2009年07月03日
紅型 古典と創作
今日は、新しい期を迎えた事もあって、売約商品の分析と商品の発注をしました。とくに、紅型に大きく時間を割きました。
40年以上にわたる弊社の歴史で集められた紅型の資料は無いものが無いくらい充実しています。そんな資料の中から作家を発掘し、指図のヒントをもらうのですが、色々見ていくと、所謂『古典紅型』というものに力強い作品が多い。既存の作家の作品でも、古典を染めると作家力量がはっきりわかってきます。
古典紅型に対して、戦後作られた新しい文様によるものを『創作紅型』というのですが、最近はみなさんこれに取り組まれるようです。古典紅型というのは、紅型が沖縄の染め物であるにも関わらずヤマトの風物をテーマにしたものが多い、という問題意識から出発しているという話を伊差川先生から聞いたことがあります。それはそれでいいのですが、では、創作に偏った今の紅型の中から作品のできばえとして優れたものが増えたか?と言えばそれは否です。沖縄の自然をモチーフにしたものであっても、色の深みや冴えはかえって沖縄らしく無いものとなっています。
私も芸大の勉強を始めましたが、そこでははじめから自分で絵をかくことをさせます。他の芸大や工房もそうなのでしょうか?絵画などはかつての名作などを何度も模倣しその技倆を自分のものとしていくという作業が取られるのではないでしょうか?習字でも先生のお手本通りにきちんと楷書から書き始めるように、紅型もその基本である古典をなんどもなんどもしっかり染め込む事が必要なように思います。
紅型は芸術です。しかし、それはあくまで工芸の世界であり、才能と技術の両方が必要です。ほんとうは、才能など無くても、きちんとした技術さえあればよい作品はできあがるのです。古典をパーフェクトにスカッとした色刺しで力強く染め上げた作品ぼど神々しく重みのあるものはありません。
自由を享受するまえに、地べたを這うような不自由の中で々と基礎的な技術を体得してこそ、足腰の強い、まさに太陽のしたで伸びる芭蕉葉のような勢いのある作品ができるのだと私は想うのです。
そういう意味では、フィギャースケートの規定の演技のように、沖展でも古典紅型部門を別に設けてもいいように思います。
40年以上にわたる弊社の歴史で集められた紅型の資料は無いものが無いくらい充実しています。そんな資料の中から作家を発掘し、指図のヒントをもらうのですが、色々見ていくと、所謂『古典紅型』というものに力強い作品が多い。既存の作家の作品でも、古典を染めると作家力量がはっきりわかってきます。
古典紅型に対して、戦後作られた新しい文様によるものを『創作紅型』というのですが、最近はみなさんこれに取り組まれるようです。古典紅型というのは、紅型が沖縄の染め物であるにも関わらずヤマトの風物をテーマにしたものが多い、という問題意識から出発しているという話を伊差川先生から聞いたことがあります。それはそれでいいのですが、では、創作に偏った今の紅型の中から作品のできばえとして優れたものが増えたか?と言えばそれは否です。沖縄の自然をモチーフにしたものであっても、色の深みや冴えはかえって沖縄らしく無いものとなっています。
私も芸大の勉強を始めましたが、そこでははじめから自分で絵をかくことをさせます。他の芸大や工房もそうなのでしょうか?絵画などはかつての名作などを何度も模倣しその技倆を自分のものとしていくという作業が取られるのではないでしょうか?習字でも先生のお手本通りにきちんと楷書から書き始めるように、紅型もその基本である古典をなんどもなんどもしっかり染め込む事が必要なように思います。
紅型は芸術です。しかし、それはあくまで工芸の世界であり、才能と技術の両方が必要です。ほんとうは、才能など無くても、きちんとした技術さえあればよい作品はできあがるのです。古典をパーフェクトにスカッとした色刺しで力強く染め上げた作品ぼど神々しく重みのあるものはありません。
自由を享受するまえに、地べたを這うような不自由の中で々と基礎的な技術を体得してこそ、足腰の強い、まさに太陽のしたで伸びる芭蕉葉のような勢いのある作品ができるのだと私は想うのです。
そういう意味では、フィギャースケートの規定の演技のように、沖展でも古典紅型部門を別に設けてもいいように思います。
Posted by 渡辺幻門 at 17:18│Comments(0)
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