2011年06月30日
銀座着物ギャラリー泰三 『首里の染織展』 今日から
今日は喜如嘉の芭蕉布の琉装着物に、宮古上布の角帯でお待ちしております (^o^)
Posted by 渡辺幻門 at
11:57
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2011年06月30日
銀座着物ギャラリー泰三 『首里の染織展』 今日から
今日は喜如嘉の芭蕉布の琉装着物に、宮古上布の角帯でお待ちしております (^o^)
Posted by 渡辺幻門 at
11:57
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2011年06月28日
もずやと学ぶ染織マーケティング<第22回目>
7−3 市場細分化?多様性への対応
ここは、じっくりやりましょうね。
市場細分化というのは文字通りマーケットを属性ごとに切り分けて、誰に狙いを定めるかをはっきりさせることです。
思い違いしてはいけないのは、これは、最大市場を対象とするのではない、ということです。
つまり、ここを狙えば最大のマーケットシェアが獲得できる、という話ではないのです。
実例をあげて考えていきましょう。
わかりやすく、今回は特別にもずやの戦略を見てみましょう。
紬市場。
日本全体を見ると、紬のマーケットというのは、大島・結城を筆頭に、素朴さ、手織りの質感というところから、地味、粋という所にイメージが行っています。
大島や結城のデザインを思い起こしてみてください。
色も柄もあっさりとしていて、淡彩な味わいがあります。
ほんの一部の商品を別にして多彩さや華やかさとうものは無い。
しかし、地味や粋を解さない、それを『貧乏くさい』『ババくさい』と感じる人も少なからず存在する。
そういう人たちの需要を紬市場は無視し続けてきたのです。
なぜ、そんなことになったのか、というと、西日本の多くが友禅市場で、関東に織物市場が大きく開けていたからです。
ですから、西日本では圧倒的に染めが強かった。それと比例してフォーマルの着物を着る場面も多かった。
東京を中心とした関東圏では、冠婚葬祭がかなり前から簡略化されていたこともあり、着物というと、普段にも着るいわゆる着物好きという人が多かった。
自然にしておくと、マーケットの大きさに合わせて、紬は地味に、染めは派手になっていくのです。
しかし、日本で唯一華やかな紬を織る産地があった。あったというより帰ってきた。それが沖縄です。
他産地の紬が地味で似たり寄ったりなのに対し、沖縄の織物だけが華やかで強い独自性を保っていた。
マーケットを地味・派手、織り・染めで区分けしてみると下記の様になります。
染め好き 織り好き
派手好き ☆沖縄☆
地味好き
ここの、織り好きで派手好きのセグメント(細分化された市場)がガラ空きだったのです。
他のセグメントは強敵が一杯です。言っちゃ悪いですが、沖縄の技術で勝てる道理はありません。技術で勝てなきゃ感性で勝てばいいのですが、400年以上もわびさびに接しているヤマトンチュウにウチナンチュが対抗するのは至難の業です。
大きな市場に割り込むと大きな市場が得られると想ってしまいがちですが、一時的には押しのけられても、必ずまた揺り戻しがくるものなのです。
地味に造った沖縄物が一時的には市場でブームを造っても、結局は、もとの自分たちの慣れ親しんだ物に戻るはずだ、私はそう読んでいました。
しかし、沖縄の人に近い美意識を持った人や、華やかな着物、それも織りの着物が大好きだとかいう人にとっては、全くと行っていいほど、品物が無かったのです。せいぜい色大島くらいでしょうか。
教科書にも書かれているように、人間の価値観といのは決して一つでくくれるものではなく、人それぞれバラバラです。
沖縄の生産体制を考えたら、その供給を裁くのにそう大きなマーケットは必要ないし、長い目で見れば市場の拡大をはかるよりも、沖縄の一番の特長であり魅力である物を発揮させるのが最善だ、と私は考えたわけです。
なにも、沖縄の染織の美しさに惚れただけで、みなさんにいろんな提言をしてきたわけではありません。
きちんとしたマーケット・セグメンテーションによる戦略立案があってのことなのです。
ところが、マスマーケットを信じすぎた問屋などの指導で内地寄り、つまり地味な紬を造らせようとした。
沖縄ブームがある間は良かったのです。
沖縄ブームは時とともに去り、大半の消費者は自然の摂理でわびさびにへの方向へ帰って行った。その反面、本来、ターゲットとすべき派手な織物が好きな消費者の期待に添うことも出来なかった。
結果として、沖縄染織はどのマーケットも完全に把握することが出来ずに、ブームを終えてしまった、ということです。
私の仲間が造ってくれた作品は、私の鑑識眼で選ばれた作品たちですから、華やかな織物・しゃれ物が好きな方の満足をある程度は得ているはずです。そのおかげで、長い間に渡ってご愛顧を頂き、もずやファンのお客様は弊社の着物を継続してお作り頂けるのだと想います。
そもそも、趣味の着物というのは、どれだけのファンを得られるかが勝負であって、多くの人になんとなく買ってもらうのでは、決して長続きしないのです。
ファンを造るというのは、デザインであったり、色であったり、着心地であったり、作家さんの人柄であったりが、その誘因となります。
なのに、中森明菜が松田聖子のまねをしてブリッコしてもファンはつかないのです(古!)
私の恩師の村田昭治慶應義塾大学名誉教授は『恋愛もマーケティングだ』とおっしゃいましたが、まさにそういうことです。
恋愛は相手に合わそうとしてもうまくいかない。ましてや、大衆受けする自分を演出しても相手の心をうつことは出来ない。自分らしい自分をいかに相手に理解させるか、そして自分を受け入れてくれる異性がどんな人なのかを的確に選び出す事が、末永くうまくいくかどうかの鍵なのです。
ここは、じっくりやりましょうね。
市場細分化というのは文字通りマーケットを属性ごとに切り分けて、誰に狙いを定めるかをはっきりさせることです。
思い違いしてはいけないのは、これは、最大市場を対象とするのではない、ということです。
つまり、ここを狙えば最大のマーケットシェアが獲得できる、という話ではないのです。
実例をあげて考えていきましょう。
わかりやすく、今回は特別にもずやの戦略を見てみましょう。
紬市場。
日本全体を見ると、紬のマーケットというのは、大島・結城を筆頭に、素朴さ、手織りの質感というところから、地味、粋という所にイメージが行っています。
大島や結城のデザインを思い起こしてみてください。
色も柄もあっさりとしていて、淡彩な味わいがあります。
ほんの一部の商品を別にして多彩さや華やかさとうものは無い。
しかし、地味や粋を解さない、それを『貧乏くさい』『ババくさい』と感じる人も少なからず存在する。
そういう人たちの需要を紬市場は無視し続けてきたのです。
なぜ、そんなことになったのか、というと、西日本の多くが友禅市場で、関東に織物市場が大きく開けていたからです。
ですから、西日本では圧倒的に染めが強かった。それと比例してフォーマルの着物を着る場面も多かった。
東京を中心とした関東圏では、冠婚葬祭がかなり前から簡略化されていたこともあり、着物というと、普段にも着るいわゆる着物好きという人が多かった。
自然にしておくと、マーケットの大きさに合わせて、紬は地味に、染めは派手になっていくのです。
しかし、日本で唯一華やかな紬を織る産地があった。あったというより帰ってきた。それが沖縄です。
他産地の紬が地味で似たり寄ったりなのに対し、沖縄の織物だけが華やかで強い独自性を保っていた。
マーケットを地味・派手、織り・染めで区分けしてみると下記の様になります。
染め好き 織り好き
派手好き ☆沖縄☆
地味好き
ここの、織り好きで派手好きのセグメント(細分化された市場)がガラ空きだったのです。
他のセグメントは強敵が一杯です。言っちゃ悪いですが、沖縄の技術で勝てる道理はありません。技術で勝てなきゃ感性で勝てばいいのですが、400年以上もわびさびに接しているヤマトンチュウにウチナンチュが対抗するのは至難の業です。
大きな市場に割り込むと大きな市場が得られると想ってしまいがちですが、一時的には押しのけられても、必ずまた揺り戻しがくるものなのです。
地味に造った沖縄物が一時的には市場でブームを造っても、結局は、もとの自分たちの慣れ親しんだ物に戻るはずだ、私はそう読んでいました。
しかし、沖縄の人に近い美意識を持った人や、華やかな着物、それも織りの着物が大好きだとかいう人にとっては、全くと行っていいほど、品物が無かったのです。せいぜい色大島くらいでしょうか。
教科書にも書かれているように、人間の価値観といのは決して一つでくくれるものではなく、人それぞれバラバラです。
沖縄の生産体制を考えたら、その供給を裁くのにそう大きなマーケットは必要ないし、長い目で見れば市場の拡大をはかるよりも、沖縄の一番の特長であり魅力である物を発揮させるのが最善だ、と私は考えたわけです。
なにも、沖縄の染織の美しさに惚れただけで、みなさんにいろんな提言をしてきたわけではありません。
きちんとしたマーケット・セグメンテーションによる戦略立案があってのことなのです。
ところが、マスマーケットを信じすぎた問屋などの指導で内地寄り、つまり地味な紬を造らせようとした。
沖縄ブームがある間は良かったのです。
沖縄ブームは時とともに去り、大半の消費者は自然の摂理でわびさびにへの方向へ帰って行った。その反面、本来、ターゲットとすべき派手な織物が好きな消費者の期待に添うことも出来なかった。
結果として、沖縄染織はどのマーケットも完全に把握することが出来ずに、ブームを終えてしまった、ということです。
私の仲間が造ってくれた作品は、私の鑑識眼で選ばれた作品たちですから、華やかな織物・しゃれ物が好きな方の満足をある程度は得ているはずです。そのおかげで、長い間に渡ってご愛顧を頂き、もずやファンのお客様は弊社の着物を継続してお作り頂けるのだと想います。
そもそも、趣味の着物というのは、どれだけのファンを得られるかが勝負であって、多くの人になんとなく買ってもらうのでは、決して長続きしないのです。
ファンを造るというのは、デザインであったり、色であったり、着心地であったり、作家さんの人柄であったりが、その誘因となります。
なのに、中森明菜が松田聖子のまねをしてブリッコしてもファンはつかないのです(古!)
私の恩師の村田昭治慶應義塾大学名誉教授は『恋愛もマーケティングだ』とおっしゃいましたが、まさにそういうことです。
恋愛は相手に合わそうとしてもうまくいかない。ましてや、大衆受けする自分を演出しても相手の心をうつことは出来ない。自分らしい自分をいかに相手に理解させるか、そして自分を受け入れてくれる異性がどんな人なのかを的確に選び出す事が、末永くうまくいくかどうかの鍵なのです。
2011年06月28日
もずやと学ぶ染織マーケティング<第22回目>
7−3 市場細分化?多様性への対応
ここは、じっくりやりましょうね。
市場細分化というのは文字通りマーケットを属性ごとに切り分けて、誰に狙いを定めるかをはっきりさせることです。
思い違いしてはいけないのは、これは、最大市場を対象とするのではない、ということです。
つまり、ここを狙えば最大のマーケットシェアが獲得できる、という話ではないのです。
実例をあげて考えていきましょう。
わかりやすく、今回は特別にもずやの戦略を見てみましょう。
紬市場。
日本全体を見ると、紬のマーケットというのは、大島・結城を筆頭に、素朴さ、手織りの質感というところから、地味、粋という所にイメージが行っています。
大島や結城のデザインを思い起こしてみてください。
色も柄もあっさりとしていて、淡彩な味わいがあります。
ほんの一部の商品を別にして多彩さや華やかさとうものは無い。
しかし、地味や粋を解さない、それを『貧乏くさい』『ババくさい』と感じる人も少なからず存在する。
そういう人たちの需要を紬市場は無視し続けてきたのです。
なぜ、そんなことになったのか、というと、西日本の多くが友禅市場で、関東に織物市場が大きく開けていたからです。
ですから、西日本では圧倒的に染めが強かった。それと比例してフォーマルの着物を着る場面も多かった。
東京を中心とした関東圏では、冠婚葬祭がかなり前から簡略化されていたこともあり、着物というと、普段にも着るいわゆる着物好きという人が多かった。
自然にしておくと、マーケットの大きさに合わせて、紬は地味に、染めは派手になっていくのです。
しかし、日本で唯一華やかな紬を織る産地があった。あったというより帰ってきた。それが沖縄です。
他産地の紬が地味で似たり寄ったりなのに対し、沖縄の織物だけが華やかで強い独自性を保っていた。
マーケットを地味・派手、織り・染めで区分けしてみると下記の様になります。
染め好き 織り好き
派手好き ☆沖縄☆
地味好き
ここの、織り好きで派手好きのセグメント(細分化された市場)がガラ空きだったのです。
他のセグメントは強敵が一杯です。言っちゃ悪いですが、沖縄の技術で勝てる道理はありません。技術で勝てなきゃ感性で勝てばいいのですが、400年以上もわびさびに接しているヤマトンチュウにウチナンチュが対抗するのは至難の業です。
大きな市場に割り込むと大きな市場が得られると想ってしまいがちですが、一時的には押しのけられても、必ずまた揺り戻しがくるものなのです。
地味に造った沖縄物が一時的には市場でブームを造っても、結局は、もとの自分たちの慣れ親しんだ物に戻るはずだ、私はそう読んでいました。
しかし、沖縄の人に近い美意識を持った人や、華やかな着物、それも織りの着物が大好きだとかいう人にとっては、全くと行っていいほど、品物が無かったのです。せいぜい色大島くらいでしょうか。
教科書にも書かれているように、人間の価値観といのは決して一つでくくれるものではなく、人それぞれバラバラです。
沖縄の生産体制を考えたら、その供給を裁くのにそう大きなマーケットは必要ないし、長い目で見れば市場の拡大をはかるよりも、沖縄の一番の特長であり魅力である物を発揮させるのが最善だ、と私は考えたわけです。
なにも、沖縄の染織の美しさに惚れただけで、みなさんにいろんな提言をしてきたわけではありません。
きちんとしたマーケット・セグメンテーションによる戦略立案があってのことなのです。
ところが、マスマーケットを信じすぎた問屋などの指導で内地寄り、つまり地味な紬を造らせようとした。
沖縄ブームがある間は良かったのです。
沖縄ブームは時とともに去り、大半の消費者は自然の摂理でわびさびにへの方向へ帰って行った。その反面、本来、ターゲットとすべき派手な織物が好きな消費者の期待に添うことも出来なかった。
結果として、沖縄染織はどのマーケットも完全に把握することが出来ずに、ブームを終えてしまった、ということです。
私の仲間が造ってくれた作品は、私の鑑識眼で選ばれた作品たちですから、華やかな織物・しゃれ物が好きな方の満足をある程度は得ているはずです。そのおかげで、長い間に渡ってご愛顧を頂き、もずやファンのお客様は弊社の着物を継続してお作り頂けるのだと想います。
そもそも、趣味の着物というのは、どれだけのファンを得られるかが勝負であって、多くの人になんとなく買ってもらうのでは、決して長続きしないのです。
ファンを造るというのは、デザインであったり、色であったり、着心地であったり、作家さんの人柄であったりが、その誘因となります。
なのに、中森明菜が松田聖子のまねをしてブリッコしてもファンはつかないのです(古!)
私の恩師の村田昭治慶應義塾大学名誉教授は『恋愛もマーケティングだ』とおっしゃいましたが、まさにそういうことです。
恋愛は相手に合わそうとしてもうまくいかない。ましてや、大衆受けする自分を演出しても相手の心をうつことは出来ない。自分らしい自分をいかに相手に理解させるか、そして自分を受け入れてくれる異性がどんな人なのかを的確に選び出す事が、末永くうまくいくかどうかの鍵なのです。
ここは、じっくりやりましょうね。
市場細分化というのは文字通りマーケットを属性ごとに切り分けて、誰に狙いを定めるかをはっきりさせることです。
思い違いしてはいけないのは、これは、最大市場を対象とするのではない、ということです。
つまり、ここを狙えば最大のマーケットシェアが獲得できる、という話ではないのです。
実例をあげて考えていきましょう。
わかりやすく、今回は特別にもずやの戦略を見てみましょう。
紬市場。
日本全体を見ると、紬のマーケットというのは、大島・結城を筆頭に、素朴さ、手織りの質感というところから、地味、粋という所にイメージが行っています。
大島や結城のデザインを思い起こしてみてください。
色も柄もあっさりとしていて、淡彩な味わいがあります。
ほんの一部の商品を別にして多彩さや華やかさとうものは無い。
しかし、地味や粋を解さない、それを『貧乏くさい』『ババくさい』と感じる人も少なからず存在する。
そういう人たちの需要を紬市場は無視し続けてきたのです。
なぜ、そんなことになったのか、というと、西日本の多くが友禅市場で、関東に織物市場が大きく開けていたからです。
ですから、西日本では圧倒的に染めが強かった。それと比例してフォーマルの着物を着る場面も多かった。
東京を中心とした関東圏では、冠婚葬祭がかなり前から簡略化されていたこともあり、着物というと、普段にも着るいわゆる着物好きという人が多かった。
自然にしておくと、マーケットの大きさに合わせて、紬は地味に、染めは派手になっていくのです。
しかし、日本で唯一華やかな紬を織る産地があった。あったというより帰ってきた。それが沖縄です。
他産地の紬が地味で似たり寄ったりなのに対し、沖縄の織物だけが華やかで強い独自性を保っていた。
マーケットを地味・派手、織り・染めで区分けしてみると下記の様になります。
染め好き 織り好き
派手好き ☆沖縄☆
地味好き
ここの、織り好きで派手好きのセグメント(細分化された市場)がガラ空きだったのです。
他のセグメントは強敵が一杯です。言っちゃ悪いですが、沖縄の技術で勝てる道理はありません。技術で勝てなきゃ感性で勝てばいいのですが、400年以上もわびさびに接しているヤマトンチュウにウチナンチュが対抗するのは至難の業です。
大きな市場に割り込むと大きな市場が得られると想ってしまいがちですが、一時的には押しのけられても、必ずまた揺り戻しがくるものなのです。
地味に造った沖縄物が一時的には市場でブームを造っても、結局は、もとの自分たちの慣れ親しんだ物に戻るはずだ、私はそう読んでいました。
しかし、沖縄の人に近い美意識を持った人や、華やかな着物、それも織りの着物が大好きだとかいう人にとっては、全くと行っていいほど、品物が無かったのです。せいぜい色大島くらいでしょうか。
教科書にも書かれているように、人間の価値観といのは決して一つでくくれるものではなく、人それぞれバラバラです。
沖縄の生産体制を考えたら、その供給を裁くのにそう大きなマーケットは必要ないし、長い目で見れば市場の拡大をはかるよりも、沖縄の一番の特長であり魅力である物を発揮させるのが最善だ、と私は考えたわけです。
なにも、沖縄の染織の美しさに惚れただけで、みなさんにいろんな提言をしてきたわけではありません。
きちんとしたマーケット・セグメンテーションによる戦略立案があってのことなのです。
ところが、マスマーケットを信じすぎた問屋などの指導で内地寄り、つまり地味な紬を造らせようとした。
沖縄ブームがある間は良かったのです。
沖縄ブームは時とともに去り、大半の消費者は自然の摂理でわびさびにへの方向へ帰って行った。その反面、本来、ターゲットとすべき派手な織物が好きな消費者の期待に添うことも出来なかった。
結果として、沖縄染織はどのマーケットも完全に把握することが出来ずに、ブームを終えてしまった、ということです。
私の仲間が造ってくれた作品は、私の鑑識眼で選ばれた作品たちですから、華やかな織物・しゃれ物が好きな方の満足をある程度は得ているはずです。そのおかげで、長い間に渡ってご愛顧を頂き、もずやファンのお客様は弊社の着物を継続してお作り頂けるのだと想います。
そもそも、趣味の着物というのは、どれだけのファンを得られるかが勝負であって、多くの人になんとなく買ってもらうのでは、決して長続きしないのです。
ファンを造るというのは、デザインであったり、色であったり、着心地であったり、作家さんの人柄であったりが、その誘因となります。
なのに、中森明菜が松田聖子のまねをしてブリッコしてもファンはつかないのです(古!)
私の恩師の村田昭治慶應義塾大学名誉教授は『恋愛もマーケティングだ』とおっしゃいましたが、まさにそういうことです。
恋愛は相手に合わそうとしてもうまくいかない。ましてや、大衆受けする自分を演出しても相手の心をうつことは出来ない。自分らしい自分をいかに相手に理解させるか、そして自分を受け入れてくれる異性がどんな人なのかを的確に選び出す事が、末永くうまくいくかどうかの鍵なのです。
Posted by 渡辺幻門 at
21:02
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2011年06月28日
与那国ドゥタティ&ガガンヌブー。

昨年末に与那国で買ってきたドゥタティが仕立てあがってきました。
2反買って、一反は先輩の女性が買ってくださり、もう一反を私が自分のために仕立てました。
私のは琉装仕立てです。
ドゥタティはそもそも、与那国の労働着として着用されていたもので、つくりもテーゲーなのですが、
それだけに、なんとも言葉では語り尽くせない魅力があって、ついつい買ってしまったのです。
与那国織(花織)を買いに行ったのですが、工房においてあったこのドゥタティに魅せられてしまって、
アラっぽいのを承知で分けてもらいました。
労働着という事ですから、本来は、袖も丈もとても短くて、動きやすく造って着るものなのですが、
その労働着仕立ては、また後日の課題にするとして、今回は琉装にしました。
帯は、与那国独特のガガンヌブーという二の字のミンサーです。
この帯も、二巻きしか出来ません。いくら私が肥満体でも、普通のミンサーや角帯なら三周は回ります。
このガガンヌブーもドゥタティも、与那国のお祭りの為だけに造られているからこそ、
和装の基準に合わせては造られていないのです。
そこがまた魅力ですよね。
本来のドゥタティがどのように着られているかは、与那国のお祭りに参加されるか、『ミンサー全書』という本を見てください。
このドゥタティはデパートの検品基準でも弊社の検品基準でも、合格しない品物です。
ですから、私もデパートではご紹介できません。
今回のようなギャラリーで、良い所も悪いところも詳しく、とくに悪いところは詳しく説明してご理解頂いてからでないと
お売りすることは出来ないのです。
でも、そんな手間やリスクを超越した魅力がこのドゥタティとガガンヌブーにはあったということです。
民藝というものがあるのだとすれば、ほんとうの姿はここにある!そう断言できる品物です。
これは作品ではありません。
与那国島のの風土とそこに暮らし続けてきた人達の歴史・文化そのものなのだ、と私は思います。
銀座着物ギャラリー泰三での展示会はいよいよあさってからです。 続きを読む
Posted by 渡辺幻門 at
13:52
│Comments(2)
2011年06月28日
与那国ドゥタティ&ガガンヌブー。

昨年末に与那国で買ってきたドゥタティが仕立てあがってきました。
2反買って、一反は先輩の女性が買ってくださり、もう一反を私が自分のために仕立てました。
私のは琉装仕立てです。
ドゥタティはそもそも、与那国の労働着として着用されていたもので、つくりもテーゲーなのですが、
それだけに、なんとも言葉では語り尽くせない魅力があって、ついつい買ってしまったのです。
与那国織(花織)を買いに行ったのですが、工房においてあったこのドゥタティに魅せられてしまって、
アラっぽいのを承知で分けてもらいました。
労働着という事ですから、本来は、袖も丈もとても短くて、動きやすく造って着るものなのですが、
その労働着仕立ては、また後日の課題にするとして、今回は琉装にしました。
帯は、与那国独特のガガンヌブーという二の字のミンサーです。
この帯も、二巻きしか出来ません。いくら私が肥満体でも、普通のミンサーや角帯なら三周は回ります。
このガガンヌブーもドゥタティも、与那国のお祭りの為だけに造られているからこそ、
和装の基準に合わせては造られていないのです。
そこがまた魅力ですよね。
本来のドゥタティがどのように着られているかは、与那国のお祭りに参加されるか、『ミンサー全書』という本を見てください。
このドゥタティはデパートの検品基準でも弊社の検品基準でも、合格しない品物です。
ですから、私もデパートではご紹介できません。
今回のようなギャラリーで、良い所も悪いところも詳しく、とくに悪いところは詳しく説明してご理解頂いてからでないと
お売りすることは出来ないのです。
でも、そんな手間やリスクを超越した魅力がこのドゥタティとガガンヌブーにはあったということです。
民藝というものがあるのだとすれば、ほんとうの姿はここにある!そう断言できる品物です。
これは作品ではありません。
与那国島のの風土とそこに暮らし続けてきた人達の歴史・文化そのものなのだ、と私は思います。
銀座着物ギャラリー泰三での展示会はいよいよあさってからです。 続きを読む
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2011年06月24日
【サギではなくモズ】来週木曜日から銀座きものギャラリー泰三展


いよいよ来週からです。
風のたよりに聞けば、東京はずいぶん暗くて、静かだとか。
今回のテーマは沖縄本土復帰40周年を先取りして『首里の染織展』です。
詳しくは、こちら。
http://mozuya.aleaders.jp/e11938.html
沖縄の力強い染織品を見て、元気になってもらえればいいな、と思います。
といいながら、なつかしい銀座での展示会は、毎回ルンルン気分です (^_^)v
Posted by 渡辺幻門 at
07:31
│Comments(0)
2011年06月24日
【サギではなくモズ】来週木曜日から銀座きものギャラリー泰三展


いよいよ来週からです。
風のたよりに聞けば、東京はずいぶん暗くて、静かだとか。
今回のテーマは沖縄本土復帰40周年を先取りして『首里の染織展』です。
詳しくは、こちら。
http://mozuya.aleaders.jp/e11938.html
沖縄の力強い染織品を見て、元気になってもらえればいいな、と思います。
といいながら、なつかしい銀座での展示会は、毎回ルンルン気分です (^_^)v
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07:31
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2011年06月19日
トレードオフの関係
トレードオフ(trade-off)とは、一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという二律背反の状態・関係のことである。トレードオフのある状況では具体的な選択肢の長所と短所をすべて考慮したうえで決定を行うことが求められる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/トレードオフ
経済学を勉強すると出てくる言葉です。
私は、この『トレードオフ』という言葉を聞くと、お酒の事を思い起こします。
私は、お酒が好きです。
とくに、日本酒が好きです。
飲み始めると、ほどほどでは止まらなくて、もちろん酔っぱらう位飲んでしまいます。
でも、読書も好き。
出張に出るときは10冊以上の本を持ってくるし、出張先でも買い求めます。
それで、テレビ番組のように、経済学の本や、芸術の本や、宗教の本などなど、気分や状況に応じて読みます。
ところが、お酒を飲んでしまうと、これが出来なくなる。
酔ったが最後、他の楽しみは全く無くなってしまいます。
テレビはくだらないし、話し相手もいない。
ひとり酔っぱらって、呆然としているか、YouTubeで音楽を聴くくらいです。
それに、飲み過ぎることも多々あって、その時には、翌日まで尾を引いてしまいます。
つまり、二日酔いです。
寄る年波には勝てず、だんだんとお酒が体から抜けにくくなっています。
お酒を飲まなければ、どれだけ時間を有意義に使えるだろうか、とつくづく想うのです。
でも、やっぱり飲んでしまう。
飲まなければ、車を運転して、おいしい物も食べに行けるし、遊びにも行ける。
でも、飲みたいから、電車で行く・・・
まさに、トレードオフです。
お酒の為に、他の全てを諦めなければならないとしたら、何の為に飲むのだろうと、いつも考えてしまうのです。
要は、習慣的に飲むことをやめれば良いのですね。
お酒というのは、とんでもなく素行の悪い美女のようなもので、サムソンとデリラのデリラの様なもんです。
そこのところ、近年諸悪の根源のように言われている煙草は、非常に都合が良い。
読書の時、思索の時、最高の触媒になります。
食後には、デザートにもなる。
煙草を吸うことで諦めねばならないのは、禁煙の店で長居できない事と、嫌煙家の美女と同席できないこと、そのくらいです。
そういう事で考えれば、私にとって酒と煙草の効用を比較すると圧倒的に煙草の方が効用が高いという事になりますね。
理論経済学というのは、投資や投機の為だけに使うのではなくて、人生を合理的に効率的に送る上で役立つ物だし、役立てる様に
していくべきだと思いますね。経済学にしてもマーケティングにしても、何もお金儲けのためだけに使われるのではなくて、
基本的には『資源の最適配分』を最終目的としているはずだと思います。
普段の生活で私達は思うことなくそういう選択をし、行動をしているのですが、それをもっと明確に意識を持ってするようになれば、
世の中の見え方は変わってくるんじゃないかと思いますね。
とりあえず、今夜は、読書を選択します(^_^)
http://ja.wikipedia.org/wiki/トレードオフ
経済学を勉強すると出てくる言葉です。
私は、この『トレードオフ』という言葉を聞くと、お酒の事を思い起こします。
私は、お酒が好きです。
とくに、日本酒が好きです。
飲み始めると、ほどほどでは止まらなくて、もちろん酔っぱらう位飲んでしまいます。
でも、読書も好き。
出張に出るときは10冊以上の本を持ってくるし、出張先でも買い求めます。
それで、テレビ番組のように、経済学の本や、芸術の本や、宗教の本などなど、気分や状況に応じて読みます。
ところが、お酒を飲んでしまうと、これが出来なくなる。
酔ったが最後、他の楽しみは全く無くなってしまいます。
テレビはくだらないし、話し相手もいない。
ひとり酔っぱらって、呆然としているか、YouTubeで音楽を聴くくらいです。
それに、飲み過ぎることも多々あって、その時には、翌日まで尾を引いてしまいます。
つまり、二日酔いです。
寄る年波には勝てず、だんだんとお酒が体から抜けにくくなっています。
お酒を飲まなければ、どれだけ時間を有意義に使えるだろうか、とつくづく想うのです。
でも、やっぱり飲んでしまう。
飲まなければ、車を運転して、おいしい物も食べに行けるし、遊びにも行ける。
でも、飲みたいから、電車で行く・・・
まさに、トレードオフです。
お酒の為に、他の全てを諦めなければならないとしたら、何の為に飲むのだろうと、いつも考えてしまうのです。
要は、習慣的に飲むことをやめれば良いのですね。
お酒というのは、とんでもなく素行の悪い美女のようなもので、サムソンとデリラのデリラの様なもんです。
そこのところ、近年諸悪の根源のように言われている煙草は、非常に都合が良い。
読書の時、思索の時、最高の触媒になります。
食後には、デザートにもなる。
煙草を吸うことで諦めねばならないのは、禁煙の店で長居できない事と、嫌煙家の美女と同席できないこと、そのくらいです。
そういう事で考えれば、私にとって酒と煙草の効用を比較すると圧倒的に煙草の方が効用が高いという事になりますね。
理論経済学というのは、投資や投機の為だけに使うのではなくて、人生を合理的に効率的に送る上で役立つ物だし、役立てる様に
していくべきだと思いますね。経済学にしてもマーケティングにしても、何もお金儲けのためだけに使われるのではなくて、
基本的には『資源の最適配分』を最終目的としているはずだと思います。
普段の生活で私達は思うことなくそういう選択をし、行動をしているのですが、それをもっと明確に意識を持ってするようになれば、
世の中の見え方は変わってくるんじゃないかと思いますね。
とりあえず、今夜は、読書を選択します(^_^)
Posted by 渡辺幻門 at
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2011年06月19日
トレードオフの関係
トレードオフ(trade-off)とは、一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという二律背反の状態・関係のことである。トレードオフのある状況では具体的な選択肢の長所と短所をすべて考慮したうえで決定を行うことが求められる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/トレードオフ
経済学を勉強すると出てくる言葉です。
私は、この『トレードオフ』という言葉を聞くと、お酒の事を思い起こします。
私は、お酒が好きです。
とくに、日本酒が好きです。
飲み始めると、ほどほどでは止まらなくて、もちろん酔っぱらう位飲んでしまいます。
でも、読書も好き。
出張に出るときは10冊以上の本を持ってくるし、出張先でも買い求めます。
それで、テレビ番組のように、経済学の本や、芸術の本や、宗教の本などなど、気分や状況に応じて読みます。
ところが、お酒を飲んでしまうと、これが出来なくなる。
酔ったが最後、他の楽しみは全く無くなってしまいます。
テレビはくだらないし、話し相手もいない。
ひとり酔っぱらって、呆然としているか、YouTubeで音楽を聴くくらいです。
それに、飲み過ぎることも多々あって、その時には、翌日まで尾を引いてしまいます。
つまり、二日酔いです。
寄る年波には勝てず、だんだんとお酒が体から抜けにくくなっています。
お酒を飲まなければ、どれだけ時間を有意義に使えるだろうか、とつくづく想うのです。
でも、やっぱり飲んでしまう。
飲まなければ、車を運転して、おいしい物も食べに行けるし、遊びにも行ける。
でも、飲みたいから、電車で行く・・・
まさに、トレードオフです。
お酒の為に、他の全てを諦めなければならないとしたら、何の為に飲むのだろうと、いつも考えてしまうのです。
要は、習慣的に飲むことをやめれば良いのですね。
お酒というのは、とんでもなく素行の悪い美女のようなもので、サムソンとデリラのデリラの様なもんです。
そこのところ、近年諸悪の根源のように言われている煙草は、非常に都合が良い。
読書の時、思索の時、最高の触媒になります。
食後には、デザートにもなる。
煙草を吸うことで諦めねばならないのは、禁煙の店で長居できない事と、嫌煙家の美女と同席できないこと、そのくらいです。
そういう事で考えれば、私にとって酒と煙草の効用を比較すると圧倒的に煙草の方が効用が高いという事になりますね。
理論経済学というのは、投資や投機の為だけに使うのではなくて、人生を合理的に効率的に送る上で役立つ物だし、役立てる様に
していくべきだと思いますね。経済学にしてもマーケティングにしても、何もお金儲けのためだけに使われるのではなくて、
基本的には『資源の最適配分』を最終目的としているはずだと思います。
普段の生活で私達は思うことなくそういう選択をし、行動をしているのですが、それをもっと明確に意識を持ってするようになれば、
世の中の見え方は変わってくるんじゃないかと思いますね。
とりあえず、今夜は、読書を選択します(^_^)
http://ja.wikipedia.org/wiki/トレードオフ
経済学を勉強すると出てくる言葉です。
私は、この『トレードオフ』という言葉を聞くと、お酒の事を思い起こします。
私は、お酒が好きです。
とくに、日本酒が好きです。
飲み始めると、ほどほどでは止まらなくて、もちろん酔っぱらう位飲んでしまいます。
でも、読書も好き。
出張に出るときは10冊以上の本を持ってくるし、出張先でも買い求めます。
それで、テレビ番組のように、経済学の本や、芸術の本や、宗教の本などなど、気分や状況に応じて読みます。
ところが、お酒を飲んでしまうと、これが出来なくなる。
酔ったが最後、他の楽しみは全く無くなってしまいます。
テレビはくだらないし、話し相手もいない。
ひとり酔っぱらって、呆然としているか、YouTubeで音楽を聴くくらいです。
それに、飲み過ぎることも多々あって、その時には、翌日まで尾を引いてしまいます。
つまり、二日酔いです。
寄る年波には勝てず、だんだんとお酒が体から抜けにくくなっています。
お酒を飲まなければ、どれだけ時間を有意義に使えるだろうか、とつくづく想うのです。
でも、やっぱり飲んでしまう。
飲まなければ、車を運転して、おいしい物も食べに行けるし、遊びにも行ける。
でも、飲みたいから、電車で行く・・・
まさに、トレードオフです。
お酒の為に、他の全てを諦めなければならないとしたら、何の為に飲むのだろうと、いつも考えてしまうのです。
要は、習慣的に飲むことをやめれば良いのですね。
お酒というのは、とんでもなく素行の悪い美女のようなもので、サムソンとデリラのデリラの様なもんです。
そこのところ、近年諸悪の根源のように言われている煙草は、非常に都合が良い。
読書の時、思索の時、最高の触媒になります。
食後には、デザートにもなる。
煙草を吸うことで諦めねばならないのは、禁煙の店で長居できない事と、嫌煙家の美女と同席できないこと、そのくらいです。
そういう事で考えれば、私にとって酒と煙草の効用を比較すると圧倒的に煙草の方が効用が高いという事になりますね。
理論経済学というのは、投資や投機の為だけに使うのではなくて、人生を合理的に効率的に送る上で役立つ物だし、役立てる様に
していくべきだと思いますね。経済学にしてもマーケティングにしても、何もお金儲けのためだけに使われるのではなくて、
基本的には『資源の最適配分』を最終目的としているはずだと思います。
普段の生活で私達は思うことなくそういう選択をし、行動をしているのですが、それをもっと明確に意識を持ってするようになれば、
世の中の見え方は変わってくるんじゃないかと思いますね。
とりあえず、今夜は、読書を選択します(^_^)
Posted by 渡辺幻門 at
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2011年06月19日
もずやと学ぶ染織マーケティング<22回目>
7−2 購買意思決定の分析
まず、はじめにポイントというか用語を整理しておきましょう。
購買意思決定:購買する場合、消費者は購買可能な製品・サービスの中から裁量の物を選ぼうとする。さまざまな選択代案を知覚して、それらを評価すること。
消費者情報処理:消費者は複数の銘柄について、これらの多岐にわたる属性とその細目を何らかの形で知覚し、評価しなければならない。このプロセスを『消費者情報処理のプロセス』という。
ヒューリスティクス:知覚や評価の進め方のルール。マーケティングにあたっては、どのようなヒューリスティクスがターゲットとなる消費者の知覚と評価を導いているのかを十分に考慮する必要がある。
手段−目的の連鎖:消費者の必要や欲求を手段と目的の連鎖的な構成物としてとらえたものである。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この『もずやと学ぶ染織マーケティング』ですが、テキストは『ゼミナール マーケティング入門』という本を使っています。
なぜ、この本にしたかというと、私が学生時代に使っている本は内容が古いと思ったこと、基礎的なことをわかりやすく書いていること、例がたくさん引かれていること、そして、著者の一人に村田ゼミの先輩の嶋口充輝さんがふくまれていたこと、等です。
この本を何で探したかというと、アマゾンです。まず、マーケティングと書き込んで検索する。そうすると何冊も出てきます。その中で、入門書を探す。薄っぺらい物だとすぐに終わってしまって面白く無いので、そこそこの分量があるものにする。そして最後は著者です。マーケティングと言っても出来れば同門の学者さんが書いた物が私としては受け入れやすい事は間違いなく、それらを総合してこの本に決めたわけです。
※ この勉強会の記事を読んで下っている方が最近多くなってきて喜んでいますが、もし、テキストを買っていらっしゃらないなら、ぜひ、お買い求めください。私は何の利益供与も受けておりませんが、本代をケチってはいけません。とくに学生さんは、いまのうちにいろんな知識を詰め込んで置いてください。あとになって必ず役に立ちます。
話はそれましたが、つまり、アマゾンで知覚し、購買意思決定プロセス、目的−手段の連鎖を経て、購入したわけですね。
ちょっと考えて見ましょう。
沖縄の染織においては、どこに問題があると思いますか?
評価するためには、事前に情報が必要だということは分かりますね。
知覚されるだけでなく、評価されるためにも、露出=アピールが必要な訳です。
では、着物の場合はどんな感じになっていますか?
最近は、雑誌でも、本でも沖縄の染織を取り上げていることが多くなってきましたので、消費者の方のほとんどはそこで情報を得ているのでしょう。
あとは、展示会ですよね。店頭に常時沖縄物を置いているところというのは、ほとんどありません。
でも、着物を初めとする衣料品が正しく知覚・評価されるのに、写真や画面、あるいは生地の状態で見るというので、本当に十分でしょうか。
とくに高額品の場合、本物を観る事さえ、困難です。風合いや色合いなど、どんなに技術が進んでも、正しく質感が伝わることはないと思います。
ですから、私は基本的に作品をネットに載せることをやめました。
京友禅などの場合、どんなところで見て、評価のための情報を掴むかといえば、内地では結婚式やパーティー、京都に行けば芸妓、舞妓が来て歩いています。銀座や新地のクラブに行けば、ママが良い着物を着ていたりします。
沖縄染織は?
どこで着ている姿を見ることが出来ますか?
私はもう何十回と沖縄に行っていますが、街中で着物姿の女性に会ったことがありません。せいぜい、民謡酒場の女性か国立劇場の出演者です。
八重山上布、宮古上布、芭蕉布は着ていると涼しい。裸で居るより涼しい。とくに琉装に仕立てると、風の中に居るようでたまらなく心地よい。
しかし、教科書に書いてあるように手段−目的の連鎖の中で、購買の必要や欲求は『偶有性』を帯びているのです。
つまり、着て涼しいなら、Tシャツに短パンで良いじゃないか、という事もあり得るわけです。
それをどうやって、着物を着せる、とくに沖縄の着物を着てもらうと言う風に誘導するか、それがマーケティングにおいて考えなければならないことなのです。
つまり、暑い夏→着物は涼しい→沖縄
というイメージを確立せねば、浴衣や他の夏物に負けてしまうと言うことです。
夏休み時期に沖縄に行くと、空港では紅型装束の女性が迎えてくれたりします。
でも、なんで、クソ熱い時期に、あんな格好をしているのですかね。
せめて、駒上布くらいを着せて、きりりとカンプーにジーファーの髪で迎えたら、さぞ、観光客も涼しく感じる事だろうと思うのです。
国立劇場に行っても、着物姿の観客を見たことがありません。
私が沖縄で着物姿を大量に見たのは、那覇伝統織物事業協同組合の30周年パーティーの時だけです。
もっているなら、なぜ、もっと着ないのでしょう。
沖縄に来る観光客の中には沖縄の染織に興味を持たれている方も大勢いらっしゃるはずですし、県民の中にも、着ている姿を見れば美しいと思い、自分も着てみたいと思うようになるでしょう。
造る人が自分の作品を使ったことがない、これは本来、恐るべき事です。『良い物を造っている』と言いますが、何をもって良い物と言っているのでしょう。
それは『昔から良い物とされている』技法を使った物に過ぎないんじゃないでしょうか。それが現代人の体や、現在の気候・風土にあっているか、自分で感じてみないで、どうやって良い物が造れるのでしょうか。
昔は王府が品質を管理していましたから、一定の内容は保たれていたでしょうが、今は、吟味出来る人が流通に居ません。消費者にダイレクトに判断がゆだねられてしまうのです。
商人でも、自分が着てみもしない、作者と会ったこともない、どんな内容かも知らない、品質を吟味する術も知らないで、ラベルだけを信用して『良い物ですよ』なんて、よく言える物だと思います。
作家さん個人ではなかなか資金的に作品を買い取ったりすることは難しいかもしれません。とくに宮古上布や芭蕉布などは非常に高価ですし、数量もすくないので不可能でしょう。
だったら、くだらない助成金・補助金を組合に渡すより、県が染織品を買い取って、職員に着せて、首里や国際通りを歩かせればいいのです。
作り手は、B反や不合格反を出してしまったら、自分で買い取って着ればいい。
着て歩く事が、観る人の知覚と評価をこちらに向けることになるのです。
そうすれば、制作においてもまた違った観点が生まれてアイデアが出てくるでしょうし、『着るための着物』『締めるための帯』ということが実感できるでしょう。
造り酒屋の主は、たとえ酒が飲めなくても、味見くらいはして、品質を確かめる物です。それもしないで、良い材料できちんと造ったのだからおいしいはずだ、というのはタダ単なる傲慢であり怠慢です。
沖縄県民自ら、着物を着る事です。
まずはじめに、染織に関わる者から始めましょう。
それが最大のマーケティング活動になると私は思います。
まず、はじめにポイントというか用語を整理しておきましょう。
購買意思決定:購買する場合、消費者は購買可能な製品・サービスの中から裁量の物を選ぼうとする。さまざまな選択代案を知覚して、それらを評価すること。
消費者情報処理:消費者は複数の銘柄について、これらの多岐にわたる属性とその細目を何らかの形で知覚し、評価しなければならない。このプロセスを『消費者情報処理のプロセス』という。
ヒューリスティクス:知覚や評価の進め方のルール。マーケティングにあたっては、どのようなヒューリスティクスがターゲットとなる消費者の知覚と評価を導いているのかを十分に考慮する必要がある。
手段−目的の連鎖:消費者の必要や欲求を手段と目的の連鎖的な構成物としてとらえたものである。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この『もずやと学ぶ染織マーケティング』ですが、テキストは『ゼミナール マーケティング入門』という本を使っています。
なぜ、この本にしたかというと、私が学生時代に使っている本は内容が古いと思ったこと、基礎的なことをわかりやすく書いていること、例がたくさん引かれていること、そして、著者の一人に村田ゼミの先輩の嶋口充輝さんがふくまれていたこと、等です。
この本を何で探したかというと、アマゾンです。まず、マーケティングと書き込んで検索する。そうすると何冊も出てきます。その中で、入門書を探す。薄っぺらい物だとすぐに終わってしまって面白く無いので、そこそこの分量があるものにする。そして最後は著者です。マーケティングと言っても出来れば同門の学者さんが書いた物が私としては受け入れやすい事は間違いなく、それらを総合してこの本に決めたわけです。
※ この勉強会の記事を読んで下っている方が最近多くなってきて喜んでいますが、もし、テキストを買っていらっしゃらないなら、ぜひ、お買い求めください。私は何の利益供与も受けておりませんが、本代をケチってはいけません。とくに学生さんは、いまのうちにいろんな知識を詰め込んで置いてください。あとになって必ず役に立ちます。
話はそれましたが、つまり、アマゾンで知覚し、購買意思決定プロセス、目的−手段の連鎖を経て、購入したわけですね。
ちょっと考えて見ましょう。
沖縄の染織においては、どこに問題があると思いますか?
評価するためには、事前に情報が必要だということは分かりますね。
知覚されるだけでなく、評価されるためにも、露出=アピールが必要な訳です。
では、着物の場合はどんな感じになっていますか?
最近は、雑誌でも、本でも沖縄の染織を取り上げていることが多くなってきましたので、消費者の方のほとんどはそこで情報を得ているのでしょう。
あとは、展示会ですよね。店頭に常時沖縄物を置いているところというのは、ほとんどありません。
でも、着物を初めとする衣料品が正しく知覚・評価されるのに、写真や画面、あるいは生地の状態で見るというので、本当に十分でしょうか。
とくに高額品の場合、本物を観る事さえ、困難です。風合いや色合いなど、どんなに技術が進んでも、正しく質感が伝わることはないと思います。
ですから、私は基本的に作品をネットに載せることをやめました。
京友禅などの場合、どんなところで見て、評価のための情報を掴むかといえば、内地では結婚式やパーティー、京都に行けば芸妓、舞妓が来て歩いています。銀座や新地のクラブに行けば、ママが良い着物を着ていたりします。
沖縄染織は?
どこで着ている姿を見ることが出来ますか?
私はもう何十回と沖縄に行っていますが、街中で着物姿の女性に会ったことがありません。せいぜい、民謡酒場の女性か国立劇場の出演者です。
八重山上布、宮古上布、芭蕉布は着ていると涼しい。裸で居るより涼しい。とくに琉装に仕立てると、風の中に居るようでたまらなく心地よい。
しかし、教科書に書いてあるように手段−目的の連鎖の中で、購買の必要や欲求は『偶有性』を帯びているのです。
つまり、着て涼しいなら、Tシャツに短パンで良いじゃないか、という事もあり得るわけです。
それをどうやって、着物を着せる、とくに沖縄の着物を着てもらうと言う風に誘導するか、それがマーケティングにおいて考えなければならないことなのです。
つまり、暑い夏→着物は涼しい→沖縄
というイメージを確立せねば、浴衣や他の夏物に負けてしまうと言うことです。
夏休み時期に沖縄に行くと、空港では紅型装束の女性が迎えてくれたりします。
でも、なんで、クソ熱い時期に、あんな格好をしているのですかね。
せめて、駒上布くらいを着せて、きりりとカンプーにジーファーの髪で迎えたら、さぞ、観光客も涼しく感じる事だろうと思うのです。
国立劇場に行っても、着物姿の観客を見たことがありません。
私が沖縄で着物姿を大量に見たのは、那覇伝統織物事業協同組合の30周年パーティーの時だけです。
もっているなら、なぜ、もっと着ないのでしょう。
沖縄に来る観光客の中には沖縄の染織に興味を持たれている方も大勢いらっしゃるはずですし、県民の中にも、着ている姿を見れば美しいと思い、自分も着てみたいと思うようになるでしょう。
造る人が自分の作品を使ったことがない、これは本来、恐るべき事です。『良い物を造っている』と言いますが、何をもって良い物と言っているのでしょう。
それは『昔から良い物とされている』技法を使った物に過ぎないんじゃないでしょうか。それが現代人の体や、現在の気候・風土にあっているか、自分で感じてみないで、どうやって良い物が造れるのでしょうか。
昔は王府が品質を管理していましたから、一定の内容は保たれていたでしょうが、今は、吟味出来る人が流通に居ません。消費者にダイレクトに判断がゆだねられてしまうのです。
商人でも、自分が着てみもしない、作者と会ったこともない、どんな内容かも知らない、品質を吟味する術も知らないで、ラベルだけを信用して『良い物ですよ』なんて、よく言える物だと思います。
作家さん個人ではなかなか資金的に作品を買い取ったりすることは難しいかもしれません。とくに宮古上布や芭蕉布などは非常に高価ですし、数量もすくないので不可能でしょう。
だったら、くだらない助成金・補助金を組合に渡すより、県が染織品を買い取って、職員に着せて、首里や国際通りを歩かせればいいのです。
作り手は、B反や不合格反を出してしまったら、自分で買い取って着ればいい。
着て歩く事が、観る人の知覚と評価をこちらに向けることになるのです。
そうすれば、制作においてもまた違った観点が生まれてアイデアが出てくるでしょうし、『着るための着物』『締めるための帯』ということが実感できるでしょう。
造り酒屋の主は、たとえ酒が飲めなくても、味見くらいはして、品質を確かめる物です。それもしないで、良い材料できちんと造ったのだからおいしいはずだ、というのはタダ単なる傲慢であり怠慢です。
沖縄県民自ら、着物を着る事です。
まずはじめに、染織に関わる者から始めましょう。
それが最大のマーケティング活動になると私は思います。
Posted by 渡辺幻門 at
18:28
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2011年06月19日
もずやと学ぶ染織マーケティング<22回目>
7−2 購買意思決定の分析
まず、はじめにポイントというか用語を整理しておきましょう。
購買意思決定:購買する場合、消費者は購買可能な製品・サービスの中から裁量の物を選ぼうとする。さまざまな選択代案を知覚して、それらを評価すること。
消費者情報処理:消費者は複数の銘柄について、これらの多岐にわたる属性とその細目を何らかの形で知覚し、評価しなければならない。このプロセスを『消費者情報処理のプロセス』という。
ヒューリスティクス:知覚や評価の進め方のルール。マーケティングにあたっては、どのようなヒューリスティクスがターゲットとなる消費者の知覚と評価を導いているのかを十分に考慮する必要がある。
手段−目的の連鎖:消費者の必要や欲求を手段と目的の連鎖的な構成物としてとらえたものである。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この『もずやと学ぶ染織マーケティング』ですが、テキストは『ゼミナール マーケティング入門』という本を使っています。
なぜ、この本にしたかというと、私が学生時代に使っている本は内容が古いと思ったこと、基礎的なことをわかりやすく書いていること、例がたくさん引かれていること、そして、著者の一人に村田ゼミの先輩の嶋口充輝さんがふくまれていたこと、等です。
この本を何で探したかというと、アマゾンです。まず、マーケティングと書き込んで検索する。そうすると何冊も出てきます。その中で、入門書を探す。薄っぺらい物だとすぐに終わってしまって面白く無いので、そこそこの分量があるものにする。そして最後は著者です。マーケティングと言っても出来れば同門の学者さんが書いた物が私としては受け入れやすい事は間違いなく、それらを総合してこの本に決めたわけです。
※ この勉強会の記事を読んで下っている方が最近多くなってきて喜んでいますが、もし、テキストを買っていらっしゃらないなら、ぜひ、お買い求めください。私は何の利益供与も受けておりませんが、本代をケチってはいけません。とくに学生さんは、いまのうちにいろんな知識を詰め込んで置いてください。あとになって必ず役に立ちます。
話はそれましたが、つまり、アマゾンで知覚し、購買意思決定プロセス、目的−手段の連鎖を経て、購入したわけですね。
ちょっと考えて見ましょう。
沖縄の染織においては、どこに問題があると思いますか?
評価するためには、事前に情報が必要だということは分かりますね。
知覚されるだけでなく、評価されるためにも、露出=アピールが必要な訳です。
では、着物の場合はどんな感じになっていますか?
最近は、雑誌でも、本でも沖縄の染織を取り上げていることが多くなってきましたので、消費者の方のほとんどはそこで情報を得ているのでしょう。
あとは、展示会ですよね。店頭に常時沖縄物を置いているところというのは、ほとんどありません。
でも、着物を初めとする衣料品が正しく知覚・評価されるのに、写真や画面、あるいは生地の状態で見るというので、本当に十分でしょうか。
とくに高額品の場合、本物を観る事さえ、困難です。風合いや色合いなど、どんなに技術が進んでも、正しく質感が伝わることはないと思います。
ですから、私は基本的に作品をネットに載せることをやめました。
京友禅などの場合、どんなところで見て、評価のための情報を掴むかといえば、内地では結婚式やパーティー、京都に行けば芸妓、舞妓が来て歩いています。銀座や新地のクラブに行けば、ママが良い着物を着ていたりします。
沖縄染織は?
どこで着ている姿を見ることが出来ますか?
私はもう何十回と沖縄に行っていますが、街中で着物姿の女性に会ったことがありません。せいぜい、民謡酒場の女性か国立劇場の出演者です。
八重山上布、宮古上布、芭蕉布は着ていると涼しい。裸で居るより涼しい。とくに琉装に仕立てると、風の中に居るようでたまらなく心地よい。
しかし、教科書に書いてあるように手段−目的の連鎖の中で、購買の必要や欲求は『偶有性』を帯びているのです。
つまり、着て涼しいなら、Tシャツに短パンで良いじゃないか、という事もあり得るわけです。
それをどうやって、着物を着せる、とくに沖縄の着物を着てもらうと言う風に誘導するか、それがマーケティングにおいて考えなければならないことなのです。
つまり、暑い夏→着物は涼しい→沖縄
というイメージを確立せねば、浴衣や他の夏物に負けてしまうと言うことです。
夏休み時期に沖縄に行くと、空港では紅型装束の女性が迎えてくれたりします。
でも、なんで、クソ熱い時期に、あんな格好をしているのですかね。
せめて、駒上布くらいを着せて、きりりとカンプーにジーファーの髪で迎えたら、さぞ、観光客も涼しく感じる事だろうと思うのです。
国立劇場に行っても、着物姿の観客を見たことがありません。
私が沖縄で着物姿を大量に見たのは、那覇伝統織物事業協同組合の30周年パーティーの時だけです。
もっているなら、なぜ、もっと着ないのでしょう。
沖縄に来る観光客の中には沖縄の染織に興味を持たれている方も大勢いらっしゃるはずですし、県民の中にも、着ている姿を見れば美しいと思い、自分も着てみたいと思うようになるでしょう。
造る人が自分の作品を使ったことがない、これは本来、恐るべき事です。『良い物を造っている』と言いますが、何をもって良い物と言っているのでしょう。
それは『昔から良い物とされている』技法を使った物に過ぎないんじゃないでしょうか。それが現代人の体や、現在の気候・風土にあっているか、自分で感じてみないで、どうやって良い物が造れるのでしょうか。
昔は王府が品質を管理していましたから、一定の内容は保たれていたでしょうが、今は、吟味出来る人が流通に居ません。消費者にダイレクトに判断がゆだねられてしまうのです。
商人でも、自分が着てみもしない、作者と会ったこともない、どんな内容かも知らない、品質を吟味する術も知らないで、ラベルだけを信用して『良い物ですよ』なんて、よく言える物だと思います。
作家さん個人ではなかなか資金的に作品を買い取ったりすることは難しいかもしれません。とくに宮古上布や芭蕉布などは非常に高価ですし、数量もすくないので不可能でしょう。
だったら、くだらない助成金・補助金を組合に渡すより、県が染織品を買い取って、職員に着せて、首里や国際通りを歩かせればいいのです。
作り手は、B反や不合格反を出してしまったら、自分で買い取って着ればいい。
着て歩く事が、観る人の知覚と評価をこちらに向けることになるのです。
そうすれば、制作においてもまた違った観点が生まれてアイデアが出てくるでしょうし、『着るための着物』『締めるための帯』ということが実感できるでしょう。
造り酒屋の主は、たとえ酒が飲めなくても、味見くらいはして、品質を確かめる物です。それもしないで、良い材料できちんと造ったのだからおいしいはずだ、というのはタダ単なる傲慢であり怠慢です。
沖縄県民自ら、着物を着る事です。
まずはじめに、染織に関わる者から始めましょう。
それが最大のマーケティング活動になると私は思います。
まず、はじめにポイントというか用語を整理しておきましょう。
購買意思決定:購買する場合、消費者は購買可能な製品・サービスの中から裁量の物を選ぼうとする。さまざまな選択代案を知覚して、それらを評価すること。
消費者情報処理:消費者は複数の銘柄について、これらの多岐にわたる属性とその細目を何らかの形で知覚し、評価しなければならない。このプロセスを『消費者情報処理のプロセス』という。
ヒューリスティクス:知覚や評価の進め方のルール。マーケティングにあたっては、どのようなヒューリスティクスがターゲットとなる消費者の知覚と評価を導いているのかを十分に考慮する必要がある。
手段−目的の連鎖:消費者の必要や欲求を手段と目的の連鎖的な構成物としてとらえたものである。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この『もずやと学ぶ染織マーケティング』ですが、テキストは『ゼミナール マーケティング入門』という本を使っています。
なぜ、この本にしたかというと、私が学生時代に使っている本は内容が古いと思ったこと、基礎的なことをわかりやすく書いていること、例がたくさん引かれていること、そして、著者の一人に村田ゼミの先輩の嶋口充輝さんがふくまれていたこと、等です。
この本を何で探したかというと、アマゾンです。まず、マーケティングと書き込んで検索する。そうすると何冊も出てきます。その中で、入門書を探す。薄っぺらい物だとすぐに終わってしまって面白く無いので、そこそこの分量があるものにする。そして最後は著者です。マーケティングと言っても出来れば同門の学者さんが書いた物が私としては受け入れやすい事は間違いなく、それらを総合してこの本に決めたわけです。
※ この勉強会の記事を読んで下っている方が最近多くなってきて喜んでいますが、もし、テキストを買っていらっしゃらないなら、ぜひ、お買い求めください。私は何の利益供与も受けておりませんが、本代をケチってはいけません。とくに学生さんは、いまのうちにいろんな知識を詰め込んで置いてください。あとになって必ず役に立ちます。
話はそれましたが、つまり、アマゾンで知覚し、購買意思決定プロセス、目的−手段の連鎖を経て、購入したわけですね。
ちょっと考えて見ましょう。
沖縄の染織においては、どこに問題があると思いますか?
評価するためには、事前に情報が必要だということは分かりますね。
知覚されるだけでなく、評価されるためにも、露出=アピールが必要な訳です。
では、着物の場合はどんな感じになっていますか?
最近は、雑誌でも、本でも沖縄の染織を取り上げていることが多くなってきましたので、消費者の方のほとんどはそこで情報を得ているのでしょう。
あとは、展示会ですよね。店頭に常時沖縄物を置いているところというのは、ほとんどありません。
でも、着物を初めとする衣料品が正しく知覚・評価されるのに、写真や画面、あるいは生地の状態で見るというので、本当に十分でしょうか。
とくに高額品の場合、本物を観る事さえ、困難です。風合いや色合いなど、どんなに技術が進んでも、正しく質感が伝わることはないと思います。
ですから、私は基本的に作品をネットに載せることをやめました。
京友禅などの場合、どんなところで見て、評価のための情報を掴むかといえば、内地では結婚式やパーティー、京都に行けば芸妓、舞妓が来て歩いています。銀座や新地のクラブに行けば、ママが良い着物を着ていたりします。
沖縄染織は?
どこで着ている姿を見ることが出来ますか?
私はもう何十回と沖縄に行っていますが、街中で着物姿の女性に会ったことがありません。せいぜい、民謡酒場の女性か国立劇場の出演者です。
八重山上布、宮古上布、芭蕉布は着ていると涼しい。裸で居るより涼しい。とくに琉装に仕立てると、風の中に居るようでたまらなく心地よい。
しかし、教科書に書いてあるように手段−目的の連鎖の中で、購買の必要や欲求は『偶有性』を帯びているのです。
つまり、着て涼しいなら、Tシャツに短パンで良いじゃないか、という事もあり得るわけです。
それをどうやって、着物を着せる、とくに沖縄の着物を着てもらうと言う風に誘導するか、それがマーケティングにおいて考えなければならないことなのです。
つまり、暑い夏→着物は涼しい→沖縄
というイメージを確立せねば、浴衣や他の夏物に負けてしまうと言うことです。
夏休み時期に沖縄に行くと、空港では紅型装束の女性が迎えてくれたりします。
でも、なんで、クソ熱い時期に、あんな格好をしているのですかね。
せめて、駒上布くらいを着せて、きりりとカンプーにジーファーの髪で迎えたら、さぞ、観光客も涼しく感じる事だろうと思うのです。
国立劇場に行っても、着物姿の観客を見たことがありません。
私が沖縄で着物姿を大量に見たのは、那覇伝統織物事業協同組合の30周年パーティーの時だけです。
もっているなら、なぜ、もっと着ないのでしょう。
沖縄に来る観光客の中には沖縄の染織に興味を持たれている方も大勢いらっしゃるはずですし、県民の中にも、着ている姿を見れば美しいと思い、自分も着てみたいと思うようになるでしょう。
造る人が自分の作品を使ったことがない、これは本来、恐るべき事です。『良い物を造っている』と言いますが、何をもって良い物と言っているのでしょう。
それは『昔から良い物とされている』技法を使った物に過ぎないんじゃないでしょうか。それが現代人の体や、現在の気候・風土にあっているか、自分で感じてみないで、どうやって良い物が造れるのでしょうか。
昔は王府が品質を管理していましたから、一定の内容は保たれていたでしょうが、今は、吟味出来る人が流通に居ません。消費者にダイレクトに判断がゆだねられてしまうのです。
商人でも、自分が着てみもしない、作者と会ったこともない、どんな内容かも知らない、品質を吟味する術も知らないで、ラベルだけを信用して『良い物ですよ』なんて、よく言える物だと思います。
作家さん個人ではなかなか資金的に作品を買い取ったりすることは難しいかもしれません。とくに宮古上布や芭蕉布などは非常に高価ですし、数量もすくないので不可能でしょう。
だったら、くだらない助成金・補助金を組合に渡すより、県が染織品を買い取って、職員に着せて、首里や国際通りを歩かせればいいのです。
作り手は、B反や不合格反を出してしまったら、自分で買い取って着ればいい。
着て歩く事が、観る人の知覚と評価をこちらに向けることになるのです。
そうすれば、制作においてもまた違った観点が生まれてアイデアが出てくるでしょうし、『着るための着物』『締めるための帯』ということが実感できるでしょう。
造り酒屋の主は、たとえ酒が飲めなくても、味見くらいはして、品質を確かめる物です。それもしないで、良い材料できちんと造ったのだからおいしいはずだ、というのはタダ単なる傲慢であり怠慢です。
沖縄県民自ら、着物を着る事です。
まずはじめに、染織に関わる者から始めましょう。
それが最大のマーケティング活動になると私は思います。
Posted by 渡辺幻門 at
18:28
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2011年06月18日
『逆選択』の理論
経済学において『逆選択の理論』というのがあります。
ウィキペディアでは『逆選抜』として紹介されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/逆選抜
概要
情報の非対称性が存在する状況では、情報優位者(保持している情報量が多い取引主体)は情報劣位者(保持している情報量が少ない取引主体)の無知につけ込み、粗悪な財やサービスを良質な財やサービスと称して提供したり、都合の悪い情報を隠して保険サービスなどの提供を受けようとするインセンティブが働く。そのため、情報劣位者はその財やサービスに対して、本来の価値より過度に悲観的な予想を抱くことになり、もし情報の非対称性が無ければ売買が行われていたはずの取引の一部が行われなくなる。そして、市場で取引されるものは、悲観的な予想に見合った粗悪な財やサービスばかりとなる。これを、通常は良いものが選ばれ生き残るという『選抜』、『淘汰』の逆であるという意味で、逆選抜、逆淘汰と呼ぶ。
いま、ある中古車の売り手と買い手を考える。買い手は、中古車情報誌などから、買いたい中古車の価値はジャンク(20万円)から掘り出し物(100万円)までの間に一様に分布していることだけを知っている。一方で、売り手は本当の中古車の価値を知っているとする。この時、まず、買い手が自身にとっての価値の平均値である60万円を提示したとする。すると、もしこの中古車の本当の価値が60万円より高ければ、そのことを知っている売り手は取引をしないであろう。取引に応じるのは、本当の価値が60万円以下の時だけである。そうなると、買い手は相手が取引に応じるならば、中古車の価値は60万円以下であるということを知ることになるので、買い手にとって中古車の価値は20万円から60万円の間に分布することになる。そこで、買い手は新たな価値の平均値である40万円を提示しなおすとする。すると上記と同様の流れにより、買い手が取引に応じるのは本当の価値が40万円以下の時だけであろう。以下同様に繰り返していくと、最終的には中古車の価値が20万円というジャンクの場合にしか取引は成立しないこととなる。その結果、中古車市場での取引は閑散としたものとなり唯一取引されるものはジャンクのみ、となってしまうのである。
なお、上記の例において、買い手と売り手の両者が本当の価値を知っている場合のみならず、両者が本当の価値がよく分からずに20万円から100万円の間に一様に分布していると考えている場合においても、ジャンク以外の中古車の取引が行われる。どちらの場合も情報の非対称性の問題が起きていないからである。
簡単に言えば、『悪貨は良貨を駆逐する』という事ですね。
何が言いたいのか解りますね?
つまり、高価な本物と廉価な模造品・粗悪品は共存し得ないということです。
そして、市場原理に任せている限り、必ず良貨は駆逐され、悪貨がはびこるのです。
『模造品は模造品とはっきりと言わない限り、粗悪品は本物より品質面では劣ると言わない限り、必ず本物を呑み込んでしまう』のです。
和装業界の場合、消費者がいだく『着物の価格への不信感』が逆手に取られて、購買価格が下へ下へと引きずられて、結局は高価な本物が売れなくなってしまうということです。
理論がそのまま、現実になっています。
よく『本物だけは残るのでしょうね』という消費者の声を聞きますが、全く逆です。
いままで、本物が残ってきたのは、その値打ちがわかるパトロンが居たからです。
この『逆選択の理論』では情報の非対称性、つまり売り手と買い手の情報量の差が原因だということになっていますが、
和装業界では、売り手も『本物は高い』という事しか知らない、というのが現実だと思います。
芭蕉布や宮古上布がどれだけ堅牢で涼しいのか、琉球びんがたがいかに華やかで着用する人を元気づけるのか。
どれだけの売り手が解っているでしょうか。
琉球びんがた(俗に言う本紅型)と和染め紅型、あるいは、ただの友禅紅型やプリントの紅型を見て、一発で見分けられる業界人が
どれだけいるでしょうか。ということは、情報の非対称性は生産者対売り手+買い手になっていて、逆選択は流通段階から起こっている
ということになります。
そして逆選択解消の方法として、次の方法が挙げられています。
?第三者の介入・・・格付け機関、ディーラー、情報誌などで非対称性を解消する
?シグナリング・・・情報を持って居る主体が自ら情報を伝えようとする
?標準化・・・店の信用を高める
?スクリーニング・・・情報開示を仕向ける
?政府の規制
基本的には情報の非対称性を解消する事を目標としていますが、ところがどっこい、みんなグルなのです。
生産者自体も、産地という大きなくくりでは模造品や粗造品を造っているので、自分では声を挙げられない。挙げれば自分で自分の
首を絞めることになる。問屋はもちろん、売りやすい商品を作ってもらおうと産地に働きかけるから、良い物より、売りやすい物を求める。その手先の情報誌やディーラーはもっと本当の事を言うはずがない。政府の規制も、産地の代表や問屋・小売店などの業界関係者からヒアリングして聞くわけですから、真相の掴みようがない・・・今回の原発事故のようなものですね。
沖縄でも、結局声を挙げ、不正を糾弾するのは、本物だけを真面目に造っている産地や作家さんだけです。
つまり、正直者がバカを見る、そんなとてつもなく情けない状態になっているわけですね。
でも、産地の人はみんな本当の事は解っているんです。
でも、その結末を想像する能力も知識もない。
結城紬なんかも、一般に結城紬として売られているのは、高機の物でしょう?
いざり機のは、『本結城』と言われて売られている。
でも、なんでいざり機を使うかというと、糸が細くていざり出ないと切れてしまうのと、それでないと独特の風合いが出ないからでしょう。
じゃ、結城紬っていうのは何かというと、経緯真綿紬で結城地方で織られた物であればいいのかといえばそんなことはまったく間違っている訳です。
やっぱり、『重要無形文化財』に指定された技術と技法で造られた物でなければ結城紬とは言えないし、結城紬というのは
そのイメージがあるから、人気があるのでしょう。
芭蕉布だってそうでしょう。平良敏子さんという大スターがいて、芭蕉布が希少性が高くて、あこがれるから、欲しいと思う人が居るわけで、だから、偽物を掴まされる人が後を絶たない。
偽物を掴まされている例は沢山知っていますが、業者の立場で言うと、偽物を安く売ったほうが本物を高く売るより利益率ベースでは儲かります。
ですから、どんどん偽物が蔓延する。
そしておかしな事があるのです。
弊社の場合、ほとんど仕入は作家かメーカー直です。
ですから、偽物を仕入れるということはあり得ません。でも、他のどこよりも安く適品を仕入れることができます。
しかし、作品と値段を提示すると『あぁ、これは○○みたいね』とか『○○の作品に似てるわね』最悪の場合は『安すぎるから偽物でしょう』と言われる事もあるのです。
ギョエー!としか言いようがありませんが、安いと警戒されるというのも真実なのです。
逆選択とモラルハザードが渾然一体となった、まるでブラックバスとブルーギルが水槽の中で泳いでいるような状況?ですが、
『ほな、どないしたらええんでっか?』ということです。
なぜ、こういう状況になってしまったかといえば、昔は家と呉服屋というのは信用という絆で繋がっていたわけです。
呉服屋のご主人は、おばあちゃん、おかあさん、むすめさん、それぞれ家族みんな生まれた頃から知っていて、
産着からお世話をした。その街中、村中が、その呉服屋を信用して持ちつ持たれつの関係を保っていた。
それが、前述したNCの拡大や地元商店街の崩壊などで、消滅した。
つまり、家と呉服屋の絆が断ち切られたのです。(他の商店も同じです)
みなさんとくに30台、40台若い方は自分の購買行動を振り返ってみてください。
あちこちのお店の店頭や、展示会を見て、品物と値段を見て回っているでしょう。
それで、購買に至るのはどんな時ですか?
私の知っている範囲では、Aの店で1つ、Bの店で1つ、そしてCの店で1つ・・・
それが、その店の信用を土台として決めているのなら、なんの問題も無いのです。
もし、それがたまたま行ったお店で、たまたま気に入った物が、たまたま買える値段で、たまたま懐具合が良かった・・・
だから、買った。
プロから見たら、飛んで火に入る夏の虫です。
私の場合は外販=訪問販売という非常に売り手にとって不利な立場の販売形態を取っています。
なぜ不利かというと、訪問販売にはクーリングオフなど、圧倒的に買い手に有利な法制度が敷かれているからです。
それが成り立つのは、基本的にはデパートの外商のお客様だからです。
しかし、それでも、お客様は、じっくりと私の事を観察されています。
もちろん、一番は外商さんとの信頼関係ですが、いかに外商さんが優秀でも、私が嫌われたり、信用されなかったりすれば、
商談は成り立ちません。
そして、基本的には私達はお客様に『ご無理を承知でお願いにあがっている』のです。
ですから、万が一にも信用を失墜することがあれば、とんでもない事態に発展してしまいます。
まさに板子一枚の上で、日々の商いを重ねさせて頂いているということです。
つまり、何が言いたいのかというと、『良い買い物がしたければ、信頼できる店と販売員を見つけなさい』と言うことです。
実際の販売においては、商品知識というのはあまり必要ありません。
商品知識や教養は呉服の商売に必要なのものですが、販売=売約決定の為にはさほど必要ない。
売るためには、ポイントを連呼すれば、それが一番効果的だからです。
私が、あれこれ蘊蓄を披露するのは、売るためじゃないのです。
みなさんに、情報を得て頂き、興味を持って頂くためなのです。
ほんとうに、商売に入ったら、私は沈黙します。(これ以降は企業秘密(^_^)v)
信用出来る店と人をどうやって知るかといえば、教えてもらうようなフリをしてあれこれと質問してみることです。
そして、その商品に対して、きちんと負の面も知っていて、教えてくれる人。
残念な事に、知識と販売力は正比例しません。
しかし、販売力とお客様の便益も正比例しない。知識・教養はお客様の便益となります。
情報の非対称性を解消し、逆選択の流れを阻止するためには、消費者の方々の協力無くしてはありません。
呉服屋に言ったら、自分の知識を離すことよりも、日頃疑問に思っている事をあちこちで話して聞き比べてみてください。
きちんと熱心に答えてくれたところが、信頼できる呉服店の候補でしょう。
消費者のみなさんの素敵なお買い物も、私達の仕事も、信用がすべての基礎。
そしてローマは1日にしてならず、です。
ウィキペディアでは『逆選抜』として紹介されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/逆選抜
概要
情報の非対称性が存在する状況では、情報優位者(保持している情報量が多い取引主体)は情報劣位者(保持している情報量が少ない取引主体)の無知につけ込み、粗悪な財やサービスを良質な財やサービスと称して提供したり、都合の悪い情報を隠して保険サービスなどの提供を受けようとするインセンティブが働く。そのため、情報劣位者はその財やサービスに対して、本来の価値より過度に悲観的な予想を抱くことになり、もし情報の非対称性が無ければ売買が行われていたはずの取引の一部が行われなくなる。そして、市場で取引されるものは、悲観的な予想に見合った粗悪な財やサービスばかりとなる。これを、通常は良いものが選ばれ生き残るという『選抜』、『淘汰』の逆であるという意味で、逆選抜、逆淘汰と呼ぶ。
いま、ある中古車の売り手と買い手を考える。買い手は、中古車情報誌などから、買いたい中古車の価値はジャンク(20万円)から掘り出し物(100万円)までの間に一様に分布していることだけを知っている。一方で、売り手は本当の中古車の価値を知っているとする。この時、まず、買い手が自身にとっての価値の平均値である60万円を提示したとする。すると、もしこの中古車の本当の価値が60万円より高ければ、そのことを知っている売り手は取引をしないであろう。取引に応じるのは、本当の価値が60万円以下の時だけである。そうなると、買い手は相手が取引に応じるならば、中古車の価値は60万円以下であるということを知ることになるので、買い手にとって中古車の価値は20万円から60万円の間に分布することになる。そこで、買い手は新たな価値の平均値である40万円を提示しなおすとする。すると上記と同様の流れにより、買い手が取引に応じるのは本当の価値が40万円以下の時だけであろう。以下同様に繰り返していくと、最終的には中古車の価値が20万円というジャンクの場合にしか取引は成立しないこととなる。その結果、中古車市場での取引は閑散としたものとなり唯一取引されるものはジャンクのみ、となってしまうのである。
なお、上記の例において、買い手と売り手の両者が本当の価値を知っている場合のみならず、両者が本当の価値がよく分からずに20万円から100万円の間に一様に分布していると考えている場合においても、ジャンク以外の中古車の取引が行われる。どちらの場合も情報の非対称性の問題が起きていないからである。
簡単に言えば、『悪貨は良貨を駆逐する』という事ですね。
何が言いたいのか解りますね?
つまり、高価な本物と廉価な模造品・粗悪品は共存し得ないということです。
そして、市場原理に任せている限り、必ず良貨は駆逐され、悪貨がはびこるのです。
『模造品は模造品とはっきりと言わない限り、粗悪品は本物より品質面では劣ると言わない限り、必ず本物を呑み込んでしまう』のです。
和装業界の場合、消費者がいだく『着物の価格への不信感』が逆手に取られて、購買価格が下へ下へと引きずられて、結局は高価な本物が売れなくなってしまうということです。
理論がそのまま、現実になっています。
よく『本物だけは残るのでしょうね』という消費者の声を聞きますが、全く逆です。
いままで、本物が残ってきたのは、その値打ちがわかるパトロンが居たからです。
この『逆選択の理論』では情報の非対称性、つまり売り手と買い手の情報量の差が原因だということになっていますが、
和装業界では、売り手も『本物は高い』という事しか知らない、というのが現実だと思います。
芭蕉布や宮古上布がどれだけ堅牢で涼しいのか、琉球びんがたがいかに華やかで着用する人を元気づけるのか。
どれだけの売り手が解っているでしょうか。
琉球びんがた(俗に言う本紅型)と和染め紅型、あるいは、ただの友禅紅型やプリントの紅型を見て、一発で見分けられる業界人が
どれだけいるでしょうか。ということは、情報の非対称性は生産者対売り手+買い手になっていて、逆選択は流通段階から起こっている
ということになります。
そして逆選択解消の方法として、次の方法が挙げられています。
?第三者の介入・・・格付け機関、ディーラー、情報誌などで非対称性を解消する
?シグナリング・・・情報を持って居る主体が自ら情報を伝えようとする
?標準化・・・店の信用を高める
?スクリーニング・・・情報開示を仕向ける
?政府の規制
基本的には情報の非対称性を解消する事を目標としていますが、ところがどっこい、みんなグルなのです。
生産者自体も、産地という大きなくくりでは模造品や粗造品を造っているので、自分では声を挙げられない。挙げれば自分で自分の
首を絞めることになる。問屋はもちろん、売りやすい商品を作ってもらおうと産地に働きかけるから、良い物より、売りやすい物を求める。その手先の情報誌やディーラーはもっと本当の事を言うはずがない。政府の規制も、産地の代表や問屋・小売店などの業界関係者からヒアリングして聞くわけですから、真相の掴みようがない・・・今回の原発事故のようなものですね。
沖縄でも、結局声を挙げ、不正を糾弾するのは、本物だけを真面目に造っている産地や作家さんだけです。
つまり、正直者がバカを見る、そんなとてつもなく情けない状態になっているわけですね。
でも、産地の人はみんな本当の事は解っているんです。
でも、その結末を想像する能力も知識もない。
結城紬なんかも、一般に結城紬として売られているのは、高機の物でしょう?
いざり機のは、『本結城』と言われて売られている。
でも、なんでいざり機を使うかというと、糸が細くていざり出ないと切れてしまうのと、それでないと独特の風合いが出ないからでしょう。
じゃ、結城紬っていうのは何かというと、経緯真綿紬で結城地方で織られた物であればいいのかといえばそんなことはまったく間違っている訳です。
やっぱり、『重要無形文化財』に指定された技術と技法で造られた物でなければ結城紬とは言えないし、結城紬というのは
そのイメージがあるから、人気があるのでしょう。
芭蕉布だってそうでしょう。平良敏子さんという大スターがいて、芭蕉布が希少性が高くて、あこがれるから、欲しいと思う人が居るわけで、だから、偽物を掴まされる人が後を絶たない。
偽物を掴まされている例は沢山知っていますが、業者の立場で言うと、偽物を安く売ったほうが本物を高く売るより利益率ベースでは儲かります。
ですから、どんどん偽物が蔓延する。
そしておかしな事があるのです。
弊社の場合、ほとんど仕入は作家かメーカー直です。
ですから、偽物を仕入れるということはあり得ません。でも、他のどこよりも安く適品を仕入れることができます。
しかし、作品と値段を提示すると『あぁ、これは○○みたいね』とか『○○の作品に似てるわね』最悪の場合は『安すぎるから偽物でしょう』と言われる事もあるのです。
ギョエー!としか言いようがありませんが、安いと警戒されるというのも真実なのです。
逆選択とモラルハザードが渾然一体となった、まるでブラックバスとブルーギルが水槽の中で泳いでいるような状況?ですが、
『ほな、どないしたらええんでっか?』ということです。
なぜ、こういう状況になってしまったかといえば、昔は家と呉服屋というのは信用という絆で繋がっていたわけです。
呉服屋のご主人は、おばあちゃん、おかあさん、むすめさん、それぞれ家族みんな生まれた頃から知っていて、
産着からお世話をした。その街中、村中が、その呉服屋を信用して持ちつ持たれつの関係を保っていた。
それが、前述したNCの拡大や地元商店街の崩壊などで、消滅した。
つまり、家と呉服屋の絆が断ち切られたのです。(他の商店も同じです)
みなさんとくに30台、40台若い方は自分の購買行動を振り返ってみてください。
あちこちのお店の店頭や、展示会を見て、品物と値段を見て回っているでしょう。
それで、購買に至るのはどんな時ですか?
私の知っている範囲では、Aの店で1つ、Bの店で1つ、そしてCの店で1つ・・・
それが、その店の信用を土台として決めているのなら、なんの問題も無いのです。
もし、それがたまたま行ったお店で、たまたま気に入った物が、たまたま買える値段で、たまたま懐具合が良かった・・・
だから、買った。
プロから見たら、飛んで火に入る夏の虫です。
私の場合は外販=訪問販売という非常に売り手にとって不利な立場の販売形態を取っています。
なぜ不利かというと、訪問販売にはクーリングオフなど、圧倒的に買い手に有利な法制度が敷かれているからです。
それが成り立つのは、基本的にはデパートの外商のお客様だからです。
しかし、それでも、お客様は、じっくりと私の事を観察されています。
もちろん、一番は外商さんとの信頼関係ですが、いかに外商さんが優秀でも、私が嫌われたり、信用されなかったりすれば、
商談は成り立ちません。
そして、基本的には私達はお客様に『ご無理を承知でお願いにあがっている』のです。
ですから、万が一にも信用を失墜することがあれば、とんでもない事態に発展してしまいます。
まさに板子一枚の上で、日々の商いを重ねさせて頂いているということです。
つまり、何が言いたいのかというと、『良い買い物がしたければ、信頼できる店と販売員を見つけなさい』と言うことです。
実際の販売においては、商品知識というのはあまり必要ありません。
商品知識や教養は呉服の商売に必要なのものですが、販売=売約決定の為にはさほど必要ない。
売るためには、ポイントを連呼すれば、それが一番効果的だからです。
私が、あれこれ蘊蓄を披露するのは、売るためじゃないのです。
みなさんに、情報を得て頂き、興味を持って頂くためなのです。
ほんとうに、商売に入ったら、私は沈黙します。(これ以降は企業秘密(^_^)v)
信用出来る店と人をどうやって知るかといえば、教えてもらうようなフリをしてあれこれと質問してみることです。
そして、その商品に対して、きちんと負の面も知っていて、教えてくれる人。
残念な事に、知識と販売力は正比例しません。
しかし、販売力とお客様の便益も正比例しない。知識・教養はお客様の便益となります。
情報の非対称性を解消し、逆選択の流れを阻止するためには、消費者の方々の協力無くしてはありません。
呉服屋に言ったら、自分の知識を離すことよりも、日頃疑問に思っている事をあちこちで話して聞き比べてみてください。
きちんと熱心に答えてくれたところが、信頼できる呉服店の候補でしょう。
消費者のみなさんの素敵なお買い物も、私達の仕事も、信用がすべての基礎。
そしてローマは1日にしてならず、です。
Posted by 渡辺幻門 at
00:13
│Comments(0)
2011年06月18日
『逆選択』の理論
経済学において『逆選択の理論』というのがあります。
ウィキペディアでは『逆選抜』として紹介されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/逆選抜
概要
情報の非対称性が存在する状況では、情報優位者(保持している情報量が多い取引主体)は情報劣位者(保持している情報量が少ない取引主体)の無知につけ込み、粗悪な財やサービスを良質な財やサービスと称して提供したり、都合の悪い情報を隠して保険サービスなどの提供を受けようとするインセンティブが働く。そのため、情報劣位者はその財やサービスに対して、本来の価値より過度に悲観的な予想を抱くことになり、もし情報の非対称性が無ければ売買が行われていたはずの取引の一部が行われなくなる。そして、市場で取引されるものは、悲観的な予想に見合った粗悪な財やサービスばかりとなる。これを、通常は良いものが選ばれ生き残るという『選抜』、『淘汰』の逆であるという意味で、逆選抜、逆淘汰と呼ぶ。
いま、ある中古車の売り手と買い手を考える。買い手は、中古車情報誌などから、買いたい中古車の価値はジャンク(20万円)から掘り出し物(100万円)までの間に一様に分布していることだけを知っている。一方で、売り手は本当の中古車の価値を知っているとする。この時、まず、買い手が自身にとっての価値の平均値である60万円を提示したとする。すると、もしこの中古車の本当の価値が60万円より高ければ、そのことを知っている売り手は取引をしないであろう。取引に応じるのは、本当の価値が60万円以下の時だけである。そうなると、買い手は相手が取引に応じるならば、中古車の価値は60万円以下であるということを知ることになるので、買い手にとって中古車の価値は20万円から60万円の間に分布することになる。そこで、買い手は新たな価値の平均値である40万円を提示しなおすとする。すると上記と同様の流れにより、買い手が取引に応じるのは本当の価値が40万円以下の時だけであろう。以下同様に繰り返していくと、最終的には中古車の価値が20万円というジャンクの場合にしか取引は成立しないこととなる。その結果、中古車市場での取引は閑散としたものとなり唯一取引されるものはジャンクのみ、となってしまうのである。
なお、上記の例において、買い手と売り手の両者が本当の価値を知っている場合のみならず、両者が本当の価値がよく分からずに20万円から100万円の間に一様に分布していると考えている場合においても、ジャンク以外の中古車の取引が行われる。どちらの場合も情報の非対称性の問題が起きていないからである。
簡単に言えば、『悪貨は良貨を駆逐する』という事ですね。
何が言いたいのか解りますね?
つまり、高価な本物と廉価な模造品・粗悪品は共存し得ないということです。
そして、市場原理に任せている限り、必ず良貨は駆逐され、悪貨がはびこるのです。
『模造品は模造品とはっきりと言わない限り、粗悪品は本物より品質面では劣ると言わない限り、必ず本物を呑み込んでしまう』のです。
和装業界の場合、消費者がいだく『着物の価格への不信感』が逆手に取られて、購買価格が下へ下へと引きずられて、結局は高価な本物が売れなくなってしまうということです。
理論がそのまま、現実になっています。
よく『本物だけは残るのでしょうね』という消費者の声を聞きますが、全く逆です。
いままで、本物が残ってきたのは、その値打ちがわかるパトロンが居たからです。
この『逆選択の理論』では情報の非対称性、つまり売り手と買い手の情報量の差が原因だということになっていますが、
和装業界では、売り手も『本物は高い』という事しか知らない、というのが現実だと思います。
芭蕉布や宮古上布がどれだけ堅牢で涼しいのか、琉球びんがたがいかに華やかで着用する人を元気づけるのか。
どれだけの売り手が解っているでしょうか。
琉球びんがた(俗に言う本紅型)と和染め紅型、あるいは、ただの友禅紅型やプリントの紅型を見て、一発で見分けられる業界人が
どれだけいるでしょうか。ということは、情報の非対称性は生産者対売り手+買い手になっていて、逆選択は流通段階から起こっている
ということになります。
そして逆選択解消の方法として、次の方法が挙げられています。
?第三者の介入・・・格付け機関、ディーラー、情報誌などで非対称性を解消する
?シグナリング・・・情報を持って居る主体が自ら情報を伝えようとする
?標準化・・・店の信用を高める
?スクリーニング・・・情報開示を仕向ける
?政府の規制
基本的には情報の非対称性を解消する事を目標としていますが、ところがどっこい、みんなグルなのです。
生産者自体も、産地という大きなくくりでは模造品や粗造品を造っているので、自分では声を挙げられない。挙げれば自分で自分の
首を絞めることになる。問屋はもちろん、売りやすい商品を作ってもらおうと産地に働きかけるから、良い物より、売りやすい物を求める。その手先の情報誌やディーラーはもっと本当の事を言うはずがない。政府の規制も、産地の代表や問屋・小売店などの業界関係者からヒアリングして聞くわけですから、真相の掴みようがない・・・今回の原発事故のようなものですね。
沖縄でも、結局声を挙げ、不正を糾弾するのは、本物だけを真面目に造っている産地や作家さんだけです。
つまり、正直者がバカを見る、そんなとてつもなく情けない状態になっているわけですね。
でも、産地の人はみんな本当の事は解っているんです。
でも、その結末を想像する能力も知識もない。
結城紬なんかも、一般に結城紬として売られているのは、高機の物でしょう?
いざり機のは、『本結城』と言われて売られている。
でも、なんでいざり機を使うかというと、糸が細くていざり出ないと切れてしまうのと、それでないと独特の風合いが出ないからでしょう。
じゃ、結城紬っていうのは何かというと、経緯真綿紬で結城地方で織られた物であればいいのかといえばそんなことはまったく間違っている訳です。
やっぱり、『重要無形文化財』に指定された技術と技法で造られた物でなければ結城紬とは言えないし、結城紬というのは
そのイメージがあるから、人気があるのでしょう。
芭蕉布だってそうでしょう。平良敏子さんという大スターがいて、芭蕉布が希少性が高くて、あこがれるから、欲しいと思う人が居るわけで、だから、偽物を掴まされる人が後を絶たない。
偽物を掴まされている例は沢山知っていますが、業者の立場で言うと、偽物を安く売ったほうが本物を高く売るより利益率ベースでは儲かります。
ですから、どんどん偽物が蔓延する。
そしておかしな事があるのです。
弊社の場合、ほとんど仕入は作家かメーカー直です。
ですから、偽物を仕入れるということはあり得ません。でも、他のどこよりも安く適品を仕入れることができます。
しかし、作品と値段を提示すると『あぁ、これは○○みたいね』とか『○○の作品に似てるわね』最悪の場合は『安すぎるから偽物でしょう』と言われる事もあるのです。
ギョエー!としか言いようがありませんが、安いと警戒されるというのも真実なのです。
逆選択とモラルハザードが渾然一体となった、まるでブラックバスとブルーギルが水槽の中で泳いでいるような状況?ですが、
『ほな、どないしたらええんでっか?』ということです。
なぜ、こういう状況になってしまったかといえば、昔は家と呉服屋というのは信用という絆で繋がっていたわけです。
呉服屋のご主人は、おばあちゃん、おかあさん、むすめさん、それぞれ家族みんな生まれた頃から知っていて、
産着からお世話をした。その街中、村中が、その呉服屋を信用して持ちつ持たれつの関係を保っていた。
それが、前述したNCの拡大や地元商店街の崩壊などで、消滅した。
つまり、家と呉服屋の絆が断ち切られたのです。(他の商店も同じです)
みなさんとくに30台、40台若い方は自分の購買行動を振り返ってみてください。
あちこちのお店の店頭や、展示会を見て、品物と値段を見て回っているでしょう。
それで、購買に至るのはどんな時ですか?
私の知っている範囲では、Aの店で1つ、Bの店で1つ、そしてCの店で1つ・・・
それが、その店の信用を土台として決めているのなら、なんの問題も無いのです。
もし、それがたまたま行ったお店で、たまたま気に入った物が、たまたま買える値段で、たまたま懐具合が良かった・・・
だから、買った。
プロから見たら、飛んで火に入る夏の虫です。
私の場合は外販=訪問販売という非常に売り手にとって不利な立場の販売形態を取っています。
なぜ不利かというと、訪問販売にはクーリングオフなど、圧倒的に買い手に有利な法制度が敷かれているからです。
それが成り立つのは、基本的にはデパートの外商のお客様だからです。
しかし、それでも、お客様は、じっくりと私の事を観察されています。
もちろん、一番は外商さんとの信頼関係ですが、いかに外商さんが優秀でも、私が嫌われたり、信用されなかったりすれば、
商談は成り立ちません。
そして、基本的には私達はお客様に『ご無理を承知でお願いにあがっている』のです。
ですから、万が一にも信用を失墜することがあれば、とんでもない事態に発展してしまいます。
まさに板子一枚の上で、日々の商いを重ねさせて頂いているということです。
つまり、何が言いたいのかというと、『良い買い物がしたければ、信頼できる店と販売員を見つけなさい』と言うことです。
実際の販売においては、商品知識というのはあまり必要ありません。
商品知識や教養は呉服の商売に必要なのものですが、販売=売約決定の為にはさほど必要ない。
売るためには、ポイントを連呼すれば、それが一番効果的だからです。
私が、あれこれ蘊蓄を披露するのは、売るためじゃないのです。
みなさんに、情報を得て頂き、興味を持って頂くためなのです。
ほんとうに、商売に入ったら、私は沈黙します。(これ以降は企業秘密(^_^)v)
信用出来る店と人をどうやって知るかといえば、教えてもらうようなフリをしてあれこれと質問してみることです。
そして、その商品に対して、きちんと負の面も知っていて、教えてくれる人。
残念な事に、知識と販売力は正比例しません。
しかし、販売力とお客様の便益も正比例しない。知識・教養はお客様の便益となります。
情報の非対称性を解消し、逆選択の流れを阻止するためには、消費者の方々の協力無くしてはありません。
呉服屋に言ったら、自分の知識を離すことよりも、日頃疑問に思っている事をあちこちで話して聞き比べてみてください。
きちんと熱心に答えてくれたところが、信頼できる呉服店の候補でしょう。
消費者のみなさんの素敵なお買い物も、私達の仕事も、信用がすべての基礎。
そしてローマは1日にしてならず、です。
ウィキペディアでは『逆選抜』として紹介されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/逆選抜
概要
情報の非対称性が存在する状況では、情報優位者(保持している情報量が多い取引主体)は情報劣位者(保持している情報量が少ない取引主体)の無知につけ込み、粗悪な財やサービスを良質な財やサービスと称して提供したり、都合の悪い情報を隠して保険サービスなどの提供を受けようとするインセンティブが働く。そのため、情報劣位者はその財やサービスに対して、本来の価値より過度に悲観的な予想を抱くことになり、もし情報の非対称性が無ければ売買が行われていたはずの取引の一部が行われなくなる。そして、市場で取引されるものは、悲観的な予想に見合った粗悪な財やサービスばかりとなる。これを、通常は良いものが選ばれ生き残るという『選抜』、『淘汰』の逆であるという意味で、逆選抜、逆淘汰と呼ぶ。
いま、ある中古車の売り手と買い手を考える。買い手は、中古車情報誌などから、買いたい中古車の価値はジャンク(20万円)から掘り出し物(100万円)までの間に一様に分布していることだけを知っている。一方で、売り手は本当の中古車の価値を知っているとする。この時、まず、買い手が自身にとっての価値の平均値である60万円を提示したとする。すると、もしこの中古車の本当の価値が60万円より高ければ、そのことを知っている売り手は取引をしないであろう。取引に応じるのは、本当の価値が60万円以下の時だけである。そうなると、買い手は相手が取引に応じるならば、中古車の価値は60万円以下であるということを知ることになるので、買い手にとって中古車の価値は20万円から60万円の間に分布することになる。そこで、買い手は新たな価値の平均値である40万円を提示しなおすとする。すると上記と同様の流れにより、買い手が取引に応じるのは本当の価値が40万円以下の時だけであろう。以下同様に繰り返していくと、最終的には中古車の価値が20万円というジャンクの場合にしか取引は成立しないこととなる。その結果、中古車市場での取引は閑散としたものとなり唯一取引されるものはジャンクのみ、となってしまうのである。
なお、上記の例において、買い手と売り手の両者が本当の価値を知っている場合のみならず、両者が本当の価値がよく分からずに20万円から100万円の間に一様に分布していると考えている場合においても、ジャンク以外の中古車の取引が行われる。どちらの場合も情報の非対称性の問題が起きていないからである。
簡単に言えば、『悪貨は良貨を駆逐する』という事ですね。
何が言いたいのか解りますね?
つまり、高価な本物と廉価な模造品・粗悪品は共存し得ないということです。
そして、市場原理に任せている限り、必ず良貨は駆逐され、悪貨がはびこるのです。
『模造品は模造品とはっきりと言わない限り、粗悪品は本物より品質面では劣ると言わない限り、必ず本物を呑み込んでしまう』のです。
和装業界の場合、消費者がいだく『着物の価格への不信感』が逆手に取られて、購買価格が下へ下へと引きずられて、結局は高価な本物が売れなくなってしまうということです。
理論がそのまま、現実になっています。
よく『本物だけは残るのでしょうね』という消費者の声を聞きますが、全く逆です。
いままで、本物が残ってきたのは、その値打ちがわかるパトロンが居たからです。
この『逆選択の理論』では情報の非対称性、つまり売り手と買い手の情報量の差が原因だということになっていますが、
和装業界では、売り手も『本物は高い』という事しか知らない、というのが現実だと思います。
芭蕉布や宮古上布がどれだけ堅牢で涼しいのか、琉球びんがたがいかに華やかで着用する人を元気づけるのか。
どれだけの売り手が解っているでしょうか。
琉球びんがた(俗に言う本紅型)と和染め紅型、あるいは、ただの友禅紅型やプリントの紅型を見て、一発で見分けられる業界人が
どれだけいるでしょうか。ということは、情報の非対称性は生産者対売り手+買い手になっていて、逆選択は流通段階から起こっている
ということになります。
そして逆選択解消の方法として、次の方法が挙げられています。
?第三者の介入・・・格付け機関、ディーラー、情報誌などで非対称性を解消する
?シグナリング・・・情報を持って居る主体が自ら情報を伝えようとする
?標準化・・・店の信用を高める
?スクリーニング・・・情報開示を仕向ける
?政府の規制
基本的には情報の非対称性を解消する事を目標としていますが、ところがどっこい、みんなグルなのです。
生産者自体も、産地という大きなくくりでは模造品や粗造品を造っているので、自分では声を挙げられない。挙げれば自分で自分の
首を絞めることになる。問屋はもちろん、売りやすい商品を作ってもらおうと産地に働きかけるから、良い物より、売りやすい物を求める。その手先の情報誌やディーラーはもっと本当の事を言うはずがない。政府の規制も、産地の代表や問屋・小売店などの業界関係者からヒアリングして聞くわけですから、真相の掴みようがない・・・今回の原発事故のようなものですね。
沖縄でも、結局声を挙げ、不正を糾弾するのは、本物だけを真面目に造っている産地や作家さんだけです。
つまり、正直者がバカを見る、そんなとてつもなく情けない状態になっているわけですね。
でも、産地の人はみんな本当の事は解っているんです。
でも、その結末を想像する能力も知識もない。
結城紬なんかも、一般に結城紬として売られているのは、高機の物でしょう?
いざり機のは、『本結城』と言われて売られている。
でも、なんでいざり機を使うかというと、糸が細くていざり出ないと切れてしまうのと、それでないと独特の風合いが出ないからでしょう。
じゃ、結城紬っていうのは何かというと、経緯真綿紬で結城地方で織られた物であればいいのかといえばそんなことはまったく間違っている訳です。
やっぱり、『重要無形文化財』に指定された技術と技法で造られた物でなければ結城紬とは言えないし、結城紬というのは
そのイメージがあるから、人気があるのでしょう。
芭蕉布だってそうでしょう。平良敏子さんという大スターがいて、芭蕉布が希少性が高くて、あこがれるから、欲しいと思う人が居るわけで、だから、偽物を掴まされる人が後を絶たない。
偽物を掴まされている例は沢山知っていますが、業者の立場で言うと、偽物を安く売ったほうが本物を高く売るより利益率ベースでは儲かります。
ですから、どんどん偽物が蔓延する。
そしておかしな事があるのです。
弊社の場合、ほとんど仕入は作家かメーカー直です。
ですから、偽物を仕入れるということはあり得ません。でも、他のどこよりも安く適品を仕入れることができます。
しかし、作品と値段を提示すると『あぁ、これは○○みたいね』とか『○○の作品に似てるわね』最悪の場合は『安すぎるから偽物でしょう』と言われる事もあるのです。
ギョエー!としか言いようがありませんが、安いと警戒されるというのも真実なのです。
逆選択とモラルハザードが渾然一体となった、まるでブラックバスとブルーギルが水槽の中で泳いでいるような状況?ですが、
『ほな、どないしたらええんでっか?』ということです。
なぜ、こういう状況になってしまったかといえば、昔は家と呉服屋というのは信用という絆で繋がっていたわけです。
呉服屋のご主人は、おばあちゃん、おかあさん、むすめさん、それぞれ家族みんな生まれた頃から知っていて、
産着からお世話をした。その街中、村中が、その呉服屋を信用して持ちつ持たれつの関係を保っていた。
それが、前述したNCの拡大や地元商店街の崩壊などで、消滅した。
つまり、家と呉服屋の絆が断ち切られたのです。(他の商店も同じです)
みなさんとくに30台、40台若い方は自分の購買行動を振り返ってみてください。
あちこちのお店の店頭や、展示会を見て、品物と値段を見て回っているでしょう。
それで、購買に至るのはどんな時ですか?
私の知っている範囲では、Aの店で1つ、Bの店で1つ、そしてCの店で1つ・・・
それが、その店の信用を土台として決めているのなら、なんの問題も無いのです。
もし、それがたまたま行ったお店で、たまたま気に入った物が、たまたま買える値段で、たまたま懐具合が良かった・・・
だから、買った。
プロから見たら、飛んで火に入る夏の虫です。
私の場合は外販=訪問販売という非常に売り手にとって不利な立場の販売形態を取っています。
なぜ不利かというと、訪問販売にはクーリングオフなど、圧倒的に買い手に有利な法制度が敷かれているからです。
それが成り立つのは、基本的にはデパートの外商のお客様だからです。
しかし、それでも、お客様は、じっくりと私の事を観察されています。
もちろん、一番は外商さんとの信頼関係ですが、いかに外商さんが優秀でも、私が嫌われたり、信用されなかったりすれば、
商談は成り立ちません。
そして、基本的には私達はお客様に『ご無理を承知でお願いにあがっている』のです。
ですから、万が一にも信用を失墜することがあれば、とんでもない事態に発展してしまいます。
まさに板子一枚の上で、日々の商いを重ねさせて頂いているということです。
つまり、何が言いたいのかというと、『良い買い物がしたければ、信頼できる店と販売員を見つけなさい』と言うことです。
実際の販売においては、商品知識というのはあまり必要ありません。
商品知識や教養は呉服の商売に必要なのものですが、販売=売約決定の為にはさほど必要ない。
売るためには、ポイントを連呼すれば、それが一番効果的だからです。
私が、あれこれ蘊蓄を披露するのは、売るためじゃないのです。
みなさんに、情報を得て頂き、興味を持って頂くためなのです。
ほんとうに、商売に入ったら、私は沈黙します。(これ以降は企業秘密(^_^)v)
信用出来る店と人をどうやって知るかといえば、教えてもらうようなフリをしてあれこれと質問してみることです。
そして、その商品に対して、きちんと負の面も知っていて、教えてくれる人。
残念な事に、知識と販売力は正比例しません。
しかし、販売力とお客様の便益も正比例しない。知識・教養はお客様の便益となります。
情報の非対称性を解消し、逆選択の流れを阻止するためには、消費者の方々の協力無くしてはありません。
呉服屋に言ったら、自分の知識を離すことよりも、日頃疑問に思っている事をあちこちで話して聞き比べてみてください。
きちんと熱心に答えてくれたところが、信頼できる呉服店の候補でしょう。
消費者のみなさんの素敵なお買い物も、私達の仕事も、信用がすべての基礎。
そしてローマは1日にしてならず、です。
Posted by 渡辺幻門 at
00:13
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2011年06月12日
詐欺師よばわり
私達、呉服業者は、詐欺師呼ばわりをされるようになってしまいました。
詐欺師と言われなくても、『深くつきあえば着物を無理矢理買わされる恐ろしい存在』と思われています。
もちろん、私はそんな事はしませんし、そんな事をしないと食べていけないなら、さっさとこの業界から足を洗います。
しかし、呉服屋といえば、『ぼったくり』『押しつけ販売』の代名詞になってしまったのはどうしてなのでしょうか。
昔は、呉服店は上品なよい商売と思われていましたし、商売人の中でも別格の扱いをされていました。
『坊さんと呉服屋は玄関から』という位、冠婚葬祭に密接に関わる地域の要役だったのです。
それが、どうしてこのていたらくになったのでしょう。
大きな理由は二つだと思います。
一つは、生産が過剰になったこと。もう一つは粗利益が大きいこと。
昭和40年代が今までの歴史の中で一番たくさんの着物が売れた時期だと言われています。
それはちょうど、団塊の世代が成人し、結婚・出産をしはじめた時代です。
私達の父母の世代は、5人、6人の兄弟は当たり前で、その分の着物が売れたのです。
もちろん、娘の嫁入りには着物を買って道具として持たせる。
後押ししたのは高度経済成長です。
娘3人いれば身上が潰れると言われたのもこの時期です。
それに呼応して、昭和50年代から和装製品の大増産が始まりました。
段階の世代を末端として、その子供達にも嫁入り道具として着物が買われたし、バブル経済の到来もあり、
拡大した生産もなんとかマーケットの中で吸収できたのです。
それが、変わったのがバブル崩壊、現実には神戸の震災後くらいからだと思います。
神戸の震災以降、嫁入り需要がパタリと止まります。
子供を産む数も減り、ジミ婚、核家族化も拍車がかかりました。
しかし、和装製品の供給体制は以前のままです。
当然の事ながら、過剰供給、過少需要となるわけです。
そうなると当然、価格は下がる。
現実に、生産段階では価格が下がっていました。
しかし、ここが和装市場の特殊性です。
消費者には値段が見抜けない。
どんどん進む着物離れによって消費者は物の価値もわからなくなっていく。
そこに登場したのが、催事販売です。
豪華な催事で気分を高揚させ、今まで通りかそれより高い価格で購入を誘う手法が採られるようになります。
呉服販売というのはもともと小売店の粗利が大きい商売です。
しかし、そこにさらに拍車をかけたのが催事販売を得意とするいわゆるNC(National Chain)です。
粗利が大きいうまみのある商売であり、消費者は物も価格もわからず、商品は豊富にある。
ましてや、生産者や問屋は、売りたくてしょうがない。しかし、商品は委託ですべてまかなえる。
こんな『爪の長い』商売を悪い人達が見逃すはずがありません。
着物も知らない、着物に愛情もない、そんな人たちが多数、この業界に雪崩をうって入って来ました。
あるいは、既存の呉服店も欲に眼がくらんで、まっとうな商売からドロップアウトしていったのです。
流通の力関係は
生産者<<問屋<<<<<小売店となってしまいます。
消費者の方々は、私達プロ同士の商売の様子を見たことがないでしょうが、それはまぁ、すごい光景を眼にすることがあります。
そんな状態で平成に入ってからNC全盛期となります。
これが、また大量の規格品を生む事になります。
NCは催事販売だけでなく店頭やカタログでも販売します。
そうなると同じ商品が店舗の数だけ必要となるわけです。
その売れ残りがぐるぐると市場を回ることになります。
NCは自ら起こした過量販売によって消費者から糾弾され、売約決定の最大兵器であった信販という手段を奪われます。
これで、一気に販売量は減少することになったのです。
NCのしわ寄せを受けた街の呉服屋は、それまでのおっとりした商売を続けていられなくなり、同じような催事販売や、接待攻勢、
などの手法を取り入れます。
そしてそれが、さらに生産者に値下げ圧力を掛けることになり、粗造が拡大していく。
粗造されるのに、販売価格は下がらない。こんな事がいつまでも続くわけがありません。
公共事業など政府支出の縮小、リーマンショックによって、一気にその膿がでることになります。
それが既存の流通からはみ出た、ネット販売やリサイクル着物です。
リサイクルというのは本当の着用済みのものや、タンスの中の仕立てあがった未着用品もありますが、その多くは、流通の不良在庫をしたてあげて売っているのです。
ここまで来ると、小売店の頼みはマンパワーです。
個人の人間関係をフルに活用して、商品を売り込む。
見ず知らずの人から買うほどの信用力自体をこの業界は失ってしまっているのです。
私がどんなに沖縄染織に精通し、それに熱い愛情を持っていようとも、消費者はそれさえも、『売るための方便』と取る。
口うるさいオッサンよりも、知り合いのオバチャンや年寄りの女性店員の言葉を信じるのです。
しかし、いまの状況は、私達の業界が自ら招いた事です。
私達、いまこの業界で飯を食うものは、その事を真摯に反省し、後始末をしなければなりません。
そうでなければ、この業界は『正直者がバカを見る』最悪のものになってしまいますし、努力のしがいがありません。
現に、私自身、若い人が着物で生計を立てていく術を教えることができないし、努力の方向も指し示すことができません。
希望に燃えた若い人達がどんどん生産にも流通にも入ってくる、そんな姿を取り戻すためには、
私達、業界人の信用回復と正当な評価を受ける環境作りをしなくてはならないのです。
いまの状態では、優秀な人は決してこの業界に入って来ません。
最早手遅れ、という言葉も多く聞かれますが、私は最後までこの国の文化力というものを信じたい。
せめて、まともに仕事をする人が、仕事を続けていける、そんな事のお手伝いをしたい、そんな思いでいます。
詐欺師と言われなくても、『深くつきあえば着物を無理矢理買わされる恐ろしい存在』と思われています。
もちろん、私はそんな事はしませんし、そんな事をしないと食べていけないなら、さっさとこの業界から足を洗います。
しかし、呉服屋といえば、『ぼったくり』『押しつけ販売』の代名詞になってしまったのはどうしてなのでしょうか。
昔は、呉服店は上品なよい商売と思われていましたし、商売人の中でも別格の扱いをされていました。
『坊さんと呉服屋は玄関から』という位、冠婚葬祭に密接に関わる地域の要役だったのです。
それが、どうしてこのていたらくになったのでしょう。
大きな理由は二つだと思います。
一つは、生産が過剰になったこと。もう一つは粗利益が大きいこと。
昭和40年代が今までの歴史の中で一番たくさんの着物が売れた時期だと言われています。
それはちょうど、団塊の世代が成人し、結婚・出産をしはじめた時代です。
私達の父母の世代は、5人、6人の兄弟は当たり前で、その分の着物が売れたのです。
もちろん、娘の嫁入りには着物を買って道具として持たせる。
後押ししたのは高度経済成長です。
娘3人いれば身上が潰れると言われたのもこの時期です。
それに呼応して、昭和50年代から和装製品の大増産が始まりました。
段階の世代を末端として、その子供達にも嫁入り道具として着物が買われたし、バブル経済の到来もあり、
拡大した生産もなんとかマーケットの中で吸収できたのです。
それが、変わったのがバブル崩壊、現実には神戸の震災後くらいからだと思います。
神戸の震災以降、嫁入り需要がパタリと止まります。
子供を産む数も減り、ジミ婚、核家族化も拍車がかかりました。
しかし、和装製品の供給体制は以前のままです。
当然の事ながら、過剰供給、過少需要となるわけです。
そうなると当然、価格は下がる。
現実に、生産段階では価格が下がっていました。
しかし、ここが和装市場の特殊性です。
消費者には値段が見抜けない。
どんどん進む着物離れによって消費者は物の価値もわからなくなっていく。
そこに登場したのが、催事販売です。
豪華な催事で気分を高揚させ、今まで通りかそれより高い価格で購入を誘う手法が採られるようになります。
呉服販売というのはもともと小売店の粗利が大きい商売です。
しかし、そこにさらに拍車をかけたのが催事販売を得意とするいわゆるNC(National Chain)です。
粗利が大きいうまみのある商売であり、消費者は物も価格もわからず、商品は豊富にある。
ましてや、生産者や問屋は、売りたくてしょうがない。しかし、商品は委託ですべてまかなえる。
こんな『爪の長い』商売を悪い人達が見逃すはずがありません。
着物も知らない、着物に愛情もない、そんな人たちが多数、この業界に雪崩をうって入って来ました。
あるいは、既存の呉服店も欲に眼がくらんで、まっとうな商売からドロップアウトしていったのです。
流通の力関係は
生産者<<問屋<<<<<小売店となってしまいます。
消費者の方々は、私達プロ同士の商売の様子を見たことがないでしょうが、それはまぁ、すごい光景を眼にすることがあります。
そんな状態で平成に入ってからNC全盛期となります。
これが、また大量の規格品を生む事になります。
NCは催事販売だけでなく店頭やカタログでも販売します。
そうなると同じ商品が店舗の数だけ必要となるわけです。
その売れ残りがぐるぐると市場を回ることになります。
NCは自ら起こした過量販売によって消費者から糾弾され、売約決定の最大兵器であった信販という手段を奪われます。
これで、一気に販売量は減少することになったのです。
NCのしわ寄せを受けた街の呉服屋は、それまでのおっとりした商売を続けていられなくなり、同じような催事販売や、接待攻勢、
などの手法を取り入れます。
そしてそれが、さらに生産者に値下げ圧力を掛けることになり、粗造が拡大していく。
粗造されるのに、販売価格は下がらない。こんな事がいつまでも続くわけがありません。
公共事業など政府支出の縮小、リーマンショックによって、一気にその膿がでることになります。
それが既存の流通からはみ出た、ネット販売やリサイクル着物です。
リサイクルというのは本当の着用済みのものや、タンスの中の仕立てあがった未着用品もありますが、その多くは、流通の不良在庫をしたてあげて売っているのです。
ここまで来ると、小売店の頼みはマンパワーです。
個人の人間関係をフルに活用して、商品を売り込む。
見ず知らずの人から買うほどの信用力自体をこの業界は失ってしまっているのです。
私がどんなに沖縄染織に精通し、それに熱い愛情を持っていようとも、消費者はそれさえも、『売るための方便』と取る。
口うるさいオッサンよりも、知り合いのオバチャンや年寄りの女性店員の言葉を信じるのです。
しかし、いまの状況は、私達の業界が自ら招いた事です。
私達、いまこの業界で飯を食うものは、その事を真摯に反省し、後始末をしなければなりません。
そうでなければ、この業界は『正直者がバカを見る』最悪のものになってしまいますし、努力のしがいがありません。
現に、私自身、若い人が着物で生計を立てていく術を教えることができないし、努力の方向も指し示すことができません。
希望に燃えた若い人達がどんどん生産にも流通にも入ってくる、そんな姿を取り戻すためには、
私達、業界人の信用回復と正当な評価を受ける環境作りをしなくてはならないのです。
いまの状態では、優秀な人は決してこの業界に入って来ません。
最早手遅れ、という言葉も多く聞かれますが、私は最後までこの国の文化力というものを信じたい。
せめて、まともに仕事をする人が、仕事を続けていける、そんな事のお手伝いをしたい、そんな思いでいます。
Posted by 渡辺幻門 at
22:05
│Comments(3)
2011年06月12日
詐欺師よばわり
私達、呉服業者は、詐欺師呼ばわりをされるようになってしまいました。
詐欺師と言われなくても、『深くつきあえば着物を無理矢理買わされる恐ろしい存在』と思われています。
もちろん、私はそんな事はしませんし、そんな事をしないと食べていけないなら、さっさとこの業界から足を洗います。
しかし、呉服屋といえば、『ぼったくり』『押しつけ販売』の代名詞になってしまったのはどうしてなのでしょうか。
昔は、呉服店は上品なよい商売と思われていましたし、商売人の中でも別格の扱いをされていました。
『坊さんと呉服屋は玄関から』という位、冠婚葬祭に密接に関わる地域の要役だったのです。
それが、どうしてこのていたらくになったのでしょう。
大きな理由は二つだと思います。
一つは、生産が過剰になったこと。もう一つは粗利益が大きいこと。
昭和40年代が今までの歴史の中で一番たくさんの着物が売れた時期だと言われています。
それはちょうど、団塊の世代が成人し、結婚・出産をしはじめた時代です。
私達の父母の世代は、5人、6人の兄弟は当たり前で、その分の着物が売れたのです。
もちろん、娘の嫁入りには着物を買って道具として持たせる。
後押ししたのは高度経済成長です。
娘3人いれば身上が潰れると言われたのもこの時期です。
それに呼応して、昭和50年代から和装製品の大増産が始まりました。
段階の世代を末端として、その子供達にも嫁入り道具として着物が買われたし、バブル経済の到来もあり、
拡大した生産もなんとかマーケットの中で吸収できたのです。
それが、変わったのがバブル崩壊、現実には神戸の震災後くらいからだと思います。
神戸の震災以降、嫁入り需要がパタリと止まります。
子供を産む数も減り、ジミ婚、核家族化も拍車がかかりました。
しかし、和装製品の供給体制は以前のままです。
当然の事ながら、過剰供給、過少需要となるわけです。
そうなると当然、価格は下がる。
現実に、生産段階では価格が下がっていました。
しかし、ここが和装市場の特殊性です。
消費者には値段が見抜けない。
どんどん進む着物離れによって消費者は物の価値もわからなくなっていく。
そこに登場したのが、催事販売です。
豪華な催事で気分を高揚させ、今まで通りかそれより高い価格で購入を誘う手法が採られるようになります。
呉服販売というのはもともと小売店の粗利が大きい商売です。
しかし、そこにさらに拍車をかけたのが催事販売を得意とするいわゆるNC(National Chain)です。
粗利が大きいうまみのある商売であり、消費者は物も価格もわからず、商品は豊富にある。
ましてや、生産者や問屋は、売りたくてしょうがない。しかし、商品は委託ですべてまかなえる。
こんな『爪の長い』商売を悪い人達が見逃すはずがありません。
着物も知らない、着物に愛情もない、そんな人たちが多数、この業界に雪崩をうって入って来ました。
あるいは、既存の呉服店も欲に眼がくらんで、まっとうな商売からドロップアウトしていったのです。
流通の力関係は
生産者<<問屋<<<<<小売店となってしまいます。
消費者の方々は、私達プロ同士の商売の様子を見たことがないでしょうが、それはまぁ、すごい光景を眼にすることがあります。
そんな状態で平成に入ってからNC全盛期となります。
これが、また大量の規格品を生む事になります。
NCは催事販売だけでなく店頭やカタログでも販売します。
そうなると同じ商品が店舗の数だけ必要となるわけです。
その売れ残りがぐるぐると市場を回ることになります。
NCは自ら起こした過量販売によって消費者から糾弾され、売約決定の最大兵器であった信販という手段を奪われます。
これで、一気に販売量は減少することになったのです。
NCのしわ寄せを受けた街の呉服屋は、それまでのおっとりした商売を続けていられなくなり、同じような催事販売や、接待攻勢、
などの手法を取り入れます。
そしてそれが、さらに生産者に値下げ圧力を掛けることになり、粗造が拡大していく。
粗造されるのに、販売価格は下がらない。こんな事がいつまでも続くわけがありません。
公共事業など政府支出の縮小、リーマンショックによって、一気にその膿がでることになります。
それが既存の流通からはみ出た、ネット販売やリサイクル着物です。
リサイクルというのは本当の着用済みのものや、タンスの中の仕立てあがった未着用品もありますが、その多くは、流通の不良在庫をしたてあげて売っているのです。
ここまで来ると、小売店の頼みはマンパワーです。
個人の人間関係をフルに活用して、商品を売り込む。
見ず知らずの人から買うほどの信用力自体をこの業界は失ってしまっているのです。
私がどんなに沖縄染織に精通し、それに熱い愛情を持っていようとも、消費者はそれさえも、『売るための方便』と取る。
口うるさいオッサンよりも、知り合いのオバチャンや年寄りの女性店員の言葉を信じるのです。
しかし、いまの状況は、私達の業界が自ら招いた事です。
私達、いまこの業界で飯を食うものは、その事を真摯に反省し、後始末をしなければなりません。
そうでなければ、この業界は『正直者がバカを見る』最悪のものになってしまいますし、努力のしがいがありません。
現に、私自身、若い人が着物で生計を立てていく術を教えることができないし、努力の方向も指し示すことができません。
希望に燃えた若い人達がどんどん生産にも流通にも入ってくる、そんな姿を取り戻すためには、
私達、業界人の信用回復と正当な評価を受ける環境作りをしなくてはならないのです。
いまの状態では、優秀な人は決してこの業界に入って来ません。
最早手遅れ、という言葉も多く聞かれますが、私は最後までこの国の文化力というものを信じたい。
せめて、まともに仕事をする人が、仕事を続けていける、そんな事のお手伝いをしたい、そんな思いでいます。
詐欺師と言われなくても、『深くつきあえば着物を無理矢理買わされる恐ろしい存在』と思われています。
もちろん、私はそんな事はしませんし、そんな事をしないと食べていけないなら、さっさとこの業界から足を洗います。
しかし、呉服屋といえば、『ぼったくり』『押しつけ販売』の代名詞になってしまったのはどうしてなのでしょうか。
昔は、呉服店は上品なよい商売と思われていましたし、商売人の中でも別格の扱いをされていました。
『坊さんと呉服屋は玄関から』という位、冠婚葬祭に密接に関わる地域の要役だったのです。
それが、どうしてこのていたらくになったのでしょう。
大きな理由は二つだと思います。
一つは、生産が過剰になったこと。もう一つは粗利益が大きいこと。
昭和40年代が今までの歴史の中で一番たくさんの着物が売れた時期だと言われています。
それはちょうど、団塊の世代が成人し、結婚・出産をしはじめた時代です。
私達の父母の世代は、5人、6人の兄弟は当たり前で、その分の着物が売れたのです。
もちろん、娘の嫁入りには着物を買って道具として持たせる。
後押ししたのは高度経済成長です。
娘3人いれば身上が潰れると言われたのもこの時期です。
それに呼応して、昭和50年代から和装製品の大増産が始まりました。
段階の世代を末端として、その子供達にも嫁入り道具として着物が買われたし、バブル経済の到来もあり、
拡大した生産もなんとかマーケットの中で吸収できたのです。
それが、変わったのがバブル崩壊、現実には神戸の震災後くらいからだと思います。
神戸の震災以降、嫁入り需要がパタリと止まります。
子供を産む数も減り、ジミ婚、核家族化も拍車がかかりました。
しかし、和装製品の供給体制は以前のままです。
当然の事ながら、過剰供給、過少需要となるわけです。
そうなると当然、価格は下がる。
現実に、生産段階では価格が下がっていました。
しかし、ここが和装市場の特殊性です。
消費者には値段が見抜けない。
どんどん進む着物離れによって消費者は物の価値もわからなくなっていく。
そこに登場したのが、催事販売です。
豪華な催事で気分を高揚させ、今まで通りかそれより高い価格で購入を誘う手法が採られるようになります。
呉服販売というのはもともと小売店の粗利が大きい商売です。
しかし、そこにさらに拍車をかけたのが催事販売を得意とするいわゆるNC(National Chain)です。
粗利が大きいうまみのある商売であり、消費者は物も価格もわからず、商品は豊富にある。
ましてや、生産者や問屋は、売りたくてしょうがない。しかし、商品は委託ですべてまかなえる。
こんな『爪の長い』商売を悪い人達が見逃すはずがありません。
着物も知らない、着物に愛情もない、そんな人たちが多数、この業界に雪崩をうって入って来ました。
あるいは、既存の呉服店も欲に眼がくらんで、まっとうな商売からドロップアウトしていったのです。
流通の力関係は
生産者<<問屋<<<<<小売店となってしまいます。
消費者の方々は、私達プロ同士の商売の様子を見たことがないでしょうが、それはまぁ、すごい光景を眼にすることがあります。
そんな状態で平成に入ってからNC全盛期となります。
これが、また大量の規格品を生む事になります。
NCは催事販売だけでなく店頭やカタログでも販売します。
そうなると同じ商品が店舗の数だけ必要となるわけです。
その売れ残りがぐるぐると市場を回ることになります。
NCは自ら起こした過量販売によって消費者から糾弾され、売約決定の最大兵器であった信販という手段を奪われます。
これで、一気に販売量は減少することになったのです。
NCのしわ寄せを受けた街の呉服屋は、それまでのおっとりした商売を続けていられなくなり、同じような催事販売や、接待攻勢、
などの手法を取り入れます。
そしてそれが、さらに生産者に値下げ圧力を掛けることになり、粗造が拡大していく。
粗造されるのに、販売価格は下がらない。こんな事がいつまでも続くわけがありません。
公共事業など政府支出の縮小、リーマンショックによって、一気にその膿がでることになります。
それが既存の流通からはみ出た、ネット販売やリサイクル着物です。
リサイクルというのは本当の着用済みのものや、タンスの中の仕立てあがった未着用品もありますが、その多くは、流通の不良在庫をしたてあげて売っているのです。
ここまで来ると、小売店の頼みはマンパワーです。
個人の人間関係をフルに活用して、商品を売り込む。
見ず知らずの人から買うほどの信用力自体をこの業界は失ってしまっているのです。
私がどんなに沖縄染織に精通し、それに熱い愛情を持っていようとも、消費者はそれさえも、『売るための方便』と取る。
口うるさいオッサンよりも、知り合いのオバチャンや年寄りの女性店員の言葉を信じるのです。
しかし、いまの状況は、私達の業界が自ら招いた事です。
私達、いまこの業界で飯を食うものは、その事を真摯に反省し、後始末をしなければなりません。
そうでなければ、この業界は『正直者がバカを見る』最悪のものになってしまいますし、努力のしがいがありません。
現に、私自身、若い人が着物で生計を立てていく術を教えることができないし、努力の方向も指し示すことができません。
希望に燃えた若い人達がどんどん生産にも流通にも入ってくる、そんな姿を取り戻すためには、
私達、業界人の信用回復と正当な評価を受ける環境作りをしなくてはならないのです。
いまの状態では、優秀な人は決してこの業界に入って来ません。
最早手遅れ、という言葉も多く聞かれますが、私は最後までこの国の文化力というものを信じたい。
せめて、まともに仕事をする人が、仕事を続けていける、そんな事のお手伝いをしたい、そんな思いでいます。
Posted by 渡辺幻門 at
22:05
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2011年06月12日
もずやと学ぶ染織マーケティング<21回目>
7章 消費者行動の理解
7−1消費者対応の考え方
この章ではマーケティングの中の『消費者行動』というジャンルに入っていきます。ここが一番面白いかも知れません。
私の学んだ大学では文学部にも消費者行動の講座があって、当時、担当されていた井関利明先生の講義は欠かさずに聴講していました。というのは、この消費者行動というのは心理学の範疇にはいり、心理学は文学部の管轄だからです。
もし、マーケティングに興味を持ち、消費者行動をもっと深く学んでみたいと思うなら、心理学事典を購入されることをお薦めします。マーケティングの分析において心理学は欠かせない枠組みで、今後、いろんな事を考える上で必要になると思います。
さて、本題に移りましょう。
○ 『消費とは人々が製品・サービスを購入し、使用し、廃棄する全プロセスだ』
とテキストには書いてありますね。また、この章のNavigationにはこうあります。
『工場を出た段階での製品は、まだ半製品なのです』
=製品は、顧客の手に渡った段階で初めて完成品となる。
つまり、作家のみなさんが『消費者の手に渡る』事を意識しない限り、いくらマーケティングを学んでもなんにもならない、と言うことです。
○ マーケティングにおける最大の関心は『自社の製品・サービスを消費と結びつけること』にあるからである。
まさにそういう事です。
☆ マーケティング・コンセプトと販売コンセプト
マーケティング・コンセプト
『消費者を理解し、消費者に喜ばれる製品・サービスを作る事を第一とする』という発想を企業経営や事業運営の基本的な指針とするという考え。
販売コンセプト
『企業がつくりだした製品・サービス、あるいは企業が有している技術や能力をいかに売るか』というもの。
一般には、マーケティングといえば下の販売コンセプトだと思われているようですが、本当は違うのです。
私が染織家のひとたちに理解して欲しいことは、まさにこの『マーケティング・コンセプト』なのです。
みなさんが仮需=流通の中間需要しか意識していないうちは、なんの解決策も生まれないのです。
眼を向けるべき対象は消費者であり、みなさんが造った作品は、消費者に購入され、着用され、ひいては廃棄されるまで着つくされてこそ、完結するのです。
そこに性根を据えないから、問屋の言葉に右往左往し、粗造乱売を繰り返し、そのあげくには莫大な流通在庫を抱え、価格崩壊を招くような事態になるのです。
消費者を個で捉える、あるいはかたまりで捉える。
みなさんが思っているほど、問屋はかしこくありませんし、情報も持って居ません。そして、問屋も小売店もあなたの敵の味方なのです。
ですから、自分の事は自分で決めるのです。
☆ インプット-アウトプット分析とメカニズム分析
インプットーアウトプット分析
マーケティング・ミックスの変更、あるいは所得水準やライフスタイルの変化という刺激に対して、消費者の行動がどのように変化するかを捉える。
そのメカニズムは無視=ブラックボックス
メカニズム分析
刺激と反応との間をとりもつプロセスの作業を解明する。
○ 問題を特定し、解決へと導くにはメカニズムに関する知識が欠かせない。同様に、消費者とのインプットーアウトプット関係を改善したり、修復したり、新たに創造したりしようとする際にもメカニズム分析が必要となる。
つまり、インプットーアウトプット分析は、消費者行動をパターン化して捉え、メカニズム分析はそれが何故そうなったのかを分析し、一般化するという事です。
どちらも戦略的に有用なことですが、非定型的な消費者行動を理解するにはメカニズム分析が必要です。
とくに、染織の場合、マーケティングリサーチが難しいですから、消費者の心理の分析というのが非常に大切になってきます。
その心理を単純にしか捉えられないから、ただ単に安売りをしたり、雑誌に載せるだけ、商品に似つかわしくない業者に売りさばく、などの事が出てくるのです。
自分たちがどのような消費者を対象としているのかを、明確化し、その人達の心理をきめ細かく分析して、作品づくりはもちろん、流通などのマーケティングミックスを選択しなければなりません。
沖縄染織の場合、それなりの最終価格になるわけですから、消費者はそれなりの富裕層になるわけですから、決してマス=大衆市場を考えてはなりません。着物市場でかつ高額品市場、そしてカジュアル市場なのですから、本当に小さな小さなマーケットなのです。そしてこのマーケットはどんどん縮小している。
そんな市場に大量の規格品を投入すれば、市場からあふれかえるし、富裕層は見向きもしなくなることは自明だったのです。
富裕層は自分だけのもの、人が着ていないものをほしがるのです。
しかし、産地・組合は生産効率向上のために、デザインの規格化をしようとした。これがそもそもの間違いです。
デザインを無視して、機能で内地物に勝てるのは沖縄に置いては宮古上布だけしかありません。
だのになぜ、そんな暴挙をしたのか?
消費者をみないで、生産量を上げることしか考えなかった。そしてそれを助長したのは造れば取る問屋が居たことです。
ですから、もうここで気づかなければいけないのです。
誤解しないでください。『節を曲げてまで売れる物を造れ』と言っているのではありません。
あなたの作品を良いと思ってくれる消費者はどんな人で、その人に喜んでもらえる作品を作り続ける事、こそが大事なのです。
私が良くないと思っても、好きだという消費者はいます。その逆ももちろんあります。
自分の作品の良い所、悪いところを知り、作品を愛してくれる人はどんな人かを知り、その人を満足させる作品を世に送り続ける。そして、その輪をどんどん広げていけばいいのです。
あなたが良いと思って造った作品は、かならず他にも良いと思ってくれる人が居るはずです。だから、自分で良いと思う物を手を抜かないで作る事です。そして、そこに『消費者の笑顔と満足』を思い浮かべるという作業を付け加える事です。
こCS(=Customer Satisfaction)の概念を常に忘れないで、あなたの作品を愛してくれる消費者を決して裏切らない。
それは品質・デザインはもちろん、流通にも責任を持って、へんなお店で売られたり、不当に安く売られないようにするべきです。
それも、すべてマーケティングなのです。
7−1消費者対応の考え方
この章ではマーケティングの中の『消費者行動』というジャンルに入っていきます。ここが一番面白いかも知れません。
私の学んだ大学では文学部にも消費者行動の講座があって、当時、担当されていた井関利明先生の講義は欠かさずに聴講していました。というのは、この消費者行動というのは心理学の範疇にはいり、心理学は文学部の管轄だからです。
もし、マーケティングに興味を持ち、消費者行動をもっと深く学んでみたいと思うなら、心理学事典を購入されることをお薦めします。マーケティングの分析において心理学は欠かせない枠組みで、今後、いろんな事を考える上で必要になると思います。
さて、本題に移りましょう。
○ 『消費とは人々が製品・サービスを購入し、使用し、廃棄する全プロセスだ』
とテキストには書いてありますね。また、この章のNavigationにはこうあります。
『工場を出た段階での製品は、まだ半製品なのです』
=製品は、顧客の手に渡った段階で初めて完成品となる。
つまり、作家のみなさんが『消費者の手に渡る』事を意識しない限り、いくらマーケティングを学んでもなんにもならない、と言うことです。
○ マーケティングにおける最大の関心は『自社の製品・サービスを消費と結びつけること』にあるからである。
まさにそういう事です。
☆ マーケティング・コンセプトと販売コンセプト
マーケティング・コンセプト
『消費者を理解し、消費者に喜ばれる製品・サービスを作る事を第一とする』という発想を企業経営や事業運営の基本的な指針とするという考え。
販売コンセプト
『企業がつくりだした製品・サービス、あるいは企業が有している技術や能力をいかに売るか』というもの。
一般には、マーケティングといえば下の販売コンセプトだと思われているようですが、本当は違うのです。
私が染織家のひとたちに理解して欲しいことは、まさにこの『マーケティング・コンセプト』なのです。
みなさんが仮需=流通の中間需要しか意識していないうちは、なんの解決策も生まれないのです。
眼を向けるべき対象は消費者であり、みなさんが造った作品は、消費者に購入され、着用され、ひいては廃棄されるまで着つくされてこそ、完結するのです。
そこに性根を据えないから、問屋の言葉に右往左往し、粗造乱売を繰り返し、そのあげくには莫大な流通在庫を抱え、価格崩壊を招くような事態になるのです。
消費者を個で捉える、あるいはかたまりで捉える。
みなさんが思っているほど、問屋はかしこくありませんし、情報も持って居ません。そして、問屋も小売店もあなたの敵の味方なのです。
ですから、自分の事は自分で決めるのです。
☆ インプット-アウトプット分析とメカニズム分析
インプットーアウトプット分析
マーケティング・ミックスの変更、あるいは所得水準やライフスタイルの変化という刺激に対して、消費者の行動がどのように変化するかを捉える。
そのメカニズムは無視=ブラックボックス
メカニズム分析
刺激と反応との間をとりもつプロセスの作業を解明する。
○ 問題を特定し、解決へと導くにはメカニズムに関する知識が欠かせない。同様に、消費者とのインプットーアウトプット関係を改善したり、修復したり、新たに創造したりしようとする際にもメカニズム分析が必要となる。
つまり、インプットーアウトプット分析は、消費者行動をパターン化して捉え、メカニズム分析はそれが何故そうなったのかを分析し、一般化するという事です。
どちらも戦略的に有用なことですが、非定型的な消費者行動を理解するにはメカニズム分析が必要です。
とくに、染織の場合、マーケティングリサーチが難しいですから、消費者の心理の分析というのが非常に大切になってきます。
その心理を単純にしか捉えられないから、ただ単に安売りをしたり、雑誌に載せるだけ、商品に似つかわしくない業者に売りさばく、などの事が出てくるのです。
自分たちがどのような消費者を対象としているのかを、明確化し、その人達の心理をきめ細かく分析して、作品づくりはもちろん、流通などのマーケティングミックスを選択しなければなりません。
沖縄染織の場合、それなりの最終価格になるわけですから、消費者はそれなりの富裕層になるわけですから、決してマス=大衆市場を考えてはなりません。着物市場でかつ高額品市場、そしてカジュアル市場なのですから、本当に小さな小さなマーケットなのです。そしてこのマーケットはどんどん縮小している。
そんな市場に大量の規格品を投入すれば、市場からあふれかえるし、富裕層は見向きもしなくなることは自明だったのです。
富裕層は自分だけのもの、人が着ていないものをほしがるのです。
しかし、産地・組合は生産効率向上のために、デザインの規格化をしようとした。これがそもそもの間違いです。
デザインを無視して、機能で内地物に勝てるのは沖縄に置いては宮古上布だけしかありません。
だのになぜ、そんな暴挙をしたのか?
消費者をみないで、生産量を上げることしか考えなかった。そしてそれを助長したのは造れば取る問屋が居たことです。
ですから、もうここで気づかなければいけないのです。
誤解しないでください。『節を曲げてまで売れる物を造れ』と言っているのではありません。
あなたの作品を良いと思ってくれる消費者はどんな人で、その人に喜んでもらえる作品を作り続ける事、こそが大事なのです。
私が良くないと思っても、好きだという消費者はいます。その逆ももちろんあります。
自分の作品の良い所、悪いところを知り、作品を愛してくれる人はどんな人かを知り、その人を満足させる作品を世に送り続ける。そして、その輪をどんどん広げていけばいいのです。
あなたが良いと思って造った作品は、かならず他にも良いと思ってくれる人が居るはずです。だから、自分で良いと思う物を手を抜かないで作る事です。そして、そこに『消費者の笑顔と満足』を思い浮かべるという作業を付け加える事です。
こCS(=Customer Satisfaction)の概念を常に忘れないで、あなたの作品を愛してくれる消費者を決して裏切らない。
それは品質・デザインはもちろん、流通にも責任を持って、へんなお店で売られたり、不当に安く売られないようにするべきです。
それも、すべてマーケティングなのです。
2011年06月12日
もずやと学ぶ染織マーケティング<21回目>
7章 消費者行動の理解
7−1消費者対応の考え方
この章ではマーケティングの中の『消費者行動』というジャンルに入っていきます。ここが一番面白いかも知れません。
私の学んだ大学では文学部にも消費者行動の講座があって、当時、担当されていた井関利明先生の講義は欠かさずに聴講していました。というのは、この消費者行動というのは心理学の範疇にはいり、心理学は文学部の管轄だからです。
もし、マーケティングに興味を持ち、消費者行動をもっと深く学んでみたいと思うなら、心理学事典を購入されることをお薦めします。マーケティングの分析において心理学は欠かせない枠組みで、今後、いろんな事を考える上で必要になると思います。
さて、本題に移りましょう。
○ 『消費とは人々が製品・サービスを購入し、使用し、廃棄する全プロセスだ』
とテキストには書いてありますね。また、この章のNavigationにはこうあります。
『工場を出た段階での製品は、まだ半製品なのです』
=製品は、顧客の手に渡った段階で初めて完成品となる。
つまり、作家のみなさんが『消費者の手に渡る』事を意識しない限り、いくらマーケティングを学んでもなんにもならない、と言うことです。
○ マーケティングにおける最大の関心は『自社の製品・サービスを消費と結びつけること』にあるからである。
まさにそういう事です。
☆ マーケティング・コンセプトと販売コンセプト
マーケティング・コンセプト
『消費者を理解し、消費者に喜ばれる製品・サービスを作る事を第一とする』という発想を企業経営や事業運営の基本的な指針とするという考え。
販売コンセプト
『企業がつくりだした製品・サービス、あるいは企業が有している技術や能力をいかに売るか』というもの。
一般には、マーケティングといえば下の販売コンセプトだと思われているようですが、本当は違うのです。
私が染織家のひとたちに理解して欲しいことは、まさにこの『マーケティング・コンセプト』なのです。
みなさんが仮需=流通の中間需要しか意識していないうちは、なんの解決策も生まれないのです。
眼を向けるべき対象は消費者であり、みなさんが造った作品は、消費者に購入され、着用され、ひいては廃棄されるまで着つくされてこそ、完結するのです。
そこに性根を据えないから、問屋の言葉に右往左往し、粗造乱売を繰り返し、そのあげくには莫大な流通在庫を抱え、価格崩壊を招くような事態になるのです。
消費者を個で捉える、あるいはかたまりで捉える。
みなさんが思っているほど、問屋はかしこくありませんし、情報も持って居ません。そして、問屋も小売店もあなたの敵の味方なのです。
ですから、自分の事は自分で決めるのです。
☆ インプット-アウトプット分析とメカニズム分析
インプットーアウトプット分析
マーケティング・ミックスの変更、あるいは所得水準やライフスタイルの変化という刺激に対して、消費者の行動がどのように変化するかを捉える。
そのメカニズムは無視=ブラックボックス
メカニズム分析
刺激と反応との間をとりもつプロセスの作業を解明する。
○ 問題を特定し、解決へと導くにはメカニズムに関する知識が欠かせない。同様に、消費者とのインプットーアウトプット関係を改善したり、修復したり、新たに創造したりしようとする際にもメカニズム分析が必要となる。
つまり、インプットーアウトプット分析は、消費者行動をパターン化して捉え、メカニズム分析はそれが何故そうなったのかを分析し、一般化するという事です。
どちらも戦略的に有用なことですが、非定型的な消費者行動を理解するにはメカニズム分析が必要です。
とくに、染織の場合、マーケティングリサーチが難しいですから、消費者の心理の分析というのが非常に大切になってきます。
その心理を単純にしか捉えられないから、ただ単に安売りをしたり、雑誌に載せるだけ、商品に似つかわしくない業者に売りさばく、などの事が出てくるのです。
自分たちがどのような消費者を対象としているのかを、明確化し、その人達の心理をきめ細かく分析して、作品づくりはもちろん、流通などのマーケティングミックスを選択しなければなりません。
沖縄染織の場合、それなりの最終価格になるわけですから、消費者はそれなりの富裕層になるわけですから、決してマス=大衆市場を考えてはなりません。着物市場でかつ高額品市場、そしてカジュアル市場なのですから、本当に小さな小さなマーケットなのです。そしてこのマーケットはどんどん縮小している。
そんな市場に大量の規格品を投入すれば、市場からあふれかえるし、富裕層は見向きもしなくなることは自明だったのです。
富裕層は自分だけのもの、人が着ていないものをほしがるのです。
しかし、産地・組合は生産効率向上のために、デザインの規格化をしようとした。これがそもそもの間違いです。
デザインを無視して、機能で内地物に勝てるのは沖縄に置いては宮古上布だけしかありません。
だのになぜ、そんな暴挙をしたのか?
消費者をみないで、生産量を上げることしか考えなかった。そしてそれを助長したのは造れば取る問屋が居たことです。
ですから、もうここで気づかなければいけないのです。
誤解しないでください。『節を曲げてまで売れる物を造れ』と言っているのではありません。
あなたの作品を良いと思ってくれる消費者はどんな人で、その人に喜んでもらえる作品を作り続ける事、こそが大事なのです。
私が良くないと思っても、好きだという消費者はいます。その逆ももちろんあります。
自分の作品の良い所、悪いところを知り、作品を愛してくれる人はどんな人かを知り、その人を満足させる作品を世に送り続ける。そして、その輪をどんどん広げていけばいいのです。
あなたが良いと思って造った作品は、かならず他にも良いと思ってくれる人が居るはずです。だから、自分で良いと思う物を手を抜かないで作る事です。そして、そこに『消費者の笑顔と満足』を思い浮かべるという作業を付け加える事です。
こCS(=Customer Satisfaction)の概念を常に忘れないで、あなたの作品を愛してくれる消費者を決して裏切らない。
それは品質・デザインはもちろん、流通にも責任を持って、へんなお店で売られたり、不当に安く売られないようにするべきです。
それも、すべてマーケティングなのです。
7−1消費者対応の考え方
この章ではマーケティングの中の『消費者行動』というジャンルに入っていきます。ここが一番面白いかも知れません。
私の学んだ大学では文学部にも消費者行動の講座があって、当時、担当されていた井関利明先生の講義は欠かさずに聴講していました。というのは、この消費者行動というのは心理学の範疇にはいり、心理学は文学部の管轄だからです。
もし、マーケティングに興味を持ち、消費者行動をもっと深く学んでみたいと思うなら、心理学事典を購入されることをお薦めします。マーケティングの分析において心理学は欠かせない枠組みで、今後、いろんな事を考える上で必要になると思います。
さて、本題に移りましょう。
○ 『消費とは人々が製品・サービスを購入し、使用し、廃棄する全プロセスだ』
とテキストには書いてありますね。また、この章のNavigationにはこうあります。
『工場を出た段階での製品は、まだ半製品なのです』
=製品は、顧客の手に渡った段階で初めて完成品となる。
つまり、作家のみなさんが『消費者の手に渡る』事を意識しない限り、いくらマーケティングを学んでもなんにもならない、と言うことです。
○ マーケティングにおける最大の関心は『自社の製品・サービスを消費と結びつけること』にあるからである。
まさにそういう事です。
☆ マーケティング・コンセプトと販売コンセプト
マーケティング・コンセプト
『消費者を理解し、消費者に喜ばれる製品・サービスを作る事を第一とする』という発想を企業経営や事業運営の基本的な指針とするという考え。
販売コンセプト
『企業がつくりだした製品・サービス、あるいは企業が有している技術や能力をいかに売るか』というもの。
一般には、マーケティングといえば下の販売コンセプトだと思われているようですが、本当は違うのです。
私が染織家のひとたちに理解して欲しいことは、まさにこの『マーケティング・コンセプト』なのです。
みなさんが仮需=流通の中間需要しか意識していないうちは、なんの解決策も生まれないのです。
眼を向けるべき対象は消費者であり、みなさんが造った作品は、消費者に購入され、着用され、ひいては廃棄されるまで着つくされてこそ、完結するのです。
そこに性根を据えないから、問屋の言葉に右往左往し、粗造乱売を繰り返し、そのあげくには莫大な流通在庫を抱え、価格崩壊を招くような事態になるのです。
消費者を個で捉える、あるいはかたまりで捉える。
みなさんが思っているほど、問屋はかしこくありませんし、情報も持って居ません。そして、問屋も小売店もあなたの敵の味方なのです。
ですから、自分の事は自分で決めるのです。
☆ インプット-アウトプット分析とメカニズム分析
インプットーアウトプット分析
マーケティング・ミックスの変更、あるいは所得水準やライフスタイルの変化という刺激に対して、消費者の行動がどのように変化するかを捉える。
そのメカニズムは無視=ブラックボックス
メカニズム分析
刺激と反応との間をとりもつプロセスの作業を解明する。
○ 問題を特定し、解決へと導くにはメカニズムに関する知識が欠かせない。同様に、消費者とのインプットーアウトプット関係を改善したり、修復したり、新たに創造したりしようとする際にもメカニズム分析が必要となる。
つまり、インプットーアウトプット分析は、消費者行動をパターン化して捉え、メカニズム分析はそれが何故そうなったのかを分析し、一般化するという事です。
どちらも戦略的に有用なことですが、非定型的な消費者行動を理解するにはメカニズム分析が必要です。
とくに、染織の場合、マーケティングリサーチが難しいですから、消費者の心理の分析というのが非常に大切になってきます。
その心理を単純にしか捉えられないから、ただ単に安売りをしたり、雑誌に載せるだけ、商品に似つかわしくない業者に売りさばく、などの事が出てくるのです。
自分たちがどのような消費者を対象としているのかを、明確化し、その人達の心理をきめ細かく分析して、作品づくりはもちろん、流通などのマーケティングミックスを選択しなければなりません。
沖縄染織の場合、それなりの最終価格になるわけですから、消費者はそれなりの富裕層になるわけですから、決してマス=大衆市場を考えてはなりません。着物市場でかつ高額品市場、そしてカジュアル市場なのですから、本当に小さな小さなマーケットなのです。そしてこのマーケットはどんどん縮小している。
そんな市場に大量の規格品を投入すれば、市場からあふれかえるし、富裕層は見向きもしなくなることは自明だったのです。
富裕層は自分だけのもの、人が着ていないものをほしがるのです。
しかし、産地・組合は生産効率向上のために、デザインの規格化をしようとした。これがそもそもの間違いです。
デザインを無視して、機能で内地物に勝てるのは沖縄に置いては宮古上布だけしかありません。
だのになぜ、そんな暴挙をしたのか?
消費者をみないで、生産量を上げることしか考えなかった。そしてそれを助長したのは造れば取る問屋が居たことです。
ですから、もうここで気づかなければいけないのです。
誤解しないでください。『節を曲げてまで売れる物を造れ』と言っているのではありません。
あなたの作品を良いと思ってくれる消費者はどんな人で、その人に喜んでもらえる作品を作り続ける事、こそが大事なのです。
私が良くないと思っても、好きだという消費者はいます。その逆ももちろんあります。
自分の作品の良い所、悪いところを知り、作品を愛してくれる人はどんな人かを知り、その人を満足させる作品を世に送り続ける。そして、その輪をどんどん広げていけばいいのです。
あなたが良いと思って造った作品は、かならず他にも良いと思ってくれる人が居るはずです。だから、自分で良いと思う物を手を抜かないで作る事です。そして、そこに『消費者の笑顔と満足』を思い浮かべるという作業を付け加える事です。
こCS(=Customer Satisfaction)の概念を常に忘れないで、あなたの作品を愛してくれる消費者を決して裏切らない。
それは品質・デザインはもちろん、流通にも責任を持って、へんなお店で売られたり、不当に安く売られないようにするべきです。
それも、すべてマーケティングなのです。
Posted by 渡辺幻門 at
20:42
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2011年06月08日
もずやと学ぶ染織マーケティング<20回目>
6−3 事業を定義し、成長への指針を描く
ここではスカンジナビア航空やゼロックスの実例が書いてありますね。
マーケティングを通して学んで欲しいのは、世間にある何気ない事柄からその奥にある企業や人間の戦略・思惑を読み解くという事です。
前に書いた様に、マーケティングを考える上では、たくさんの解決方法を持っている方が有利です。引き出しが多く、またその引き出しに処方箋がたくさん詰まっている方が勝負に勝てる可能性が高い。その処方箋がどこにあるかといえば、本に書いてあるわけでも、誰かが教えてくれる訳でもありません。そのタネは世間に転がっているのです。それを見過ごしているだけです。たとえば、自分のライバルとなる作家がどういう作風なのかを分析してみる。売れている人は何故売れているのか考えてみる。あんなのダメだ、とか運が良いから売れているんだ、とか思っていたらいつまでたっても進歩はありません。結果にはそれなりの必然性があるのです。数々の選択肢から自分がどれを選択するか、それだけのことなのです。ですから、街を歩くとき、市場を歩くとき、売れている店と売れてない店。売れている店でも、売れる人と売れない人。売れる商品と売れない商品。どこがどうちがうのか、じぶんなりに結論を見つけてみる。逆に、売れない店、人、商品がどこをどう改善したら売れる様になるのかを考えて見る。それが何よりの訓練になります。そして、私達、商売人は日常的にそれをやっています。商売人というのは商売をする人の事ではなくて、商売を人生としているひとの事を言います。政治家なら政治を、教育者なら教育をつねに考えている様に、商売人はどうしたら売れるのか、どうしたら儲かるのかを考えている。おなじようにものづくりをする皆さんは、どうしたらよいもの=消費者が喜んでくれるものを作れるのかを常に考えていなければプロとは言えません。
今日は事業の定義から派生して、『誰に売るのか』という事について考えて見ましょう。教科書の中の2つの事例で中心になっているのも『顧客を誰に設定するのか』という事です。
私が書いたのを読む前に、ちょっと自分で考えてみてください。・・・・・
問屋?・・・・ブーです。
染織家の顧客は消費者、つまり着る人、身につける人だと考えなければなりません。問屋や小売店は、そこへ持って行ってくれるパイプだと考えるべきです。貯水池に水があっても、田んぼに届ける水路がなければ田植えはできません。でも、水路に入れるのが目的ではない。あくまで田んぼに水を入れ、苗に水をやるために水があり、水路を引くのです。
では、消費者ってどんな人?
イメージ湧きますか?
あなたがつくった着物や帯を着けた人、見たことありますか?
それはどんな人ですか?
まず、あなたたちが造っている着物ってどんな着物?
着物ってどんな種類があるか解っていますか?
そんな事さえ知らないで、成り立っていたというのが奇跡なのです。
そこまで言わなくても、って?
いいえ、致命的な事なのです。
陶器を例に考えて見ましょう。
その陶器が飯茶碗に使われるのか、湯飲みに使われるのかで作り手は認識が違って当たり前なのです。
なぜか?
飯茶碗は手に持って箸でご飯を口に運びますが、湯飲みは口を直接つけるからです。
つまり、飯茶碗と湯飲みでは必要とされる品質がビミョウに違うと言うことです。
あなたの造っている着物はどんな時に着れられているの?
着物には『格』というものがあります。
第一礼装という最高の格を持った着物は既婚女性なら黒留袖・喪服、未婚女性なら振袖・訪問着です。その他、色留袖、付下、色無地は準礼装・略礼装ということになりますが、家紋の入れ方によって変わります。それぞれがどんな形状をしているかは、本やネットで調べて勉強してください。
じゃ、みなさんが造っている着物はどこに分類されますか?
基本的に上記の礼装類には属しません。紅型ならたいていの場合、小紋という街着・おしゃれ着に分類されますし、織物はさらに下の普段着の分類となります。ちなみにこれはあくまでも和装における分類です。
つまり、和装というくくりの中で着る上では、沖縄の着物は一部の例外を除いて結婚式には着られないと言うことです。
一部の例外というのは、紅型の中にも絵羽模様と言って縫い目のところで柄が切れずに連続しているものがありますね。これは振袖としていままでも着用されていますし、中には訪問着と同じ柄着けのモノがありますので、これは全く区別無く礼装として着用できます。しかし、どんなに柄が連続していても織物は結婚式には不向きです。また、どんなに高価なものでも格とは関係がありません。
宮古上布や芭蕉布がどんなに高価でも、結婚式には着れない。これが和装の『しきたり』です。久米島では久米島紬を結婚式で着ると聞いた事がありますが、それは日本全体からみれば特殊な事なのです。
ですから、みなさんは基本的に晴れやかな場所では着られない着物を造っていると思わないといけない、と言うことです。
これは着物そのものの優劣とは全く関係がありません。たとえプリントの着物であっても、それが留め袖や訪問着の形をしていれば、礼装として着用されるのです。ですから、沖縄のものでどうしても礼装に適うモノをつくりたければ、紅型で留め袖や訪問着をつくればいいわけです。でも、それは現実のは非常に少ない。
沖縄の着物を着る場というのはせいぜいパーティー、軽いお茶席、観劇、お出かけなどなどです。
反対に考えれば、その気になればいつでも着られる着物であると言うことですね。
つまり、着る機会を日常的、定期的に持って居る人、着物が好きな人、そして大事なことは着物を自分で着られる人だということです。
私は基本的には、自分で着物を着られない人にはお勧めしない事にしています。
若い女性ならお母さんやおばあちゃんに着せてもらうというのもあるかと思いますが、本当に着物が好きなら、自分で着られるようになりたいと思うのが人情だと思います。
ですから、みなさんの造る着物をきてくれる消費者というのは着物を自分で着られて、着る機会をそれなりにお持ちの方だということです。そして、価値観こそ多様でも、基本的には好きで着物を着ている、ということです。
晴れ着をホテルに持って行って、着付けをしてもらうしか着る機会を持たないと言う人と、自分で自分の家で着て、街を歩く人と、当然ながら、趣向が違います。
どういえばわかりやすいですかねぇ・・・
お祝いしようというときに、我が家で手料理でもてなそうという人と、料理屋でおいしいモノを食べようという人が居ます。どちらがどうという事は別にして、同じお祝い、同じ料理でも、全く意味が違うと言うことです。
晴れ着はお祝いが終われば、さっさと脱ぎ捨てられてしまう。しかし、普段の着物はいつまでも着られる。なぜか?普段のきものは着て心地よいものだからです。
でも、普段着だといっても、TシャツやGパンとは違うのです。そこが、大和のそして沖縄の服飾文化のすごいところです。普段でも素晴らしい文様が色とりどりに書かれた染めものや、趣向を凝らした織物が着られていた。こんなところは世界中探してもないと思います。それが民衆レベルにまでひろがっていたのですから驚異的です。
そして、この着物の文化というのはその延長線上にあるのです。
ですから、本当の意味で消費者に受け入れられるモノをつくるには、どんな消費者か、を知らねばならないわけで、みなさんが相手にしている人達は、高価な着物を普段に着るだけの財力と鑑識眼がある人だと考えるべきだと言うことです。
ちょっと前までの事はただのブームでした。
真価が問われるのは、これからですし、ブームが終わった後の愛好者が本当の沖縄染織ファンだと言うことを忘れないで欲しいと思いますね。
みなさんは、その人達の期待に応える素晴らしい作品を世に送り出す責任があるのです。
ここではスカンジナビア航空やゼロックスの実例が書いてありますね。
マーケティングを通して学んで欲しいのは、世間にある何気ない事柄からその奥にある企業や人間の戦略・思惑を読み解くという事です。
前に書いた様に、マーケティングを考える上では、たくさんの解決方法を持っている方が有利です。引き出しが多く、またその引き出しに処方箋がたくさん詰まっている方が勝負に勝てる可能性が高い。その処方箋がどこにあるかといえば、本に書いてあるわけでも、誰かが教えてくれる訳でもありません。そのタネは世間に転がっているのです。それを見過ごしているだけです。たとえば、自分のライバルとなる作家がどういう作風なのかを分析してみる。売れている人は何故売れているのか考えてみる。あんなのダメだ、とか運が良いから売れているんだ、とか思っていたらいつまでたっても進歩はありません。結果にはそれなりの必然性があるのです。数々の選択肢から自分がどれを選択するか、それだけのことなのです。ですから、街を歩くとき、市場を歩くとき、売れている店と売れてない店。売れている店でも、売れる人と売れない人。売れる商品と売れない商品。どこがどうちがうのか、じぶんなりに結論を見つけてみる。逆に、売れない店、人、商品がどこをどう改善したら売れる様になるのかを考えて見る。それが何よりの訓練になります。そして、私達、商売人は日常的にそれをやっています。商売人というのは商売をする人の事ではなくて、商売を人生としているひとの事を言います。政治家なら政治を、教育者なら教育をつねに考えている様に、商売人はどうしたら売れるのか、どうしたら儲かるのかを考えている。おなじようにものづくりをする皆さんは、どうしたらよいもの=消費者が喜んでくれるものを作れるのかを常に考えていなければプロとは言えません。
今日は事業の定義から派生して、『誰に売るのか』という事について考えて見ましょう。教科書の中の2つの事例で中心になっているのも『顧客を誰に設定するのか』という事です。
私が書いたのを読む前に、ちょっと自分で考えてみてください。・・・・・
問屋?・・・・ブーです。
染織家の顧客は消費者、つまり着る人、身につける人だと考えなければなりません。問屋や小売店は、そこへ持って行ってくれるパイプだと考えるべきです。貯水池に水があっても、田んぼに届ける水路がなければ田植えはできません。でも、水路に入れるのが目的ではない。あくまで田んぼに水を入れ、苗に水をやるために水があり、水路を引くのです。
では、消費者ってどんな人?
イメージ湧きますか?
あなたがつくった着物や帯を着けた人、見たことありますか?
それはどんな人ですか?
まず、あなたたちが造っている着物ってどんな着物?
着物ってどんな種類があるか解っていますか?
そんな事さえ知らないで、成り立っていたというのが奇跡なのです。
そこまで言わなくても、って?
いいえ、致命的な事なのです。
陶器を例に考えて見ましょう。
その陶器が飯茶碗に使われるのか、湯飲みに使われるのかで作り手は認識が違って当たり前なのです。
なぜか?
飯茶碗は手に持って箸でご飯を口に運びますが、湯飲みは口を直接つけるからです。
つまり、飯茶碗と湯飲みでは必要とされる品質がビミョウに違うと言うことです。
あなたの造っている着物はどんな時に着れられているの?
着物には『格』というものがあります。
第一礼装という最高の格を持った着物は既婚女性なら黒留袖・喪服、未婚女性なら振袖・訪問着です。その他、色留袖、付下、色無地は準礼装・略礼装ということになりますが、家紋の入れ方によって変わります。それぞれがどんな形状をしているかは、本やネットで調べて勉強してください。
じゃ、みなさんが造っている着物はどこに分類されますか?
基本的に上記の礼装類には属しません。紅型ならたいていの場合、小紋という街着・おしゃれ着に分類されますし、織物はさらに下の普段着の分類となります。ちなみにこれはあくまでも和装における分類です。
つまり、和装というくくりの中で着る上では、沖縄の着物は一部の例外を除いて結婚式には着られないと言うことです。
一部の例外というのは、紅型の中にも絵羽模様と言って縫い目のところで柄が切れずに連続しているものがありますね。これは振袖としていままでも着用されていますし、中には訪問着と同じ柄着けのモノがありますので、これは全く区別無く礼装として着用できます。しかし、どんなに柄が連続していても織物は結婚式には不向きです。また、どんなに高価なものでも格とは関係がありません。
宮古上布や芭蕉布がどんなに高価でも、結婚式には着れない。これが和装の『しきたり』です。久米島では久米島紬を結婚式で着ると聞いた事がありますが、それは日本全体からみれば特殊な事なのです。
ですから、みなさんは基本的に晴れやかな場所では着られない着物を造っていると思わないといけない、と言うことです。
これは着物そのものの優劣とは全く関係がありません。たとえプリントの着物であっても、それが留め袖や訪問着の形をしていれば、礼装として着用されるのです。ですから、沖縄のものでどうしても礼装に適うモノをつくりたければ、紅型で留め袖や訪問着をつくればいいわけです。でも、それは現実のは非常に少ない。
沖縄の着物を着る場というのはせいぜいパーティー、軽いお茶席、観劇、お出かけなどなどです。
反対に考えれば、その気になればいつでも着られる着物であると言うことですね。
つまり、着る機会を日常的、定期的に持って居る人、着物が好きな人、そして大事なことは着物を自分で着られる人だということです。
私は基本的には、自分で着物を着られない人にはお勧めしない事にしています。
若い女性ならお母さんやおばあちゃんに着せてもらうというのもあるかと思いますが、本当に着物が好きなら、自分で着られるようになりたいと思うのが人情だと思います。
ですから、みなさんの造る着物をきてくれる消費者というのは着物を自分で着られて、着る機会をそれなりにお持ちの方だということです。そして、価値観こそ多様でも、基本的には好きで着物を着ている、ということです。
晴れ着をホテルに持って行って、着付けをしてもらうしか着る機会を持たないと言う人と、自分で自分の家で着て、街を歩く人と、当然ながら、趣向が違います。
どういえばわかりやすいですかねぇ・・・
お祝いしようというときに、我が家で手料理でもてなそうという人と、料理屋でおいしいモノを食べようという人が居ます。どちらがどうという事は別にして、同じお祝い、同じ料理でも、全く意味が違うと言うことです。
晴れ着はお祝いが終われば、さっさと脱ぎ捨てられてしまう。しかし、普段の着物はいつまでも着られる。なぜか?普段のきものは着て心地よいものだからです。
でも、普段着だといっても、TシャツやGパンとは違うのです。そこが、大和のそして沖縄の服飾文化のすごいところです。普段でも素晴らしい文様が色とりどりに書かれた染めものや、趣向を凝らした織物が着られていた。こんなところは世界中探してもないと思います。それが民衆レベルにまでひろがっていたのですから驚異的です。
そして、この着物の文化というのはその延長線上にあるのです。
ですから、本当の意味で消費者に受け入れられるモノをつくるには、どんな消費者か、を知らねばならないわけで、みなさんが相手にしている人達は、高価な着物を普段に着るだけの財力と鑑識眼がある人だと考えるべきだと言うことです。
ちょっと前までの事はただのブームでした。
真価が問われるのは、これからですし、ブームが終わった後の愛好者が本当の沖縄染織ファンだと言うことを忘れないで欲しいと思いますね。
みなさんは、その人達の期待に応える素晴らしい作品を世に送り出す責任があるのです。
2011年06月08日
もずやと学ぶ染織マーケティング<20回目>
6−3 事業を定義し、成長への指針を描く
ここではスカンジナビア航空やゼロックスの実例が書いてありますね。
マーケティングを通して学んで欲しいのは、世間にある何気ない事柄からその奥にある企業や人間の戦略・思惑を読み解くという事です。
前に書いた様に、マーケティングを考える上では、たくさんの解決方法を持っている方が有利です。引き出しが多く、またその引き出しに処方箋がたくさん詰まっている方が勝負に勝てる可能性が高い。その処方箋がどこにあるかといえば、本に書いてあるわけでも、誰かが教えてくれる訳でもありません。そのタネは世間に転がっているのです。それを見過ごしているだけです。たとえば、自分のライバルとなる作家がどういう作風なのかを分析してみる。売れている人は何故売れているのか考えてみる。あんなのダメだ、とか運が良いから売れているんだ、とか思っていたらいつまでたっても進歩はありません。結果にはそれなりの必然性があるのです。数々の選択肢から自分がどれを選択するか、それだけのことなのです。ですから、街を歩くとき、市場を歩くとき、売れている店と売れてない店。売れている店でも、売れる人と売れない人。売れる商品と売れない商品。どこがどうちがうのか、じぶんなりに結論を見つけてみる。逆に、売れない店、人、商品がどこをどう改善したら売れる様になるのかを考えて見る。それが何よりの訓練になります。そして、私達、商売人は日常的にそれをやっています。商売人というのは商売をする人の事ではなくて、商売を人生としているひとの事を言います。政治家なら政治を、教育者なら教育をつねに考えている様に、商売人はどうしたら売れるのか、どうしたら儲かるのかを考えている。おなじようにものづくりをする皆さんは、どうしたらよいもの=消費者が喜んでくれるものを作れるのかを常に考えていなければプロとは言えません。
今日は事業の定義から派生して、『誰に売るのか』という事について考えて見ましょう。教科書の中の2つの事例で中心になっているのも『顧客を誰に設定するのか』という事です。
私が書いたのを読む前に、ちょっと自分で考えてみてください。・・・・・
問屋?・・・・ブーです。
染織家の顧客は消費者、つまり着る人、身につける人だと考えなければなりません。問屋や小売店は、そこへ持って行ってくれるパイプだと考えるべきです。貯水池に水があっても、田んぼに届ける水路がなければ田植えはできません。でも、水路に入れるのが目的ではない。あくまで田んぼに水を入れ、苗に水をやるために水があり、水路を引くのです。
では、消費者ってどんな人?
イメージ湧きますか?
あなたがつくった着物や帯を着けた人、見たことありますか?
それはどんな人ですか?
まず、あなたたちが造っている着物ってどんな着物?
着物ってどんな種類があるか解っていますか?
そんな事さえ知らないで、成り立っていたというのが奇跡なのです。
そこまで言わなくても、って?
いいえ、致命的な事なのです。
陶器を例に考えて見ましょう。
その陶器が飯茶碗に使われるのか、湯飲みに使われるのかで作り手は認識が違って当たり前なのです。
なぜか?
飯茶碗は手に持って箸でご飯を口に運びますが、湯飲みは口を直接つけるからです。
つまり、飯茶碗と湯飲みでは必要とされる品質がビミョウに違うと言うことです。
あなたの造っている着物はどんな時に着れられているの?
着物には『格』というものがあります。
第一礼装という最高の格を持った着物は既婚女性なら黒留袖・喪服、未婚女性なら振袖・訪問着です。その他、色留袖、付下、色無地は準礼装・略礼装ということになりますが、家紋の入れ方によって変わります。それぞれがどんな形状をしているかは、本やネットで調べて勉強してください。
じゃ、みなさんが造っている着物はどこに分類されますか?
基本的に上記の礼装類には属しません。紅型ならたいていの場合、小紋という街着・おしゃれ着に分類されますし、織物はさらに下の普段着の分類となります。ちなみにこれはあくまでも和装における分類です。
つまり、和装というくくりの中で着る上では、沖縄の着物は一部の例外を除いて結婚式には着られないと言うことです。
一部の例外というのは、紅型の中にも絵羽模様と言って縫い目のところで柄が切れずに連続しているものがありますね。これは振袖としていままでも着用されていますし、中には訪問着と同じ柄着けのモノがありますので、これは全く区別無く礼装として着用できます。しかし、どんなに柄が連続していても織物は結婚式には不向きです。また、どんなに高価なものでも格とは関係がありません。
宮古上布や芭蕉布がどんなに高価でも、結婚式には着れない。これが和装の『しきたり』です。久米島では久米島紬を結婚式で着ると聞いた事がありますが、それは日本全体からみれば特殊な事なのです。
ですから、みなさんは基本的に晴れやかな場所では着られない着物を造っていると思わないといけない、と言うことです。
これは着物そのものの優劣とは全く関係がありません。たとえプリントの着物であっても、それが留め袖や訪問着の形をしていれば、礼装として着用されるのです。ですから、沖縄のものでどうしても礼装に適うモノをつくりたければ、紅型で留め袖や訪問着をつくればいいわけです。でも、それは現実のは非常に少ない。
沖縄の着物を着る場というのはせいぜいパーティー、軽いお茶席、観劇、お出かけなどなどです。
反対に考えれば、その気になればいつでも着られる着物であると言うことですね。
つまり、着る機会を日常的、定期的に持って居る人、着物が好きな人、そして大事なことは着物を自分で着られる人だということです。
私は基本的には、自分で着物を着られない人にはお勧めしない事にしています。
若い女性ならお母さんやおばあちゃんに着せてもらうというのもあるかと思いますが、本当に着物が好きなら、自分で着られるようになりたいと思うのが人情だと思います。
ですから、みなさんの造る着物をきてくれる消費者というのは着物を自分で着られて、着る機会をそれなりにお持ちの方だということです。そして、価値観こそ多様でも、基本的には好きで着物を着ている、ということです。
晴れ着をホテルに持って行って、着付けをしてもらうしか着る機会を持たないと言う人と、自分で自分の家で着て、街を歩く人と、当然ながら、趣向が違います。
どういえばわかりやすいですかねぇ・・・
お祝いしようというときに、我が家で手料理でもてなそうという人と、料理屋でおいしいモノを食べようという人が居ます。どちらがどうという事は別にして、同じお祝い、同じ料理でも、全く意味が違うと言うことです。
晴れ着はお祝いが終われば、さっさと脱ぎ捨てられてしまう。しかし、普段の着物はいつまでも着られる。なぜか?普段のきものは着て心地よいものだからです。
でも、普段着だといっても、TシャツやGパンとは違うのです。そこが、大和のそして沖縄の服飾文化のすごいところです。普段でも素晴らしい文様が色とりどりに書かれた染めものや、趣向を凝らした織物が着られていた。こんなところは世界中探してもないと思います。それが民衆レベルにまでひろがっていたのですから驚異的です。
そして、この着物の文化というのはその延長線上にあるのです。
ですから、本当の意味で消費者に受け入れられるモノをつくるには、どんな消費者か、を知らねばならないわけで、みなさんが相手にしている人達は、高価な着物を普段に着るだけの財力と鑑識眼がある人だと考えるべきだと言うことです。
ちょっと前までの事はただのブームでした。
真価が問われるのは、これからですし、ブームが終わった後の愛好者が本当の沖縄染織ファンだと言うことを忘れないで欲しいと思いますね。
みなさんは、その人達の期待に応える素晴らしい作品を世に送り出す責任があるのです。
ここではスカンジナビア航空やゼロックスの実例が書いてありますね。
マーケティングを通して学んで欲しいのは、世間にある何気ない事柄からその奥にある企業や人間の戦略・思惑を読み解くという事です。
前に書いた様に、マーケティングを考える上では、たくさんの解決方法を持っている方が有利です。引き出しが多く、またその引き出しに処方箋がたくさん詰まっている方が勝負に勝てる可能性が高い。その処方箋がどこにあるかといえば、本に書いてあるわけでも、誰かが教えてくれる訳でもありません。そのタネは世間に転がっているのです。それを見過ごしているだけです。たとえば、自分のライバルとなる作家がどういう作風なのかを分析してみる。売れている人は何故売れているのか考えてみる。あんなのダメだ、とか運が良いから売れているんだ、とか思っていたらいつまでたっても進歩はありません。結果にはそれなりの必然性があるのです。数々の選択肢から自分がどれを選択するか、それだけのことなのです。ですから、街を歩くとき、市場を歩くとき、売れている店と売れてない店。売れている店でも、売れる人と売れない人。売れる商品と売れない商品。どこがどうちがうのか、じぶんなりに結論を見つけてみる。逆に、売れない店、人、商品がどこをどう改善したら売れる様になるのかを考えて見る。それが何よりの訓練になります。そして、私達、商売人は日常的にそれをやっています。商売人というのは商売をする人の事ではなくて、商売を人生としているひとの事を言います。政治家なら政治を、教育者なら教育をつねに考えている様に、商売人はどうしたら売れるのか、どうしたら儲かるのかを考えている。おなじようにものづくりをする皆さんは、どうしたらよいもの=消費者が喜んでくれるものを作れるのかを常に考えていなければプロとは言えません。
今日は事業の定義から派生して、『誰に売るのか』という事について考えて見ましょう。教科書の中の2つの事例で中心になっているのも『顧客を誰に設定するのか』という事です。
私が書いたのを読む前に、ちょっと自分で考えてみてください。・・・・・
問屋?・・・・ブーです。
染織家の顧客は消費者、つまり着る人、身につける人だと考えなければなりません。問屋や小売店は、そこへ持って行ってくれるパイプだと考えるべきです。貯水池に水があっても、田んぼに届ける水路がなければ田植えはできません。でも、水路に入れるのが目的ではない。あくまで田んぼに水を入れ、苗に水をやるために水があり、水路を引くのです。
では、消費者ってどんな人?
イメージ湧きますか?
あなたがつくった着物や帯を着けた人、見たことありますか?
それはどんな人ですか?
まず、あなたたちが造っている着物ってどんな着物?
着物ってどんな種類があるか解っていますか?
そんな事さえ知らないで、成り立っていたというのが奇跡なのです。
そこまで言わなくても、って?
いいえ、致命的な事なのです。
陶器を例に考えて見ましょう。
その陶器が飯茶碗に使われるのか、湯飲みに使われるのかで作り手は認識が違って当たり前なのです。
なぜか?
飯茶碗は手に持って箸でご飯を口に運びますが、湯飲みは口を直接つけるからです。
つまり、飯茶碗と湯飲みでは必要とされる品質がビミョウに違うと言うことです。
あなたの造っている着物はどんな時に着れられているの?
着物には『格』というものがあります。
第一礼装という最高の格を持った着物は既婚女性なら黒留袖・喪服、未婚女性なら振袖・訪問着です。その他、色留袖、付下、色無地は準礼装・略礼装ということになりますが、家紋の入れ方によって変わります。それぞれがどんな形状をしているかは、本やネットで調べて勉強してください。
じゃ、みなさんが造っている着物はどこに分類されますか?
基本的に上記の礼装類には属しません。紅型ならたいていの場合、小紋という街着・おしゃれ着に分類されますし、織物はさらに下の普段着の分類となります。ちなみにこれはあくまでも和装における分類です。
つまり、和装というくくりの中で着る上では、沖縄の着物は一部の例外を除いて結婚式には着られないと言うことです。
一部の例外というのは、紅型の中にも絵羽模様と言って縫い目のところで柄が切れずに連続しているものがありますね。これは振袖としていままでも着用されていますし、中には訪問着と同じ柄着けのモノがありますので、これは全く区別無く礼装として着用できます。しかし、どんなに柄が連続していても織物は結婚式には不向きです。また、どんなに高価なものでも格とは関係がありません。
宮古上布や芭蕉布がどんなに高価でも、結婚式には着れない。これが和装の『しきたり』です。久米島では久米島紬を結婚式で着ると聞いた事がありますが、それは日本全体からみれば特殊な事なのです。
ですから、みなさんは基本的に晴れやかな場所では着られない着物を造っていると思わないといけない、と言うことです。
これは着物そのものの優劣とは全く関係がありません。たとえプリントの着物であっても、それが留め袖や訪問着の形をしていれば、礼装として着用されるのです。ですから、沖縄のものでどうしても礼装に適うモノをつくりたければ、紅型で留め袖や訪問着をつくればいいわけです。でも、それは現実のは非常に少ない。
沖縄の着物を着る場というのはせいぜいパーティー、軽いお茶席、観劇、お出かけなどなどです。
反対に考えれば、その気になればいつでも着られる着物であると言うことですね。
つまり、着る機会を日常的、定期的に持って居る人、着物が好きな人、そして大事なことは着物を自分で着られる人だということです。
私は基本的には、自分で着物を着られない人にはお勧めしない事にしています。
若い女性ならお母さんやおばあちゃんに着せてもらうというのもあるかと思いますが、本当に着物が好きなら、自分で着られるようになりたいと思うのが人情だと思います。
ですから、みなさんの造る着物をきてくれる消費者というのは着物を自分で着られて、着る機会をそれなりにお持ちの方だということです。そして、価値観こそ多様でも、基本的には好きで着物を着ている、ということです。
晴れ着をホテルに持って行って、着付けをしてもらうしか着る機会を持たないと言う人と、自分で自分の家で着て、街を歩く人と、当然ながら、趣向が違います。
どういえばわかりやすいですかねぇ・・・
お祝いしようというときに、我が家で手料理でもてなそうという人と、料理屋でおいしいモノを食べようという人が居ます。どちらがどうという事は別にして、同じお祝い、同じ料理でも、全く意味が違うと言うことです。
晴れ着はお祝いが終われば、さっさと脱ぎ捨てられてしまう。しかし、普段の着物はいつまでも着られる。なぜか?普段のきものは着て心地よいものだからです。
でも、普段着だといっても、TシャツやGパンとは違うのです。そこが、大和のそして沖縄の服飾文化のすごいところです。普段でも素晴らしい文様が色とりどりに書かれた染めものや、趣向を凝らした織物が着られていた。こんなところは世界中探してもないと思います。それが民衆レベルにまでひろがっていたのですから驚異的です。
そして、この着物の文化というのはその延長線上にあるのです。
ですから、本当の意味で消費者に受け入れられるモノをつくるには、どんな消費者か、を知らねばならないわけで、みなさんが相手にしている人達は、高価な着物を普段に着るだけの財力と鑑識眼がある人だと考えるべきだと言うことです。
ちょっと前までの事はただのブームでした。
真価が問われるのは、これからですし、ブームが終わった後の愛好者が本当の沖縄染織ファンだと言うことを忘れないで欲しいと思いますね。
みなさんは、その人達の期待に応える素晴らしい作品を世に送り出す責任があるのです。
Posted by 渡辺幻門 at
22:16
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