2010年08月31日
金融社会主義
10年ほど前だったでしょうか。
大阪慶應倶楽部での記念講演に加藤寛さんが来られました。
加藤さんは、この講演で色々嘘を言いましたが、一つだけ本当の事を言いました。
『金利2%以下が5年以上続くと金融社会主義になる』というものです。
私の眼に見えているだけでも大手流通各社は大手銀行にすべてをコントロールされ、生産から販売までの垂直統合を成し遂げました。
それは、貸し付けた資金を効率よく回収するためのしくみです。
その結果、メーカーも流通業者も銀行のいいなりになる、すなわち、自主独立の機能を失ったゾンビ企業ばかりがはびこる様になりました。
ダメだから大借金をして、返せなくなったのに、それを銀行が救って、資金の回収だけに躍起なる。
挙げ句の果てが、魅力のない低価格だけが命の商品の山です。
そして、消費者はボロの洋服やまずい食べ物を強要される羽目になってしまいました。
巨大なSCの進出でどれだけの街の商店が閉めたことでしょう。
それで、みんな豊かになったでしょうか。
銀行は統合して巨大化し、国民から金を吸い上げ、結局はまたバカな投資や運用をして、損をする。そのケツを拭かされるのが、私達一般国民です。
借金をしないでコツコツやっていた人達が、大借金をして銀行に支配された人達に駆逐される。こんな馬鹿げたことがありますか?
そして、下手を踏んだ銀行はどんどん問題を先送りして、ゾンビ企業を増加させる。
小泉・竹中の不良債権処理というのは、すなわち銀行を何が何でも助けるということだったのでしょうか。
そんな政策が10年も続けば、デフレになるのは当然です。
なぜなら、銀行は効率だけを考え、効果性=付加価値というものを見ようとしないからです。すべての高付加価値は文化の下支えがあってこそ生まれうるものです。住むだけ、食うだけ、着るだけに足るものでいいのなら、付加価値は大きくなりません。いまの経済は付加価値を最低限に削って、資金の回転だけを良くしようとする見方が優勢ですから、どんどん価格は下がっていくわけです。そのうち、消費者は付加価値に対して見る眼を失ってしまう。今、まさにその状態です。
法律で身分を守られた公務員や大手企業の組合員なら、いまのデフレは歓迎すべきことなのかもしれません。しかし、物を作り出す立場からすれば最悪です。
いくら努力をしても、その付加価値が正しく評価されなければ、収入に繋がらないし、そうなれば、やはり付加価値を下げて価格を下げ、数を売ろうとする。しかし、その競争をし始めたら大手に勝てる道理がありません。
アジア諸国から、似たような商品が数分の一の価格で入ってくる。その差を認識出来る人はそう多くないのです。
結局、市場は金融資本に守られた大手企業の寡占がどんどん進行していきます。
まさに、金融社会主義です。
金融が国民生活のすべてを支配してしまうのです。
それで、私達は幸福に豊かになったでしょうか。
私にはそうは思えません。
かつて松下幸之助氏が言ったような『ダム式経営』をしていけばこんな事にはならなかったはずです。
政府・日銀はこんな急場しのぎをいつまで続けるつもりなのか。
さらに金利を下げて流動性を高めても、はたして資金需要はあるのか。
為替介入をして円高を止めても、輸出産業がうるおうだけで、その利益はどこへいくのか。労働分配率が高まり、内需拡大に繋がるのか。結局は、また投資や株主の配当に向けられて、一定の企業と個人が潤うに留まるだけではないのか。
円高は輸出産業が停滞する反面、いま問題になっている日本買いを阻止する働きがあるのではないのか。銀座の土地や森林=水資源がどんどん外資に買われていく歯止めになる事はあるのではないのか。
ものづくりを生命線とするわが国で一番問題とすべきは、高付加価値を認識する感覚を失いつつある、ということではないでしょうか。
何が価値の高い物かが分からなければ、それを生み出す事ができるはずもありません。
今の金融支配は、それに対して全く逆方向です。
どんなよい品物を作っても、結局は大手の垂れ流すCMによって低付加価値の安物がはびこり、日の眼を観る事がない。そして、次第に消費者も鑑識眼を失っていく。工芸の世界の凋落はなにも不景気のせいだけではないのです。無機質な金融資本の支配が消費者から有機的な物を感じ取る能力を奪っていったのです。
このままでは、かならず日本のものづくりもダメになります。
そうならないために、私達工芸人ややらねばならないことは、まさに『心をとりもどす戦い』なのであろうと想います。
大阪慶應倶楽部での記念講演に加藤寛さんが来られました。
加藤さんは、この講演で色々嘘を言いましたが、一つだけ本当の事を言いました。
『金利2%以下が5年以上続くと金融社会主義になる』というものです。
私の眼に見えているだけでも大手流通各社は大手銀行にすべてをコントロールされ、生産から販売までの垂直統合を成し遂げました。
それは、貸し付けた資金を効率よく回収するためのしくみです。
その結果、メーカーも流通業者も銀行のいいなりになる、すなわち、自主独立の機能を失ったゾンビ企業ばかりがはびこる様になりました。
ダメだから大借金をして、返せなくなったのに、それを銀行が救って、資金の回収だけに躍起なる。
挙げ句の果てが、魅力のない低価格だけが命の商品の山です。
そして、消費者はボロの洋服やまずい食べ物を強要される羽目になってしまいました。
巨大なSCの進出でどれだけの街の商店が閉めたことでしょう。
それで、みんな豊かになったでしょうか。
銀行は統合して巨大化し、国民から金を吸い上げ、結局はまたバカな投資や運用をして、損をする。そのケツを拭かされるのが、私達一般国民です。
借金をしないでコツコツやっていた人達が、大借金をして銀行に支配された人達に駆逐される。こんな馬鹿げたことがありますか?
そして、下手を踏んだ銀行はどんどん問題を先送りして、ゾンビ企業を増加させる。
小泉・竹中の不良債権処理というのは、すなわち銀行を何が何でも助けるということだったのでしょうか。
そんな政策が10年も続けば、デフレになるのは当然です。
なぜなら、銀行は効率だけを考え、効果性=付加価値というものを見ようとしないからです。すべての高付加価値は文化の下支えがあってこそ生まれうるものです。住むだけ、食うだけ、着るだけに足るものでいいのなら、付加価値は大きくなりません。いまの経済は付加価値を最低限に削って、資金の回転だけを良くしようとする見方が優勢ですから、どんどん価格は下がっていくわけです。そのうち、消費者は付加価値に対して見る眼を失ってしまう。今、まさにその状態です。
法律で身分を守られた公務員や大手企業の組合員なら、いまのデフレは歓迎すべきことなのかもしれません。しかし、物を作り出す立場からすれば最悪です。
いくら努力をしても、その付加価値が正しく評価されなければ、収入に繋がらないし、そうなれば、やはり付加価値を下げて価格を下げ、数を売ろうとする。しかし、その競争をし始めたら大手に勝てる道理がありません。
アジア諸国から、似たような商品が数分の一の価格で入ってくる。その差を認識出来る人はそう多くないのです。
結局、市場は金融資本に守られた大手企業の寡占がどんどん進行していきます。
まさに、金融社会主義です。
金融が国民生活のすべてを支配してしまうのです。
それで、私達は幸福に豊かになったでしょうか。
私にはそうは思えません。
かつて松下幸之助氏が言ったような『ダム式経営』をしていけばこんな事にはならなかったはずです。
政府・日銀はこんな急場しのぎをいつまで続けるつもりなのか。
さらに金利を下げて流動性を高めても、はたして資金需要はあるのか。
為替介入をして円高を止めても、輸出産業がうるおうだけで、その利益はどこへいくのか。労働分配率が高まり、内需拡大に繋がるのか。結局は、また投資や株主の配当に向けられて、一定の企業と個人が潤うに留まるだけではないのか。
円高は輸出産業が停滞する反面、いま問題になっている日本買いを阻止する働きがあるのではないのか。銀座の土地や森林=水資源がどんどん外資に買われていく歯止めになる事はあるのではないのか。
ものづくりを生命線とするわが国で一番問題とすべきは、高付加価値を認識する感覚を失いつつある、ということではないでしょうか。
何が価値の高い物かが分からなければ、それを生み出す事ができるはずもありません。
今の金融支配は、それに対して全く逆方向です。
どんなよい品物を作っても、結局は大手の垂れ流すCMによって低付加価値の安物がはびこり、日の眼を観る事がない。そして、次第に消費者も鑑識眼を失っていく。工芸の世界の凋落はなにも不景気のせいだけではないのです。無機質な金融資本の支配が消費者から有機的な物を感じ取る能力を奪っていったのです。
このままでは、かならず日本のものづくりもダメになります。
そうならないために、私達工芸人ややらねばならないことは、まさに『心をとりもどす戦い』なのであろうと想います。
2010年08月31日
金融社会主義
10年ほど前だったでしょうか。
大阪慶應倶楽部での記念講演に加藤寛さんが来られました。
加藤さんは、この講演で色々嘘を言いましたが、一つだけ本当の事を言いました。
『金利2%以下が5年以上続くと金融社会主義になる』というものです。
私の眼に見えているだけでも大手流通各社は大手銀行にすべてをコントロールされ、生産から販売までの垂直統合を成し遂げました。
それは、貸し付けた資金を効率よく回収するためのしくみです。
その結果、メーカーも流通業者も銀行のいいなりになる、すなわち、自主独立の機能を失ったゾンビ企業ばかりがはびこる様になりました。
ダメだから大借金をして、返せなくなったのに、それを銀行が救って、資金の回収だけに躍起なる。
挙げ句の果てが、魅力のない低価格だけが命の商品の山です。
そして、消費者はボロの洋服やまずい食べ物を強要される羽目になってしまいました。
巨大なSCの進出でどれだけの街の商店が閉めたことでしょう。
それで、みんな豊かになったでしょうか。
銀行は統合して巨大化し、国民から金を吸い上げ、結局はまたバカな投資や運用をして、損をする。そのケツを拭かされるのが、私達一般国民です。
借金をしないでコツコツやっていた人達が、大借金をして銀行に支配された人達に駆逐される。こんな馬鹿げたことがありますか?
そして、下手を踏んだ銀行はどんどん問題を先送りして、ゾンビ企業を増加させる。
小泉・竹中の不良債権処理というのは、すなわち銀行を何が何でも助けるということだったのでしょうか。
そんな政策が10年も続けば、デフレになるのは当然です。
なぜなら、銀行は効率だけを考え、効果性=付加価値というものを見ようとしないからです。すべての高付加価値は文化の下支えがあってこそ生まれうるものです。住むだけ、食うだけ、着るだけに足るものでいいのなら、付加価値は大きくなりません。いまの経済は付加価値を最低限に削って、資金の回転だけを良くしようとする見方が優勢ですから、どんどん価格は下がっていくわけです。そのうち、消費者は付加価値に対して見る眼を失ってしまう。今、まさにその状態です。
法律で身分を守られた公務員や大手企業の組合員なら、いまのデフレは歓迎すべきことなのかもしれません。しかし、物を作り出す立場からすれば最悪です。
いくら努力をしても、その付加価値が正しく評価されなければ、収入に繋がらないし、そうなれば、やはり付加価値を下げて価格を下げ、数を売ろうとする。しかし、その競争をし始めたら大手に勝てる道理がありません。
アジア諸国から、似たような商品が数分の一の価格で入ってくる。その差を認識出来る人はそう多くないのです。
結局、市場は金融資本に守られた大手企業の寡占がどんどん進行していきます。
まさに、金融社会主義です。
金融が国民生活のすべてを支配してしまうのです。
それで、私達は幸福に豊かになったでしょうか。
私にはそうは思えません。
かつて松下幸之助氏が言ったような『ダム式経営』をしていけばこんな事にはならなかったはずです。
政府・日銀はこんな急場しのぎをいつまで続けるつもりなのか。
さらに金利を下げて流動性を高めても、はたして資金需要はあるのか。
為替介入をして円高を止めても、輸出産業がうるおうだけで、その利益はどこへいくのか。労働分配率が高まり、内需拡大に繋がるのか。結局は、また投資や株主の配当に向けられて、一定の企業と個人が潤うに留まるだけではないのか。
円高は輸出産業が停滞する反面、いま問題になっている日本買いを阻止する働きがあるのではないのか。銀座の土地や森林=水資源がどんどん外資に買われていく歯止めになる事はあるのではないのか。
ものづくりを生命線とするわが国で一番問題とすべきは、高付加価値を認識する感覚を失いつつある、ということではないでしょうか。
何が価値の高い物かが分からなければ、それを生み出す事ができるはずもありません。
今の金融支配は、それに対して全く逆方向です。
どんなよい品物を作っても、結局は大手の垂れ流すCMによって低付加価値の安物がはびこり、日の眼を観る事がない。そして、次第に消費者も鑑識眼を失っていく。工芸の世界の凋落はなにも不景気のせいだけではないのです。無機質な金融資本の支配が消費者から有機的な物を感じ取る能力を奪っていったのです。
このままでは、かならず日本のものづくりもダメになります。
そうならないために、私達工芸人ややらねばならないことは、まさに『心をとりもどす戦い』なのであろうと想います。
大阪慶應倶楽部での記念講演に加藤寛さんが来られました。
加藤さんは、この講演で色々嘘を言いましたが、一つだけ本当の事を言いました。
『金利2%以下が5年以上続くと金融社会主義になる』というものです。
私の眼に見えているだけでも大手流通各社は大手銀行にすべてをコントロールされ、生産から販売までの垂直統合を成し遂げました。
それは、貸し付けた資金を効率よく回収するためのしくみです。
その結果、メーカーも流通業者も銀行のいいなりになる、すなわち、自主独立の機能を失ったゾンビ企業ばかりがはびこる様になりました。
ダメだから大借金をして、返せなくなったのに、それを銀行が救って、資金の回収だけに躍起なる。
挙げ句の果てが、魅力のない低価格だけが命の商品の山です。
そして、消費者はボロの洋服やまずい食べ物を強要される羽目になってしまいました。
巨大なSCの進出でどれだけの街の商店が閉めたことでしょう。
それで、みんな豊かになったでしょうか。
銀行は統合して巨大化し、国民から金を吸い上げ、結局はまたバカな投資や運用をして、損をする。そのケツを拭かされるのが、私達一般国民です。
借金をしないでコツコツやっていた人達が、大借金をして銀行に支配された人達に駆逐される。こんな馬鹿げたことがありますか?
そして、下手を踏んだ銀行はどんどん問題を先送りして、ゾンビ企業を増加させる。
小泉・竹中の不良債権処理というのは、すなわち銀行を何が何でも助けるということだったのでしょうか。
そんな政策が10年も続けば、デフレになるのは当然です。
なぜなら、銀行は効率だけを考え、効果性=付加価値というものを見ようとしないからです。すべての高付加価値は文化の下支えがあってこそ生まれうるものです。住むだけ、食うだけ、着るだけに足るものでいいのなら、付加価値は大きくなりません。いまの経済は付加価値を最低限に削って、資金の回転だけを良くしようとする見方が優勢ですから、どんどん価格は下がっていくわけです。そのうち、消費者は付加価値に対して見る眼を失ってしまう。今、まさにその状態です。
法律で身分を守られた公務員や大手企業の組合員なら、いまのデフレは歓迎すべきことなのかもしれません。しかし、物を作り出す立場からすれば最悪です。
いくら努力をしても、その付加価値が正しく評価されなければ、収入に繋がらないし、そうなれば、やはり付加価値を下げて価格を下げ、数を売ろうとする。しかし、その競争をし始めたら大手に勝てる道理がありません。
アジア諸国から、似たような商品が数分の一の価格で入ってくる。その差を認識出来る人はそう多くないのです。
結局、市場は金融資本に守られた大手企業の寡占がどんどん進行していきます。
まさに、金融社会主義です。
金融が国民生活のすべてを支配してしまうのです。
それで、私達は幸福に豊かになったでしょうか。
私にはそうは思えません。
かつて松下幸之助氏が言ったような『ダム式経営』をしていけばこんな事にはならなかったはずです。
政府・日銀はこんな急場しのぎをいつまで続けるつもりなのか。
さらに金利を下げて流動性を高めても、はたして資金需要はあるのか。
為替介入をして円高を止めても、輸出産業がうるおうだけで、その利益はどこへいくのか。労働分配率が高まり、内需拡大に繋がるのか。結局は、また投資や株主の配当に向けられて、一定の企業と個人が潤うに留まるだけではないのか。
円高は輸出産業が停滞する反面、いま問題になっている日本買いを阻止する働きがあるのではないのか。銀座の土地や森林=水資源がどんどん外資に買われていく歯止めになる事はあるのではないのか。
ものづくりを生命線とするわが国で一番問題とすべきは、高付加価値を認識する感覚を失いつつある、ということではないでしょうか。
何が価値の高い物かが分からなければ、それを生み出す事ができるはずもありません。
今の金融支配は、それに対して全く逆方向です。
どんなよい品物を作っても、結局は大手の垂れ流すCMによって低付加価値の安物がはびこり、日の眼を観る事がない。そして、次第に消費者も鑑識眼を失っていく。工芸の世界の凋落はなにも不景気のせいだけではないのです。無機質な金融資本の支配が消費者から有機的な物を感じ取る能力を奪っていったのです。
このままでは、かならず日本のものづくりもダメになります。
そうならないために、私達工芸人ややらねばならないことは、まさに『心をとりもどす戦い』なのであろうと想います。
2010年08月31日
金融社会主義
10年ほど前だったでしょうか。
大阪慶應倶楽部での記念講演に加藤寛さんが来られました。
加藤さんは、この講演で色々嘘を言いましたが、一つだけ本当の事を言いました。
『金利2%以下が5年以上続くと金融社会主義になる』というものです。
私の眼に見えているだけでも大手流通各社は大手銀行にすべてをコントロールされ、生産から販売までの垂直統合を成し遂げました。
それは、貸し付けた資金を効率よく回収するためのしくみです。
その結果、メーカーも流通業者も銀行のいいなりになる、すなわち、自主独立の機能を失ったゾンビ企業ばかりがはびこる様になりました。
ダメだから大借金をして、返せなくなったのに、それを銀行が救って、資金の回収だけに躍起なる。
挙げ句の果てが、魅力のない低価格だけが命の商品の山です。
そして、消費者はボロの洋服やまずい食べ物を強要される羽目になってしまいました。
巨大なSCの進出でどれだけの街の商店が閉めたことでしょう。
それで、みんな豊かになったでしょうか。
銀行は統合して巨大化し、国民から金を吸い上げ、結局はまたバカな投資や運用をして、損をする。そのケツを拭かされるのが、私達一般国民です。
借金をしないでコツコツやっていた人達が、大借金をして銀行に支配された人達に駆逐される。こんな馬鹿げたことがありますか?
そして、下手を踏んだ銀行はどんどん問題を先送りして、ゾンビ企業を増加させる。
小泉・竹中の不良債権処理というのは、すなわち銀行を何が何でも助けるということだったのでしょうか。
そんな政策が10年も続けば、デフレになるのは当然です。
なぜなら、銀行は効率だけを考え、効果性=付加価値というものを見ようとしないからです。すべての高付加価値は文化の下支えがあってこそ生まれうるものです。住むだけ、食うだけ、着るだけに足るものでいいのなら、付加価値は大きくなりません。いまの経済は付加価値を最低限に削って、資金の回転だけを良くしようとする見方が優勢ですから、どんどん価格は下がっていくわけです。そのうち、消費者は付加価値に対して見る眼を失ってしまう。今、まさにその状態です。
法律で身分を守られた公務員や大手企業の組合員なら、いまのデフレは歓迎すべきことなのかもしれません。しかし、物を作り出す立場からすれば最悪です。
いくら努力をしても、その付加価値が正しく評価されなければ、収入に繋がらないし、そうなれば、やはり付加価値を下げて価格を下げ、数を売ろうとする。しかし、その競争をし始めたら大手に勝てる道理がありません。
アジア諸国から、似たような商品が数分の一の価格で入ってくる。その差を認識出来る人はそう多くないのです。
結局、市場は金融資本に守られた大手企業の寡占がどんどん進行していきます。
まさに、金融社会主義です。
金融が国民生活のすべてを支配してしまうのです。
それで、私達は幸福に豊かになったでしょうか。
私にはそうは思えません。
かつて松下幸之助氏が言ったような『ダム式経営』をしていけばこんな事にはならなかったはずです。
政府・日銀はこんな急場しのぎをいつまで続けるつもりなのか。
さらに金利を下げて流動性を高めても、はたして資金需要はあるのか。
為替介入をして円高を止めても、輸出産業がうるおうだけで、その利益はどこへいくのか。労働分配率が高まり、内需拡大に繋がるのか。結局は、また投資や株主の配当に向けられて、一定の企業と個人が潤うに留まるだけではないのか。
円高は輸出産業が停滞する反面、いま問題になっている日本買いを阻止する働きがあるのではないのか。銀座の土地や森林=水資源がどんどん外資に買われていく歯止めになる事はあるのではないのか。
ものづくりを生命線とするわが国で一番問題とすべきは、高付加価値を認識する感覚を失いつつある、ということではないでしょうか。
何が価値の高い物かが分からなければ、それを生み出す事ができるはずもありません。
今の金融支配は、それに対して全く逆方向です。
どんなよい品物を作っても、結局は大手の垂れ流すCMによって低付加価値の安物がはびこり、日の眼を観る事がない。そして、次第に消費者も鑑識眼を失っていく。工芸の世界の凋落はなにも不景気のせいだけではないのです。無機質な金融資本の支配が消費者から有機的な物を感じ取る能力を奪っていったのです。
このままでは、かならず日本のものづくりもダメになります。
そうならないために、私達工芸人ややらねばならないことは、まさに『心をとりもどす戦い』なのであろうと想います。
大阪慶應倶楽部での記念講演に加藤寛さんが来られました。
加藤さんは、この講演で色々嘘を言いましたが、一つだけ本当の事を言いました。
『金利2%以下が5年以上続くと金融社会主義になる』というものです。
私の眼に見えているだけでも大手流通各社は大手銀行にすべてをコントロールされ、生産から販売までの垂直統合を成し遂げました。
それは、貸し付けた資金を効率よく回収するためのしくみです。
その結果、メーカーも流通業者も銀行のいいなりになる、すなわち、自主独立の機能を失ったゾンビ企業ばかりがはびこる様になりました。
ダメだから大借金をして、返せなくなったのに、それを銀行が救って、資金の回収だけに躍起なる。
挙げ句の果てが、魅力のない低価格だけが命の商品の山です。
そして、消費者はボロの洋服やまずい食べ物を強要される羽目になってしまいました。
巨大なSCの進出でどれだけの街の商店が閉めたことでしょう。
それで、みんな豊かになったでしょうか。
銀行は統合して巨大化し、国民から金を吸い上げ、結局はまたバカな投資や運用をして、損をする。そのケツを拭かされるのが、私達一般国民です。
借金をしないでコツコツやっていた人達が、大借金をして銀行に支配された人達に駆逐される。こんな馬鹿げたことがありますか?
そして、下手を踏んだ銀行はどんどん問題を先送りして、ゾンビ企業を増加させる。
小泉・竹中の不良債権処理というのは、すなわち銀行を何が何でも助けるということだったのでしょうか。
そんな政策が10年も続けば、デフレになるのは当然です。
なぜなら、銀行は効率だけを考え、効果性=付加価値というものを見ようとしないからです。すべての高付加価値は文化の下支えがあってこそ生まれうるものです。住むだけ、食うだけ、着るだけに足るものでいいのなら、付加価値は大きくなりません。いまの経済は付加価値を最低限に削って、資金の回転だけを良くしようとする見方が優勢ですから、どんどん価格は下がっていくわけです。そのうち、消費者は付加価値に対して見る眼を失ってしまう。今、まさにその状態です。
法律で身分を守られた公務員や大手企業の組合員なら、いまのデフレは歓迎すべきことなのかもしれません。しかし、物を作り出す立場からすれば最悪です。
いくら努力をしても、その付加価値が正しく評価されなければ、収入に繋がらないし、そうなれば、やはり付加価値を下げて価格を下げ、数を売ろうとする。しかし、その競争をし始めたら大手に勝てる道理がありません。
アジア諸国から、似たような商品が数分の一の価格で入ってくる。その差を認識出来る人はそう多くないのです。
結局、市場は金融資本に守られた大手企業の寡占がどんどん進行していきます。
まさに、金融社会主義です。
金融が国民生活のすべてを支配してしまうのです。
それで、私達は幸福に豊かになったでしょうか。
私にはそうは思えません。
かつて松下幸之助氏が言ったような『ダム式経営』をしていけばこんな事にはならなかったはずです。
政府・日銀はこんな急場しのぎをいつまで続けるつもりなのか。
さらに金利を下げて流動性を高めても、はたして資金需要はあるのか。
為替介入をして円高を止めても、輸出産業がうるおうだけで、その利益はどこへいくのか。労働分配率が高まり、内需拡大に繋がるのか。結局は、また投資や株主の配当に向けられて、一定の企業と個人が潤うに留まるだけではないのか。
円高は輸出産業が停滞する反面、いま問題になっている日本買いを阻止する働きがあるのではないのか。銀座の土地や森林=水資源がどんどん外資に買われていく歯止めになる事はあるのではないのか。
ものづくりを生命線とするわが国で一番問題とすべきは、高付加価値を認識する感覚を失いつつある、ということではないでしょうか。
何が価値の高い物かが分からなければ、それを生み出す事ができるはずもありません。
今の金融支配は、それに対して全く逆方向です。
どんなよい品物を作っても、結局は大手の垂れ流すCMによって低付加価値の安物がはびこり、日の眼を観る事がない。そして、次第に消費者も鑑識眼を失っていく。工芸の世界の凋落はなにも不景気のせいだけではないのです。無機質な金融資本の支配が消費者から有機的な物を感じ取る能力を奪っていったのです。
このままでは、かならず日本のものづくりもダメになります。
そうならないために、私達工芸人ややらねばならないことは、まさに『心をとりもどす戦い』なのであろうと想います。
2010年03月09日
芸術学の社会科学的アプローチ
先日、織の課題がなんとか合格して、大阪芸大の3年生になりました。
パイル織の課題は実技初のA評価を頂きました。これも堺段通のルーツのせいでしょうか。
論文は殆どAを頂いているのですが、客観的に読んでみるとやっぱり社会科学的な分析・論点になっていることに気づきます。私は特に、マーケティング専攻ですので、心理学や経済学などクロスディシプリナリーな分析が持ち味です。
そもそも、芸術というものが人の心を基本とするからには、それを分析する芸術学は心理学や社会学を取り入れるべきです。しかし、いまの芸術学、美学は哲学を中心として構成されている。これは机上の空論に陥る可能性が非常に高いように想われます。
芸術が、民衆のものであり、民衆の心に訴えかける事を目的とするならば、これは本来、社会科学の分野としてとらえられるべきではないでしょうか。芸術は世の中に受け入れられる事でその価値を生みます。民衆に受け入れられない純粋芸術というものがこの世の中に果たしてあるのでしょうか。もしあるとすればそれは数学や論理学で実証されるでしょうが、人間の心はそんなに単純であるとは想えません。経済学が実体経済から乖離したのも、数理経済学や金融工学というバケモノが世界の経済を支配したからではないでしょうか。
芸術や美術に、その方向性を示すべき美学・芸術学は社会科学や人文科学を基礎とすべきであると私は思います。
その観点から、私は社会科学を学んだ物として、その観点から美学・芸術学を論じてみたいと想っています。
いまのままでは、名望家の民芸運動家に利用されるだけにおわった民芸論と同じになってしまいます。芸術学・美学は芸術や美術に関わる人たちが幸福になるために貢献できる実学であるべきだと私は思います。
芸大でもアートプランニングやアートマネージメントという題目の講義がありますが、双方とも、文学部出身の芸術学博士号取得者が指導しているのようです。これではいくら話をしても、芸術家は食べていけるようにはなりません。どこを目標に自分の表現と市場性を実現していくか。この部分で目指す物を差示すことができなければ、そんな学問は必要ないとさえ私は思います。
民藝論を学び、芸大で学ぶことで、私は芸術学・美学の根本的欠陥に気づきました。それらを現実の社会で実りあるものにするためには、社会科学的アプローチが是非とも必要だと想います。
その端緒として、私は芸術学・美学を学び、実学としてのそれらの新たな位置づけの嚆矢を放ちたいと想います。
パイル織の課題は実技初のA評価を頂きました。これも堺段通のルーツのせいでしょうか。
論文は殆どAを頂いているのですが、客観的に読んでみるとやっぱり社会科学的な分析・論点になっていることに気づきます。私は特に、マーケティング専攻ですので、心理学や経済学などクロスディシプリナリーな分析が持ち味です。
そもそも、芸術というものが人の心を基本とするからには、それを分析する芸術学は心理学や社会学を取り入れるべきです。しかし、いまの芸術学、美学は哲学を中心として構成されている。これは机上の空論に陥る可能性が非常に高いように想われます。
芸術が、民衆のものであり、民衆の心に訴えかける事を目的とするならば、これは本来、社会科学の分野としてとらえられるべきではないでしょうか。芸術は世の中に受け入れられる事でその価値を生みます。民衆に受け入れられない純粋芸術というものがこの世の中に果たしてあるのでしょうか。もしあるとすればそれは数学や論理学で実証されるでしょうが、人間の心はそんなに単純であるとは想えません。経済学が実体経済から乖離したのも、数理経済学や金融工学というバケモノが世界の経済を支配したからではないでしょうか。
芸術や美術に、その方向性を示すべき美学・芸術学は社会科学や人文科学を基礎とすべきであると私は思います。
その観点から、私は社会科学を学んだ物として、その観点から美学・芸術学を論じてみたいと想っています。
いまのままでは、名望家の民芸運動家に利用されるだけにおわった民芸論と同じになってしまいます。芸術学・美学は芸術や美術に関わる人たちが幸福になるために貢献できる実学であるべきだと私は思います。
芸大でもアートプランニングやアートマネージメントという題目の講義がありますが、双方とも、文学部出身の芸術学博士号取得者が指導しているのようです。これではいくら話をしても、芸術家は食べていけるようにはなりません。どこを目標に自分の表現と市場性を実現していくか。この部分で目指す物を差示すことができなければ、そんな学問は必要ないとさえ私は思います。
民藝論を学び、芸大で学ぶことで、私は芸術学・美学の根本的欠陥に気づきました。それらを現実の社会で実りあるものにするためには、社会科学的アプローチが是非とも必要だと想います。
その端緒として、私は芸術学・美学を学び、実学としてのそれらの新たな位置づけの嚆矢を放ちたいと想います。
2010年03月09日
芸術学の社会科学的アプローチ
先日、織の課題がなんとか合格して、大阪芸大の3年生になりました。
パイル織の課題は実技初のA評価を頂きました。これも堺段通のルーツのせいでしょうか。
論文は殆どAを頂いているのですが、客観的に読んでみるとやっぱり社会科学的な分析・論点になっていることに気づきます。私は特に、マーケティング専攻ですので、心理学や経済学などクロスディシプリナリーな分析が持ち味です。
そもそも、芸術というものが人の心を基本とするからには、それを分析する芸術学は心理学や社会学を取り入れるべきです。しかし、いまの芸術学、美学は哲学を中心として構成されている。これは机上の空論に陥る可能性が非常に高いように想われます。
芸術が、民衆のものであり、民衆の心に訴えかける事を目的とするならば、これは本来、社会科学の分野としてとらえられるべきではないでしょうか。芸術は世の中に受け入れられる事でその価値を生みます。民衆に受け入れられない純粋芸術というものがこの世の中に果たしてあるのでしょうか。もしあるとすればそれは数学や論理学で実証されるでしょうが、人間の心はそんなに単純であるとは想えません。経済学が実体経済から乖離したのも、数理経済学や金融工学というバケモノが世界の経済を支配したからではないでしょうか。
芸術や美術に、その方向性を示すべき美学・芸術学は社会科学や人文科学を基礎とすべきであると私は思います。
その観点から、私は社会科学を学んだ物として、その観点から美学・芸術学を論じてみたいと想っています。
いまのままでは、名望家の民芸運動家に利用されるだけにおわった民芸論と同じになってしまいます。芸術学・美学は芸術や美術に関わる人たちが幸福になるために貢献できる実学であるべきだと私は思います。
芸大でもアートプランニングやアートマネージメントという題目の講義がありますが、双方とも、文学部出身の芸術学博士号取得者が指導しているのようです。これではいくら話をしても、芸術家は食べていけるようにはなりません。どこを目標に自分の表現と市場性を実現していくか。この部分で目指す物を差示すことができなければ、そんな学問は必要ないとさえ私は思います。
民藝論を学び、芸大で学ぶことで、私は芸術学・美学の根本的欠陥に気づきました。それらを現実の社会で実りあるものにするためには、社会科学的アプローチが是非とも必要だと想います。
その端緒として、私は芸術学・美学を学び、実学としてのそれらの新たな位置づけの嚆矢を放ちたいと想います。
パイル織の課題は実技初のA評価を頂きました。これも堺段通のルーツのせいでしょうか。
論文は殆どAを頂いているのですが、客観的に読んでみるとやっぱり社会科学的な分析・論点になっていることに気づきます。私は特に、マーケティング専攻ですので、心理学や経済学などクロスディシプリナリーな分析が持ち味です。
そもそも、芸術というものが人の心を基本とするからには、それを分析する芸術学は心理学や社会学を取り入れるべきです。しかし、いまの芸術学、美学は哲学を中心として構成されている。これは机上の空論に陥る可能性が非常に高いように想われます。
芸術が、民衆のものであり、民衆の心に訴えかける事を目的とするならば、これは本来、社会科学の分野としてとらえられるべきではないでしょうか。芸術は世の中に受け入れられる事でその価値を生みます。民衆に受け入れられない純粋芸術というものがこの世の中に果たしてあるのでしょうか。もしあるとすればそれは数学や論理学で実証されるでしょうが、人間の心はそんなに単純であるとは想えません。経済学が実体経済から乖離したのも、数理経済学や金融工学というバケモノが世界の経済を支配したからではないでしょうか。
芸術や美術に、その方向性を示すべき美学・芸術学は社会科学や人文科学を基礎とすべきであると私は思います。
その観点から、私は社会科学を学んだ物として、その観点から美学・芸術学を論じてみたいと想っています。
いまのままでは、名望家の民芸運動家に利用されるだけにおわった民芸論と同じになってしまいます。芸術学・美学は芸術や美術に関わる人たちが幸福になるために貢献できる実学であるべきだと私は思います。
芸大でもアートプランニングやアートマネージメントという題目の講義がありますが、双方とも、文学部出身の芸術学博士号取得者が指導しているのようです。これではいくら話をしても、芸術家は食べていけるようにはなりません。どこを目標に自分の表現と市場性を実現していくか。この部分で目指す物を差示すことができなければ、そんな学問は必要ないとさえ私は思います。
民藝論を学び、芸大で学ぶことで、私は芸術学・美学の根本的欠陥に気づきました。それらを現実の社会で実りあるものにするためには、社会科学的アプローチが是非とも必要だと想います。
その端緒として、私は芸術学・美学を学び、実学としてのそれらの新たな位置づけの嚆矢を放ちたいと想います。
2010年03月09日
芸術学の社会科学的アプローチ
先日、織の課題がなんとか合格して、大阪芸大の3年生になりました。
パイル織の課題は実技初のA評価を頂きました。これも堺段通のルーツのせいでしょうか。
論文は殆どAを頂いているのですが、客観的に読んでみるとやっぱり社会科学的な分析・論点になっていることに気づきます。私は特に、マーケティング専攻ですので、心理学や経済学などクロスディシプリナリーな分析が持ち味です。
そもそも、芸術というものが人の心を基本とするからには、それを分析する芸術学は心理学や社会学を取り入れるべきです。しかし、いまの芸術学、美学は哲学を中心として構成されている。これは机上の空論に陥る可能性が非常に高いように想われます。
芸術が、民衆のものであり、民衆の心に訴えかける事を目的とするならば、これは本来、社会科学の分野としてとらえられるべきではないでしょうか。芸術は世の中に受け入れられる事でその価値を生みます。民衆に受け入れられない純粋芸術というものがこの世の中に果たしてあるのでしょうか。もしあるとすればそれは数学や論理学で実証されるでしょうが、人間の心はそんなに単純であるとは想えません。経済学が実体経済から乖離したのも、数理経済学や金融工学というバケモノが世界の経済を支配したからではないでしょうか。
芸術や美術に、その方向性を示すべき美学・芸術学は社会科学や人文科学を基礎とすべきであると私は思います。
その観点から、私は社会科学を学んだ物として、その観点から美学・芸術学を論じてみたいと想っています。
いまのままでは、名望家の民芸運動家に利用されるだけにおわった民芸論と同じになってしまいます。芸術学・美学は芸術や美術に関わる人たちが幸福になるために貢献できる実学であるべきだと私は思います。
芸大でもアートプランニングやアートマネージメントという題目の講義がありますが、双方とも、文学部出身の芸術学博士号取得者が指導しているのようです。これではいくら話をしても、芸術家は食べていけるようにはなりません。どこを目標に自分の表現と市場性を実現していくか。この部分で目指す物を差示すことができなければ、そんな学問は必要ないとさえ私は思います。
民藝論を学び、芸大で学ぶことで、私は芸術学・美学の根本的欠陥に気づきました。それらを現実の社会で実りあるものにするためには、社会科学的アプローチが是非とも必要だと想います。
その端緒として、私は芸術学・美学を学び、実学としてのそれらの新たな位置づけの嚆矢を放ちたいと想います。
パイル織の課題は実技初のA評価を頂きました。これも堺段通のルーツのせいでしょうか。
論文は殆どAを頂いているのですが、客観的に読んでみるとやっぱり社会科学的な分析・論点になっていることに気づきます。私は特に、マーケティング専攻ですので、心理学や経済学などクロスディシプリナリーな分析が持ち味です。
そもそも、芸術というものが人の心を基本とするからには、それを分析する芸術学は心理学や社会学を取り入れるべきです。しかし、いまの芸術学、美学は哲学を中心として構成されている。これは机上の空論に陥る可能性が非常に高いように想われます。
芸術が、民衆のものであり、民衆の心に訴えかける事を目的とするならば、これは本来、社会科学の分野としてとらえられるべきではないでしょうか。芸術は世の中に受け入れられる事でその価値を生みます。民衆に受け入れられない純粋芸術というものがこの世の中に果たしてあるのでしょうか。もしあるとすればそれは数学や論理学で実証されるでしょうが、人間の心はそんなに単純であるとは想えません。経済学が実体経済から乖離したのも、数理経済学や金融工学というバケモノが世界の経済を支配したからではないでしょうか。
芸術や美術に、その方向性を示すべき美学・芸術学は社会科学や人文科学を基礎とすべきであると私は思います。
その観点から、私は社会科学を学んだ物として、その観点から美学・芸術学を論じてみたいと想っています。
いまのままでは、名望家の民芸運動家に利用されるだけにおわった民芸論と同じになってしまいます。芸術学・美学は芸術や美術に関わる人たちが幸福になるために貢献できる実学であるべきだと私は思います。
芸大でもアートプランニングやアートマネージメントという題目の講義がありますが、双方とも、文学部出身の芸術学博士号取得者が指導しているのようです。これではいくら話をしても、芸術家は食べていけるようにはなりません。どこを目標に自分の表現と市場性を実現していくか。この部分で目指す物を差示すことができなければ、そんな学問は必要ないとさえ私は思います。
民藝論を学び、芸大で学ぶことで、私は芸術学・美学の根本的欠陥に気づきました。それらを現実の社会で実りあるものにするためには、社会科学的アプローチが是非とも必要だと想います。
その端緒として、私は芸術学・美学を学び、実学としてのそれらの新たな位置づけの嚆矢を放ちたいと想います。
2009年06月15日
で、マーケティングではどう考えるか?
マーケティングというのは市場調査とか販売戦略に捉えられがちですが、それは狭義で、私たち村田派?マーケターの考え方は全く違います。マーケティングとは『問題解決志向』であると概念的に捉えるのが適当だと思います。マーケティングはサイエンスかアート(技術)かという論議がありますが、そんな物はナンセンスで、マーケティングとは狭義にはアートであり、way of thinkingなのです。
物・サービスが消費者に行く。消費者から代償として代金や反応が返ってくる。その結果を見て、物・サービスを作り替える。そしてまた消費者から・・・その繰り返し。そのたびに必要とされる問題に対して具体的に一つずつ解決案を出していこう、そして、その未来像も描き出そうというのがマーケティングの基本的枠組みです。戦略的ドメインの選定とか消費者細分化とか競争対抗戦略とかいろいろなマーケティングセオリーはあるのですが、それはあくまで『戦略』に位置するもので、『戦術』となるとまた状況に合わせたこまごまとした対応や作戦、対策が必要となってきます。マーケティングでは戦略は長期的なもの、戦術は短期的な物と定義しています。
で、その問題解決志向の論理展開ですが、簡単に言えば、起承転結で進みます。現状把握→問題点の抽出→その問題点に対する具体的施策→展望、というのが基本的な思考の仕方です。現状把握が緻密であり、問題点の抽出が抽象的で的を得ていないと、その後の具体的施策の提案が甘くなったり、的外れになったりするので、まず、今をどう捉えるのかが一番大切な問題なのです。そのためには、最後の展望につながる自らの描く理想像が必要となってきます。
『マーケティングは愛である』『恋愛もマーケティングである』とうのがキザな村田先生の持論で、自分をいかに売り込み、その結果どういう関係に持って行きたいのか、どういう付き合いを思い描いてその女性にアプローチし、愛情を表現するのか。そのために自分がすべきことは何か?それをフィードバックしながら前に進んでいく、すなわち恋愛こそがマーケティングの原型なのだと言うことです。
これを私たちはマーケティング志向というのですが、理路整然とした理論もなく、この思考方法は主にマーケターのマインドによって大きく左右されます。
前の日記で書いたヘッジファンドへの投資はヘッジファンドが全く情報公開をしていないという事ですから、現状把握も予想も無理なわけで、丸投げにしてしまった年金基金の自業自得と言われてもしかたないでしょう。なるべくしてなった、としいいようがないのです。
経験則に学べば、今回の事は予測できたわけですし、私が運用担当者なら、銀行金利が下げられた時点で、運用実績は下がるのが当然。リスクをとるよりも受給者に理解を得て、場合によっては基金を解散するくらいの勇気も必要だったのではないでしょうか?この自体は、『失敗してもヒトの金』という安易さの結末とは言えないでしょうか?
物・サービスが消費者に行く。消費者から代償として代金や反応が返ってくる。その結果を見て、物・サービスを作り替える。そしてまた消費者から・・・その繰り返し。そのたびに必要とされる問題に対して具体的に一つずつ解決案を出していこう、そして、その未来像も描き出そうというのがマーケティングの基本的枠組みです。戦略的ドメインの選定とか消費者細分化とか競争対抗戦略とかいろいろなマーケティングセオリーはあるのですが、それはあくまで『戦略』に位置するもので、『戦術』となるとまた状況に合わせたこまごまとした対応や作戦、対策が必要となってきます。マーケティングでは戦略は長期的なもの、戦術は短期的な物と定義しています。
で、その問題解決志向の論理展開ですが、簡単に言えば、起承転結で進みます。現状把握→問題点の抽出→その問題点に対する具体的施策→展望、というのが基本的な思考の仕方です。現状把握が緻密であり、問題点の抽出が抽象的で的を得ていないと、その後の具体的施策の提案が甘くなったり、的外れになったりするので、まず、今をどう捉えるのかが一番大切な問題なのです。そのためには、最後の展望につながる自らの描く理想像が必要となってきます。
『マーケティングは愛である』『恋愛もマーケティングである』とうのがキザな村田先生の持論で、自分をいかに売り込み、その結果どういう関係に持って行きたいのか、どういう付き合いを思い描いてその女性にアプローチし、愛情を表現するのか。そのために自分がすべきことは何か?それをフィードバックしながら前に進んでいく、すなわち恋愛こそがマーケティングの原型なのだと言うことです。
これを私たちはマーケティング志向というのですが、理路整然とした理論もなく、この思考方法は主にマーケターのマインドによって大きく左右されます。
前の日記で書いたヘッジファンドへの投資はヘッジファンドが全く情報公開をしていないという事ですから、現状把握も予想も無理なわけで、丸投げにしてしまった年金基金の自業自得と言われてもしかたないでしょう。なるべくしてなった、としいいようがないのです。
経験則に学べば、今回の事は予測できたわけですし、私が運用担当者なら、銀行金利が下げられた時点で、運用実績は下がるのが当然。リスクをとるよりも受給者に理解を得て、場合によっては基金を解散するくらいの勇気も必要だったのではないでしょうか?この自体は、『失敗してもヒトの金』という安易さの結末とは言えないでしょうか?
2009年06月15日
で、マーケティングではどう考えるか?
マーケティングというのは市場調査とか販売戦略に捉えられがちですが、それは狭義で、私たち村田派?マーケターの考え方は全く違います。マーケティングとは『問題解決志向』であると概念的に捉えるのが適当だと思います。マーケティングはサイエンスかアート(技術)かという論議がありますが、そんな物はナンセンスで、マーケティングとは狭義にはアートであり、way of thinkingなのです。
物・サービスが消費者に行く。消費者から代償として代金や反応が返ってくる。その結果を見て、物・サービスを作り替える。そしてまた消費者から・・・その繰り返し。そのたびに必要とされる問題に対して具体的に一つずつ解決案を出していこう、そして、その未来像も描き出そうというのがマーケティングの基本的枠組みです。戦略的ドメインの選定とか消費者細分化とか競争対抗戦略とかいろいろなマーケティングセオリーはあるのですが、それはあくまで『戦略』に位置するもので、『戦術』となるとまた状況に合わせたこまごまとした対応や作戦、対策が必要となってきます。マーケティングでは戦略は長期的なもの、戦術は短期的な物と定義しています。
で、その問題解決志向の論理展開ですが、簡単に言えば、起承転結で進みます。現状把握→問題点の抽出→その問題点に対する具体的施策→展望、というのが基本的な思考の仕方です。現状把握が緻密であり、問題点の抽出が抽象的で的を得ていないと、その後の具体的施策の提案が甘くなったり、的外れになったりするので、まず、今をどう捉えるのかが一番大切な問題なのです。そのためには、最後の展望につながる自らの描く理想像が必要となってきます。
『マーケティングは愛である』『恋愛もマーケティングである』とうのがキザな村田先生の持論で、自分をいかに売り込み、その結果どういう関係に持って行きたいのか、どういう付き合いを思い描いてその女性にアプローチし、愛情を表現するのか。そのために自分がすべきことは何か?それをフィードバックしながら前に進んでいく、すなわち恋愛こそがマーケティングの原型なのだと言うことです。
これを私たちはマーケティング志向というのですが、理路整然とした理論もなく、この思考方法は主にマーケターのマインドによって大きく左右されます。
前の日記で書いたヘッジファンドへの投資はヘッジファンドが全く情報公開をしていないという事ですから、現状把握も予想も無理なわけで、丸投げにしてしまった年金基金の自業自得と言われてもしかたないでしょう。なるべくしてなった、としいいようがないのです。
経験則に学べば、今回の事は予測できたわけですし、私が運用担当者なら、銀行金利が下げられた時点で、運用実績は下がるのが当然。リスクをとるよりも受給者に理解を得て、場合によっては基金を解散するくらいの勇気も必要だったのではないでしょうか?この自体は、『失敗してもヒトの金』という安易さの結末とは言えないでしょうか?
物・サービスが消費者に行く。消費者から代償として代金や反応が返ってくる。その結果を見て、物・サービスを作り替える。そしてまた消費者から・・・その繰り返し。そのたびに必要とされる問題に対して具体的に一つずつ解決案を出していこう、そして、その未来像も描き出そうというのがマーケティングの基本的枠組みです。戦略的ドメインの選定とか消費者細分化とか競争対抗戦略とかいろいろなマーケティングセオリーはあるのですが、それはあくまで『戦略』に位置するもので、『戦術』となるとまた状況に合わせたこまごまとした対応や作戦、対策が必要となってきます。マーケティングでは戦略は長期的なもの、戦術は短期的な物と定義しています。
で、その問題解決志向の論理展開ですが、簡単に言えば、起承転結で進みます。現状把握→問題点の抽出→その問題点に対する具体的施策→展望、というのが基本的な思考の仕方です。現状把握が緻密であり、問題点の抽出が抽象的で的を得ていないと、その後の具体的施策の提案が甘くなったり、的外れになったりするので、まず、今をどう捉えるのかが一番大切な問題なのです。そのためには、最後の展望につながる自らの描く理想像が必要となってきます。
『マーケティングは愛である』『恋愛もマーケティングである』とうのがキザな村田先生の持論で、自分をいかに売り込み、その結果どういう関係に持って行きたいのか、どういう付き合いを思い描いてその女性にアプローチし、愛情を表現するのか。そのために自分がすべきことは何か?それをフィードバックしながら前に進んでいく、すなわち恋愛こそがマーケティングの原型なのだと言うことです。
これを私たちはマーケティング志向というのですが、理路整然とした理論もなく、この思考方法は主にマーケターのマインドによって大きく左右されます。
前の日記で書いたヘッジファンドへの投資はヘッジファンドが全く情報公開をしていないという事ですから、現状把握も予想も無理なわけで、丸投げにしてしまった年金基金の自業自得と言われてもしかたないでしょう。なるべくしてなった、としいいようがないのです。
経験則に学べば、今回の事は予測できたわけですし、私が運用担当者なら、銀行金利が下げられた時点で、運用実績は下がるのが当然。リスクをとるよりも受給者に理解を得て、場合によっては基金を解散するくらいの勇気も必要だったのではないでしょうか?この自体は、『失敗してもヒトの金』という安易さの結末とは言えないでしょうか?
2009年06月15日
で、マーケティングではどう考えるか?
マーケティングというのは市場調査とか販売戦略に捉えられがちですが、それは狭義で、私たち村田派?マーケターの考え方は全く違います。マーケティングとは『問題解決志向』であると概念的に捉えるのが適当だと思います。マーケティングはサイエンスかアート(技術)かという論議がありますが、そんな物はナンセンスで、マーケティングとは狭義にはアートであり、way of thinkingなのです。
物・サービスが消費者に行く。消費者から代償として代金や反応が返ってくる。その結果を見て、物・サービスを作り替える。そしてまた消費者から・・・その繰り返し。そのたびに必要とされる問題に対して具体的に一つずつ解決案を出していこう、そして、その未来像も描き出そうというのがマーケティングの基本的枠組みです。戦略的ドメインの選定とか消費者細分化とか競争対抗戦略とかいろいろなマーケティングセオリーはあるのですが、それはあくまで『戦略』に位置するもので、『戦術』となるとまた状況に合わせたこまごまとした対応や作戦、対策が必要となってきます。マーケティングでは戦略は長期的なもの、戦術は短期的な物と定義しています。
で、その問題解決志向の論理展開ですが、簡単に言えば、起承転結で進みます。現状把握→問題点の抽出→その問題点に対する具体的施策→展望、というのが基本的な思考の仕方です。現状把握が緻密であり、問題点の抽出が抽象的で的を得ていないと、その後の具体的施策の提案が甘くなったり、的外れになったりするので、まず、今をどう捉えるのかが一番大切な問題なのです。そのためには、最後の展望につながる自らの描く理想像が必要となってきます。
『マーケティングは愛である』『恋愛もマーケティングである』とうのがキザな村田先生の持論で、自分をいかに売り込み、その結果どういう関係に持って行きたいのか、どういう付き合いを思い描いてその女性にアプローチし、愛情を表現するのか。そのために自分がすべきことは何か?それをフィードバックしながら前に進んでいく、すなわち恋愛こそがマーケティングの原型なのだと言うことです。
これを私たちはマーケティング志向というのですが、理路整然とした理論もなく、この思考方法は主にマーケターのマインドによって大きく左右されます。
前の日記で書いたヘッジファンドへの投資はヘッジファンドが全く情報公開をしていないという事ですから、現状把握も予想も無理なわけで、丸投げにしてしまった年金基金の自業自得と言われてもしかたないでしょう。なるべくしてなった、としいいようがないのです。
経験則に学べば、今回の事は予測できたわけですし、私が運用担当者なら、銀行金利が下げられた時点で、運用実績は下がるのが当然。リスクをとるよりも受給者に理解を得て、場合によっては基金を解散するくらいの勇気も必要だったのではないでしょうか?この自体は、『失敗してもヒトの金』という安易さの結末とは言えないでしょうか?
物・サービスが消費者に行く。消費者から代償として代金や反応が返ってくる。その結果を見て、物・サービスを作り替える。そしてまた消費者から・・・その繰り返し。そのたびに必要とされる問題に対して具体的に一つずつ解決案を出していこう、そして、その未来像も描き出そうというのがマーケティングの基本的枠組みです。戦略的ドメインの選定とか消費者細分化とか競争対抗戦略とかいろいろなマーケティングセオリーはあるのですが、それはあくまで『戦略』に位置するもので、『戦術』となるとまた状況に合わせたこまごまとした対応や作戦、対策が必要となってきます。マーケティングでは戦略は長期的なもの、戦術は短期的な物と定義しています。
で、その問題解決志向の論理展開ですが、簡単に言えば、起承転結で進みます。現状把握→問題点の抽出→その問題点に対する具体的施策→展望、というのが基本的な思考の仕方です。現状把握が緻密であり、問題点の抽出が抽象的で的を得ていないと、その後の具体的施策の提案が甘くなったり、的外れになったりするので、まず、今をどう捉えるのかが一番大切な問題なのです。そのためには、最後の展望につながる自らの描く理想像が必要となってきます。
『マーケティングは愛である』『恋愛もマーケティングである』とうのがキザな村田先生の持論で、自分をいかに売り込み、その結果どういう関係に持って行きたいのか、どういう付き合いを思い描いてその女性にアプローチし、愛情を表現するのか。そのために自分がすべきことは何か?それをフィードバックしながら前に進んでいく、すなわち恋愛こそがマーケティングの原型なのだと言うことです。
これを私たちはマーケティング志向というのですが、理路整然とした理論もなく、この思考方法は主にマーケターのマインドによって大きく左右されます。
前の日記で書いたヘッジファンドへの投資はヘッジファンドが全く情報公開をしていないという事ですから、現状把握も予想も無理なわけで、丸投げにしてしまった年金基金の自業自得と言われてもしかたないでしょう。なるべくしてなった、としいいようがないのです。
経験則に学べば、今回の事は予測できたわけですし、私が運用担当者なら、銀行金利が下げられた時点で、運用実績は下がるのが当然。リスクをとるよりも受給者に理解を得て、場合によっては基金を解散するくらいの勇気も必要だったのではないでしょうか?この自体は、『失敗してもヒトの金』という安易さの結末とは言えないでしょうか?
2009年06月15日
質量不変の法則【NHKマネー資本主義を見て】
今日の内容は年金基金がヘッジファンドに投資しして、大損をこいたというものでした。主題になっている年金基金は25%も資産を減らしたといいます。運用担当者も出演していましたが、この人は経済・投資というものをわかっていたのでしょうか?
そもそも、世界中の人が投資に血道を上げるようになったには理由があります。特に日本の場合ははっきりしています。銀行が本来払うべき預金金利を支払わなくなったからです。これに誰も抗議しなかった。それがこの結果を招いたとも言えるのです。バブル崩壊までは定期預金の金利は5〜6%ついていた様に記憶しています。その金利で人の良いおばあちゃんたちは、20〜30万円の物をデパートの外商から買い、その代わり、外商は電球を変えたり、瓶詰めの蓋を開けてあげたりして、細々としたお世話をしていたのです。そういう持ちつ持たれつの関係が成立していました。ところが、バブル崩壊で銀行の経営が危機に陥ると一斉に金利を引き下げました。定期預金にしていても、受け取れる預金は雀の涙です。当時、世の中には沢山の金利生活者といわれる人がいました。その人たちは、金利が下げられると生活ができなくなるわけです。とくに定年退職者は実際に年金を受け取れるまで時間があるし、退職金を定期預金にして、生活していましたし、年金を受け取れるようになれば、その金をレジャーや買い物に当てていたのです。それまで定期預金されていた金の行き先が、投資信託などのリスク商品だったわけです。リスク商品というからには当然リスクがあり、それまで銀行がとっていたリスクを商品購入者に背負わせ、自分たちはきっちり稼ぐというやり方に出たわけです。リスクがあるのですから、これは定期預金とは全く性質が違います。簡単に言えばギャンブルなのです。ギャンブルの常道として、はじめに必ず勝たせて、掛け金を大きくさせ、最後にがっぽりいただくというのがお決まりの筋書きです。投資をしたり、リスク商品を購入したほとんどの国民はこの銀行のトリックにまんまと引っかかったのです。
そもそも、地球の質量は一定なのです。種をまけば太陽の光さえあれば成長すると思われる植物でさえ、枯れるものがあっての循環をしているのであり、地球の質量、もっと言えば全宇宙の質量は不変なのです。これは中学校で習うのではないでしょうか。ですから、お金の行き先をAからBへ、BからCへ移動したところで、全体の量は全く増えないのです。増えているように見えているだけです。農水産、鉱業など一次産品をいかに加工しても全体の質量の合計は同じです。そこには利便性や機能性等の付加価値が加わるだけです。いわばこれが経済活動による富です。いくらヘッジファンドにお金を渡しても、サイババのように、お金が増える訳ではないのです。ポケットのビスケットをたたいても、数が増えても量は増えないのと全く同じです。それを増えた増えたと言っているだけです。ホリエモンがやった株式分割というのはまさにそれですね。
そもそも、近代経済学というのは大きな盲点を抱えていて、変数(変化する要因)を限定します。そのために、多くの条件を一定と仮定しなければならないのです。そんなことって世の中にありますか?森羅万象すべては常に移り変わっているのです。サブプライムローンの構築の場合はあろう事か、地価が下がることはないというのが、不変の前提となっていたのです。驚きです。MBAをとったような人が何故こんなことに疑問を持たなかったのか?狂っていたか、欲に目がくらんだか?・・・違うと思います。意図的に無視したのです。まんまと引っかけられたのです。麻雀でいえば、役満を振り込むように積み込みをされたのです。それにまんまと乗ってしまった。おまけに、ツモ順を自ら変更して、相手にツモらせてしまったのです。
私は大きな罪は、いま大学で近代経済学を教えている教授陣にもあると思います。私も、もちろん大学で経済学をかじりましたが、ある教授の『ゲームの理論』という講義で直感的に近代経済学がはらむ矛盾に気づきました。
経済学というのは、お金や物を経済的に回して、最大多数の幸福を追求するための学問であるはずです。それがねじ曲げられて、ある一部の人の利益追求に利用されるようになってしまいました。これは経済学の頽廃以外のなにものでもありません。
前にも書きましたが、これからの経済学は哲学や心理学や宗教学などを取り入れて、クロスディシプリナリーに地球規模の幸福を考える学問へと目指す道を変えるべきだと私は想うのです。
そもそも、世界中の人が投資に血道を上げるようになったには理由があります。特に日本の場合ははっきりしています。銀行が本来払うべき預金金利を支払わなくなったからです。これに誰も抗議しなかった。それがこの結果を招いたとも言えるのです。バブル崩壊までは定期預金の金利は5〜6%ついていた様に記憶しています。その金利で人の良いおばあちゃんたちは、20〜30万円の物をデパートの外商から買い、その代わり、外商は電球を変えたり、瓶詰めの蓋を開けてあげたりして、細々としたお世話をしていたのです。そういう持ちつ持たれつの関係が成立していました。ところが、バブル崩壊で銀行の経営が危機に陥ると一斉に金利を引き下げました。定期預金にしていても、受け取れる預金は雀の涙です。当時、世の中には沢山の金利生活者といわれる人がいました。その人たちは、金利が下げられると生活ができなくなるわけです。とくに定年退職者は実際に年金を受け取れるまで時間があるし、退職金を定期預金にして、生活していましたし、年金を受け取れるようになれば、その金をレジャーや買い物に当てていたのです。それまで定期預金されていた金の行き先が、投資信託などのリスク商品だったわけです。リスク商品というからには当然リスクがあり、それまで銀行がとっていたリスクを商品購入者に背負わせ、自分たちはきっちり稼ぐというやり方に出たわけです。リスクがあるのですから、これは定期預金とは全く性質が違います。簡単に言えばギャンブルなのです。ギャンブルの常道として、はじめに必ず勝たせて、掛け金を大きくさせ、最後にがっぽりいただくというのがお決まりの筋書きです。投資をしたり、リスク商品を購入したほとんどの国民はこの銀行のトリックにまんまと引っかかったのです。
そもそも、地球の質量は一定なのです。種をまけば太陽の光さえあれば成長すると思われる植物でさえ、枯れるものがあっての循環をしているのであり、地球の質量、もっと言えば全宇宙の質量は不変なのです。これは中学校で習うのではないでしょうか。ですから、お金の行き先をAからBへ、BからCへ移動したところで、全体の量は全く増えないのです。増えているように見えているだけです。農水産、鉱業など一次産品をいかに加工しても全体の質量の合計は同じです。そこには利便性や機能性等の付加価値が加わるだけです。いわばこれが経済活動による富です。いくらヘッジファンドにお金を渡しても、サイババのように、お金が増える訳ではないのです。ポケットのビスケットをたたいても、数が増えても量は増えないのと全く同じです。それを増えた増えたと言っているだけです。ホリエモンがやった株式分割というのはまさにそれですね。
そもそも、近代経済学というのは大きな盲点を抱えていて、変数(変化する要因)を限定します。そのために、多くの条件を一定と仮定しなければならないのです。そんなことって世の中にありますか?森羅万象すべては常に移り変わっているのです。サブプライムローンの構築の場合はあろう事か、地価が下がることはないというのが、不変の前提となっていたのです。驚きです。MBAをとったような人が何故こんなことに疑問を持たなかったのか?狂っていたか、欲に目がくらんだか?・・・違うと思います。意図的に無視したのです。まんまと引っかけられたのです。麻雀でいえば、役満を振り込むように積み込みをされたのです。それにまんまと乗ってしまった。おまけに、ツモ順を自ら変更して、相手にツモらせてしまったのです。
私は大きな罪は、いま大学で近代経済学を教えている教授陣にもあると思います。私も、もちろん大学で経済学をかじりましたが、ある教授の『ゲームの理論』という講義で直感的に近代経済学がはらむ矛盾に気づきました。
経済学というのは、お金や物を経済的に回して、最大多数の幸福を追求するための学問であるはずです。それがねじ曲げられて、ある一部の人の利益追求に利用されるようになってしまいました。これは経済学の頽廃以外のなにものでもありません。
前にも書きましたが、これからの経済学は哲学や心理学や宗教学などを取り入れて、クロスディシプリナリーに地球規模の幸福を考える学問へと目指す道を変えるべきだと私は想うのです。
2009年06月15日
質量不変の法則【NHKマネー資本主義を見て】
今日の内容は年金基金がヘッジファンドに投資しして、大損をこいたというものでした。主題になっている年金基金は25%も資産を減らしたといいます。運用担当者も出演していましたが、この人は経済・投資というものをわかっていたのでしょうか?
そもそも、世界中の人が投資に血道を上げるようになったには理由があります。特に日本の場合ははっきりしています。銀行が本来払うべき預金金利を支払わなくなったからです。これに誰も抗議しなかった。それがこの結果を招いたとも言えるのです。バブル崩壊までは定期預金の金利は5〜6%ついていた様に記憶しています。その金利で人の良いおばあちゃんたちは、20〜30万円の物をデパートの外商から買い、その代わり、外商は電球を変えたり、瓶詰めの蓋を開けてあげたりして、細々としたお世話をしていたのです。そういう持ちつ持たれつの関係が成立していました。ところが、バブル崩壊で銀行の経営が危機に陥ると一斉に金利を引き下げました。定期預金にしていても、受け取れる預金は雀の涙です。当時、世の中には沢山の金利生活者といわれる人がいました。その人たちは、金利が下げられると生活ができなくなるわけです。とくに定年退職者は実際に年金を受け取れるまで時間があるし、退職金を定期預金にして、生活していましたし、年金を受け取れるようになれば、その金をレジャーや買い物に当てていたのです。それまで定期預金されていた金の行き先が、投資信託などのリスク商品だったわけです。リスク商品というからには当然リスクがあり、それまで銀行がとっていたリスクを商品購入者に背負わせ、自分たちはきっちり稼ぐというやり方に出たわけです。リスクがあるのですから、これは定期預金とは全く性質が違います。簡単に言えばギャンブルなのです。ギャンブルの常道として、はじめに必ず勝たせて、掛け金を大きくさせ、最後にがっぽりいただくというのがお決まりの筋書きです。投資をしたり、リスク商品を購入したほとんどの国民はこの銀行のトリックにまんまと引っかかったのです。
そもそも、地球の質量は一定なのです。種をまけば太陽の光さえあれば成長すると思われる植物でさえ、枯れるものがあっての循環をしているのであり、地球の質量、もっと言えば全宇宙の質量は不変なのです。これは中学校で習うのではないでしょうか。ですから、お金の行き先をAからBへ、BからCへ移動したところで、全体の量は全く増えないのです。増えているように見えているだけです。農水産、鉱業など一次産品をいかに加工しても全体の質量の合計は同じです。そこには利便性や機能性等の付加価値が加わるだけです。いわばこれが経済活動による富です。いくらヘッジファンドにお金を渡しても、サイババのように、お金が増える訳ではないのです。ポケットのビスケットをたたいても、数が増えても量は増えないのと全く同じです。それを増えた増えたと言っているだけです。ホリエモンがやった株式分割というのはまさにそれですね。
そもそも、近代経済学というのは大きな盲点を抱えていて、変数(変化する要因)を限定します。そのために、多くの条件を一定と仮定しなければならないのです。そんなことって世の中にありますか?森羅万象すべては常に移り変わっているのです。サブプライムローンの構築の場合はあろう事か、地価が下がることはないというのが、不変の前提となっていたのです。驚きです。MBAをとったような人が何故こんなことに疑問を持たなかったのか?狂っていたか、欲に目がくらんだか?・・・違うと思います。意図的に無視したのです。まんまと引っかけられたのです。麻雀でいえば、役満を振り込むように積み込みをされたのです。それにまんまと乗ってしまった。おまけに、ツモ順を自ら変更して、相手にツモらせてしまったのです。
私は大きな罪は、いま大学で近代経済学を教えている教授陣にもあると思います。私も、もちろん大学で経済学をかじりましたが、ある教授の『ゲームの理論』という講義で直感的に近代経済学がはらむ矛盾に気づきました。
経済学というのは、お金や物を経済的に回して、最大多数の幸福を追求するための学問であるはずです。それがねじ曲げられて、ある一部の人の利益追求に利用されるようになってしまいました。これは経済学の頽廃以外のなにものでもありません。
前にも書きましたが、これからの経済学は哲学や心理学や宗教学などを取り入れて、クロスディシプリナリーに地球規模の幸福を考える学問へと目指す道を変えるべきだと私は想うのです。
そもそも、世界中の人が投資に血道を上げるようになったには理由があります。特に日本の場合ははっきりしています。銀行が本来払うべき預金金利を支払わなくなったからです。これに誰も抗議しなかった。それがこの結果を招いたとも言えるのです。バブル崩壊までは定期預金の金利は5〜6%ついていた様に記憶しています。その金利で人の良いおばあちゃんたちは、20〜30万円の物をデパートの外商から買い、その代わり、外商は電球を変えたり、瓶詰めの蓋を開けてあげたりして、細々としたお世話をしていたのです。そういう持ちつ持たれつの関係が成立していました。ところが、バブル崩壊で銀行の経営が危機に陥ると一斉に金利を引き下げました。定期預金にしていても、受け取れる預金は雀の涙です。当時、世の中には沢山の金利生活者といわれる人がいました。その人たちは、金利が下げられると生活ができなくなるわけです。とくに定年退職者は実際に年金を受け取れるまで時間があるし、退職金を定期預金にして、生活していましたし、年金を受け取れるようになれば、その金をレジャーや買い物に当てていたのです。それまで定期預金されていた金の行き先が、投資信託などのリスク商品だったわけです。リスク商品というからには当然リスクがあり、それまで銀行がとっていたリスクを商品購入者に背負わせ、自分たちはきっちり稼ぐというやり方に出たわけです。リスクがあるのですから、これは定期預金とは全く性質が違います。簡単に言えばギャンブルなのです。ギャンブルの常道として、はじめに必ず勝たせて、掛け金を大きくさせ、最後にがっぽりいただくというのがお決まりの筋書きです。投資をしたり、リスク商品を購入したほとんどの国民はこの銀行のトリックにまんまと引っかかったのです。
そもそも、地球の質量は一定なのです。種をまけば太陽の光さえあれば成長すると思われる植物でさえ、枯れるものがあっての循環をしているのであり、地球の質量、もっと言えば全宇宙の質量は不変なのです。これは中学校で習うのではないでしょうか。ですから、お金の行き先をAからBへ、BからCへ移動したところで、全体の量は全く増えないのです。増えているように見えているだけです。農水産、鉱業など一次産品をいかに加工しても全体の質量の合計は同じです。そこには利便性や機能性等の付加価値が加わるだけです。いわばこれが経済活動による富です。いくらヘッジファンドにお金を渡しても、サイババのように、お金が増える訳ではないのです。ポケットのビスケットをたたいても、数が増えても量は増えないのと全く同じです。それを増えた増えたと言っているだけです。ホリエモンがやった株式分割というのはまさにそれですね。
そもそも、近代経済学というのは大きな盲点を抱えていて、変数(変化する要因)を限定します。そのために、多くの条件を一定と仮定しなければならないのです。そんなことって世の中にありますか?森羅万象すべては常に移り変わっているのです。サブプライムローンの構築の場合はあろう事か、地価が下がることはないというのが、不変の前提となっていたのです。驚きです。MBAをとったような人が何故こんなことに疑問を持たなかったのか?狂っていたか、欲に目がくらんだか?・・・違うと思います。意図的に無視したのです。まんまと引っかけられたのです。麻雀でいえば、役満を振り込むように積み込みをされたのです。それにまんまと乗ってしまった。おまけに、ツモ順を自ら変更して、相手にツモらせてしまったのです。
私は大きな罪は、いま大学で近代経済学を教えている教授陣にもあると思います。私も、もちろん大学で経済学をかじりましたが、ある教授の『ゲームの理論』という講義で直感的に近代経済学がはらむ矛盾に気づきました。
経済学というのは、お金や物を経済的に回して、最大多数の幸福を追求するための学問であるはずです。それがねじ曲げられて、ある一部の人の利益追求に利用されるようになってしまいました。これは経済学の頽廃以外のなにものでもありません。
前にも書きましたが、これからの経済学は哲学や心理学や宗教学などを取り入れて、クロスディシプリナリーに地球規模の幸福を考える学問へと目指す道を変えるべきだと私は想うのです。
2009年06月15日
質量不変の法則【NHKマネー資本主義を見て】
今日の内容は年金基金がヘッジファンドに投資しして、大損をこいたというものでした。主題になっている年金基金は25%も資産を減らしたといいます。運用担当者も出演していましたが、この人は経済・投資というものをわかっていたのでしょうか?
そもそも、世界中の人が投資に血道を上げるようになったには理由があります。特に日本の場合ははっきりしています。銀行が本来払うべき預金金利を支払わなくなったからです。これに誰も抗議しなかった。それがこの結果を招いたとも言えるのです。バブル崩壊までは定期預金の金利は5〜6%ついていた様に記憶しています。その金利で人の良いおばあちゃんたちは、20〜30万円の物をデパートの外商から買い、その代わり、外商は電球を変えたり、瓶詰めの蓋を開けてあげたりして、細々としたお世話をしていたのです。そういう持ちつ持たれつの関係が成立していました。ところが、バブル崩壊で銀行の経営が危機に陥ると一斉に金利を引き下げました。定期預金にしていても、受け取れる預金は雀の涙です。当時、世の中には沢山の金利生活者といわれる人がいました。その人たちは、金利が下げられると生活ができなくなるわけです。とくに定年退職者は実際に年金を受け取れるまで時間があるし、退職金を定期預金にして、生活していましたし、年金を受け取れるようになれば、その金をレジャーや買い物に当てていたのです。それまで定期預金されていた金の行き先が、投資信託などのリスク商品だったわけです。リスク商品というからには当然リスクがあり、それまで銀行がとっていたリスクを商品購入者に背負わせ、自分たちはきっちり稼ぐというやり方に出たわけです。リスクがあるのですから、これは定期預金とは全く性質が違います。簡単に言えばギャンブルなのです。ギャンブルの常道として、はじめに必ず勝たせて、掛け金を大きくさせ、最後にがっぽりいただくというのがお決まりの筋書きです。投資をしたり、リスク商品を購入したほとんどの国民はこの銀行のトリックにまんまと引っかかったのです。
そもそも、地球の質量は一定なのです。種をまけば太陽の光さえあれば成長すると思われる植物でさえ、枯れるものがあっての循環をしているのであり、地球の質量、もっと言えば全宇宙の質量は不変なのです。これは中学校で習うのではないでしょうか。ですから、お金の行き先をAからBへ、BからCへ移動したところで、全体の量は全く増えないのです。増えているように見えているだけです。農水産、鉱業など一次産品をいかに加工しても全体の質量の合計は同じです。そこには利便性や機能性等の付加価値が加わるだけです。いわばこれが経済活動による富です。いくらヘッジファンドにお金を渡しても、サイババのように、お金が増える訳ではないのです。ポケットのビスケットをたたいても、数が増えても量は増えないのと全く同じです。それを増えた増えたと言っているだけです。ホリエモンがやった株式分割というのはまさにそれですね。
そもそも、近代経済学というのは大きな盲点を抱えていて、変数(変化する要因)を限定します。そのために、多くの条件を一定と仮定しなければならないのです。そんなことって世の中にありますか?森羅万象すべては常に移り変わっているのです。サブプライムローンの構築の場合はあろう事か、地価が下がることはないというのが、不変の前提となっていたのです。驚きです。MBAをとったような人が何故こんなことに疑問を持たなかったのか?狂っていたか、欲に目がくらんだか?・・・違うと思います。意図的に無視したのです。まんまと引っかけられたのです。麻雀でいえば、役満を振り込むように積み込みをされたのです。それにまんまと乗ってしまった。おまけに、ツモ順を自ら変更して、相手にツモらせてしまったのです。
私は大きな罪は、いま大学で近代経済学を教えている教授陣にもあると思います。私も、もちろん大学で経済学をかじりましたが、ある教授の『ゲームの理論』という講義で直感的に近代経済学がはらむ矛盾に気づきました。
経済学というのは、お金や物を経済的に回して、最大多数の幸福を追求するための学問であるはずです。それがねじ曲げられて、ある一部の人の利益追求に利用されるようになってしまいました。これは経済学の頽廃以外のなにものでもありません。
前にも書きましたが、これからの経済学は哲学や心理学や宗教学などを取り入れて、クロスディシプリナリーに地球規模の幸福を考える学問へと目指す道を変えるべきだと私は想うのです。
そもそも、世界中の人が投資に血道を上げるようになったには理由があります。特に日本の場合ははっきりしています。銀行が本来払うべき預金金利を支払わなくなったからです。これに誰も抗議しなかった。それがこの結果を招いたとも言えるのです。バブル崩壊までは定期預金の金利は5〜6%ついていた様に記憶しています。その金利で人の良いおばあちゃんたちは、20〜30万円の物をデパートの外商から買い、その代わり、外商は電球を変えたり、瓶詰めの蓋を開けてあげたりして、細々としたお世話をしていたのです。そういう持ちつ持たれつの関係が成立していました。ところが、バブル崩壊で銀行の経営が危機に陥ると一斉に金利を引き下げました。定期預金にしていても、受け取れる預金は雀の涙です。当時、世の中には沢山の金利生活者といわれる人がいました。その人たちは、金利が下げられると生活ができなくなるわけです。とくに定年退職者は実際に年金を受け取れるまで時間があるし、退職金を定期預金にして、生活していましたし、年金を受け取れるようになれば、その金をレジャーや買い物に当てていたのです。それまで定期預金されていた金の行き先が、投資信託などのリスク商品だったわけです。リスク商品というからには当然リスクがあり、それまで銀行がとっていたリスクを商品購入者に背負わせ、自分たちはきっちり稼ぐというやり方に出たわけです。リスクがあるのですから、これは定期預金とは全く性質が違います。簡単に言えばギャンブルなのです。ギャンブルの常道として、はじめに必ず勝たせて、掛け金を大きくさせ、最後にがっぽりいただくというのがお決まりの筋書きです。投資をしたり、リスク商品を購入したほとんどの国民はこの銀行のトリックにまんまと引っかかったのです。
そもそも、地球の質量は一定なのです。種をまけば太陽の光さえあれば成長すると思われる植物でさえ、枯れるものがあっての循環をしているのであり、地球の質量、もっと言えば全宇宙の質量は不変なのです。これは中学校で習うのではないでしょうか。ですから、お金の行き先をAからBへ、BからCへ移動したところで、全体の量は全く増えないのです。増えているように見えているだけです。農水産、鉱業など一次産品をいかに加工しても全体の質量の合計は同じです。そこには利便性や機能性等の付加価値が加わるだけです。いわばこれが経済活動による富です。いくらヘッジファンドにお金を渡しても、サイババのように、お金が増える訳ではないのです。ポケットのビスケットをたたいても、数が増えても量は増えないのと全く同じです。それを増えた増えたと言っているだけです。ホリエモンがやった株式分割というのはまさにそれですね。
そもそも、近代経済学というのは大きな盲点を抱えていて、変数(変化する要因)を限定します。そのために、多くの条件を一定と仮定しなければならないのです。そんなことって世の中にありますか?森羅万象すべては常に移り変わっているのです。サブプライムローンの構築の場合はあろう事か、地価が下がることはないというのが、不変の前提となっていたのです。驚きです。MBAをとったような人が何故こんなことに疑問を持たなかったのか?狂っていたか、欲に目がくらんだか?・・・違うと思います。意図的に無視したのです。まんまと引っかけられたのです。麻雀でいえば、役満を振り込むように積み込みをされたのです。それにまんまと乗ってしまった。おまけに、ツモ順を自ら変更して、相手にツモらせてしまったのです。
私は大きな罪は、いま大学で近代経済学を教えている教授陣にもあると思います。私も、もちろん大学で経済学をかじりましたが、ある教授の『ゲームの理論』という講義で直感的に近代経済学がはらむ矛盾に気づきました。
経済学というのは、お金や物を経済的に回して、最大多数の幸福を追求するための学問であるはずです。それがねじ曲げられて、ある一部の人の利益追求に利用されるようになってしまいました。これは経済学の頽廃以外のなにものでもありません。
前にも書きましたが、これからの経済学は哲学や心理学や宗教学などを取り入れて、クロスディシプリナリーに地球規模の幸福を考える学問へと目指す道を変えるべきだと私は想うのです。