2012年02月24日
模倣
また、どこのどいつが模倣したという話ではありません。
今日は、技術と感性の習得の為の模倣について書いてみたいと思います。
私は、歌が好きで、小さいときから人前で歌を歌い、13歳の頃にはカラオケで歌いまくっていました。
そのおかげで、今は何よりも歌が自慢です。
本業の商売よりもはるかに自信があります。
タダののど自慢というのではなくて、オーケストラをやっている人や、音楽を専門に学んだ人が評価してくれるので多分、本当に上手いのだろうと自負していますが、『どこかで勉強したのか?』と必ず聞かれます。
そういう時、私は『天才なんです!』と応えるようにしています。
何故かというと、誰からも教えてもらった記憶がないからです。
でも、発声法が普通ではしない方法の様で、そういわれるのです。
なぜ、そうなったかというと、『聞いていたこと』と『ものまね』のせいだと思うのです。
私の亡父も歌が好きで、特に森繁久弥の歌をしょっちゅう聴いていました。
日曜日となると家中に響く音量で森繁のレコードをかけていました。
そのせいで、今でも軍歌や小学唱歌はほとんどそらで歌えます。
私が良く聞いていたのは、水原弘という若くして亡くなった天才歌手。
それをずっとずっと聞き続け、カラオケで歌い続けていました。
私の十八番は水原弘の名曲『黄昏のビギン』で初めてのお店では名刺代わりに必ず最初に歌います。
何が言いたいかというと、上手な人の作品に触れ、マネをしているとイヤでも上手になるということです。
今の歌手がなぜしょうむないかというと、下手くそな歌手の歌ばかり聴いていたからじゃないかと思います。
つまり、工芸も同じ、染織も同じ。
天才を真似れば、天才に近づくのではないでしょうか。
真似ることと個性は相反しない、私はそう思います。
何故かというと、天才の表現というのは真似しきれないからです。
真似しようとすればするほど、自分の個性に気づかされずにいられなくなるのです。
歌手でいえば、節回しや声色、とくに情感の盛り込み方は完全には真似できません。
まっすぐに歌わないと、歌えないし、下手に真似ようとすれば歌そのものが下手くそになる。
何回も何回もやれば、『天才の核心』というものに触れることになると思います。
『天才の核心』とは何か。
自分を生かし切ることと、努力の二つです。
そこまで到達して初めて、個性になり、自分らしい表現とは何かにたどり着くのではないでしょうか。
いまは、ちょこっと3年くらい下積みをして、公募展に入賞したりしたら、頭に乗って一流作家の様に個性個性と言う人が増えているようです。
ちゃんちゃらおかしいのです。
審査員も頭がどうかしているのか、眼が曇っているのか、自分たちもまともな努力をしていないのか知りませんが、薄っぺらな個性を持ち上げて評価し、本質に迫ろうとしない。
だから、工芸も染織もどんどん軽くなっていく。
私は、茶道と謡曲・仕舞を学んでいますが、どちらも、ロボットのように師匠から教わるまま、そのままに動きます。
それを何回も何回も繰り返すのですが、そのまま真似しようしても、出来ないのです。
謡曲などは、師匠の声をICレコーダーに吹き込んで頂いて、なんどもなんども、聞いては、合わせて歌うのですが、出来ない。
どうしてもクセが出てしまう。でも、クセはクセでいけないのです。
クセは完全に直して、教えられるままに謡えるようになって、さらに何度も何度も謡ってはじめて個性が出てくるのだと思います。
茶道も同じです。何度も何度も、同じお点前をお稽古する。自己流なんていうのはない。
修練に修練を積んで、師匠の通りに出来て、さらにそれを繰り返す事で、初めて個性といえいるモノに到達するのです。
工芸の天才とは何か?
存在するとしたら、幼少より良い物を見、良い仕事を見てきた人でしょう。
しかし、浅薄な修練から生まれた『個性らしきモノ』は必ず早晩に枯渇します。
いわゆる一発屋で終わるのです。
若い人が、工芸、染織を永く続けていき、その上で個性的な自分らしい作品を造りたいと思うなら、最低10年は徹底して、模倣することだろうと思います。
良い師匠について、その指導の下で師匠の作品づくりの中にはいるのも良いでしょうし、自分でやるなら、良い作品を模写するのです。
今の芸術大学の教育で一番欠けいているのはその部分だと私は思います。
学術の世界では、5%の新しい説が盛り込まれrば大論文だということです。
それまでに、何度も古典的な学説や、他者の論文を研究し、検証するのです。
私たち商売人も先輩から様々なことを学び、繰り返し繰り返し、練習するのです。
同じセールストークを毎日毎日語り続ける。
でも、そこから自分独特の語り口や、テンポが生まれて、味になるわけです。
クラッシックの歌手が上手いのは、良い楽曲を何度も何度も練習するからです。
そうすることによって、自分の出せない声、出せない節回しが出来るようになる。
個性を追求することは、自分を甘やかすことにもなりがちなのです。
『まなぶ』は『まねぶ』から来ています。
『まねぶ』とはまねをすること。
模倣は個性の茶こしなのです!
良いモノを繰り返し模倣することによって、個性は雑味が取れ、より研ぎ澄まされて、さらに湧きいずる泉になり得るのだと思います。
今日は、技術と感性の習得の為の模倣について書いてみたいと思います。
私は、歌が好きで、小さいときから人前で歌を歌い、13歳の頃にはカラオケで歌いまくっていました。
そのおかげで、今は何よりも歌が自慢です。
本業の商売よりもはるかに自信があります。
タダののど自慢というのではなくて、オーケストラをやっている人や、音楽を専門に学んだ人が評価してくれるので多分、本当に上手いのだろうと自負していますが、『どこかで勉強したのか?』と必ず聞かれます。
そういう時、私は『天才なんです!』と応えるようにしています。
何故かというと、誰からも教えてもらった記憶がないからです。
でも、発声法が普通ではしない方法の様で、そういわれるのです。
なぜ、そうなったかというと、『聞いていたこと』と『ものまね』のせいだと思うのです。
私の亡父も歌が好きで、特に森繁久弥の歌をしょっちゅう聴いていました。
日曜日となると家中に響く音量で森繁のレコードをかけていました。
そのせいで、今でも軍歌や小学唱歌はほとんどそらで歌えます。
私が良く聞いていたのは、水原弘という若くして亡くなった天才歌手。
それをずっとずっと聞き続け、カラオケで歌い続けていました。
私の十八番は水原弘の名曲『黄昏のビギン』で初めてのお店では名刺代わりに必ず最初に歌います。
何が言いたいかというと、上手な人の作品に触れ、マネをしているとイヤでも上手になるということです。
今の歌手がなぜしょうむないかというと、下手くそな歌手の歌ばかり聴いていたからじゃないかと思います。
つまり、工芸も同じ、染織も同じ。
天才を真似れば、天才に近づくのではないでしょうか。
真似ることと個性は相反しない、私はそう思います。
何故かというと、天才の表現というのは真似しきれないからです。
真似しようとすればするほど、自分の個性に気づかされずにいられなくなるのです。
歌手でいえば、節回しや声色、とくに情感の盛り込み方は完全には真似できません。
まっすぐに歌わないと、歌えないし、下手に真似ようとすれば歌そのものが下手くそになる。
何回も何回もやれば、『天才の核心』というものに触れることになると思います。
『天才の核心』とは何か。
自分を生かし切ることと、努力の二つです。
そこまで到達して初めて、個性になり、自分らしい表現とは何かにたどり着くのではないでしょうか。
いまは、ちょこっと3年くらい下積みをして、公募展に入賞したりしたら、頭に乗って一流作家の様に個性個性と言う人が増えているようです。
ちゃんちゃらおかしいのです。
審査員も頭がどうかしているのか、眼が曇っているのか、自分たちもまともな努力をしていないのか知りませんが、薄っぺらな個性を持ち上げて評価し、本質に迫ろうとしない。
だから、工芸も染織もどんどん軽くなっていく。
私は、茶道と謡曲・仕舞を学んでいますが、どちらも、ロボットのように師匠から教わるまま、そのままに動きます。
それを何回も何回も繰り返すのですが、そのまま真似しようしても、出来ないのです。
謡曲などは、師匠の声をICレコーダーに吹き込んで頂いて、なんどもなんども、聞いては、合わせて歌うのですが、出来ない。
どうしてもクセが出てしまう。でも、クセはクセでいけないのです。
クセは完全に直して、教えられるままに謡えるようになって、さらに何度も何度も謡ってはじめて個性が出てくるのだと思います。
茶道も同じです。何度も何度も、同じお点前をお稽古する。自己流なんていうのはない。
修練に修練を積んで、師匠の通りに出来て、さらにそれを繰り返す事で、初めて個性といえいるモノに到達するのです。
工芸の天才とは何か?
存在するとしたら、幼少より良い物を見、良い仕事を見てきた人でしょう。
しかし、浅薄な修練から生まれた『個性らしきモノ』は必ず早晩に枯渇します。
いわゆる一発屋で終わるのです。
若い人が、工芸、染織を永く続けていき、その上で個性的な自分らしい作品を造りたいと思うなら、最低10年は徹底して、模倣することだろうと思います。
良い師匠について、その指導の下で師匠の作品づくりの中にはいるのも良いでしょうし、自分でやるなら、良い作品を模写するのです。
今の芸術大学の教育で一番欠けいているのはその部分だと私は思います。
学術の世界では、5%の新しい説が盛り込まれrば大論文だということです。
それまでに、何度も古典的な学説や、他者の論文を研究し、検証するのです。
私たち商売人も先輩から様々なことを学び、繰り返し繰り返し、練習するのです。
同じセールストークを毎日毎日語り続ける。
でも、そこから自分独特の語り口や、テンポが生まれて、味になるわけです。
クラッシックの歌手が上手いのは、良い楽曲を何度も何度も練習するからです。
そうすることによって、自分の出せない声、出せない節回しが出来るようになる。
個性を追求することは、自分を甘やかすことにもなりがちなのです。
『まなぶ』は『まねぶ』から来ています。
『まねぶ』とはまねをすること。
模倣は個性の茶こしなのです!
良いモノを繰り返し模倣することによって、個性は雑味が取れ、より研ぎ澄まされて、さらに湧きいずる泉になり得るのだと思います。
Posted by 渡辺幻門 at 21:47│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。