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  | 羽曳野市

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2013年02月17日

『もずやと学ぶ日本の伝統織物』第12話

【心でつくり心で着る】

表題の通り、ここには少々センチメンタルな事が書かれていますが、その中で私の心に残るところだけを紹介しておきます。

『伝統の純粋さを守る為に、特定の人だけでひっそりとそれを見守り、愛好しようとするようないき方がいままでの研究者にないわけではなかった。だがそれは、結局は伝統それ自身を衰退に追いやる道ではないか』

『技術が幼稚だったといってしまえば、それまでである。むしろ、その幼稚な技術のままに、人間がどれほど想いをこめて、より丈夫な、そしてより美しい衣服を求めてきたか。その営みの重厚さ深遠さに、私達は深い味わいを感じ、また人間の温かさを想うのである』

初めの文に関してですが、ここでは民芸運動家の事を言っているだろうと想います。

柳宗悦を初め、外村吉之助などは、『そのままで』と何度も言い続けて、化学染料や機械を使ったものをボロ雑巾のごとくけなし、それを使う工人を罵倒したんです。

では、『そのまま』のやり方で工人が長く生活していくための道を彼らは開いたのか?

『そのまま』の人は、半ば職業として染織をやることを諦めざるを得ず、『好きだから続けよう』という熱い気持ちに支えられてるに過ぎない状態なのです。

しかし、『そのまま』がいけないとは私も思いません。

でも、『そのまま』に拘泥するあまり、仕事すべてが消滅したのでは、元も子もないではないですか。

『そのままが残せないなら、歴史上の名品になってもいい』

彼らはそう想っていたのでしょうか?

柳宗悦の民藝論が正しい事を実証するためにのみ、工人の仕事は使われたのでしょうか。

『そのまま』は無理なら、どうして、『捨てて良い物は捨てる』選択肢を与えなかったのでしょう。

昔ながらの『そのまま』のやり方をしたのでは、工人は世間並みの生活をすることさえできません。

最低賃金法に則らなくても、せめて、家族が糊口をしのぐ事ができなければ、仕事とはいえないのではないでしょうか。

取捨選択を教えなかったために、捨ててはならないモノまで捨てる事になったのではないか、と私は思っています。

それは、技法であり、素材であり、そして物作りの心でしょう。

適切な取捨選択がされていれば、もう少しは伝統染織が生きながらえたのではないかと、残念に思います。

二番目の文章ですが、柳流にいえば『下手モノの美』ですね。

技術が細かい、精密だからと言って、美しいモノが出来るわけではありませんし、幼稚な技術からは醜いモノしか生まれないという事もありません。

幼稚で単純が技法でも、熟練と修練によって、美しいモノは生まれてくるのです。

柳は『神の手』と表しました。

技巧をこらし、わざとらしい美を演出したものよりも、無名な工人が作った物のほうが美しい。

あたりまえです。

その無名な工人は、何十年もその仕事をやっている熟練工で、名人なんですから。

大学や有名工房で学んで、何年かで独立したような芸術家とは訳が違うのです。

地元で何十年も愛されているうどん屋が、辻調理師学校出身のシェフより美味しいうどんを作るのは当たり前です。

要は、『使う為に美しく造り、使われて美しくなる』ということなのだろうと想います。

茶道具でも批判はあると想いますが、よい道具は使いやすく、また使いやすいから度々使われて美しくなるのだと想います。

なにも宗教哲学など持ち出す必要は無いのです。

着やすいキモノ、美しいキモノをつくろうとして、真面目に仕事をすれば良い物はできるのです。

よく質問をうけるのに、こういう事があります。

『もずやさん、どんなキモノをつくったら売れますか?』

私はこう応えます。

『そんなもん、簡単ですわ。今売れてるのと同じようなのを作ったらええんです。でも、あなた、それができますか?』

できっこないし、やっても似たようなモノは出来ても良い物は出来ないのです。

気に沿わない、作りたくない物を作るのは、時間と資源のムダです。

良い物を作るには、楽しい気持ちで『絶対ええもんつくったんねん』くらいの気持ちがないとダメなんです。

でも、手仕事というのはある意味で工程的に制限があります。

良い仕事をするというのは、一つ一つの工程に手を抜かない、気を入れるという事なんだろうと想います。

単純な仕事は機械化されがちです。

でも、本来はその単純作業の連続に手仕事の妙味があるんでしょうね。

問題はね・・・私達、玄人も良い仕事を評価できない人が多くなっている、否、今やほとんどがそうだということなんです。

手織かそうでないか、型なら手彫りかそうでないか。

本来、結果として出来る作品は歴然とした違いがあります。

でも、『大して変わらへんやん』と想っている人が多いんです。

違いを感じて、説明できるのなら、手仕事は廃らなかったはずです。

また、逆に言えば、その違いを出せなかった手仕事が衰退したんです。

その目を持ってさえいれば、技法に惑わされることもない。

手仕事でも拙いものは拙いし、機械でもうまく出来ているモノはたくさんあります。

センスも大事です。

でも、それより大事なのは、『技と気』だと私は思います。

この本の著者は盛んに心の故郷だとか、人間的充足感だとか書いていますが、手仕事だからと言って、それが盛り込まれている作品ばかりとは言えないのです。

のっぺらぼうで無機質な、ただの、織物、染めモノもたくさんあります。

染織を初めとする伝統工芸などの物作り、芸能、サービス、すべてに於いて、主役は受容者である使う人、見る人、受ける人です。

その受容者が正当な評価をしなければ、財やサービスを発信する側はどんどん落ちていくのです。

そういう意味で、つなぎ手である私達商人の責任は重大ですね。

門前の小僧のたとえはありますが、身につける気が無ければ、審美眼は養われないと私は思います。

審美眼は、なかなか身につきませんが、ある時期に、ヒョイとレベルアップするような気がします。

そしてまた、平坦な時期が続き、迷い、失敗し、また時期を経てヒョイと上がる。

それを身につけなくても売れる時代が長かったのが原因なのかも知れません。

私もまだまだ修行の身ですが、常に研鑽を心がけているんです。

手仕事は、稚拙な技術の集積で作られる物が少なくないと想います。

だからこそ、本当の美を見抜く力が必要なんです。

なんの変哲もない無地、縞を美しいと感じる。

技巧や装飾に惑わされない、確かな目を持たなければ、それを満たしてくれる工人など出るわけが無いのです。


次回からは、個別の織物の話に入っていきます。

どういう内容にしようか、いまから、考え込んでいます(-_-)


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Posted by 渡辺幻門 at 21:37│Comments(0)日本の伝統織物
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