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  | 羽曳野市

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2009年06月15日

汚れっちまった悲しみに

とは、山口県山口市に生まれた中原中也の詩です。

今、100年に一度の不況の中で、汚れちまった人を沢山見ます。

前に紹介したサミュエルスマイルズの『品性論』の中で、『人間の目標は信念と誠意をもって生きる、ということであり、人生の価値は、死の床でそれが達成できたかどうかだ』と書いてありましたが、一つの信念に基づいて、一生それを貫いて生きていくと言うことは、それだけ難しい事なのです。私たち商人なら、お金儲けということが大きな目標なのですが、それは一攫千金や濡れ手で粟という状態でも手に入ることがあります。しかし、死の床について、自らの信念を貫き通せたと思える為には、一点の曇りもあってはならない。生きている間ずっと課題としてつきまとう課題なのです。そういう意味では、汚れないで清らかな誠を貫徹する人生を追求するということは、人生自体を修行としてとらえる必要があるのだろうと思います。

そういう天高き理想を追い求める人への悪魔のささやきとは何かと言えば、欲以外の何物でもありません。金銭欲、物欲、名誉欲、性欲・・・数限りない欲=煩悩が人間を汚れた道に誘い込もうとします。そして、人間は次第に麻痺し、汚れたことにさえ気づかないようになってしまいます。

今の世の中においては、そういう気高き聖人を見ることができなくなってしまいました。しかし、かつては国民から心から尊敬される人が存在したのです。そして、そういう生き方が美しい生き方の模範とされていたのでした。それは本で読まなくとも、親子の会話や学校の先生とのふれあいの中で、いわば口伝という形で伝えられてきたのです。

 それがいつの間にか、金やモノで動く人間を礼賛する世の中になってしまいました。私の幼少の頃は、金で動かない人間こそ価値のある人間と教えられたものです。プロ野球選手は育ててもらったチームへの恩義も忘れ後ろ足で砂をかけるようにして、メジャーへいく。大阪府の前知事は府民に多大な迷惑をかけておきながら、莫大な退職金を得、その返還要求を無視する。

 心を軽んずる時代に、心を病むのは当然の帰結です。
政治家、実業家、その他それぞれの持ち場にいる人たちが、清く正しく生きることを目標とする世の中ならば、今回の経済危機もなかったのではないかと思いますし、今の政治の乱れもあり得なかったのではないでしょうか。

 私も含め、清廉潔白であり続けると言うことは非常に難しく、時には誘惑に駆られる事も多々あります。罪を犯してしまうこともあるでしょう。でも、清く正しく生きていかねばならない、そういう気概をもって人生を乗り切っていくことが何より大切な事なのではないかと私は想うのです。

 これから何度も汚れちまいそうになるでしょうけど、もし汚れても腐らない様に生きていかねばならない、そう思うこの頃です。
Posted by 渡辺幻門 at 16:49│Comments(0)
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