2013年01月29日
『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第9話
【機械との融合】
著者は機械を導入することについて肯定的な考え方を持っていて、以下のように書いています。
『機械化の行き着くところは、量産化であり、そして産地化である。こんにち消費市場に名を知られている織物産地は、その量の関係からも、ほとんどが進んで機械化したところと言えよう。そこには、伝統技法の昔日の面影はないかも知れない。しかし、その工業製品の中にも、土地の伝統というものは、形を変えて織り込まれているはずである。こんにち大産地となっている土地は、みなそれぞれに織物にとって伝統の深いところなのである』
実は、私も機械化否定論者ではありません。
機械と言っても、それは道具であり、手段だと想うからです。
道具や手段を変えても結果が変わらないなら、大きな問題は本来無いと想います。
要は、お客様が期待され、自分が目指す品質、内容であるかどうか、ということなんじゃないでしょうか。
手織りでも下手くそはたくさんいますし、機械でもそれなりに良い物を造ることはできます。
不必要なところに手を使うより、合理的に機械化したほうが、良い場合もあります。
大事なのは、結果として出来上がった作品が、自分の目指すところに適っていて、お客様のご期待に応えているか、という事です。
沖縄では、喜如嘉の芭蕉布、宮古上布、八重山上布にかんしては、機械というか金属類が工程にほとんど登場しません。
染色の為のズンドウと染色棒くらいでしょうか?
『木と繊維』の世界です。
本島では少し機械が導入された気配も感じられて、錆び付いた撚糸機がどこかにほったらかしになっているのを見た記憶があります。
もちろん、芭蕉布や上布類の産地では伝統を大切にしているという部分はあるのでしょうが、それよりも合理的な選択がなされた結果がいまの制作環境なのではないかと想うのです。
宮古島や石垣島で量産体制がとられた歴史がなかったか?といえばそんな事はないのです。
でも、量産のために機械を導入するという選択肢は選ばなかった。
八重山上布がラミー×ラミーの時代もそうはならなかった。
それは、『いくらなんでも、それじゃ、良い物はできないでしょ』という想いがあったからじゃないでしょうか。
機械を入れると言うことが悪いのじゃなくて、作り手が納得しているかどうか、なんです。
機械を入れて、作り手も、お客様も納得する物がつくれると想えば、その選択もあり得るでしょう。
他の産地で、機械化を進めているところは、コスト面も含めて、『それで良い』と想ったから導入したんでしょう。
結論として、消費者であるお客様に受け入れられなかった物が消えていった、と考えて良いのではないでしょうか。
しかし、考えなければならないのは、往々にして、生産量やコストに目を奪われて品質がおざなりになる事がある、という事です。
手作りから機械への過渡期に置いては、まだ品質のチェックが厳密に行われるのでしょうが、機械で自動的に造られるようになると、目が作品から離れてしまう。
作品を見ている時間が激減するんです。
手織りの場合、短くても1週間くらいは作品と向かい合うわけです。
手のかかるものなら何ヶ月も作品を見つづけるんです。
でも、機械はそうじゃない。
作り手さんの所に行くと、織機にかかったまま何ヶ月も放置されているのを観る事があります。
どうしたの?と聞くと、
『織っているうちにイヤになっちゃった』
というのです。
いくら、自分が考えた物でも、生理的に受け入れられないものは、向かい合ってはいられないのです。
だから、基本的に手織りには無惨な反物は出来にくいんです。
手染というか、手仕事の染めも同じですよね。
染めていくうちに、なんかイヤな感じがしてくると、燃やしたくなったりするんだと想います。
商いでも同じで、売れ筋だからって、自分の意に沿わない物を仕入れしたら、やっぱりお客様にお見せするのは後になります。
自分の好きな物をまず先にお見せする。
工芸というのは何でもそうだと想うんですが、自分の手の中にある時間が長いほど、味が出ていいものになる可能性が高くなるんだと想います。
金属でも磨けば磨くほど、陶芸でもこねればこねるほど、しっかり手を掛けるほど下手は下手なりの味がでる。
それが『手仕事の本質』ではないかと想うんです。
機械を導入することがマズイのではなくて、その事によって品質・内容への想いが軽くなる場合があって、それを警戒しないといけないのです。
今は逆に、機械でも良い物が出来るようになってきました。
インクジェットも素人さんが見ても解らないくらい上手く造られています。
ですから、これから考えなければならないのは、『手を使う意義』なんですね。
機械に負けるなら、手仕事である合理的理由はありません。
手仕事の方が良い物ができるから、手をつかうのでなければなりません。
手と機械のガチンコ勝負です。
何を造るかを構想する時、その人は頭の中にあるイメージを形にしてくれる手段を選ぶはずです。
私は手仕事の味方でも、機械の味方でもありません。
お客様と私を満足させてくれる結果としての内容が大事なのです。
著者は機械を導入することについて肯定的な考え方を持っていて、以下のように書いています。
『機械化の行き着くところは、量産化であり、そして産地化である。こんにち消費市場に名を知られている織物産地は、その量の関係からも、ほとんどが進んで機械化したところと言えよう。そこには、伝統技法の昔日の面影はないかも知れない。しかし、その工業製品の中にも、土地の伝統というものは、形を変えて織り込まれているはずである。こんにち大産地となっている土地は、みなそれぞれに織物にとって伝統の深いところなのである』
実は、私も機械化否定論者ではありません。
機械と言っても、それは道具であり、手段だと想うからです。
道具や手段を変えても結果が変わらないなら、大きな問題は本来無いと想います。
要は、お客様が期待され、自分が目指す品質、内容であるかどうか、ということなんじゃないでしょうか。
手織りでも下手くそはたくさんいますし、機械でもそれなりに良い物を造ることはできます。
不必要なところに手を使うより、合理的に機械化したほうが、良い場合もあります。
大事なのは、結果として出来上がった作品が、自分の目指すところに適っていて、お客様のご期待に応えているか、という事です。
沖縄では、喜如嘉の芭蕉布、宮古上布、八重山上布にかんしては、機械というか金属類が工程にほとんど登場しません。
染色の為のズンドウと染色棒くらいでしょうか?
『木と繊維』の世界です。
本島では少し機械が導入された気配も感じられて、錆び付いた撚糸機がどこかにほったらかしになっているのを見た記憶があります。
もちろん、芭蕉布や上布類の産地では伝統を大切にしているという部分はあるのでしょうが、それよりも合理的な選択がなされた結果がいまの制作環境なのではないかと想うのです。
宮古島や石垣島で量産体制がとられた歴史がなかったか?といえばそんな事はないのです。
でも、量産のために機械を導入するという選択肢は選ばなかった。
八重山上布がラミー×ラミーの時代もそうはならなかった。
それは、『いくらなんでも、それじゃ、良い物はできないでしょ』という想いがあったからじゃないでしょうか。
機械を入れると言うことが悪いのじゃなくて、作り手が納得しているかどうか、なんです。
機械を入れて、作り手も、お客様も納得する物がつくれると想えば、その選択もあり得るでしょう。
他の産地で、機械化を進めているところは、コスト面も含めて、『それで良い』と想ったから導入したんでしょう。
結論として、消費者であるお客様に受け入れられなかった物が消えていった、と考えて良いのではないでしょうか。
しかし、考えなければならないのは、往々にして、生産量やコストに目を奪われて品質がおざなりになる事がある、という事です。
手作りから機械への過渡期に置いては、まだ品質のチェックが厳密に行われるのでしょうが、機械で自動的に造られるようになると、目が作品から離れてしまう。
作品を見ている時間が激減するんです。
手織りの場合、短くても1週間くらいは作品と向かい合うわけです。
手のかかるものなら何ヶ月も作品を見つづけるんです。
でも、機械はそうじゃない。
作り手さんの所に行くと、織機にかかったまま何ヶ月も放置されているのを観る事があります。
どうしたの?と聞くと、
『織っているうちにイヤになっちゃった』
というのです。
いくら、自分が考えた物でも、生理的に受け入れられないものは、向かい合ってはいられないのです。
だから、基本的に手織りには無惨な反物は出来にくいんです。
手染というか、手仕事の染めも同じですよね。
染めていくうちに、なんかイヤな感じがしてくると、燃やしたくなったりするんだと想います。
商いでも同じで、売れ筋だからって、自分の意に沿わない物を仕入れしたら、やっぱりお客様にお見せするのは後になります。
自分の好きな物をまず先にお見せする。
工芸というのは何でもそうだと想うんですが、自分の手の中にある時間が長いほど、味が出ていいものになる可能性が高くなるんだと想います。
金属でも磨けば磨くほど、陶芸でもこねればこねるほど、しっかり手を掛けるほど下手は下手なりの味がでる。
それが『手仕事の本質』ではないかと想うんです。
機械を導入することがマズイのではなくて、その事によって品質・内容への想いが軽くなる場合があって、それを警戒しないといけないのです。
今は逆に、機械でも良い物が出来るようになってきました。
インクジェットも素人さんが見ても解らないくらい上手く造られています。
ですから、これから考えなければならないのは、『手を使う意義』なんですね。
機械に負けるなら、手仕事である合理的理由はありません。
手仕事の方が良い物ができるから、手をつかうのでなければなりません。
手と機械のガチンコ勝負です。
何を造るかを構想する時、その人は頭の中にあるイメージを形にしてくれる手段を選ぶはずです。
私は手仕事の味方でも、機械の味方でもありません。
お客様と私を満足させてくれる結果としての内容が大事なのです。
Posted by 渡辺幻門 at 22:23│Comments(0)
│日本の伝統織物
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。