2012年02月15日
絣についておもうこと。
今夜、居酒屋に行ったら、女将さんが絣の着物を着ていました。
割烹着でほとんど隠れていましたが、おそらく南風原の古い木綿絣だと想います。
絣は粗いものでしたが、それなりに味わいがあり、普段ちょこっときたり、お店で着るにはとても良いと想います。
それで、ビールを飲みながら、ちょっと絣について考えたりしました。
絣というのは、基本的にカジュアルで、礼装には向きません。
それは沖縄だけでなくて、日本中ある絣がそうですね。
そして、その多くが元々は木綿で織られていた。
私のように沖縄の染織を専門にやっていると感覚が違ってくるのですが、織物というのは基本的には無地、縞、格子、そして絣しかありません。
いわゆる民藝というものに分類される織物はそうですね。
民藝なんですから、基本的に、そして原初的には普段の生活の中で着用されていたわけです。
庶民の生活の中では、絹の着物というのは上等、よそいきで、普段は木綿の着物だった。
その前は、麻が主流でしたし、沖縄では芭蕉が幅広く着用されていたわけです。
無地、縞、格子しかない織物の中に具象柄を入れたのが絣でしょうね。
絣というと、今はあまり人気がありません。
お客様の声で多いのは『あまりにくだけすぎるから』というのが多いのです。
確かにそうですね。
居酒屋のオバチャンが来ている着物から、うどん屋の座布団から、沖縄では、ご丁寧にモノレールのシートまで絣柄です。
つまり、庶民の生活に根ざした柄物、というのが絣の姿なんですね。
沖縄の、手縞、縞ぬ中、諸取切といった、いわゆる手結絣の着物は、別格の美しさがありますが、それでも『金持ちの普段着』と言われていたそうです。
久留米絣なども、すばらしい染織品ですが、晴れやかさというよりも、やはり素朴な美しさというのが持ち味だと想います。
それはそれで良いはずなのに、とても値打ちのあるものであるはずなのに、何故、絣が好まれなくなってしまったのか。
これはいろんな理由があると想います。
一つには前述した、カジュアルすぎる、ということでしょう。
カジュアルすぎるといえば、聞こえがいいですが、中身は『野暮ったい』という事なのですね。
なぜ、そう見えるかというとやっぱり、良い絣が少ないからだと想います。
現に、手結いの素晴らしい首里の織物や芭蕉布を見て、野暮ったいと言う人はいませんし、絣だからどうこうという人もいません。
首里の織物や芭蕉布、そして久留米絣のような本当によい絣は、価格が非常に高いのです。
郡上織なんていうのも、良い物を造っていたようですが、非常に高い。
普段に着る着物なのに、高い。
ここが花織、花倉織と違うところなのだろうと想います。
花織や花倉織は、やっぱり、それなりにドレッシーなんですね。
パーティーに着て行かれても、違和感を感じさせないくらいの華やかさがある。
でも、絣の着物だとやっぱり、すこしくだけた感じを持たれるのは否定できないと想います。
じゃ、絣は無くなっても良いのか?と言えば、私は絣が大好きですし、なんとか残していきたいと想うのです。
良い絣がないから人気がないのだとしたら、良い絣とはなんでしょうか。
私は、小柄志向が絣をダメにした大きな要因ではないかと想います。
絣のおもしろさは、絣足にあります。
ぼやーとしたにじみのような味ですね。
これが、柄が細かくなると出ないのです。
手結いのようなシャープな絣もありますが、絵絣の場合はこの絣足の美しさが絣の価値を決めると想うのです。
柳宗悦だったか、忘れましたが、『小宇宙』と表現していた人がいたと想います。
沖縄の場合は多彩な色絣もありますが、内地のものはほとんど絣は白です。あるいは1色です。
ですから、絣足に味わいがないと、非常に単調になるんですね。
民芸館などで、古い一玉の絣を見ると非常に美しい。うっとりするくらいです。
そして、専門家に聞いてみないと確証を持って言えませんが、絹に括るのと、木綿や芭蕉・麻に括るのとでは、
絣の出方、つまり、括った部分の染料の浸透の仕方が違うのじゃないか、とも想うのです。
木綿の方が、味わいが大きく出るような気がするのです。
沖縄で木綿を観る事はいまはあまり多くないですが、久留米なんかを見ると、木綿の方が味があるように感じます。
絹の方が精巧な感じはしますが、味は綿にあると想います。
素材感の差もあるのでしょうが、高級な着物にしようとしてなんでもかんでも絹を使い始めたところから、絣の良さは失われたのではないでしょうか。
久米島なんかも、むかしの荒っぽい時代のほうが、味わいがあった。
いまは、キレイになりすぎて、面白く無い。
庶民の着物としておられてきた絣が、精巧さと高級感を追求し始めたところから、間違いが始まっているのかもしれません。
素材と技法というのは、そもそも切っても切れない関係にあるわけで、素材が変われば技法も変わります。
芭蕉布がいまでも絣の美しさを保っているのは、それがそもそも芭蕉に表現されていたからでしょう。
では、絣が木綿や麻で造られるようになったら、美しい物ができて、人気も復活するのか?
どうでしょう?
着物を着る人は『田舎のオバチャン』と見られたくないわけですから、安っぽい木綿絣は見向きもされないと想います。
でも、八重山上布なんていうのは、新垣幸子さんの作品なんて高価なのに受け入れられている。
新垣幸子さんの作品をみて、野暮ったい、田舎くさい、なんて言う人は誰もいません。
なぜでしょうか?
素材感を活かし、デザインを洗練させること。
そして、それでいて、多くの人に手が届く価格帯を維持すること。
木綿の糸が絹と比べて安いといっても、反物の値段のほとんどは工賃なのですから、手染め、手織りでやればそれなりの価格になってしまいますね。
非常に悩ましい問題です。
素材、デザイン、手間、品質、などの品物の価値と、消費者の許容する価格の交点をどこに見出すか。
・・・・・・
だめです。まだ、結論がでません・・・
割烹着でほとんど隠れていましたが、おそらく南風原の古い木綿絣だと想います。
絣は粗いものでしたが、それなりに味わいがあり、普段ちょこっときたり、お店で着るにはとても良いと想います。
それで、ビールを飲みながら、ちょっと絣について考えたりしました。
絣というのは、基本的にカジュアルで、礼装には向きません。
それは沖縄だけでなくて、日本中ある絣がそうですね。
そして、その多くが元々は木綿で織られていた。
私のように沖縄の染織を専門にやっていると感覚が違ってくるのですが、織物というのは基本的には無地、縞、格子、そして絣しかありません。
いわゆる民藝というものに分類される織物はそうですね。
民藝なんですから、基本的に、そして原初的には普段の生活の中で着用されていたわけです。
庶民の生活の中では、絹の着物というのは上等、よそいきで、普段は木綿の着物だった。
その前は、麻が主流でしたし、沖縄では芭蕉が幅広く着用されていたわけです。
無地、縞、格子しかない織物の中に具象柄を入れたのが絣でしょうね。
絣というと、今はあまり人気がありません。
お客様の声で多いのは『あまりにくだけすぎるから』というのが多いのです。
確かにそうですね。
居酒屋のオバチャンが来ている着物から、うどん屋の座布団から、沖縄では、ご丁寧にモノレールのシートまで絣柄です。
つまり、庶民の生活に根ざした柄物、というのが絣の姿なんですね。
沖縄の、手縞、縞ぬ中、諸取切といった、いわゆる手結絣の着物は、別格の美しさがありますが、それでも『金持ちの普段着』と言われていたそうです。
久留米絣なども、すばらしい染織品ですが、晴れやかさというよりも、やはり素朴な美しさというのが持ち味だと想います。
それはそれで良いはずなのに、とても値打ちのあるものであるはずなのに、何故、絣が好まれなくなってしまったのか。
これはいろんな理由があると想います。
一つには前述した、カジュアルすぎる、ということでしょう。
カジュアルすぎるといえば、聞こえがいいですが、中身は『野暮ったい』という事なのですね。
なぜ、そう見えるかというとやっぱり、良い絣が少ないからだと想います。
現に、手結いの素晴らしい首里の織物や芭蕉布を見て、野暮ったいと言う人はいませんし、絣だからどうこうという人もいません。
首里の織物や芭蕉布、そして久留米絣のような本当によい絣は、価格が非常に高いのです。
郡上織なんていうのも、良い物を造っていたようですが、非常に高い。
普段に着る着物なのに、高い。
ここが花織、花倉織と違うところなのだろうと想います。
花織や花倉織は、やっぱり、それなりにドレッシーなんですね。
パーティーに着て行かれても、違和感を感じさせないくらいの華やかさがある。
でも、絣の着物だとやっぱり、すこしくだけた感じを持たれるのは否定できないと想います。
じゃ、絣は無くなっても良いのか?と言えば、私は絣が大好きですし、なんとか残していきたいと想うのです。
良い絣がないから人気がないのだとしたら、良い絣とはなんでしょうか。
私は、小柄志向が絣をダメにした大きな要因ではないかと想います。
絣のおもしろさは、絣足にあります。
ぼやーとしたにじみのような味ですね。
これが、柄が細かくなると出ないのです。
手結いのようなシャープな絣もありますが、絵絣の場合はこの絣足の美しさが絣の価値を決めると想うのです。
柳宗悦だったか、忘れましたが、『小宇宙』と表現していた人がいたと想います。
沖縄の場合は多彩な色絣もありますが、内地のものはほとんど絣は白です。あるいは1色です。
ですから、絣足に味わいがないと、非常に単調になるんですね。
民芸館などで、古い一玉の絣を見ると非常に美しい。うっとりするくらいです。
そして、専門家に聞いてみないと確証を持って言えませんが、絹に括るのと、木綿や芭蕉・麻に括るのとでは、
絣の出方、つまり、括った部分の染料の浸透の仕方が違うのじゃないか、とも想うのです。
木綿の方が、味わいが大きく出るような気がするのです。
沖縄で木綿を観る事はいまはあまり多くないですが、久留米なんかを見ると、木綿の方が味があるように感じます。
絹の方が精巧な感じはしますが、味は綿にあると想います。
素材感の差もあるのでしょうが、高級な着物にしようとしてなんでもかんでも絹を使い始めたところから、絣の良さは失われたのではないでしょうか。
久米島なんかも、むかしの荒っぽい時代のほうが、味わいがあった。
いまは、キレイになりすぎて、面白く無い。
庶民の着物としておられてきた絣が、精巧さと高級感を追求し始めたところから、間違いが始まっているのかもしれません。
素材と技法というのは、そもそも切っても切れない関係にあるわけで、素材が変われば技法も変わります。
芭蕉布がいまでも絣の美しさを保っているのは、それがそもそも芭蕉に表現されていたからでしょう。
では、絣が木綿や麻で造られるようになったら、美しい物ができて、人気も復活するのか?
どうでしょう?
着物を着る人は『田舎のオバチャン』と見られたくないわけですから、安っぽい木綿絣は見向きもされないと想います。
でも、八重山上布なんていうのは、新垣幸子さんの作品なんて高価なのに受け入れられている。
新垣幸子さんの作品をみて、野暮ったい、田舎くさい、なんて言う人は誰もいません。
なぜでしょうか?
素材感を活かし、デザインを洗練させること。
そして、それでいて、多くの人に手が届く価格帯を維持すること。
木綿の糸が絹と比べて安いといっても、反物の値段のほとんどは工賃なのですから、手染め、手織りでやればそれなりの価格になってしまいますね。
非常に悩ましい問題です。
素材、デザイン、手間、品質、などの品物の価値と、消費者の許容する価格の交点をどこに見出すか。
・・・・・・
だめです。まだ、結論がでません・・・
Posted by 渡辺幻門 at 00:27│Comments(2)
この記事へのコメント
はじめまして、marchaさんに聞いて萬代屋さんのブログを読ませて頂いています。
私は隣町国分に住む着物好きな田舎のおばちゃんです。今日の居酒屋の女将さんステキですね。勝手に想像させてもろうてます。
もっと普段着や仕事着に着物をきてほしいです。30年程前周防町にあったビエラという
洋食屋さんの女将さんも着物を着ておられたのを思い出しました。私も定年を過ぎていますが、回りを見ても元気の良いおばちゃんは多いのですが、着物に興味を持ってくれる人は少ないです。
Posted by 小判屋 at 2012年02月15日 11:24
>小判屋さん
コメントありがとうございます。
marchaさんのお知り合いですか。
国分というとほんとにご近所ですね。
もっと気軽に着物が着れる環境があればいいのに、と想います。
Posted by mozuya at 2012年02月17日 00:11
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