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  | 羽曳野市

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2010年03月20日

工芸論レポート完成

工芸論の4つの課題のうち、やっと第三課題が終了し、これで完了しました。
残っていたのは、『日本の陶芸の歴史を2000字でまとめなさい』というものでした。教科書には歴史のことなどちょっぴりしか書いていないので、自分で焼き物の歴史の本を買って勉強したんです。この本ですけどね。

日本やきもの史
荒川 正明, 金子 賢治, 伊藤 嘉章, 矢部 良明
美術出版社
1998年10月


この本、すごく著者が熱っぽくて、歴史のエキスがなかなか抽出できないんです。2回通読しましたが、それでも2000字にまとめるのはきつかったです。
一回目の通読からレポートを書くまで3ヶ月もかかってしまいました。途中でさぼっていたのですが・・・


陶芸の歴史をまとめてみて、よく分かるのは実用の工芸品というのは常に、その需要家の動向によって左右されるということです。貴族から庶民に変われば、粗造大量生産になるし、茶道が隆盛すれば、茶陶へ流れる。輸出品となれば、外国人の好みの物を作ることになる。

茶の病と柳宗悦は茶陶を酷評し、明治期に輸出用に作られた作品は美術史的には評価は低いと言います。そして、現代は前衛的な作品も含めた創作陶器が主流となっています。

作り手は自分の創作意欲に応じて作りたい物を作れる時代になったのですが、果たしてそれが全面的に良いことなのでしょうか。逆に言えば、茶道で使われることや外国人の鑑賞用・食器用として、そのためにデザインを彼らの好みに合わせることは芸術性や創造性を歪めおとしめる物でしょうか。

絵画にしても、19世紀までは画家は貴族や富裕層の肖像画を書くのがメインでした。それが貴族階級が崩壊して、肖像画の需要がなくなり、様々な絵を様々な表現で描くようになった。では、肖像画にその画家の個性が表れていないか、独創性が無いかと言われたらどうでしょうか。見る人が見れば、あきらかに作者は分かるはずで、大切な事は何を描くかではなく、どう描くかでしょう。その創作部分が少なく狭くても、作者はどこかに自己表現を爆発させるはずだと私は思うのです。目が違い、手が違い、思想が違えば、そこから生まれてくる物は決して同じでないはずです。それが創作なのではないでしょうか。創作というのは、ゆがんだ個性の表現のことではありません。歌をフェイクして歌えば個性的だと想っているのは所詮安物歌手です。一流の歌手は真っ直ぐに歌って個性が光る物です。個性は模倣の中から生まれるという事が、この真実を証明しています。

茶陶や輸出用の陶器の評価が低いのは、いじけた気持ちで作っているからで、それは、その作者のレベルがそもそも低いのであって、創作動機のせいではないと私は思います。やらされた仕事が良い結果を生まないのであれば、職人の仕事は成り立たないはずです。でも、それは多くの場合逆です。

また、見る側も目が曇っているのです。始めに偏見がある。やらされた仕事、目的のために作った物を、純粋ととらえたくない気持ちがある。純粋な表現て一体なんですか?人の気持ちを豊かに出来ない工芸に何の価値がありますか?

我が国の工芸の最大の病は『芸術家きどり』にあると想います。
たいした思想も教養もないのに、自己表現だとほざいて駄作を世間にさらす。
それで、世間に認められなければ、それが芸術だと自己満足するしかない。
そして、その鬱憤を、後輩の芸術評価にも反映させる。
『君は、何を表現したいのか?』と。

衆が認めない芸術がなんぼのもんですか?
訴えたいものが伝わらなければそんなものはタダの資源の無駄遣いです。
それなら、まだ、人の生活を豊かにする、欲しい物をつくる。
その中に、自己表現することを考える事の方が、ずっと社会的意義があるのではないでしょうか。

作りたい物を作るのはそれはそれで芸術家として美しい姿でしょう。
でも、認められないのを人のせいにするなといいたい。
作りたい物を作っても、認められる人はいるし、認められないのは、作品が悪いからです。駄作を言葉で補おうとするなど、チャッチイとしかいいようがない卑屈な姿勢です。

実用か創作か。どっちを行くのか腹を決めることが、最終的には自己表現の完結に繋がると私は思います。
Posted by 渡辺幻門 at 22:38│Comments(0)
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