しく造り、使われて美しくなる』ということなのだろうと想います。
茶道具でも批判はあると想いますが、よい道具は使いやすく、また使いやすいから度々使われて美しくなるのだと想います。
なにも宗教哲学など持ち出す必要は無いのです。
着やすいキモノ、美しいキモノをつくろうとして、真面目に仕事をすれば良い物はできるのです。
よく質問をうけるのに、こういう事があります。
『もずやさん、どんなキモノをつくったら売れますか?』
私はこう応えます。
『そんなもん、簡単ですわ。今売れてるのと同じようなのを作ったらええんです。でも、あなた、それができますか?』
できっこないし、やっても似たようなモノは出来ても良い物は出来ないのです。
気に沿わない、作りたくない物を作るのは、時間と資源のムダです。
良い物を作るには、楽しい気持ちで『絶対ええもんつくったんねん』くらいの気持ちがないとダメなんです。
でも、手仕事というのはある意味で工程的に制限があります。
良い仕事をするというのは、一つ一つの工程に手を抜かない、気を入れるという事なんだろうと想います。
単純な仕事は機械化されがちです。
でも、本来はその単純作業の連続に手仕事の妙味があるんでしょうね。
問題はね・・・私達、玄人も良い仕事を評価できない人が多くなっている、否、今やほとんどがそうだということなんです。
手織かそうでないか、型なら手彫りかそうでないか。
本来、結果として出来る作品は歴然とした違いがあります。
でも、『大して変わらへんやん』と想っている人が多いんです。
違いを感じて、説明できるのなら、手仕事は廃らなかったはずです。
また、逆に言えば、その違いを出せなかった手仕事が衰退したんです。
その目を持ってさえいれば、技法に惑わされることもない。
手仕事でも拙いものは拙いし、機械でもうまく出来ているモノはたくさんあります。
センスも大事です。
でも、それより大事なのは、『技と気』だと私は思います。
この本の著者は盛んに心の故郷だとか、人間的充足感だとか書いていますが、手仕事だからと言って、それが盛り込まれている作品ばかりとは言えないのです。
のっぺらぼうで無機質な、ただの、織物、染めモノもたくさんあります。
染織を初めとする伝統工芸などの物作り、芸能、サービス、すべてに於いて、主役は受容者である使う人、見る人、受ける人です。
その受容者が正当な評価をしなければ、財やサービスを発信する側はどんどん落ちていくのです。
そういう意味で、つなぎ手である私達商人の責任は重大ですね。
門前の小僧のたとえはありますが、身につける気が無ければ、審美眼は養われないと私は思います。
審美眼は、なかなか身につきませんが、ある時期に、ヒョイとレベルアップするような気がします。
そしてまた、平坦な時期が続き、迷い、失敗し、また時期を経てヒョイと上がる。
それを身につけなくても売れる時代が長かったのが原因なのかも知れません。
私もまだまだ修行の身ですが、常に研鑽を心がけているんです。
手仕事は、稚拙な技術の集積で作られる物が少なくないと想います。
だからこそ、本当の美を見抜く力が必要なんです。
なんの変哲もない無地、縞を美しいと感じる。
技巧や装飾に惑わされない、確かな目を持たなければ、それを満たしてくれる工人など出るわけが無いのです。
次回からは、個別の織物の話に入っていきます。
どういう内容にしようか、いまから、考え込んでいます(-_-)
2013年02月08日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第11話
【問題は流通機構】
ここで著者は、『伝統織物の盛衰の岐路は、それに適合した流通経路をもっているかどうか、の一点にかかっている』と書いています。
それに対して、
『多くの伝統織物は、当事者の無心さから、また、その指導者たちの伝統固守の純粋さから、ほとんどそれにふさわしい流通体制をもっていない現状である』
とも書いています。
そして、最後には、
『もとより伝統織物の各種は、大量生産できるものではない。大きな問屋がこれに取り組むのは、商売として魅力のとぼしいものなのかもしれない。しかし、需要があって供給があるところ、その間にたって工夫を重ねれば、さらによりすぐれたものを創出し、特定の商業的基盤を確立することができるのではなかろうか』
ここでいう『その指導者たち』というのは、民芸運動家の事でしょうね。
民芸運動家、とくに柳宗悦は、商人、問屋を徹底的に毛嫌いした。
手仕事をゆがめたのは問屋であると決めつけてもいます。
この場は民芸論を批判するところではありませんので、止めておきますが、作り手と商人との間にギスギスしたものを残した罪は逃れ得ないだろうと思います。
なぜ、商人が悪く言われ、特に昨今、作り手が商人を悪く言う様になったのか?です。
それは、商人が利益を極大化する為に、出来るだけ安く造って、出来るだけ高く売ろうとするから、と思われているからでしょう。
はい。その通りです。
私達商人は、できるだけもうけを大きくしたい。当たり前の事です。
そのために何をしたのか?
安く仕入れて高く売る。
これも当然ですね。
商売に携わっている方なら、どなたでも理解できることであろうと思います。
安くて良いモノを造って欲しいというのは、商人だけでなく、消費者であるお客様も同じ事でなんです。
その対価を金銭で受け取るか、便益で受け取るか、その差だけです。
私達商人は、仕入れ値と売価の差がもうけです。
消費者のみなさんは、買った価格と、受け取った便益、つまり満足感や利便性の差がもうけ。
便益より価格が高いと思えば得したと思うでしょうし、逆なら損したと思う。
ですから、安くて良いモノを探すのでしょう。
問題なのは、作り手と商人との信頼関係が崩れているということなんでしょうね。
なぜ、そうなったのかです。
ひとつは支払いでしょうね。
かつては180日や210日の手形で,その上にこの業界独特の分引きの制度があったりして、それでいてその手形さえもなかなか振り出さない。
こんなひどい話も聞いたことがあります。
大量に発注して、出来上がって納めたと思ったら、全部返品。
泣きの涙でいるところを、しばらくして、また同じ問屋が半値8掛けで買いたたく。
まぁ、むちゃくちゃやっている問屋も実際にあるわけですが、そんな問屋ばかりではないんです。
ひとつひとつ、ぼちぼち売っていた時代は、そんなことしなくても良かったんです。
卵が先か鶏が先か解りませんが、催事による大量販売が流行りだしてからだと思います。
催事をするとなると、経費がかかる。経費がかかるとどうしても、損益分岐点が高くなる。
そうすると、まずは集客という事になり、『目玉商品』というものが設定される。
目玉商品は直感的に安い!と思わせるパンチ力が必要ですから、商品供給を担当する問屋は大量に安く買い付けようとする。
それはどんどんエスカレートしていくわけです。
そんな事で市場から消えていった商品はたくさんあります。
安くさせられるだけでなくて、お客様のタンスの中もだんだんと飽和してきます。
そうなると、どうしても、押し込み型の販売になる。
ということは、延べ払いになる。
当然、小売店から問屋への支払いも遅くなる。
安く叩かれた上に、支払いも遅い。
そのうち、買い取りでなく問屋も作り手に委託で出してくれ、と言い出す。
それでは足りずに、販売の応援も、となってしまったんですね。
それで、販売の応援に来た、作り手は、自分の出した値段と突いている値札とのギャップに愕然とする。
『こんなんじゃ、売れるハズないやんか!』
そういう気持ちになるのは、当然です。
問屋は、小売店から求められるからと言い、小売店は、お客様は安くて良いモノしか買われないから、と言う。
売れ居ている時代は、『ま、いっか!』のノリで行けたんですが、売れなくなると、怒りをこらえきれずに、特にネットの時代になると、ブログにあれこれ書いたり、時にはお客様に愚痴を言ったりする。
そんな話を読んだり聞いたりしたお客様は、『問屋というのはなんと悪いやっちゃ!』と思われるのでしょう。
とくにネット販売などが出てきて、価格訴求が全面にでてくると、商品相場はどんどん落ちます。
売れないわ、価格は落ちるわ、これじゃ、泣きたくなるのは作り手だけじゃなく、問屋も小売店も泣きたいわけです。
この三者で何が違うかといえば、商品在庫リスクを持っているかいないか、という事なんですね。
著者の言う、『適合した流通経路』というのは、あくまでも、買い取ってくれるという事が前提になっていると思います。
消費者のみなさんからは見えないと思いますが、今、流通の最終チャネルである小売と問屋のパイプはガチガチに固まって居て、そこそこ大きな問屋と付き合わないと、どこの小売店にも流れないという構図になっています。
小売店に売る問屋のことを前売り問屋というのですが、この前売問屋は、小売のMD担当、物流担当となっているんです。
ということは、大きな小売店、例えばNCなどの目玉にならないと、大量には売れないという事ですし、大量に売ろうとすれば、そういう小売店とガッチリ組んでいる問屋に出さないとダメだ、ということになります。
大量に売ることを望まなければ、小さい問屋とぼちぼち付き合えばいいのです。
でも、生産体制が大きくなってしまうと、そうも言っていられなくなる。
ブームが来て、増産体制をとった産地・メーカーが狙われるのはそういう理由です。
小売店>>>問屋>生産者 となるのは必然で、生産体制が大きくなり、需要が少なくなると、この力の差はもっと拡大します。
こんな話をしていてもしょうがないのですが、要は『適切でふさわしい流通体制とは何か』です。
流通の体制は、上記のように、需要と供給の体制にともなって変化します。
大量生産が可能になったから、大量販売も可能になり、その為のツールとして目玉販売が行われた。
生産が大きくなり、需要が少なくなれば、価格が下がるのは必然です。
生産者が問屋や小売店に対して、相対的な力を取り戻すためには、生産を縮小するか、需要を高めるしか方法はありません。
一部で、とんでもない高い値段で売られているというのは、実は引っかけで、目玉ばかり売ってたら利益がでないので、一発逆転のワナを張っているのです。
生産を縮小したり、需要が増大すると、生産者の力も強くなりますが、その最終的な影響は消費者であるお客様が負担するという事になります。
毛織物でも同じなんですよ。
ガチャマンの時代、紡績や織物メーカーはとても力が強かった。鐘紡や東洋紡と言えば、総合商社も頭を下げて商品を回してもらったんです。つまり川下に行くほど、立場が弱かった。
その時代は、背広もあつらえでしたし、50年ほど前は、スーツ1着が大学卒の初任給くらいの値段だったんです。
『そんなん、困るわぁ』と思われるでしょう?
でも、消費者とメーカーというのはある意味で利益が相反するです。
今の経済状況で、機屋がブイブイいわせるようになると、消費者の方々は少ないモノを高い値段で買うという事になります。
『そしたら、どないしたらええの?』
結論としては、景気がよくなるしかありません(^_^;)
景気が良くなれば、お客様の懐も温かくなり、需要も増える。需要が増えたら、商品の引き合いも多くなり、メーカーは取引先を選別できるようになる。
条件の良い問屋に出せばいいのです。
今は、ふさがれている道も、景気が良くなれば、門戸が開かれるはずです。
今は、それが出来ないんですね。
今は、みんな自信を失っているんです。
だから、仕入れできないし、新しい商品にチャレンジしようとしない。
私が思うには、いつか必ず景気が良くなる時が来るんです。
その時までに、消費者のみなさんの、この業界に対する不審感を解いてもらわないといけない。
ですから、せめて、心ある人達で力を合わせて、解って頂くように努力しよう、と思うんです。
仲間割れしている場合じゃないですから。
私達の問題は、私達の中で決着しなければならないと思います。
ここで著者は、『伝統織物の盛衰の岐路は、それに適合した流通経路をもっているかどうか、の一点にかかっている』と書いています。
それに対して、
『多くの伝統織物は、当事者の無心さから、また、その指導者たちの伝統固守の純粋さから、ほとんどそれにふさわしい流通体制をもっていない現状である』
とも書いています。
そして、最後には、
『もとより伝統織物の各種は、大量生産できるものではない。大きな問屋がこれに取り組むのは、商売として魅力のとぼしいものなのかもしれない。しかし、需要があって供給があるところ、その間にたって工夫を重ねれば、さらによりすぐれたものを創出し、特定の商業的基盤を確立することができるのではなかろうか』
ここでいう『その指導者たち』というのは、民芸運動家の事でしょうね。
民芸運動家、とくに柳宗悦は、商人、問屋を徹底的に毛嫌いした。
手仕事をゆがめたのは問屋であると決めつけてもいます。
この場は民芸論を批判するところではありませんので、止めておきますが、作り手と商人との間にギスギスしたものを残した罪は逃れ得ないだろうと思います。
なぜ、商人が悪く言われ、特に昨今、作り手が商人を悪く言う様になったのか?です。
それは、商人が利益を極大化する為に、出来るだけ安く造って、出来るだけ高く売ろうとするから、と思われているからでしょう。
はい。その通りです。
私達商人は、できるだけもうけを大きくしたい。当たり前の事です。
そのために何をしたのか?
安く仕入れて高く売る。
これも当然ですね。
商売に携わっている方なら、どなたでも理解できることであろうと思います。
安くて良いモノを造って欲しいというのは、商人だけでなく、消費者であるお客様も同じ事でなんです。
その対価を金銭で受け取るか、便益で受け取るか、その差だけです。
私達商人は、仕入れ値と売価の差がもうけです。
消費者のみなさんは、買った価格と、受け取った便益、つまり満足感や利便性の差がもうけ。
便益より価格が高いと思えば得したと思うでしょうし、逆なら損したと思う。
ですから、安くて良いモノを探すのでしょう。
問題なのは、作り手と商人との信頼関係が崩れているということなんでしょうね。
なぜ、そうなったのかです。
ひとつは支払いでしょうね。
かつては180日や210日の手形で,その上にこの業界独特の分引きの制度があったりして、それでいてその手形さえもなかなか振り出さない。
こんなひどい話も聞いたことがあります。
大量に発注して、出来上がって納めたと思ったら、全部返品。
泣きの涙でいるところを、しばらくして、また同じ問屋が半値8掛けで買いたたく。
まぁ、むちゃくちゃやっている問屋も実際にあるわけですが、そんな問屋ばかりではないんです。
ひとつひとつ、ぼちぼち売っていた時代は、そんなことしなくても良かったんです。
卵が先か鶏が先か解りませんが、催事による大量販売が流行りだしてからだと思います。
催事をするとなると、経費がかかる。経費がかかるとどうしても、損益分岐点が高くなる。
そうすると、まずは集客という事になり、『目玉商品』というものが設定される。
目玉商品は直感的に安い!と思わせるパンチ力が必要ですから、商品供給を担当する問屋は大量に安く買い付けようとする。
それはどんどんエスカレートしていくわけです。
そんな事で市場から消えていった商品はたくさんあります。
安くさせられるだけでなくて、お客様のタンスの中もだんだんと飽和してきます。
そうなると、どうしても、押し込み型の販売になる。
ということは、延べ払いになる。
当然、小売店から問屋への支払いも遅くなる。
安く叩かれた上に、支払いも遅い。
そのうち、買い取りでなく問屋も作り手に委託で出してくれ、と言い出す。
それでは足りずに、販売の応援も、となってしまったんですね。
それで、販売の応援に来た、作り手は、自分の出した値段と突いている値札とのギャップに愕然とする。
『こんなんじゃ、売れるハズないやんか!』
そういう気持ちになるのは、当然です。
問屋は、小売店から求められるからと言い、小売店は、お客様は安くて良いモノしか買われないから、と言う。
売れ居ている時代は、『ま、いっか!』のノリで行けたんですが、売れなくなると、怒りをこらえきれずに、特にネットの時代になると、ブログにあれこれ書いたり、時にはお客様に愚痴を言ったりする。
そんな話を読んだり聞いたりしたお客様は、『問屋というのはなんと悪いやっちゃ!』と思われるのでしょう。
とくにネット販売などが出てきて、価格訴求が全面にでてくると、商品相場はどんどん落ちます。
売れないわ、価格は落ちるわ、これじゃ、泣きたくなるのは作り手だけじゃなく、問屋も小売店も泣きたいわけです。
この三者で何が違うかといえば、商品在庫リスクを持っているかいないか、という事なんですね。
著者の言う、『適合した流通経路』というのは、あくまでも、買い取ってくれるという事が前提になっていると思います。
消費者のみなさんからは見えないと思いますが、今、流通の最終チャネルである小売と問屋のパイプはガチガチに固まって居て、そこそこ大きな問屋と付き合わないと、どこの小売店にも流れないという構図になっています。
小売店に売る問屋のことを前売り問屋というのですが、この前売問屋は、小売のMD担当、物流担当となっているんです。
ということは、大きな小売店、例えばNCなどの目玉にならないと、大量には売れないという事ですし、大量に売ろうとすれば、そういう小売店とガッチリ組んでいる問屋に出さないとダメだ、ということになります。
大量に売ることを望まなければ、小さい問屋とぼちぼち付き合えばいいのです。
でも、生産体制が大きくなってしまうと、そうも言っていられなくなる。
ブームが来て、増産体制をとった産地・メーカーが狙われるのはそういう理由です。
小売店>>>問屋>生産者 となるのは必然で、生産体制が大きくなり、需要が少なくなると、この力の差はもっと拡大します。
こんな話をしていてもしょうがないのですが、要は『適切でふさわしい流通体制とは何か』です。
流通の体制は、上記のように、需要と供給の体制にともなって変化します。
大量生産が可能になったから、大量販売も可能になり、その為のツールとして目玉販売が行われた。
生産が大きくなり、需要が少なくなれば、価格が下がるのは必然です。
生産者が問屋や小売店に対して、相対的な力を取り戻すためには、生産を縮小するか、需要を高めるしか方法はありません。
一部で、とんでもない高い値段で売られているというのは、実は引っかけで、目玉ばかり売ってたら利益がでないので、一発逆転のワナを張っているのです。
生産を縮小したり、需要が増大すると、生産者の力も強くなりますが、その最終的な影響は消費者であるお客様が負担するという事になります。
毛織物でも同じなんですよ。
ガチャマンの時代、紡績や織物メーカーはとても力が強かった。鐘紡や東洋紡と言えば、総合商社も頭を下げて商品を回してもらったんです。つまり川下に行くほど、立場が弱かった。
その時代は、背広もあつらえでしたし、50年ほど前は、スーツ1着が大学卒の初任給くらいの値段だったんです。
『そんなん、困るわぁ』と思われるでしょう?
でも、消費者とメーカーというのはある意味で利益が相反するです。
今の経済状況で、機屋がブイブイいわせるようになると、消費者の方々は少ないモノを高い値段で買うという事になります。
『そしたら、どないしたらええの?』
結論としては、景気がよくなるしかありません(^_^;)
景気が良くなれば、お客様の懐も温かくなり、需要も増える。需要が増えたら、商品の引き合いも多くなり、メーカーは取引先を選別できるようになる。
条件の良い問屋に出せばいいのです。
今は、ふさがれている道も、景気が良くなれば、門戸が開かれるはずです。
今は、それが出来ないんですね。
今は、みんな自信を失っているんです。
だから、仕入れできないし、新しい商品にチャレンジしようとしない。
私が思うには、いつか必ず景気が良くなる時が来るんです。
その時までに、消費者のみなさんの、この業界に対する不審感を解いてもらわないといけない。
ですから、せめて、心ある人達で力を合わせて、解って頂くように努力しよう、と思うんです。
仲間割れしている場合じゃないですから。
私達の問題は、私達の中で決着しなければならないと思います。
2013年02月06日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第10話
第4章 伝統織物の今後
【伝統織物の需要】
著者はこう書いています。
『はっきり言えば、伝統織物がなぜ求められるかの理由を”心のふるさと”を求めることーつまり精神文化的な”用”として、私達は考える。それはもはや、”用は美なり”といった、民芸運動での”用”とは違ったものになっている、と思うのである。たんに物質的な実用品としてとらえるとき、すでに伝統織物がその座をゆずねばならない廉価で高品質のものが、他の機械製品に数々生まれているのだ』
『考えてみると、このような心的な”用”は、実は機械文明の進展とうらはらに増大するものなのである。実用としての”用”が機械に取って代わられるにしたがって、それとは別の心的な用が画一的でない、心のこもった手仕事製品に求められるのである』
『したがって、それは一見して伝統織物の地盤を揺るがすような機械化・工業化が進めば進むほど、かえって強まるのではないかと思われる。ほかにすぐれた品質の実用品が生まれるのは、今後の伝統織物にとって障害でもないだろう』
(引用おわり)
どう思われますか?
これが書かれたのが昭和30年代です。
50年以上経って、いまはどうなってますか?
たしかに、伝統織物に『心のやすらぎ』を感じる人は少なくないでしょう。
しかし、他の代替品、機械生産の繊維や布と別の道を歩み得たでしょうか。
この当時では考えられなかった位の着物離れが進み、街中で着物姿を見かけることはほとんどなくなりました。
この後、昭和40年代中頃をピークに着物の需要は下がり続けたようです。
伝統工芸全体に眼を向けてみると、これも『心のやすらぎ』という意味では共通だと思います。
しかし、これも陶器・漆器などはどんどん家庭から姿を消しています。
著者は、『機械化・工業化が進めば進むほど、伝統織物への需要は高まるはずだ』と書いています。
でも、そうなっていません。
何故でしょうか?
もちろん、着物バナレは大きな原因です。
では、絨毯とか卓布、袱紗などで伝統織物は愛用され使われたでしょうか。
答えは否でしょう。
織物だけでなく、手仕事の製品は、ことごとく家庭、私達の生活から駆逐されたのです。
最近は、高級洋食器メーカーの経営破綻も相次いでいます。
結論から見れば、人々は家庭において美や心の安らぎを物から得ることを期待していない、という事になります。
では、安らぎを求めていないか、といえば、それは全く違いますよね。
殺伐とした世の中で、誰もが心の安らぎを求めている。
あらたなサービスが生まれたのもその表れでしょう。
安らぎを与えてくれる物といえば、何でしょうか?
温泉、美味しいお料理、キレイな風景、エステ、マッサージ、宗教、最近はペットでしょうか。
手仕事の布や焼き物には感じなくて、そういう物には感じる。
なぜ?
1.感じるだけのモノがなくなった
2.人々が感受性を失った
3.造る方も使う方も、忘れている
・・・
等々でしょうか。
私が思うに、『退化』してしまったんだろうと思うんですよ。
作り手の感性も手も。
そして、消費者の感性も。
緑茶は、子供の頃、苦いし、何が美味しいんだろうと思っていた人が多いだろうと思います。
子供の時は、ジュースとかを飲むわけです。
でも、だんだんと緑茶のおいしさが解ってくる。
緑茶の味がわかるようになれば、紅茶も、コーヒーも、お酒も味がわかるようになる。
でも、ずっと、子供の時からコーラばっかり飲んでいたら、解らなくなるのじゃないでしょうか。
お茶を造る人もコーラばっかり飲んでいたら、美味しいお茶はつくれないでしょうし、飲む方も『何コレ、ニガ!』というだけで終わる。
赤ん坊の時から、プラッチックのほ乳瓶とお椀でご飯を食べ、大きくなっても、100円ショップのお茶碗や湯飲みで育ったら、良い焼き物を見ても何も感じないでしょう。
繊維でも同じです。
廉価な工業製品をとっかえひっかえ、使い捨てするのと、高価な服1着を着た切り雀で永く着続けるのとでは、モノに対する感受性という面に於いては、後者の方が育つだろうと思います。
バブル期にはモンブランの万年筆を買った人も多くいらっしゃったと思いますが、安いボールペンばかり使っていたら、モンブランの万年筆など、めんどくさくて使えないし、どこがどう良いのか解らないわけです。
しかし、文筆業の方はモンブランをはじめとする万年筆を愛用している方が多いと聞きますし、書けば書くほど良さがわかるのでしょう。
思えば、インスタント時代、使い捨て時代と共に、手仕事に対する愛着や拘泥は失われていったのです。
今は、時代の流れが速くて、なんでもかんでも、すぐに結果を求めるようになりました。
『こころの安らぎ』さえ、すぐに与えてくれるモノやサービスにみんなの目が向くようになったのでしょう。
この本の著者の楽観論は、見事に外れた、と言っていいでしょう。
では、どうしたらいいのか?です。
この流れはどこから始まったのか、といえば、18世紀の産業革命からです。
もう200年以上もこのながれは変わる事がない。
生産手段が高度化すれば生産量は拡大する。
大資本が生まれ、その生産物を消費者に無理矢理にでも押しつけないと資本は成りたたない。
それで、社会主義が生まれたのですが、その末路はご存じの通りです。
感受性というのは一度劣化を始めると、元には戻らないのです。
また、それを失わせた方が企業は儲かるんです。
企業の思い通りに消費者を動かせるからです。
それがファッションであり、モードです。
20年前あれだけ華やかに着飾った女性達も、いまは、ファストファッションです。
大量規格品でも、文句を言わなくなりました。
それどころか、ブランドとして同じモノを持つことを誇らしく思うようになったんです。
モノじゃなくて、イメージしか見ないように消費者を仕向けたんですね。
本当の事を確かめないで、お題目を見て得たイメージで購買行動を起こす。
健康グッズとか、ダイエット食品なんてほとんどそんな感じじゃないでしょうか。
伝統織物の表示がややこしいのも、そこ戦略の一環であると言えます。
反末にそのラベルが貼ってあるから、そうなんだ、と思ってしまう。
本物を知っている人は、違うと解りますが『あんた、それニセモンやで』とは言わない。
つまり、みんなモノをじっと見て、味わう事を忘れた、忘れさせられたんです。
忘れてしまったモノを取り返すには、自分で訓練するしかないのだろうと思います。
そのままで、良いと言えば良いのです。
余計な事を考えずに、時代の流れに乗って、ひょうひょうと生きていた方が楽しいかもしれません。
感受性が強くなると、みにくいモノばかりが目について、つらい現代社会です。
それで、『わたしは、そんなんイヤや。ほんまもん、わかるようになりたい』と思われるなら、時代に逆行するしかありません。
じっくり、穴があくくらいモノをみて、一つの良いモノを大切に使う。
本来、心の安らぎというのも、そういうライフスタイルの中から得られるものであって、モノそのものがあたえてくれるのでは無いと思います。
消費者であるお客様だけでなく、私達、モノを供給する側は、もっと強くその事を認識すべきだと私は思います。
【伝統織物の需要】
著者はこう書いています。
『はっきり言えば、伝統織物がなぜ求められるかの理由を”心のふるさと”を求めることーつまり精神文化的な”用”として、私達は考える。それはもはや、”用は美なり”といった、民芸運動での”用”とは違ったものになっている、と思うのである。たんに物質的な実用品としてとらえるとき、すでに伝統織物がその座をゆずねばならない廉価で高品質のものが、他の機械製品に数々生まれているのだ』
『考えてみると、このような心的な”用”は、実は機械文明の進展とうらはらに増大するものなのである。実用としての”用”が機械に取って代わられるにしたがって、それとは別の心的な用が画一的でない、心のこもった手仕事製品に求められるのである』
『したがって、それは一見して伝統織物の地盤を揺るがすような機械化・工業化が進めば進むほど、かえって強まるのではないかと思われる。ほかにすぐれた品質の実用品が生まれるのは、今後の伝統織物にとって障害でもないだろう』
(引用おわり)
どう思われますか?
これが書かれたのが昭和30年代です。
50年以上経って、いまはどうなってますか?
たしかに、伝統織物に『心のやすらぎ』を感じる人は少なくないでしょう。
しかし、他の代替品、機械生産の繊維や布と別の道を歩み得たでしょうか。
この当時では考えられなかった位の着物離れが進み、街中で着物姿を見かけることはほとんどなくなりました。
この後、昭和40年代中頃をピークに着物の需要は下がり続けたようです。
伝統工芸全体に眼を向けてみると、これも『心のやすらぎ』という意味では共通だと思います。
しかし、これも陶器・漆器などはどんどん家庭から姿を消しています。
著者は、『機械化・工業化が進めば進むほど、伝統織物への需要は高まるはずだ』と書いています。
でも、そうなっていません。
何故でしょうか?
もちろん、着物バナレは大きな原因です。
では、絨毯とか卓布、袱紗などで伝統織物は愛用され使われたでしょうか。
答えは否でしょう。
織物だけでなく、手仕事の製品は、ことごとく家庭、私達の生活から駆逐されたのです。
最近は、高級洋食器メーカーの経営破綻も相次いでいます。
結論から見れば、人々は家庭において美や心の安らぎを物から得ることを期待していない、という事になります。
では、安らぎを求めていないか、といえば、それは全く違いますよね。
殺伐とした世の中で、誰もが心の安らぎを求めている。
あらたなサービスが生まれたのもその表れでしょう。
安らぎを与えてくれる物といえば、何でしょうか?
温泉、美味しいお料理、キレイな風景、エステ、マッサージ、宗教、最近はペットでしょうか。
手仕事の布や焼き物には感じなくて、そういう物には感じる。
なぜ?
1.感じるだけのモノがなくなった
2.人々が感受性を失った
3.造る方も使う方も、忘れている
・・・
等々でしょうか。
私が思うに、『退化』してしまったんだろうと思うんですよ。
作り手の感性も手も。
そして、消費者の感性も。
緑茶は、子供の頃、苦いし、何が美味しいんだろうと思っていた人が多いだろうと思います。
子供の時は、ジュースとかを飲むわけです。
でも、だんだんと緑茶のおいしさが解ってくる。
緑茶の味がわかるようになれば、紅茶も、コーヒーも、お酒も味がわかるようになる。
でも、ずっと、子供の時からコーラばっかり飲んでいたら、解らなくなるのじゃないでしょうか。
お茶を造る人もコーラばっかり飲んでいたら、美味しいお茶はつくれないでしょうし、飲む方も『何コレ、ニガ!』というだけで終わる。
赤ん坊の時から、プラッチックのほ乳瓶とお椀でご飯を食べ、大きくなっても、100円ショップのお茶碗や湯飲みで育ったら、良い焼き物を見ても何も感じないでしょう。
繊維でも同じです。
廉価な工業製品をとっかえひっかえ、使い捨てするのと、高価な服1着を着た切り雀で永く着続けるのとでは、モノに対する感受性という面に於いては、後者の方が育つだろうと思います。
バブル期にはモンブランの万年筆を買った人も多くいらっしゃったと思いますが、安いボールペンばかり使っていたら、モンブランの万年筆など、めんどくさくて使えないし、どこがどう良いのか解らないわけです。
しかし、文筆業の方はモンブランをはじめとする万年筆を愛用している方が多いと聞きますし、書けば書くほど良さがわかるのでしょう。
思えば、インスタント時代、使い捨て時代と共に、手仕事に対する愛着や拘泥は失われていったのです。
今は、時代の流れが速くて、なんでもかんでも、すぐに結果を求めるようになりました。
『こころの安らぎ』さえ、すぐに与えてくれるモノやサービスにみんなの目が向くようになったのでしょう。
この本の著者の楽観論は、見事に外れた、と言っていいでしょう。
では、どうしたらいいのか?です。
この流れはどこから始まったのか、といえば、18世紀の産業革命からです。
もう200年以上もこのながれは変わる事がない。
生産手段が高度化すれば生産量は拡大する。
大資本が生まれ、その生産物を消費者に無理矢理にでも押しつけないと資本は成りたたない。
それで、社会主義が生まれたのですが、その末路はご存じの通りです。
感受性というのは一度劣化を始めると、元には戻らないのです。
また、それを失わせた方が企業は儲かるんです。
企業の思い通りに消費者を動かせるからです。
それがファッションであり、モードです。
20年前あれだけ華やかに着飾った女性達も、いまは、ファストファッションです。
大量規格品でも、文句を言わなくなりました。
それどころか、ブランドとして同じモノを持つことを誇らしく思うようになったんです。
モノじゃなくて、イメージしか見ないように消費者を仕向けたんですね。
本当の事を確かめないで、お題目を見て得たイメージで購買行動を起こす。
健康グッズとか、ダイエット食品なんてほとんどそんな感じじゃないでしょうか。
伝統織物の表示がややこしいのも、そこ戦略の一環であると言えます。
反末にそのラベルが貼ってあるから、そうなんだ、と思ってしまう。
本物を知っている人は、違うと解りますが『あんた、それニセモンやで』とは言わない。
つまり、みんなモノをじっと見て、味わう事を忘れた、忘れさせられたんです。
忘れてしまったモノを取り返すには、自分で訓練するしかないのだろうと思います。
そのままで、良いと言えば良いのです。
余計な事を考えずに、時代の流れに乗って、ひょうひょうと生きていた方が楽しいかもしれません。
感受性が強くなると、みにくいモノばかりが目について、つらい現代社会です。
それで、『わたしは、そんなんイヤや。ほんまもん、わかるようになりたい』と思われるなら、時代に逆行するしかありません。
じっくり、穴があくくらいモノをみて、一つの良いモノを大切に使う。
本来、心の安らぎというのも、そういうライフスタイルの中から得られるものであって、モノそのものがあたえてくれるのでは無いと思います。
消費者であるお客様だけでなく、私達、モノを供給する側は、もっと強くその事を認識すべきだと私は思います。
2013年01月29日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第9話
【機械との融合】
著者は機械を導入することについて肯定的な考え方を持っていて、以下のように書いています。
『機械化の行き着くところは、量産化であり、そして産地化である。こんにち消費市場に名を知られている織物産地は、その量の関係からも、ほとんどが進んで機械化したところと言えよう。そこには、伝統技法の昔日の面影はないかも知れない。しかし、その工業製品の中にも、土地の伝統というものは、形を変えて織り込まれているはずである。こんにち大産地となっている土地は、みなそれぞれに織物にとって伝統の深いところなのである』
実は、私も機械化否定論者ではありません。
機械と言っても、それは道具であり、手段だと想うからです。
道具や手段を変えても結果が変わらないなら、大きな問題は本来無いと想います。
要は、お客様が期待され、自分が目指す品質、内容であるかどうか、ということなんじゃないでしょうか。
手織りでも下手くそはたくさんいますし、機械でもそれなりに良い物を造ることはできます。
不必要なところに手を使うより、合理的に機械化したほうが、良い場合もあります。
大事なのは、結果として出来上がった作品が、自分の目指すところに適っていて、お客様のご期待に応えているか、という事です。
沖縄では、喜如嘉の芭蕉布、宮古上布、八重山上布にかんしては、機械というか金属類が工程にほとんど登場しません。
染色の為のズンドウと染色棒くらいでしょうか?
『木と繊維』の世界です。
本島では少し機械が導入された気配も感じられて、錆び付いた撚糸機がどこかにほったらかしになっているのを見た記憶があります。
もちろん、芭蕉布や上布類の産地では伝統を大切にしているという部分はあるのでしょうが、それよりも合理的な選択がなされた結果がいまの制作環境なのではないかと想うのです。
宮古島や石垣島で量産体制がとられた歴史がなかったか?といえばそんな事はないのです。
でも、量産のために機械を導入するという選択肢は選ばなかった。
八重山上布がラミー×ラミーの時代もそうはならなかった。
それは、『いくらなんでも、それじゃ、良い物はできないでしょ』という想いがあったからじゃないでしょうか。
機械を入れると言うことが悪いのじゃなくて、作り手が納得しているかどうか、なんです。
機械を入れて、作り手も、お客様も納得する物がつくれると想えば、その選択もあり得るでしょう。
他の産地で、機械化を進めているところは、コスト面も含めて、『それで良い』と想ったから導入したんでしょう。
結論として、消費者であるお客様に受け入れられなかった物が消えていった、と考えて良いのではないでしょうか。
しかし、考えなければならないのは、往々にして、生産量やコストに目を奪われて品質がおざなりになる事がある、という事です。
手作りから機械への過渡期に置いては、まだ品質のチェックが厳密に行われるのでしょうが、機械で自動的に造られるようになると、目が作品から離れてしまう。
作品を見ている時間が激減するんです。
手織りの場合、短くても1週間くらいは作品と向かい合うわけです。
手のかかるものなら何ヶ月も作品を見つづけるんです。
でも、機械はそうじゃない。
作り手さんの所に行くと、織機にかかったまま何ヶ月も放置されているのを観る事があります。
どうしたの?と聞くと、
『織っているうちにイヤになっちゃった』
というのです。
いくら、自分が考えた物でも、生理的に受け入れられないものは、向かい合ってはいられないのです。
だから、基本的に手織りには無惨な反物は出来にくいんです。
手染というか、手仕事の染めも同じですよね。
染めていくうちに、なんかイヤな感じがしてくると、燃やしたくなったりするんだと想います。
商いでも同じで、売れ筋だからって、自分の意に沿わない物を仕入れしたら、やっぱりお客様にお見せするのは後になります。
自分の好きな物をまず先にお見せする。
工芸というのは何でもそうだと想うんですが、自分の手の中にある時間が長いほど、味が出ていいものになる可能性が高くなるんだと想います。
金属でも磨けば磨くほど、陶芸でもこねればこねるほど、しっかり手を掛けるほど下手は下手なりの味がでる。
それが『手仕事の本質』ではないかと想うんです。
機械を導入することがマズイのではなくて、その事によって品質・内容への想いが軽くなる場合があって、それを警戒しないといけないのです。
今は逆に、機械でも良い物が出来るようになってきました。
インクジェットも素人さんが見ても解らないくらい上手く造られています。
ですから、これから考えなければならないのは、『手を使う意義』なんですね。
機械に負けるなら、手仕事である合理的理由はありません。
手仕事の方が良い物ができるから、手をつかうのでなければなりません。
手と機械のガチンコ勝負です。
何を造るかを構想する時、その人は頭の中にあるイメージを形にしてくれる手段を選ぶはずです。
私は手仕事の味方でも、機械の味方でもありません。
お客様と私を満足させてくれる結果としての内容が大事なのです。
著者は機械を導入することについて肯定的な考え方を持っていて、以下のように書いています。
『機械化の行き着くところは、量産化であり、そして産地化である。こんにち消費市場に名を知られている織物産地は、その量の関係からも、ほとんどが進んで機械化したところと言えよう。そこには、伝統技法の昔日の面影はないかも知れない。しかし、その工業製品の中にも、土地の伝統というものは、形を変えて織り込まれているはずである。こんにち大産地となっている土地は、みなそれぞれに織物にとって伝統の深いところなのである』
実は、私も機械化否定論者ではありません。
機械と言っても、それは道具であり、手段だと想うからです。
道具や手段を変えても結果が変わらないなら、大きな問題は本来無いと想います。
要は、お客様が期待され、自分が目指す品質、内容であるかどうか、ということなんじゃないでしょうか。
手織りでも下手くそはたくさんいますし、機械でもそれなりに良い物を造ることはできます。
不必要なところに手を使うより、合理的に機械化したほうが、良い場合もあります。
大事なのは、結果として出来上がった作品が、自分の目指すところに適っていて、お客様のご期待に応えているか、という事です。
沖縄では、喜如嘉の芭蕉布、宮古上布、八重山上布にかんしては、機械というか金属類が工程にほとんど登場しません。
染色の為のズンドウと染色棒くらいでしょうか?
『木と繊維』の世界です。
本島では少し機械が導入された気配も感じられて、錆び付いた撚糸機がどこかにほったらかしになっているのを見た記憶があります。
もちろん、芭蕉布や上布類の産地では伝統を大切にしているという部分はあるのでしょうが、それよりも合理的な選択がなされた結果がいまの制作環境なのではないかと想うのです。
宮古島や石垣島で量産体制がとられた歴史がなかったか?といえばそんな事はないのです。
でも、量産のために機械を導入するという選択肢は選ばなかった。
八重山上布がラミー×ラミーの時代もそうはならなかった。
それは、『いくらなんでも、それじゃ、良い物はできないでしょ』という想いがあったからじゃないでしょうか。
機械を入れると言うことが悪いのじゃなくて、作り手が納得しているかどうか、なんです。
機械を入れて、作り手も、お客様も納得する物がつくれると想えば、その選択もあり得るでしょう。
他の産地で、機械化を進めているところは、コスト面も含めて、『それで良い』と想ったから導入したんでしょう。
結論として、消費者であるお客様に受け入れられなかった物が消えていった、と考えて良いのではないでしょうか。
しかし、考えなければならないのは、往々にして、生産量やコストに目を奪われて品質がおざなりになる事がある、という事です。
手作りから機械への過渡期に置いては、まだ品質のチェックが厳密に行われるのでしょうが、機械で自動的に造られるようになると、目が作品から離れてしまう。
作品を見ている時間が激減するんです。
手織りの場合、短くても1週間くらいは作品と向かい合うわけです。
手のかかるものなら何ヶ月も作品を見つづけるんです。
でも、機械はそうじゃない。
作り手さんの所に行くと、織機にかかったまま何ヶ月も放置されているのを観る事があります。
どうしたの?と聞くと、
『織っているうちにイヤになっちゃった』
というのです。
いくら、自分が考えた物でも、生理的に受け入れられないものは、向かい合ってはいられないのです。
だから、基本的に手織りには無惨な反物は出来にくいんです。
手染というか、手仕事の染めも同じですよね。
染めていくうちに、なんかイヤな感じがしてくると、燃やしたくなったりするんだと想います。
商いでも同じで、売れ筋だからって、自分の意に沿わない物を仕入れしたら、やっぱりお客様にお見せするのは後になります。
自分の好きな物をまず先にお見せする。
工芸というのは何でもそうだと想うんですが、自分の手の中にある時間が長いほど、味が出ていいものになる可能性が高くなるんだと想います。
金属でも磨けば磨くほど、陶芸でもこねればこねるほど、しっかり手を掛けるほど下手は下手なりの味がでる。
それが『手仕事の本質』ではないかと想うんです。
機械を導入することがマズイのではなくて、その事によって品質・内容への想いが軽くなる場合があって、それを警戒しないといけないのです。
今は逆に、機械でも良い物が出来るようになってきました。
インクジェットも素人さんが見ても解らないくらい上手く造られています。
ですから、これから考えなければならないのは、『手を使う意義』なんですね。
機械に負けるなら、手仕事である合理的理由はありません。
手仕事の方が良い物ができるから、手をつかうのでなければなりません。
手と機械のガチンコ勝負です。
何を造るかを構想する時、その人は頭の中にあるイメージを形にしてくれる手段を選ぶはずです。
私は手仕事の味方でも、機械の味方でもありません。
お客様と私を満足させてくれる結果としての内容が大事なのです。
2013年01月27日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第8話
【特産品として】
『生業として成りたたせるには、地域的にまとまって、その特性を打ち出して行く方法がある。個人としてのがんばりをこえたところに、特産品として生きていく道があると言えよう。いや、発展の道さえがあるのである』
ここに上げられている品物は、
掛川の葛布、出雲祝風呂敷、津軽こぎん、秋田八丈、秋田畝織、米琉、合図青木木綿、筑波絣、福光麻布、福野絣、手縞、能登上布、堺段通、弓ヶ浜絣、阿波しじら、土佐地織、江戸小紋、長板中型
です。
特産品として生き残りに役立っているものとして、
保存会の存在、そして県や国の無形文化財指定が上げられています。
特産品はいわゆる『産地』で造られるわけですね。
それに対抗する概念は個人作家でしょうか。
全国を見てみると、個人作家も産地の中に居る人が多いのですが、ぽつんと産地から離れて染織活動をしている人も居ます。
地元大阪では現在、河内木綿がすこし造られているだけですが、それでも染織作家がいないかというといらっしゃるわけですね。
私は沖縄中心の仕事ですから、産地の特産物という感じになるのでしょうが、産地から離れて仕事をしている作家さんと比べると、産地のひとはずいぶん恵まれていると想いますね。
沖縄を見てみると、まず組合がある。組合があると、糸や染料、染織道具などの購入が楽です。共同仕入れなどで安く有利に仕入することができます。
整経機や蒸し機なども、自分で持とうと想えば大変ですが、それも組合に持って行けば経費は少なくて済みます。
また、組合が販路を開いてくれたりするのは、仕事を続ける上で大変心強いでしょう。
後継者育成事業などもしっかり整えられています。
そして、大学があります。
沖縄県立芸大から様々な情報が流され、指導を受けることも出来ます。
もちろん、仲間がいれば、情報交換もできます。
産地に作り手がたくさんいれば、それだけ業者も頻繁に来ます。
2、3人いたって、そこまで問屋や小売店は来てくれないでしょう。
小売店が毎月の様に京都に行くのは、京都に行けばいろんなものがあるからです。
それと同じで、たくさん作り手がいるところに、買い手は集まります。
その都道府県にぽつんと1人いたって、よほど有名にならないかぎり、見向きもされないかもしれません。
日本工芸会や、国画会でそれなりの地位を占めて初めて認知される、という感じでしょう。
伝統というバックグラウンドも大きな財産です。
作品がヘボでも、産地の名前が付いてれば、それなりの価値を見出す人はたくさんいます。
どんなに良い物を造っても、たとえば『羽曳野紬』って表示されていれば『なんやそれ?』です。
でも『結城紬』とか『小千谷縮』と書いてあれば、『ああ、有名やな』と想うわけです。
つまり、産地の特産品というのは、有名ブランドなわけですね。
みなさん、ブランドと聞いて何を思い浮かべますか?
欧米の有名ブランドを連想する方が多いと想います。
ルイ・ヴィトンやシャネル、カルティエなどは誰でも知っているでしょうね。
じゃ、そのブランドの何が良いの?と聞いて、答えられる人は少ないのかもしれません。
でも、言える事は『ブランドにふさわしい最低限の品質が保証されている』という事なんですね。
まさか、ヴィトンやシャネルが、いんちきな物、粗悪品は造らないだろう、と誰しもが想っているはずです。
確かにそうなんです。
有名ブランドは、期待に応える品質を備え、表示内容にウソがない。
その代わり、原価から考えたら、ずいぶん高い価格が付いているわけです。
つまりは、信頼が価値になっているということですね。
では、わが国の染織品のブランドはどうでしょうか?
産地のブランド、メーカーのブランド・・・
そもそもブランドって何ですか?
ブランドというのは日本語では『銘柄』と訳されています。
銘柄、つまり商品の選択肢のひとつです。
多くの商品の中から、それを選び出すときのメドとしてブランド=銘柄が使われるわけですね。
そのブランドに一定の信頼と安心を持つから、お客様は購入されるわけです。
そのブランドが気に入れば、ブランド・ロイヤリティ(銘柄忠誠)が高まって、重ねて何度も同じブランドを購入するということになります。
『資生堂の化粧品なら安心だな』とか『トヨタの車なら故障の心配がないな』とか想って、また資生堂の化粧品やトヨタの車を買うのは、その『資生堂』『トヨタ』というブランドに信頼を置き、ロイヤリティが生まれているからです。
再度、元の話に戻ります。
日本のキモノはどうですか?
インクジェット・プリンターで印刷したキモノを京友禅と表示し、似てもにつかない様な品質の糸を高機で織った物を結城紬と表示する。
それで、両者に対して消費者が期待している品質に応えているでしょうか?
もちろん、手仕事の技術の低下で、品質の優劣は生じるでしょう。でも、その品質が素材と工程から生まれてくるものであるとすれば、それにのっとったものでなければならないと想うのは私だけでしょうか。
前述の通り、この事に関して、結城紬は勇気ある大英断を下しました。
でも、ようやくという感じです。
そうでなければ、これは、消費者を欺く、ブランド価値の悪用であると私は思います。
また、伝統の価値を傷つける、きわめてバチ当たりな行為だろうと想います。
産地というのは様々な意味で、恩恵を受けているのです。
イメージ戦略というのは大事です。
でも、イメージを悪用して、消費者を騙してはいけません。
それが、伝統に根ざしたイメージであれば、これは言語道断です。
ブランド・マネージメントというのは、企業が行うべき事です。
私が『もずや』のブランドを高めようが汚そうが、私と私の会社の問題です。
しかし、産地のブランドというのは、先人が営々と築き上げてきた、その地域の、そして日本国民みんなの財産なんです。
産地が産地として、仕事を続けていく事は、信用を高める事と相反することではありません。
各産地は、その有利性を活用して新しいブランドを立ち上げれば良いのです。
産地に大事なのは、産地としてのブランドだけではない。
『ものづくりの力と伝統』こそが財産なのだと、想います。
『生業として成りたたせるには、地域的にまとまって、その特性を打ち出して行く方法がある。個人としてのがんばりをこえたところに、特産品として生きていく道があると言えよう。いや、発展の道さえがあるのである』
ここに上げられている品物は、
掛川の葛布、出雲祝風呂敷、津軽こぎん、秋田八丈、秋田畝織、米琉、合図青木木綿、筑波絣、福光麻布、福野絣、手縞、能登上布、堺段通、弓ヶ浜絣、阿波しじら、土佐地織、江戸小紋、長板中型
です。
特産品として生き残りに役立っているものとして、
保存会の存在、そして県や国の無形文化財指定が上げられています。
特産品はいわゆる『産地』で造られるわけですね。
それに対抗する概念は個人作家でしょうか。
全国を見てみると、個人作家も産地の中に居る人が多いのですが、ぽつんと産地から離れて染織活動をしている人も居ます。
地元大阪では現在、河内木綿がすこし造られているだけですが、それでも染織作家がいないかというといらっしゃるわけですね。
私は沖縄中心の仕事ですから、産地の特産物という感じになるのでしょうが、産地から離れて仕事をしている作家さんと比べると、産地のひとはずいぶん恵まれていると想いますね。
沖縄を見てみると、まず組合がある。組合があると、糸や染料、染織道具などの購入が楽です。共同仕入れなどで安く有利に仕入することができます。
整経機や蒸し機なども、自分で持とうと想えば大変ですが、それも組合に持って行けば経費は少なくて済みます。
また、組合が販路を開いてくれたりするのは、仕事を続ける上で大変心強いでしょう。
後継者育成事業などもしっかり整えられています。
そして、大学があります。
沖縄県立芸大から様々な情報が流され、指導を受けることも出来ます。
もちろん、仲間がいれば、情報交換もできます。
産地に作り手がたくさんいれば、それだけ業者も頻繁に来ます。
2、3人いたって、そこまで問屋や小売店は来てくれないでしょう。
小売店が毎月の様に京都に行くのは、京都に行けばいろんなものがあるからです。
それと同じで、たくさん作り手がいるところに、買い手は集まります。
その都道府県にぽつんと1人いたって、よほど有名にならないかぎり、見向きもされないかもしれません。
日本工芸会や、国画会でそれなりの地位を占めて初めて認知される、という感じでしょう。
伝統というバックグラウンドも大きな財産です。
作品がヘボでも、産地の名前が付いてれば、それなりの価値を見出す人はたくさんいます。
どんなに良い物を造っても、たとえば『羽曳野紬』って表示されていれば『なんやそれ?』です。
でも『結城紬』とか『小千谷縮』と書いてあれば、『ああ、有名やな』と想うわけです。
つまり、産地の特産品というのは、有名ブランドなわけですね。
みなさん、ブランドと聞いて何を思い浮かべますか?
欧米の有名ブランドを連想する方が多いと想います。
ルイ・ヴィトンやシャネル、カルティエなどは誰でも知っているでしょうね。
じゃ、そのブランドの何が良いの?と聞いて、答えられる人は少ないのかもしれません。
でも、言える事は『ブランドにふさわしい最低限の品質が保証されている』という事なんですね。
まさか、ヴィトンやシャネルが、いんちきな物、粗悪品は造らないだろう、と誰しもが想っているはずです。
確かにそうなんです。
有名ブランドは、期待に応える品質を備え、表示内容にウソがない。
その代わり、原価から考えたら、ずいぶん高い価格が付いているわけです。
つまりは、信頼が価値になっているということですね。
では、わが国の染織品のブランドはどうでしょうか?
産地のブランド、メーカーのブランド・・・
そもそもブランドって何ですか?
ブランドというのは日本語では『銘柄』と訳されています。
銘柄、つまり商品の選択肢のひとつです。
多くの商品の中から、それを選び出すときのメドとしてブランド=銘柄が使われるわけですね。
そのブランドに一定の信頼と安心を持つから、お客様は購入されるわけです。
そのブランドが気に入れば、ブランド・ロイヤリティ(銘柄忠誠)が高まって、重ねて何度も同じブランドを購入するということになります。
『資生堂の化粧品なら安心だな』とか『トヨタの車なら故障の心配がないな』とか想って、また資生堂の化粧品やトヨタの車を買うのは、その『資生堂』『トヨタ』というブランドに信頼を置き、ロイヤリティが生まれているからです。
再度、元の話に戻ります。
日本のキモノはどうですか?
インクジェット・プリンターで印刷したキモノを京友禅と表示し、似てもにつかない様な品質の糸を高機で織った物を結城紬と表示する。
それで、両者に対して消費者が期待している品質に応えているでしょうか?
もちろん、手仕事の技術の低下で、品質の優劣は生じるでしょう。でも、その品質が素材と工程から生まれてくるものであるとすれば、それにのっとったものでなければならないと想うのは私だけでしょうか。
前述の通り、この事に関して、結城紬は勇気ある大英断を下しました。
でも、ようやくという感じです。
そうでなければ、これは、消費者を欺く、ブランド価値の悪用であると私は思います。
また、伝統の価値を傷つける、きわめてバチ当たりな行為だろうと想います。
産地というのは様々な意味で、恩恵を受けているのです。
イメージ戦略というのは大事です。
でも、イメージを悪用して、消費者を騙してはいけません。
それが、伝統に根ざしたイメージであれば、これは言語道断です。
ブランド・マネージメントというのは、企業が行うべき事です。
私が『もずや』のブランドを高めようが汚そうが、私と私の会社の問題です。
しかし、産地のブランドというのは、先人が営々と築き上げてきた、その地域の、そして日本国民みんなの財産なんです。
産地が産地として、仕事を続けていく事は、信用を高める事と相反することではありません。
各産地は、その有利性を活用して新しいブランドを立ち上げれば良いのです。
産地に大事なのは、産地としてのブランドだけではない。
『ものづくりの力と伝統』こそが財産なのだと、想います。
2013年01月15日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第7話
【意志と家業と】
ここでははじめに黄八丈の山下めゆさんと、館山唐桟の斉藤豊吉さんの話が載っています。
『肉親による家業としての意志の伝達がもっとも典型的な姿をとっているのは、一子相伝方式であろう』
『意志の力が家業として打ち込まれ、それによって伝統織物がささえられているとき、存立には力強いものがある。ここには、おばあさんの愛情とは違った家伝にたいする使命感がみられよう。それは日本の伝統織物を支える一つの太い柱でもある』
つまり、伝統技法と一緒に伝統の仕事を親から子へ、子から孫へと伝承し、継承していくということですね。
いわゆる世襲です。
政治の世界では世襲が批判の対象になっているようですが、その政治も含めて世襲というのも大変意味のある、合理的なシステムなんですよ。
伝統染織だけでなく、他の伝統工芸も、伝統芸能も軸となっているのは世襲です。
茶道の家元も世襲ですね。
一子相伝ということでなくても、その道の『本筋』『本流』を継承していくという意味で世襲はきわめて有効なしくみです。
世襲でなければどうなるかというと、十把一絡げにはできませんが、世の中の動きや市場動向に応じて、道をゆがめる事があるかもしれません。
世襲ならそれは無い、とは言いませんが、可能性としては低くなると思います。
なぜかというと、世襲で受け継がれるのは技術だけでなく、マインドも受け継がれる場合が多いからです。
マインドは意志ともいえるのでしょうか。
私も世襲経営者ですが、私も含めて父親の働く姿、仕事に対する姿勢というのものを物心がつかないうちから見て育つわけです。
土壇場に追い込まれたとき、なんとか踏ん張りがきくのは、『親父に申し訳ない』という気があるからです。
もちろん、中には親から受け継いだ大事な仕事をただの金儲けの道具と思っている人もいます。
でも、親や恩ある師匠から受け継ぐのと、そうでないのとでは、使命感に雲泥の差があると私は思います。
そんなことばっかり言っててもしょうがないのですが、近頃の作り手が世襲が少なくなり、師弟関係が弱くなったのがどうも心配でならないのです。
道を踏み外そうとした時、本気で怒ってくれたり、悩んだときに親身になって相談に乗ってくれたりする師匠がいないと、伝統の世界はどんどんゆがんでいくような気がするんです。
陶芸でも、近頃は3年くらい師匠の工房にいたら、すぐに独立してしまう人が多いそうです。
そんな事で、本当によい職人芸がはぐくまれるわけがないと思いますし、しばらくはうまくいってもいずれ早々に行き詰まるように思うのです。
世襲とか一子相伝というのを勧めることも、強制することもできませんが、それが極端に減少し、世襲が良くないことの様に言われる風潮が伝統の継承をより難しくしているのでしょう。
江戸時代までは職業選択の自由がそれほどありませんでしたし、親の跡を継ぐのが長男としてのつとめでした。
親もそのつもりでマインドコントロールしたんです。
いまは、職人だけでなく、私たちのような商売人も商売を継がせない人が増えました。
このことは、永年積み上げてきた我が国の蓄積を失っていくのと同じ事のように思います。
といいつつ、私にも後継者がいません。
もし、私に後継者がいたとすれば、それは販売技術の継承でも、商品プロデュースのノウハウの伝授でもありません。
私の『マインド』しか受け渡すべきものは無いんです。
世襲とか一子相伝というのは、先代から、いちばん大切な『エキス』をもらっているんです。
とぎれるということは、その『エキス』が埋もれ、失われるということです。
商業であれ、ものづくりであれ、エキスが失われるというのは我が国にとっても世界にとっても莫大な損害なんですね。
沖縄でも若い作り手さんで、親もやっていたから、という人をあまり知りません。
とくに織は少ないように感じます。
紅型にくらべて、織の人に熱っぽさがすくないのはそのせいかもしれないな、と思わなくもありません。
ここでははじめに黄八丈の山下めゆさんと、館山唐桟の斉藤豊吉さんの話が載っています。
『肉親による家業としての意志の伝達がもっとも典型的な姿をとっているのは、一子相伝方式であろう』
『意志の力が家業として打ち込まれ、それによって伝統織物がささえられているとき、存立には力強いものがある。ここには、おばあさんの愛情とは違った家伝にたいする使命感がみられよう。それは日本の伝統織物を支える一つの太い柱でもある』
つまり、伝統技法と一緒に伝統の仕事を親から子へ、子から孫へと伝承し、継承していくということですね。
いわゆる世襲です。
政治の世界では世襲が批判の対象になっているようですが、その政治も含めて世襲というのも大変意味のある、合理的なシステムなんですよ。
伝統染織だけでなく、他の伝統工芸も、伝統芸能も軸となっているのは世襲です。
茶道の家元も世襲ですね。
一子相伝ということでなくても、その道の『本筋』『本流』を継承していくという意味で世襲はきわめて有効なしくみです。
世襲でなければどうなるかというと、十把一絡げにはできませんが、世の中の動きや市場動向に応じて、道をゆがめる事があるかもしれません。
世襲ならそれは無い、とは言いませんが、可能性としては低くなると思います。
なぜかというと、世襲で受け継がれるのは技術だけでなく、マインドも受け継がれる場合が多いからです。
マインドは意志ともいえるのでしょうか。
私も世襲経営者ですが、私も含めて父親の働く姿、仕事に対する姿勢というのものを物心がつかないうちから見て育つわけです。
土壇場に追い込まれたとき、なんとか踏ん張りがきくのは、『親父に申し訳ない』という気があるからです。
もちろん、中には親から受け継いだ大事な仕事をただの金儲けの道具と思っている人もいます。
でも、親や恩ある師匠から受け継ぐのと、そうでないのとでは、使命感に雲泥の差があると私は思います。
そんなことばっかり言っててもしょうがないのですが、近頃の作り手が世襲が少なくなり、師弟関係が弱くなったのがどうも心配でならないのです。
道を踏み外そうとした時、本気で怒ってくれたり、悩んだときに親身になって相談に乗ってくれたりする師匠がいないと、伝統の世界はどんどんゆがんでいくような気がするんです。
陶芸でも、近頃は3年くらい師匠の工房にいたら、すぐに独立してしまう人が多いそうです。
そんな事で、本当によい職人芸がはぐくまれるわけがないと思いますし、しばらくはうまくいってもいずれ早々に行き詰まるように思うのです。
世襲とか一子相伝というのを勧めることも、強制することもできませんが、それが極端に減少し、世襲が良くないことの様に言われる風潮が伝統の継承をより難しくしているのでしょう。
江戸時代までは職業選択の自由がそれほどありませんでしたし、親の跡を継ぐのが長男としてのつとめでした。
親もそのつもりでマインドコントロールしたんです。
いまは、職人だけでなく、私たちのような商売人も商売を継がせない人が増えました。
このことは、永年積み上げてきた我が国の蓄積を失っていくのと同じ事のように思います。
といいつつ、私にも後継者がいません。
もし、私に後継者がいたとすれば、それは販売技術の継承でも、商品プロデュースのノウハウの伝授でもありません。
私の『マインド』しか受け渡すべきものは無いんです。
世襲とか一子相伝というのは、先代から、いちばん大切な『エキス』をもらっているんです。
とぎれるということは、その『エキス』が埋もれ、失われるということです。
商業であれ、ものづくりであれ、エキスが失われるというのは我が国にとっても世界にとっても莫大な損害なんですね。
沖縄でも若い作り手さんで、親もやっていたから、という人をあまり知りません。
とくに織は少ないように感じます。
紅型にくらべて、織の人に熱っぽさがすくないのはそのせいかもしれないな、と思わなくもありません。
2013年01月10日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第6話
【生命と愛着と】
『生業がことばどおりの生業ではなく、準生業・半生業といったばあいには、比較的残りやすい。それをよく表しているのが「おばあさんの手」による伝承である。すでにそのおばあさんたちは、家計の担い手ではない。趣味とささやかな実益と、そして強い伝統への愛着と、それらによって、伝承の灯がともし続けられている姿は、意外に根強く伝統織物の底流をなしている』
『かつて女は、日本社会の下積みだった。下積みだったからこそ、もちこたえられてこられたこの伝承のエネルギー。しかし、現在この人達に何が心配かを問えば、それは、あとを継ぐ若い婦人たちがいないか、または極めて少ないという事である。愛着の系譜の切れたところでは、いま造っている人の生命だけの期限しかない伝統技法もある』
『愛のきずなが生命限りのものとなったとき、その前途は短い。だが、生命による支えがさらに愛着のきずなを次の時代につなぐ可能性は、まだなくなったわけではない』
染めはともかく、織、とくに地方の民芸的な織物の多くは女性の手によって担われてきました。
夜や農閑期に織ったわけですね。
『与作は木を伐る♪へいへいほ〜へいへいほ〜女房は機を織る♪トントントン、トントントン』の世界です。
なぜ、この世界が失われたのか?
それは需要、つまり着物離れの問題だけではないと私は思います。
産業構造の変化と女性の社会進出も大きく影響していると思っています。
機織をしているイメージってどんなもんですか?
与作の世界のように、昼間は百姓仕事をして、夜は女性が副収入として織っていたという形が基本です。
江戸時代まで各藩で産業振興の為にいろんな織物が織られるようになりましたが、農業を捨てて機屋をやっていたわけではありません。
西陣織のような織物と民芸的な紬織の世界とは成り立ちからして別と考えた方がいいと思います。
昔は問屋制家内工業の形で、問屋から糸をもらい、縞帳どおりに織れば、工賃仕事で農業以外の収入ができた。
ところが、農業では基本的な収入が確保できなくなり、また他の産業が伸びていく中で取り残される形になった農業からは、従事者が減り、兼業農家も多くなった。
そして、仕事を求めて、男は都会に出て行く。女性も社会進出が盛んになり、外の仕事が中心になった・・・
つまり、故郷や自宅が『労働の場』ではなくなったのです。
夜なべしてやっと手にする工賃より、会社に居て座っていればもらえる給料の方が高くなった。
紬織、民芸織物が他の工芸と一番ちがうところは、農村の女性がその担い手であったことです。
西陣や沖縄の首里は特異な例ですし、これらは民芸とは言いません。
そして、その上に、機械紡績や自動織機が登場した。
つまり糸は大量に紡績され、大ロットで染織される。もちろん、それは低価格化を招きます。
第5話でもお話ししたように、もう生業として成りたつどころか、造ったって買う人がいない、という状況に追い込まれたわけです。
今では考えにくい事かもしれませんが、『手より機械で造った方が良いモノができる』と思われていた時代がつい最近まであったのです。
考えてみてください。
つい最近まで、『手で書くよりワープロでうったほうが丁寧だ』と封筒に宛名を印刷していませんでしたか?
こぞって機械を導入したのは、安く大量に出来る、というだけでなく、手より良いモノができると信じられていたからなのです。
そんな世の中で、現実の世界で生活している人、とくに女性が、そのまま手仕事を続けていけるわけがありません。
ここに書かれている『命の灯をともしている』おばあさんはその端境期にいて、『てなぐさみ』としてやっていたのです。
つまり、ここでいう『きずな』というのは『てなぐさみ好き』の愛好会のきずなです。
布というのは不思議な力があります。
糸や布を触ったり、見たりしていると心が落ち着くんです。
とくに手作りのモノは威力があります。
夫婦げんかしたときには、部屋中に着物をまき散らして、心を落ち着けるという方を何人も知っています。
織っている時には、織機と一体になってしまうような感覚があるほどのめり込んでしまうのも、そのせいだと思います。
この『布の魔力』にとりつかれた人もまた、『きづな』でつながれた人です。
布が好きで、手なぐさみとして織をしたい、そういう人だけがやればいいのです。
私が出来る仕事というのは、その布が好き、造ってみたい、という人を一人でも増やして、仕事を続けられるようにする事くらいです。
テーブルセンターやマフラーからでいい。
楽しく造って、上手な人、才能に恵まれた人がさらに先に進んで、帯、着尺と織っていけばいい。
ちょっと前に『好縁社会』という言葉がはやりましたが、まさにその『好い縁』で繋がれた人々が助け合いながら仕事をしていけばいいと私は思っています。
その好縁社会のひとかけらが『もずや会』なわけです。
だから、もずや会の会員だからと言って、私が仕入れるというワケでもないし、まったく自由な染織が好きな人達の集まりなんです。
楽しくないとダメですよ、趣味仕事なんですから!
『生業がことばどおりの生業ではなく、準生業・半生業といったばあいには、比較的残りやすい。それをよく表しているのが「おばあさんの手」による伝承である。すでにそのおばあさんたちは、家計の担い手ではない。趣味とささやかな実益と、そして強い伝統への愛着と、それらによって、伝承の灯がともし続けられている姿は、意外に根強く伝統織物の底流をなしている』
『かつて女は、日本社会の下積みだった。下積みだったからこそ、もちこたえられてこられたこの伝承のエネルギー。しかし、現在この人達に何が心配かを問えば、それは、あとを継ぐ若い婦人たちがいないか、または極めて少ないという事である。愛着の系譜の切れたところでは、いま造っている人の生命だけの期限しかない伝統技法もある』
『愛のきずなが生命限りのものとなったとき、その前途は短い。だが、生命による支えがさらに愛着のきずなを次の時代につなぐ可能性は、まだなくなったわけではない』
染めはともかく、織、とくに地方の民芸的な織物の多くは女性の手によって担われてきました。
夜や農閑期に織ったわけですね。
『与作は木を伐る♪へいへいほ〜へいへいほ〜女房は機を織る♪トントントン、トントントン』の世界です。
なぜ、この世界が失われたのか?
それは需要、つまり着物離れの問題だけではないと私は思います。
産業構造の変化と女性の社会進出も大きく影響していると思っています。
機織をしているイメージってどんなもんですか?
与作の世界のように、昼間は百姓仕事をして、夜は女性が副収入として織っていたという形が基本です。
江戸時代まで各藩で産業振興の為にいろんな織物が織られるようになりましたが、農業を捨てて機屋をやっていたわけではありません。
西陣織のような織物と民芸的な紬織の世界とは成り立ちからして別と考えた方がいいと思います。
昔は問屋制家内工業の形で、問屋から糸をもらい、縞帳どおりに織れば、工賃仕事で農業以外の収入ができた。
ところが、農業では基本的な収入が確保できなくなり、また他の産業が伸びていく中で取り残される形になった農業からは、従事者が減り、兼業農家も多くなった。
そして、仕事を求めて、男は都会に出て行く。女性も社会進出が盛んになり、外の仕事が中心になった・・・
つまり、故郷や自宅が『労働の場』ではなくなったのです。
夜なべしてやっと手にする工賃より、会社に居て座っていればもらえる給料の方が高くなった。
紬織、民芸織物が他の工芸と一番ちがうところは、農村の女性がその担い手であったことです。
西陣や沖縄の首里は特異な例ですし、これらは民芸とは言いません。
そして、その上に、機械紡績や自動織機が登場した。
つまり糸は大量に紡績され、大ロットで染織される。もちろん、それは低価格化を招きます。
第5話でもお話ししたように、もう生業として成りたつどころか、造ったって買う人がいない、という状況に追い込まれたわけです。
今では考えにくい事かもしれませんが、『手より機械で造った方が良いモノができる』と思われていた時代がつい最近まであったのです。
考えてみてください。
つい最近まで、『手で書くよりワープロでうったほうが丁寧だ』と封筒に宛名を印刷していませんでしたか?
こぞって機械を導入したのは、安く大量に出来る、というだけでなく、手より良いモノができると信じられていたからなのです。
そんな世の中で、現実の世界で生活している人、とくに女性が、そのまま手仕事を続けていけるわけがありません。
ここに書かれている『命の灯をともしている』おばあさんはその端境期にいて、『てなぐさみ』としてやっていたのです。
つまり、ここでいう『きずな』というのは『てなぐさみ好き』の愛好会のきずなです。
布というのは不思議な力があります。
糸や布を触ったり、見たりしていると心が落ち着くんです。
とくに手作りのモノは威力があります。
夫婦げんかしたときには、部屋中に着物をまき散らして、心を落ち着けるという方を何人も知っています。
織っている時には、織機と一体になってしまうような感覚があるほどのめり込んでしまうのも、そのせいだと思います。
この『布の魔力』にとりつかれた人もまた、『きづな』でつながれた人です。
布が好きで、手なぐさみとして織をしたい、そういう人だけがやればいいのです。
私が出来る仕事というのは、その布が好き、造ってみたい、という人を一人でも増やして、仕事を続けられるようにする事くらいです。
テーブルセンターやマフラーからでいい。
楽しく造って、上手な人、才能に恵まれた人がさらに先に進んで、帯、着尺と織っていけばいい。
ちょっと前に『好縁社会』という言葉がはやりましたが、まさにその『好い縁』で繋がれた人々が助け合いながら仕事をしていけばいいと私は思っています。
その好縁社会のひとかけらが『もずや会』なわけです。
だから、もずや会の会員だからと言って、私が仕入れるというワケでもないし、まったく自由な染織が好きな人達の集まりなんです。
楽しくないとダメですよ、趣味仕事なんですから!
2013年01月09日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第5話
ちょっとだけ動画でやりましたが、今年からは文章にしますね。
動画はたま別の話題でアップします。
動画で連載というのは、環境的に難しいようです。
でも、けっこう面白いのは面白いので、たまにやりますね。
【消えていった生業】
ここに『消えていった織物』として以下のものがあげられています。
・常磐紺形(宮城県)
・ぜんまい白鳥織(秋田県)
・開田麻布(長野県)
・井波絣(富山県)
・倉吉絣(鳥取県)
・半兵衛更紗・鍋島段通(長崎県)
・日代木綿(大分県)
昭和30年代に『消えていった』と認識されたものでこれだけあります。
このうち、倉吉絣と鍋島段通は復活したのですかね。
著者はこれらには共通点がある、として、それは要するに
『生業として成りたたなくなった』からだ、と書いています。
『それらは大なり小なり、その土地の産業だった。ある程度まで利害関係を離れた熱心な少数者(教員など)の努力によってその土地の産業は支えられてきた。しかしそれらは、時勢の移り変わりのなかで、ほどんど人知れず消えていったのである』
『生業である以上は、ほかのよりよい生業があれば、それに移ってゆくのはまたやむを得ない。それをおこし、推進したリーダーの姓名と意志のみで支えられるようなこの種の伝統織物は、やはり衰退すべき運命にあったのかも知れない』
悲しい事ですがこれが現実ですし、いまなお続いている状態でもあります。
食べて行かれなければ、仕事は続けられないのです。
沖縄でも石垣島に染織従事者が少ないのは、他に仕事があるからです。
観光の仕事が盛んで、物販も成果があがり、仕事があるのです。
ということは、新石垣空港が開港すれば観光客はさらに増え、染織従事者はさらに漸減していくでしょう。
久米島や与那国では他に仕事といえば、精糖と酒造(泡盛)くらいです。
そんな状態でも、織物の仕事を諦めなければならない人が出てくるでしょう。
沖縄は助成金などでも恵まれていますが、他産地はもっと厳しいですし、産地から離れた個人作家となれば、収入をアテにすることさえ難しいと思います。
では、どうしたらいいのでしょうか?
結論としてはどうしようもありません。
生業として成りたつことは無いと思います。
私が何度も書いている事ですね。
やるべき事はただ一つ。
生業として成りたたないという意識から出発することです。
ある産地の方がおっしゃっていた話がいまでも心に残っています。
『化学繊維が出来、自動織機が出来た現代、この布はもう終わった布なのよ。でも、その上で私たちはこの布を守っていかないと行けないの』
名言だと思います。
身を守り、体温を保つ為の布、衣服としては伝統工芸の布は役割を終えた。
代替品は安価に大量にあるんです。
ワンコインでシャツが買える時代です。
でも、その中で、自分達の仕事をどう位置づけるか。
どんなにねじ曲げた仕事をしても、手を抜いても、手仕事は割に合わない。
だから、やめるのか、それでもやるのか、です。
やるなら何の為にやるのか。
伝統を守るためにやる、自分の表現としてやる、そして造りたいからやる。
人それぞれであっていいと思います。
ちょっとしたお小遣いが好きな仕事して入るならそれで十分というのもいいでしょう。
私が思うのは、やると決めたからには、良いもの、自分の名前に恥じないモノをつくろうよ!ということなんです。
私とお付き合いのある作家さんは言われた事あると思いますが、私はしょっちゅう言います。
『この作品にあなたの名前が付いてでますけど、それでいいのですか?』
『この作品を造っていて、あなたは楽しかったですか?』
作家だったら、意に沿わないモノをつくるもんじゃありません。
問屋がどんなに言っても、イヤなモノをつくるんじゃない。
イヤイヤ、気の入らないモノを造ってもロクなものはできやしないのです。
その代わり、しっかり勉強することです。
『どうせ終わった恋だもの』じゃないですが、『どうせ終わった布』なんです。
売れるか売れないか解らないけど、とにかく良い物造ろう!楽しく仕事しよう!
そうしたら、良い物が出来て、造っているときの楽しい気持ちが伝わって売れるもんなんです。
伝統染織は正直にやればやるほど、手を掛ければ掛けるほど、もうけから遠のきます。
私の様な売る仕事も同じです。
でも、それでもやんねん!そやかて、好きやねんもん!
好きでも続けられないとうのなら、やめたらよろし。
恋も仕事も、諦めなければならない時もあります。
だからこそ、続けられるのであれば、腹の底で覚悟を決めて、楽しく仕事をしましょう!
動画はたま別の話題でアップします。
動画で連載というのは、環境的に難しいようです。
でも、けっこう面白いのは面白いので、たまにやりますね。
【消えていった生業】
ここに『消えていった織物』として以下のものがあげられています。
・常磐紺形(宮城県)
・ぜんまい白鳥織(秋田県)
・開田麻布(長野県)
・井波絣(富山県)
・倉吉絣(鳥取県)
・半兵衛更紗・鍋島段通(長崎県)
・日代木綿(大分県)
昭和30年代に『消えていった』と認識されたものでこれだけあります。
このうち、倉吉絣と鍋島段通は復活したのですかね。
著者はこれらには共通点がある、として、それは要するに
『生業として成りたたなくなった』からだ、と書いています。
『それらは大なり小なり、その土地の産業だった。ある程度まで利害関係を離れた熱心な少数者(教員など)の努力によってその土地の産業は支えられてきた。しかしそれらは、時勢の移り変わりのなかで、ほどんど人知れず消えていったのである』
『生業である以上は、ほかのよりよい生業があれば、それに移ってゆくのはまたやむを得ない。それをおこし、推進したリーダーの姓名と意志のみで支えられるようなこの種の伝統織物は、やはり衰退すべき運命にあったのかも知れない』
悲しい事ですがこれが現実ですし、いまなお続いている状態でもあります。
食べて行かれなければ、仕事は続けられないのです。
沖縄でも石垣島に染織従事者が少ないのは、他に仕事があるからです。
観光の仕事が盛んで、物販も成果があがり、仕事があるのです。
ということは、新石垣空港が開港すれば観光客はさらに増え、染織従事者はさらに漸減していくでしょう。
久米島や与那国では他に仕事といえば、精糖と酒造(泡盛)くらいです。
そんな状態でも、織物の仕事を諦めなければならない人が出てくるでしょう。
沖縄は助成金などでも恵まれていますが、他産地はもっと厳しいですし、産地から離れた個人作家となれば、収入をアテにすることさえ難しいと思います。
では、どうしたらいいのでしょうか?
結論としてはどうしようもありません。
生業として成りたつことは無いと思います。
私が何度も書いている事ですね。
やるべき事はただ一つ。
生業として成りたたないという意識から出発することです。
ある産地の方がおっしゃっていた話がいまでも心に残っています。
『化学繊維が出来、自動織機が出来た現代、この布はもう終わった布なのよ。でも、その上で私たちはこの布を守っていかないと行けないの』
名言だと思います。
身を守り、体温を保つ為の布、衣服としては伝統工芸の布は役割を終えた。
代替品は安価に大量にあるんです。
ワンコインでシャツが買える時代です。
でも、その中で、自分達の仕事をどう位置づけるか。
どんなにねじ曲げた仕事をしても、手を抜いても、手仕事は割に合わない。
だから、やめるのか、それでもやるのか、です。
やるなら何の為にやるのか。
伝統を守るためにやる、自分の表現としてやる、そして造りたいからやる。
人それぞれであっていいと思います。
ちょっとしたお小遣いが好きな仕事して入るならそれで十分というのもいいでしょう。
私が思うのは、やると決めたからには、良いもの、自分の名前に恥じないモノをつくろうよ!ということなんです。
私とお付き合いのある作家さんは言われた事あると思いますが、私はしょっちゅう言います。
『この作品にあなたの名前が付いてでますけど、それでいいのですか?』
『この作品を造っていて、あなたは楽しかったですか?』
作家だったら、意に沿わないモノをつくるもんじゃありません。
問屋がどんなに言っても、イヤなモノをつくるんじゃない。
イヤイヤ、気の入らないモノを造ってもロクなものはできやしないのです。
その代わり、しっかり勉強することです。
『どうせ終わった恋だもの』じゃないですが、『どうせ終わった布』なんです。
売れるか売れないか解らないけど、とにかく良い物造ろう!楽しく仕事しよう!
そうしたら、良い物が出来て、造っているときの楽しい気持ちが伝わって売れるもんなんです。
伝統染織は正直にやればやるほど、手を掛ければ掛けるほど、もうけから遠のきます。
私の様な売る仕事も同じです。
でも、それでもやんねん!そやかて、好きやねんもん!
好きでも続けられないとうのなら、やめたらよろし。
恋も仕事も、諦めなければならない時もあります。
だからこそ、続けられるのであれば、腹の底で覚悟を決めて、楽しく仕事をしましょう!
2012年10月24日
次なる連載は『もずやと学ぶ日本の伝統織物』
『芸術と経済のジレンマ』の連載も終盤にさしかかり、文楽の助成金問題も一段落したところで、次の連載を考えていました。
ある方から『日本の織物を総括して学べる本はないか?』と聞かれ、何冊か買ってみました。
すると、なじみ深い著者の本に行き当たりました。
染織と生活者の冨山弘基氏の書かれた本でで、この方は弊社の先代とも関わりのあった方です。
私がこの世界に入ったときも、この方の書かれた本を教科書として基礎を学びました。
正直言って、私は他産地の織物に関する知識は沖縄に関するそれの半分も持って居ません。
もちろん、商いに必要な知識は持っていますが、沖縄に比べたら大人と赤ちゃんくらいの差があります。
常々、体系的に勉強したいと想っていたのですが、なかなか機会に恵まれずにいました。
せっかくこの本を手にしたので、読者の皆様と一緒に勉強したいと想います。
雑誌的に書かれた本は知識としては大して役に立ちません。
着物ファンの芸能人や文化人が書いたものも同じです。
きちんとした研究者が書いた本を、批判的に、事実と照らし合わせながら読む事が必要です。
前掲の『沖縄の伝統染織』も書かれた年代が古く、調査も十分でなかったせいか誤りも散見されます。
これは著者が悪いのではなく、仕事としてどっぷり浸かっていないと見えてこない部分がどうしてもあるのです。
しかし、プロの染織研究家の書いたものは基本的に著者が内容について責任を持っています。
ですから、きちんとしたある程度アカデミックな本を読まないといけないのです。
もう一つ、私が沖縄以外の産地の事を取り上げようとした理由があります。
沖縄や京都などには染織を学ぶためにたくさんの若い人達が集まってきます。
若い従事者の半数近くが県外の人でしめられているという現場もあります。
しかし、基本的に染織をはじめとする伝統工芸は、その土地の風土の中でうまれるものです。
沖縄や京都で染織を学んだ人が、もし郷里に帰ったときに、どんな仕事をするのでしょうか?
沖縄の人間でもない、沖縄でやるのでもない。
それが悪いとか、意味の無いことだとか言っているのでは全くありません。
でも、ひとつの選択肢として、学んだ技術を使って『郷里の伝統染織の復活』を試みる、という事はありえないでしょうか。
この本を見ても解るように、この本が書かれた昭和30年代後半には、まだまだたくさんの伝統染織が全国で息づいて居ました。
ちょうど私が生まれた頃ですが、そのころはまだあったのです。
と言うことは、私の曾祖母の頃は、まだやっていた人が居たのです。そんな遙か昔の話ではないのです。
確かに、手織り、手染めの着物は高価になってしまいます。
多くの染織品が市場に適応できずに消滅したのです。
これからも、染織品を手仕事でやって、一家の生計を成り立たせるというのは至難の業であると想います。
でも、私は『女性の趣味の延長』としてなら十分出来る仕事であるし、やる価値は十分すぎるくらいにあると想うのです。
流通も次第に変わっていくでしょうし、現金収入を得るための機織から、『郷土の文化発信』としての役割を担えるのではないかと想うのです。
そうすれば、みずからの郷土の歴史や自然の豊かさ、先祖の知恵などを心身両面から感じる事が出来るでしょうし、非常に意味のある仕事になる、私はそう思うのです。
また、着物ファンの方も、その発信の中から『わが国の豊かさ』や『キモノを着る事の本当の意味』を感じて頂けるのではないかと想います。
この連載を進めながら、出来れば現物に当たり、風土に触れながら、いろんな事を考えて行きたいと想います。
ひとつひとつ、丁寧に読み進めたいと想います。
『芸術と経済のジレンマ』が終了次第、始めます。
宜しくお願いいたします。
ある方から『日本の織物を総括して学べる本はないか?』と聞かれ、何冊か買ってみました。
すると、なじみ深い著者の本に行き当たりました。
染織と生活者の冨山弘基氏の書かれた本でで、この方は弊社の先代とも関わりのあった方です。
私がこの世界に入ったときも、この方の書かれた本を教科書として基礎を学びました。
正直言って、私は他産地の織物に関する知識は沖縄に関するそれの半分も持って居ません。
もちろん、商いに必要な知識は持っていますが、沖縄に比べたら大人と赤ちゃんくらいの差があります。
常々、体系的に勉強したいと想っていたのですが、なかなか機会に恵まれずにいました。
せっかくこの本を手にしたので、読者の皆様と一緒に勉強したいと想います。
雑誌的に書かれた本は知識としては大して役に立ちません。
着物ファンの芸能人や文化人が書いたものも同じです。
きちんとした研究者が書いた本を、批判的に、事実と照らし合わせながら読む事が必要です。
前掲の『沖縄の伝統染織』も書かれた年代が古く、調査も十分でなかったせいか誤りも散見されます。
これは著者が悪いのではなく、仕事としてどっぷり浸かっていないと見えてこない部分がどうしてもあるのです。
しかし、プロの染織研究家の書いたものは基本的に著者が内容について責任を持っています。
ですから、きちんとしたある程度アカデミックな本を読まないといけないのです。
もう一つ、私が沖縄以外の産地の事を取り上げようとした理由があります。
沖縄や京都などには染織を学ぶためにたくさんの若い人達が集まってきます。
若い従事者の半数近くが県外の人でしめられているという現場もあります。
しかし、基本的に染織をはじめとする伝統工芸は、その土地の風土の中でうまれるものです。
沖縄や京都で染織を学んだ人が、もし郷里に帰ったときに、どんな仕事をするのでしょうか?
沖縄の人間でもない、沖縄でやるのでもない。
それが悪いとか、意味の無いことだとか言っているのでは全くありません。
でも、ひとつの選択肢として、学んだ技術を使って『郷里の伝統染織の復活』を試みる、という事はありえないでしょうか。
この本を見ても解るように、この本が書かれた昭和30年代後半には、まだまだたくさんの伝統染織が全国で息づいて居ました。
ちょうど私が生まれた頃ですが、そのころはまだあったのです。
と言うことは、私の曾祖母の頃は、まだやっていた人が居たのです。そんな遙か昔の話ではないのです。
確かに、手織り、手染めの着物は高価になってしまいます。
多くの染織品が市場に適応できずに消滅したのです。
これからも、染織品を手仕事でやって、一家の生計を成り立たせるというのは至難の業であると想います。
でも、私は『女性の趣味の延長』としてなら十分出来る仕事であるし、やる価値は十分すぎるくらいにあると想うのです。
流通も次第に変わっていくでしょうし、現金収入を得るための機織から、『郷土の文化発信』としての役割を担えるのではないかと想うのです。
そうすれば、みずからの郷土の歴史や自然の豊かさ、先祖の知恵などを心身両面から感じる事が出来るでしょうし、非常に意味のある仕事になる、私はそう思うのです。
また、着物ファンの方も、その発信の中から『わが国の豊かさ』や『キモノを着る事の本当の意味』を感じて頂けるのではないかと想います。
この連載を進めながら、出来れば現物に当たり、風土に触れながら、いろんな事を考えて行きたいと想います。
ひとつひとつ、丁寧に読み進めたいと想います。
『芸術と経済のジレンマ』が終了次第、始めます。
宜しくお願いいたします。
2011年10月02日
もずやと学ぶ染織マーケティング<32回目>
第10章 プロセスとしての競争
10−1 新機軸を生み出す競争
一週間は早いですね。 って、先週の日曜日にサボっただけでしたね。
基本的には毎週水曜日のアップです。
なぜ水曜日かというと、恩師の村田昭治先生の本ゼミが水曜日に123号教室で行われていたからです。
歳のせいか、思い出話がおおくなってすんまへん(^^;)
さて、本題にうつりましょう。
ここでの重要な所をあげておきますね。
<市場の機能>
?組織とは違い、新しい試みがなされやすい
?競争の当事者から、熱心さと努力を引き出す事が出来る
?相手に勝ちたいという気持ちを持続させる、ゲーム的な要素がある。
<競争とは>
○ハイエクは人々が限定的で局所的な知識を用いながら、よりよいものを発見し、検証していく試行錯誤のプロセスに競争の本質があると考えた。
○競争とは、特定の時や場合に応じてつくり出された特殊な情報や、特殊なやり方の中から、社会全体にメリットをもたらすものを発見し、普及させていくプロセスだという事になる。
秀吉の墨俣城の例を引くまでもなく、競争というのは事を美味く運ぶために非常に有用です。
<市場の機能>でもあるように、競争によって意欲が高められるからです。
勉強でもスポーツでもライバルが居た方が、成績があがるし、勉強するも実際楽です。
モチベーションが自然に保てるからです。
坂田三吉が関根金二郎に会っていなかったら、王将と言われるまでにならなかったかも知れません。
王貞治は長島がいたから、世界記録を達成できたというのもあるでしょう。
いまは教育でも競争をさせない、競争意欲を湧かせないようにしているらしいですが、
それじゃ、子供がかわいそうですね。
ライバルとデッドヒートを繰り広げたり、手練手管で心理戦で引っかけたりして、テストで勝つというのも
勉強しながらの楽しみです。競争というのはビタミンのようなもんですね。
私が若い頃は、営業で一番になろうと、必死で頑張ったし、そこそこ経験を積んだら今度は、誰にも負けないくらい
沖縄に関する知識を持とうと勉強しました。
名前は出せないけれども、そこには明確な仮想敵がありましたし、いつもなんでも一番を目指すというのが私のモットーです。
でも、世の中には名前だけ一番が取れたら、中味はいいや、という人もいるようです。
現実に、大した作品も作れないのに、仰々しい肩書きの作り手がいます。
これは、国や県や業者の都合なのでしょうが、これではかえって、目標がぼやけてしまいますね。
作り手のみなさんも、ライバルや仮想敵を持つことが、仕事に意欲を湧かせ、楽しく仕事をするよい刺激になる事だろうと想います。
沖縄の場合は、どうも、右と言えばみんな右、左と言えばみんな左、という具合に群れを成して行動する傾向が強いように見えます。
でも、着物のマーケットというのは現実にはそんな極端な動きはしていないし、地域差もかなり多くて千差万別です。
作り手のみなさんも、そんなに器用に作風を変えられないでしょう。
『もずやさん、どんなのをつくったらいいですか?』と良く聞かれますが、
教えてあげたとして、その通りに作れるのですか?と言いたいのです。
経験上、作れないはずです。作風を全く変えて、私の気に入る作品を作った人は一人もいません。
そもそも、横綱・曙でも、K-1に入ったら、いちころでやられるのです。
人間それぞれ、持ち味や特性というものがある。
競争というのは、その個性を戦わせると言うことであるわけです。
工芸品というのはその価値が定量化できない。
数字で表すことが出来るのは価格だけです。
勝ち負けの基準を決めないと、ゲームも面白く無いですよね。
その基準は二つあって良いと想います。
一つは
値段X販売数量=総売上で決める。
もちろん、総売上の多い方が勝ち。
もう一つは、
自分の心の中で判断する。
たとえば、公募展などで、『あ、私の勝ち』というのは解ると想います。
それは、自分らしい作品かどうか、あるいは、前を通る観客が何人、何秒立ち止まったか、それで解るはずです。
私がぞっこん惚れた作品は、展示しているだけで、長い人は数十分、作品の前で立ち止まって動かなくなります。
技と感性を競うというのは、殺伐とした戦いではなくて、とても楽しいものです。
競争が苦しいなんて言う人は競争したことのない人です。
競争は実は非常に楽しい。
私はいま、茶道と、謡曲・仕舞のお稽古をしていますが、両方とも内心、無謀な目標を立てています。
だって、そうしたほうが楽しいし、お稽古にも励みがでるんですよ。
じゃ、仕事の方は? と言うことですが、
作品の質や内容は日本一との自信がありますが、やっぱり、もっと販路を広げて多くの人に見てもらいたい、身につけてもらいたいですね。
たくさん作ると、必ず内容が悪くなるので、そんなにたくさん売りたいとは想いません。
作り手の方々の個性と、消費者のみなさんの要望をもっと的確に把握して、言葉を発せずしてお求め頂ける作品を作り上げたい、と想いますね。
そうですね・・・ライバルはだれでしょうか?
同世代の同じ立場の中にライバルと思える人が居ないというのもつらいですね。
目標はもちろん、・・・銀座泰三先輩ですがね <(_ _)>
10−1 新機軸を生み出す競争
一週間は早いですね。 って、先週の日曜日にサボっただけでしたね。
基本的には毎週水曜日のアップです。
なぜ水曜日かというと、恩師の村田昭治先生の本ゼミが水曜日に123号教室で行われていたからです。
歳のせいか、思い出話がおおくなってすんまへん(^^;)
さて、本題にうつりましょう。
ここでの重要な所をあげておきますね。
<市場の機能>
?組織とは違い、新しい試みがなされやすい
?競争の当事者から、熱心さと努力を引き出す事が出来る
?相手に勝ちたいという気持ちを持続させる、ゲーム的な要素がある。
<競争とは>
○ハイエクは人々が限定的で局所的な知識を用いながら、よりよいものを発見し、検証していく試行錯誤のプロセスに競争の本質があると考えた。
○競争とは、特定の時や場合に応じてつくり出された特殊な情報や、特殊なやり方の中から、社会全体にメリットをもたらすものを発見し、普及させていくプロセスだという事になる。
秀吉の墨俣城の例を引くまでもなく、競争というのは事を美味く運ぶために非常に有用です。
<市場の機能>でもあるように、競争によって意欲が高められるからです。
勉強でもスポーツでもライバルが居た方が、成績があがるし、勉強するも実際楽です。
モチベーションが自然に保てるからです。
坂田三吉が関根金二郎に会っていなかったら、王将と言われるまでにならなかったかも知れません。
王貞治は長島がいたから、世界記録を達成できたというのもあるでしょう。
いまは教育でも競争をさせない、競争意欲を湧かせないようにしているらしいですが、
それじゃ、子供がかわいそうですね。
ライバルとデッドヒートを繰り広げたり、手練手管で心理戦で引っかけたりして、テストで勝つというのも
勉強しながらの楽しみです。競争というのはビタミンのようなもんですね。
私が若い頃は、営業で一番になろうと、必死で頑張ったし、そこそこ経験を積んだら今度は、誰にも負けないくらい
沖縄に関する知識を持とうと勉強しました。
名前は出せないけれども、そこには明確な仮想敵がありましたし、いつもなんでも一番を目指すというのが私のモットーです。
でも、世の中には名前だけ一番が取れたら、中味はいいや、という人もいるようです。
現実に、大した作品も作れないのに、仰々しい肩書きの作り手がいます。
これは、国や県や業者の都合なのでしょうが、これではかえって、目標がぼやけてしまいますね。
作り手のみなさんも、ライバルや仮想敵を持つことが、仕事に意欲を湧かせ、楽しく仕事をするよい刺激になる事だろうと想います。
沖縄の場合は、どうも、右と言えばみんな右、左と言えばみんな左、という具合に群れを成して行動する傾向が強いように見えます。
でも、着物のマーケットというのは現実にはそんな極端な動きはしていないし、地域差もかなり多くて千差万別です。
作り手のみなさんも、そんなに器用に作風を変えられないでしょう。
『もずやさん、どんなのをつくったらいいですか?』と良く聞かれますが、
教えてあげたとして、その通りに作れるのですか?と言いたいのです。
経験上、作れないはずです。作風を全く変えて、私の気に入る作品を作った人は一人もいません。
そもそも、横綱・曙でも、K-1に入ったら、いちころでやられるのです。
人間それぞれ、持ち味や特性というものがある。
競争というのは、その個性を戦わせると言うことであるわけです。
工芸品というのはその価値が定量化できない。
数字で表すことが出来るのは価格だけです。
勝ち負けの基準を決めないと、ゲームも面白く無いですよね。
その基準は二つあって良いと想います。
一つは
値段X販売数量=総売上で決める。
もちろん、総売上の多い方が勝ち。
もう一つは、
自分の心の中で判断する。
たとえば、公募展などで、『あ、私の勝ち』というのは解ると想います。
それは、自分らしい作品かどうか、あるいは、前を通る観客が何人、何秒立ち止まったか、それで解るはずです。
私がぞっこん惚れた作品は、展示しているだけで、長い人は数十分、作品の前で立ち止まって動かなくなります。
技と感性を競うというのは、殺伐とした戦いではなくて、とても楽しいものです。
競争が苦しいなんて言う人は競争したことのない人です。
競争は実は非常に楽しい。
私はいま、茶道と、謡曲・仕舞のお稽古をしていますが、両方とも内心、無謀な目標を立てています。
だって、そうしたほうが楽しいし、お稽古にも励みがでるんですよ。
じゃ、仕事の方は? と言うことですが、
作品の質や内容は日本一との自信がありますが、やっぱり、もっと販路を広げて多くの人に見てもらいたい、身につけてもらいたいですね。
たくさん作ると、必ず内容が悪くなるので、そんなにたくさん売りたいとは想いません。
作り手の方々の個性と、消費者のみなさんの要望をもっと的確に把握して、言葉を発せずしてお求め頂ける作品を作り上げたい、と想いますね。
そうですね・・・ライバルはだれでしょうか?
同世代の同じ立場の中にライバルと思える人が居ないというのもつらいですね。
目標はもちろん、・・・銀座泰三先輩ですがね <(_ _)>