2012年02月18日
伝統を守り抜く覚悟
午後七時半ころに大阪に帰ってきました。
途中、淡路島で吹雪に遭いましたが、3時間半の予定通りの行程でした。
最近、今の、そして将来の着物市場(しじょう)というものについて考えるのですが、20年前と比べるとかなり変化してきているような気がします。
安価な機械織やインクジェットプリントの着物が出現し、リサイクル着物も出てきました。
これによって、いわゆる『和装』という部分で、あたらしい需要層が形成されたように思います。
そちらのほうが、ネットやメディアでの露出が多く、賑やかなので、目がいってしまいます。
私のような伝統染織に携わる者からすれば、もともとは、別の世界の話だったものが、どんどんそちらに吸い込まれて行ってしまっている、そう感じるようになってきました。
和装の世界も、洋服と同じようにモードをつくり、そちらに消費者を誘導していく。そして、消費者は、自分の感性のままに購入し、次のあたらしいものを求める。
見方によって違うと思いますが、私にはそう見えます。
商人として品物を供給する立場であれば、1人でも多くの人に使ってもらって、喜んでもらいたい、そう思うのが普通です。
私も、そうありたいし、そうしたいと思います。
しかしながら、伝統染織というものの性格、あるいは宿命と言ってもいいでしょうか、それを考えると、考えてしまうのです。
何年か前に、沖縄もずや会のメンバーと共に喜如嘉の芭蕉布工房を訪ねたときの話です。
平良美恵子さんといろいろ話をしていたのですが、その時、私の仲間にしてくれた話が非常に印象に残っているのです。
『機械織が出て、化学繊維がでて、そいういう意味では芭蕉布というのはすでに終わっているんです。でも、私たちは、その終わっている布をずっとやっていかなければならない。それが私たちの仕事だと思っている』
言葉は正確ではないと思いますが、趣旨はこういうことでした。
すごい覚悟、すごい達観だと思います。
着衣という事においては、代替品は数限りなく存在します。
芭蕉布の代替品もそれより安価で気易いものはたくさんあります。
それでも、喜如嘉の芭蕉布工房は、淡々と良い芭蕉布を作り続けるしかないのです。
宮古上布も同じ。八重山上布しかりです。ほかの伝統染織の産地もすべて同じです。
需要があるとか無いとか、多いとか少ないとか、関係ない。
ただひたすらに良いモノをめざして造るしかないのです。
その覚悟を目の前にしては、正直、マーケティング・サイエンスなどは吹き飛んでしまいます。
市場ポートフォリオもへったくれもないのです。
大切な事は、私たち商人も『覚悟』を持ち、『達観』するということなのでしょう。
それでなければ、いかなる戦略論をもってしても、作り手と共に歩むということにはならないでしょう。
私は、作り手が精魂こめて造った品物を受け取ったら、作り手と同じようにただひたすら雨が降ろうが、槍が降ろうが、お客様に勧めるしかないのです。
私が、この業界の一部の不埒な所行に過敏なまでに反応して、暴き立て、糾弾するのは、伝統染織に携わる人達の悲壮なまでの覚悟を知っているからです。
作り手の人達は、抗議する以外、なんの対抗手段ももっていません。伝統染織は技法としても独占できません。せいぜい商標登録です。場合によっては商人の圧力に屈して泣き寝入りということもあります。
この人達の努力はただひたすら良いモノを作り続けると言うことしかないのです。
コピー商品や粗悪品の生産・販売に対して、『市場の要求である』と言う人もいます。
市場とは消費者です。
消費者がそういうモノ=似たようなモノで安いモノ、が欲しいと言っているのだから、いいではないか、ということです。
市場原理主義でいけばそれはそうなのかも知れません。
でも、本物を作り続け、さらにそれを良きモノにしていこうという人は、どうなるのでしょうか。
立場によって、価値観によって感じ方も考え方も違うかもしれません。
でも、私は、本物を作り続けよう、努力していこう、という人と共に歩き、この人達の力となっていきたいと思うのです。
今のまま、つまり市場原理絶対主義、弱肉強食の原理の下では、伝統染織はさらに衰退の一途をたどるでしょう。
もし、そうであったとしても、続けていかねばならない。
なぜなら、作り手がそこにいて、続けていくと覚悟をしているからです。
市場全体の中で、隅っこの隅っこ、針で突いたような小さなマーケットでの話です。
でも、私はここにいます。
二十歳の女の子が『染織をして米寿を迎えたい』と言った、その願いを叶えられるように、道を拓く事を私の一生の仕事としたいと思います。
途中、淡路島で吹雪に遭いましたが、3時間半の予定通りの行程でした。
最近、今の、そして将来の着物市場(しじょう)というものについて考えるのですが、20年前と比べるとかなり変化してきているような気がします。
安価な機械織やインクジェットプリントの着物が出現し、リサイクル着物も出てきました。
これによって、いわゆる『和装』という部分で、あたらしい需要層が形成されたように思います。
そちらのほうが、ネットやメディアでの露出が多く、賑やかなので、目がいってしまいます。
私のような伝統染織に携わる者からすれば、もともとは、別の世界の話だったものが、どんどんそちらに吸い込まれて行ってしまっている、そう感じるようになってきました。
和装の世界も、洋服と同じようにモードをつくり、そちらに消費者を誘導していく。そして、消費者は、自分の感性のままに購入し、次のあたらしいものを求める。
見方によって違うと思いますが、私にはそう見えます。
商人として品物を供給する立場であれば、1人でも多くの人に使ってもらって、喜んでもらいたい、そう思うのが普通です。
私も、そうありたいし、そうしたいと思います。
しかしながら、伝統染織というものの性格、あるいは宿命と言ってもいいでしょうか、それを考えると、考えてしまうのです。
何年か前に、沖縄もずや会のメンバーと共に喜如嘉の芭蕉布工房を訪ねたときの話です。
平良美恵子さんといろいろ話をしていたのですが、その時、私の仲間にしてくれた話が非常に印象に残っているのです。
『機械織が出て、化学繊維がでて、そいういう意味では芭蕉布というのはすでに終わっているんです。でも、私たちは、その終わっている布をずっとやっていかなければならない。それが私たちの仕事だと思っている』
言葉は正確ではないと思いますが、趣旨はこういうことでした。
すごい覚悟、すごい達観だと思います。
着衣という事においては、代替品は数限りなく存在します。
芭蕉布の代替品もそれより安価で気易いものはたくさんあります。
それでも、喜如嘉の芭蕉布工房は、淡々と良い芭蕉布を作り続けるしかないのです。
宮古上布も同じ。八重山上布しかりです。ほかの伝統染織の産地もすべて同じです。
需要があるとか無いとか、多いとか少ないとか、関係ない。
ただひたすらに良いモノをめざして造るしかないのです。
その覚悟を目の前にしては、正直、マーケティング・サイエンスなどは吹き飛んでしまいます。
市場ポートフォリオもへったくれもないのです。
大切な事は、私たち商人も『覚悟』を持ち、『達観』するということなのでしょう。
それでなければ、いかなる戦略論をもってしても、作り手と共に歩むということにはならないでしょう。
私は、作り手が精魂こめて造った品物を受け取ったら、作り手と同じようにただひたすら雨が降ろうが、槍が降ろうが、お客様に勧めるしかないのです。
私が、この業界の一部の不埒な所行に過敏なまでに反応して、暴き立て、糾弾するのは、伝統染織に携わる人達の悲壮なまでの覚悟を知っているからです。
作り手の人達は、抗議する以外、なんの対抗手段ももっていません。伝統染織は技法としても独占できません。せいぜい商標登録です。場合によっては商人の圧力に屈して泣き寝入りということもあります。
この人達の努力はただひたすら良いモノを作り続けると言うことしかないのです。
コピー商品や粗悪品の生産・販売に対して、『市場の要求である』と言う人もいます。
市場とは消費者です。
消費者がそういうモノ=似たようなモノで安いモノ、が欲しいと言っているのだから、いいではないか、ということです。
市場原理主義でいけばそれはそうなのかも知れません。
でも、本物を作り続け、さらにそれを良きモノにしていこうという人は、どうなるのでしょうか。
立場によって、価値観によって感じ方も考え方も違うかもしれません。
でも、私は、本物を作り続けよう、努力していこう、という人と共に歩き、この人達の力となっていきたいと思うのです。
今のまま、つまり市場原理絶対主義、弱肉強食の原理の下では、伝統染織はさらに衰退の一途をたどるでしょう。
もし、そうであったとしても、続けていかねばならない。
なぜなら、作り手がそこにいて、続けていくと覚悟をしているからです。
市場全体の中で、隅っこの隅っこ、針で突いたような小さなマーケットでの話です。
でも、私はここにいます。
二十歳の女の子が『染織をして米寿を迎えたい』と言った、その願いを叶えられるように、道を拓く事を私の一生の仕事としたいと思います。
Posted by 渡辺幻門 at 23:09│Comments(2)
この記事へのコメント
美恵子さんとのお話の中で、私の覚悟もきまりました。
草木の布は終わった繊維ではありますが、どんな化学繊維でも表現できない布の力を当たり前に持つし、全ての繊維の始まりでもあるのがモチベーションの源泉です。
見る人に見分ける見識がなくなりつつある時代だからこそ、しっかりしたものを作る必要があると思います。
Posted by i-jah at 2012年02月19日 10:38
i-jahさん
『もうすでに終わったものなんだ』という所を起点にすれば、腰が据わりますよね。終わった所から何を見いだし、何をするのか。それを愛し、仕事を続けるためにどうするのか。起点をしっかり取れば、歩みも力強いものになると思います。
Posted by mozuya at 2012年02月19日 10:55
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