2011年05月22日
「楠木正成に学ぶ日本の精神」
今日は、勉強会「楠木正成に学ぶ日本の精神」に行ってきました。湊川神社には河内、そして日本の英雄で大忠臣の楠木正成公がまつられています。講演に先立って、神社正殿への参拝と神社内施設の説明をして頂きました。楠木正成は足利尊氏と戦った訳ですから、その後弾圧され、境内にある戦没地には徳川時代になるまで近づくことも出来なかったそうです。境内には墓所もあるのですが、そのお墓を造ったのも徳川光圀で、神社が建立されたのも、明治になってからと言いますから、幕府は無視し続けてきたのですね。この戦没地は西国街道沿いにあるので、幕末の勤王の志士達はそのそばを通って京や江戸に行った。尊皇攘夷思想に少なからず影響を与えているだろうということした。
その後、楠公会館で家村和幸氏の講演。自衛隊に30年おられて、その後兵法を研究しながら、自衛隊での戦術講演などをされているそうです。色々と大楠公の戦術論を聞きながら、最後の質疑応答で質問させてもらいました。
『千早赤坂城の戦いでは、兵站に地元住民の貢献がバックにあり、その他でも同じように河内人の戦への参加が見られる。私たち河内人は帝に危機が迫れば、鋤鍬を捨て、甲冑を着て戦場に赴く気概を持て、と言われる。なにか地域性に対して見解はないか?』
その質問に対して、家村氏はこう答えました。
『日本の国民は、いざとなったら天皇を中心にしてまとまる。それが出来ないのは私利私欲にまみれた平清盛、足利義満、そして菅直人の様な為政者だ。平民はすべからく心の奥底で天皇を敬愛しているはずだ』
まさにそのとおりだと想います。
ただ、堺にルーツを持ち、河内に生を受けた私の考えでは、この地区の人は歴史的にも天皇と特別な関わり方をしてきたし、これからも長い歴の中ではそうなのだろうと想います。神武天皇が樫原神宮で即位し、河内王朝、明日香王朝と天皇の親政が続いた。竹之内街道の建設や東大寺の大仏の建立、そして仁徳・応神天皇陵をはじめとする陵墓の建設にはこの地域の多くの人が協力した。それを『天皇の徳』と考えるのは当然ですが、果たしてそれだけでしょうか。平城京・平安京では藤原氏が権勢をほしいままにしました。それに対して、天皇の親政復活を願ったのが大伴家持が造った万葉集だと言われています。大伴家持の理想は河内王朝にあった、と中西進先生はおっしゃっていました。堺と秦氏の関わりは明らかですし、平安京は秦氏が遷都に応じて明け渡した土地です。
堺は応仁の乱で荒廃した京に変わって繊維業の中心でありましたし、堺市内から金岡地区にかけては今でも金属工業が盛んです。これを少しのばせば竹之内街道です。
楠木正成が挙兵し、利休が秀吉に立ち向かったのは偶然とは想いません。
楠木正成は世阿弥の叔父に当たります。世阿弥はまぎれもなく『秦』姓を名乗っています。つまり秦河勝の子孫だということです。ならば、当然、正茂も秦氏ということになります。
天皇と秦氏の関わり。
そして、秦氏=ユダヤ人説。
すべてを総合して考えるとつじつまが合うではありませんか。
八切止男氏は、『16世紀までの戦争はすべて宗教戦争だ』と言っています。はずれていないと想います。
歴史は必然であり、なるべくしてなったのだとの感を私は強くしています。
その後、楠公会館で家村和幸氏の講演。自衛隊に30年おられて、その後兵法を研究しながら、自衛隊での戦術講演などをされているそうです。色々と大楠公の戦術論を聞きながら、最後の質疑応答で質問させてもらいました。
『千早赤坂城の戦いでは、兵站に地元住民の貢献がバックにあり、その他でも同じように河内人の戦への参加が見られる。私たち河内人は帝に危機が迫れば、鋤鍬を捨て、甲冑を着て戦場に赴く気概を持て、と言われる。なにか地域性に対して見解はないか?』
その質問に対して、家村氏はこう答えました。
『日本の国民は、いざとなったら天皇を中心にしてまとまる。それが出来ないのは私利私欲にまみれた平清盛、足利義満、そして菅直人の様な為政者だ。平民はすべからく心の奥底で天皇を敬愛しているはずだ』
まさにそのとおりだと想います。
ただ、堺にルーツを持ち、河内に生を受けた私の考えでは、この地区の人は歴史的にも天皇と特別な関わり方をしてきたし、これからも長い歴の中ではそうなのだろうと想います。神武天皇が樫原神宮で即位し、河内王朝、明日香王朝と天皇の親政が続いた。竹之内街道の建設や東大寺の大仏の建立、そして仁徳・応神天皇陵をはじめとする陵墓の建設にはこの地域の多くの人が協力した。それを『天皇の徳』と考えるのは当然ですが、果たしてそれだけでしょうか。平城京・平安京では藤原氏が権勢をほしいままにしました。それに対して、天皇の親政復活を願ったのが大伴家持が造った万葉集だと言われています。大伴家持の理想は河内王朝にあった、と中西進先生はおっしゃっていました。堺と秦氏の関わりは明らかですし、平安京は秦氏が遷都に応じて明け渡した土地です。
堺は応仁の乱で荒廃した京に変わって繊維業の中心でありましたし、堺市内から金岡地区にかけては今でも金属工業が盛んです。これを少しのばせば竹之内街道です。
楠木正成が挙兵し、利休が秀吉に立ち向かったのは偶然とは想いません。
楠木正成は世阿弥の叔父に当たります。世阿弥はまぎれもなく『秦』姓を名乗っています。つまり秦河勝の子孫だということです。ならば、当然、正茂も秦氏ということになります。
天皇と秦氏の関わり。
そして、秦氏=ユダヤ人説。
すべてを総合して考えるとつじつまが合うではありませんか。
八切止男氏は、『16世紀までの戦争はすべて宗教戦争だ』と言っています。はずれていないと想います。
歴史は必然であり、なるべくしてなったのだとの感を私は強くしています。
Posted by 渡辺幻門 at 21:50│Comments(0)
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