2011年10月13日
花倉織のはなし
花倉織というのは、ご存じの通り、首里の織物の技法のひとつで、花織と絽織が併用されたものを言います。
ところが、これにはちょっと注意が必要です。
まず、『花倉織』という名前は本場首里の織物保存会が商標登録しているので、基本的にはこの保存会の人しか使えません。
しかし、首里織の範疇の中では使用が許されていて、首里織の作家さんはこの商標を使うことができます。
ですから、同じ技法でも、南風原や読谷、もちろん、沖縄以外の産地で作った物は花倉織とは表示出来ないわけです。
そして、花倉織とは、花織と絽織が市松の状態になったもののみを言うのであって、『一絽』と言われる、
横一線に耳から耳まで入った絽織のものは同じく花絽織と表示せねばいけない事になっています。
このデザインは故大城志津子先生が、ベルリンの博物館の収蔵品の中から発見したと聞いています。
ある人の話では、昔、『角(かど)』の事を首里では『倉(くら)』と言ったそうで、その事から来ているらしい、と言うことでした。
話を整理すると、花織と絽織が市松に配置されている首里織の範疇に入るものだけが『花倉織』でそれ以外は、技法が同じでも
『花絽織』と表示せねばならないということです。
前に、ある京都のメーカーが同じ組織をつかって襦袢をつくり、花倉織と表示していたので、事情を話して
『こんなん出してはったら、○○の暖簾に傷つきまっせ』と言っておきました。それ以来、名前を変えたか、生産をやめたか
どちらかだと信じています。
まぁ、沖縄物をやっていない業者が間違っても仕方がないとしても、主力、あるいは、そこそこ力を入れて扱っているお店が
間違うというのは、勉強不足というか、インチキだと言われても仕方ないでしょうね。
この業界は自浄作用がないというか、みんなどこかで繋がっているので、悪行や無知を指摘しない傾向が強いのです。
私は着物を愛してくれる消費者の方々が安心して着物が買えるように、そして正直に頑張る生産者が報われるように、
環境を整えていきたいと想うのですが、多勢に無勢です。
悪貨が良貨を駆逐するという逆選択は、消費者の情報不足から来るのです。
つまり業者と消費者の情報の非対称性が逆選択を生むということですから、それを是正すれば、逆選択は起こらない。
そのためには、私も沖縄以外のものにも勉強を広げなければなりませんが、これがまた大変です。
各産地に同じ志を持つ人が一人ずつ居れば、もっとこの業界はよくなるし、着物ファンも増えると私は思うのです。
ところが、これにはちょっと注意が必要です。
まず、『花倉織』という名前は本場首里の織物保存会が商標登録しているので、基本的にはこの保存会の人しか使えません。
しかし、首里織の範疇の中では使用が許されていて、首里織の作家さんはこの商標を使うことができます。
ですから、同じ技法でも、南風原や読谷、もちろん、沖縄以外の産地で作った物は花倉織とは表示出来ないわけです。
そして、花倉織とは、花織と絽織が市松の状態になったもののみを言うのであって、『一絽』と言われる、
横一線に耳から耳まで入った絽織のものは同じく花絽織と表示せねばいけない事になっています。
このデザインは故大城志津子先生が、ベルリンの博物館の収蔵品の中から発見したと聞いています。
ある人の話では、昔、『角(かど)』の事を首里では『倉(くら)』と言ったそうで、その事から来ているらしい、と言うことでした。
話を整理すると、花織と絽織が市松に配置されている首里織の範疇に入るものだけが『花倉織』でそれ以外は、技法が同じでも
『花絽織』と表示せねばならないということです。
前に、ある京都のメーカーが同じ組織をつかって襦袢をつくり、花倉織と表示していたので、事情を話して
『こんなん出してはったら、○○の暖簾に傷つきまっせ』と言っておきました。それ以来、名前を変えたか、生産をやめたか
どちらかだと信じています。
まぁ、沖縄物をやっていない業者が間違っても仕方がないとしても、主力、あるいは、そこそこ力を入れて扱っているお店が
間違うというのは、勉強不足というか、インチキだと言われても仕方ないでしょうね。
この業界は自浄作用がないというか、みんなどこかで繋がっているので、悪行や無知を指摘しない傾向が強いのです。
私は着物を愛してくれる消費者の方々が安心して着物が買えるように、そして正直に頑張る生産者が報われるように、
環境を整えていきたいと想うのですが、多勢に無勢です。
悪貨が良貨を駆逐するという逆選択は、消費者の情報不足から来るのです。
つまり業者と消費者の情報の非対称性が逆選択を生むということですから、それを是正すれば、逆選択は起こらない。
そのためには、私も沖縄以外のものにも勉強を広げなければなりませんが、これがまた大変です。
各産地に同じ志を持つ人が一人ずつ居れば、もっとこの業界はよくなるし、着物ファンも増えると私は思うのです。
Posted by 渡辺幻門 at
23:31
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2011年10月13日
花倉織のはなし
花倉織というのは、ご存じの通り、首里の織物の技法のひとつで、花織と絽織が併用されたものを言います。
ところが、これにはちょっと注意が必要です。
まず、『花倉織』という名前は本場首里の織物保存会が商標登録しているので、基本的にはこの保存会の人しか使えません。
しかし、首里織の範疇の中では使用が許されていて、首里織の作家さんはこの商標を使うことができます。
ですから、同じ技法でも、南風原や読谷、もちろん、沖縄以外の産地で作った物は花倉織とは表示出来ないわけです。
そして、花倉織とは、花織と絽織が市松の状態になったもののみを言うのであって、『一絽』と言われる、
横一線に耳から耳まで入った絽織のものは同じく花絽織と表示せねばいけない事になっています。
このデザインは故大城志津子先生が、ベルリンの博物館の収蔵品の中から発見したと聞いています。
ある人の話では、昔、『角(かど)』の事を首里では『倉(くら)』と言ったそうで、その事から来ているらしい、と言うことでした。
話を整理すると、花織と絽織が市松に配置されている首里織の範疇に入るものだけが『花倉織』でそれ以外は、技法が同じでも
『花絽織』と表示せねばならないということです。
前に、ある京都のメーカーが同じ組織をつかって襦袢をつくり、花倉織と表示していたので、事情を話して
『こんなん出してはったら、○○の暖簾に傷つきまっせ』と言っておきました。それ以来、名前を変えたか、生産をやめたか
どちらかだと信じています。
まぁ、沖縄物をやっていない業者が間違っても仕方がないとしても、主力、あるいは、そこそこ力を入れて扱っているお店が
間違うというのは、勉強不足というか、インチキだと言われても仕方ないでしょうね。
この業界は自浄作用がないというか、みんなどこかで繋がっているので、悪行や無知を指摘しない傾向が強いのです。
私は着物を愛してくれる消費者の方々が安心して着物が買えるように、そして正直に頑張る生産者が報われるように、
環境を整えていきたいと想うのですが、多勢に無勢です。
悪貨が良貨を駆逐するという逆選択は、消費者の情報不足から来るのです。
つまり業者と消費者の情報の非対称性が逆選択を生むということですから、それを是正すれば、逆選択は起こらない。
そのためには、私も沖縄以外のものにも勉強を広げなければなりませんが、これがまた大変です。
各産地に同じ志を持つ人が一人ずつ居れば、もっとこの業界はよくなるし、着物ファンも増えると私は思うのです。
ところが、これにはちょっと注意が必要です。
まず、『花倉織』という名前は本場首里の織物保存会が商標登録しているので、基本的にはこの保存会の人しか使えません。
しかし、首里織の範疇の中では使用が許されていて、首里織の作家さんはこの商標を使うことができます。
ですから、同じ技法でも、南風原や読谷、もちろん、沖縄以外の産地で作った物は花倉織とは表示出来ないわけです。
そして、花倉織とは、花織と絽織が市松の状態になったもののみを言うのであって、『一絽』と言われる、
横一線に耳から耳まで入った絽織のものは同じく花絽織と表示せねばいけない事になっています。
このデザインは故大城志津子先生が、ベルリンの博物館の収蔵品の中から発見したと聞いています。
ある人の話では、昔、『角(かど)』の事を首里では『倉(くら)』と言ったそうで、その事から来ているらしい、と言うことでした。
話を整理すると、花織と絽織が市松に配置されている首里織の範疇に入るものだけが『花倉織』でそれ以外は、技法が同じでも
『花絽織』と表示せねばならないということです。
前に、ある京都のメーカーが同じ組織をつかって襦袢をつくり、花倉織と表示していたので、事情を話して
『こんなん出してはったら、○○の暖簾に傷つきまっせ』と言っておきました。それ以来、名前を変えたか、生産をやめたか
どちらかだと信じています。
まぁ、沖縄物をやっていない業者が間違っても仕方がないとしても、主力、あるいは、そこそこ力を入れて扱っているお店が
間違うというのは、勉強不足というか、インチキだと言われても仕方ないでしょうね。
この業界は自浄作用がないというか、みんなどこかで繋がっているので、悪行や無知を指摘しない傾向が強いのです。
私は着物を愛してくれる消費者の方々が安心して着物が買えるように、そして正直に頑張る生産者が報われるように、
環境を整えていきたいと想うのですが、多勢に無勢です。
悪貨が良貨を駆逐するという逆選択は、消費者の情報不足から来るのです。
つまり業者と消費者の情報の非対称性が逆選択を生むということですから、それを是正すれば、逆選択は起こらない。
そのためには、私も沖縄以外のものにも勉強を広げなければなりませんが、これがまた大変です。
各産地に同じ志を持つ人が一人ずつ居れば、もっとこの業界はよくなるし、着物ファンも増えると私は思うのです。
Posted by 渡辺幻門 at
23:31
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2011年10月13日
福沢晩年の憂い
☆☆☆全国通信三田会2010年秋期幹事会記念講演要旨☆☆☆
福沢諭吉の文明論
―特に地方への眼差し―
慶應義塾福沢研究センター 都倉 武之 先生
福沢晩年の憂い
その観点から考えますと、福沢は大満足で生涯を終えていったわけではないようです。むしろその逆で、自分の言葉に従って実業界に進んだ多くの門下生たち、あるいはその人たちを中心に、いよいよ盛んになってきた日本の実業界の人士のあり方に、強い不満を持ちながら生涯を終えていったようです。名を上げた実業家には、日々酒池肉林の宴会を繰り広げ、自分たちだけが良ければ良いという商売に走ってしまった人たちもいました。福沢は智と徳のうち、これまでの日本は儒教ばかり勉強していて十分徳(モラル)を備えているから、むしろ智を備えなければと『文明論之概略』では智を強調していますが、彼らの実践に徳が大きく欠けてしまったことに大変失望したようです。最晩年の福沢は、信頼する門下生を全国に派遣して、「独立自尊」という語を柱とするモラル向上の運動を開始しまして、最晩年には慶應義塾を解散してその売却資金をその運動にあてようと主張したこともあったという記録があります。晩年の福沢はそれほどに実業界あるいは日本の智徳の状態に危機感を抱いて亡くなったようです。『福翁自伝』の最後には、人生愉快でたまらなかったというように書いているんですが、実は自分の思想を受け継いだという門下生たちが自分の考え方を十分に理解しておらず、社会において違うことをしているのではないかという違和感を強く持っていたということが、様々な資料から明らかになってきています。
「衆心発達」を目指し、広く人々が高め合っていく状態が「文明」であり、慶應義塾出身者はその先導者でなければならないと考えた福沢でしたが、果たして福沢のいう「文明」は今日の日本にあるのでしょうか。また慶應義塾出身者はその担い手になり得ていると言えるでしょうか。時代状況が随分変わっているとはいえ、現状に卑屈にならず、自ら考え行動する精神的独立を保ち、なおかつ経済的にも独立した、真の独立した個人になっているだろうか、そういうことを今一度考えることは、慶應義塾出身者にとって無意味ではないと思います。独立した個人の全国各地での主体的な活動、社会活動によって、日本全体を高めていく、そういった成熟した民間の姿をいま我々は実践しているだろうか、そういうことを創立者を知ることによって身近に考える機会を持てるということ、それを慶應義塾出身者はもっと活かしても良いのではないかと思います。「独立」した「民」が育つところに「文明」があり、そこに人々の幸福もあると福沢は考えました。福沢という人は「独立」や「文明」というものを、どこか遠くの話ではなく、身近な自分の問題として時に思い返して考えるという、今日なお新しい問題を提起し続けてくれています。
Posted by 渡辺幻門 at
22:09
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2011年10月13日
福沢晩年の憂い
☆☆☆全国通信三田会2010年秋期幹事会記念講演要旨☆☆☆
福沢諭吉の文明論
―特に地方への眼差し―
慶應義塾福沢研究センター 都倉 武之 先生
福沢晩年の憂い
その観点から考えますと、福沢は大満足で生涯を終えていったわけではないようです。むしろその逆で、自分の言葉に従って実業界に進んだ多くの門下生たち、あるいはその人たちを中心に、いよいよ盛んになってきた日本の実業界の人士のあり方に、強い不満を持ちながら生涯を終えていったようです。名を上げた実業家には、日々酒池肉林の宴会を繰り広げ、自分たちだけが良ければ良いという商売に走ってしまった人たちもいました。福沢は智と徳のうち、これまでの日本は儒教ばかり勉強していて十分徳(モラル)を備えているから、むしろ智を備えなければと『文明論之概略』では智を強調していますが、彼らの実践に徳が大きく欠けてしまったことに大変失望したようです。最晩年の福沢は、信頼する門下生を全国に派遣して、「独立自尊」という語を柱とするモラル向上の運動を開始しまして、最晩年には慶應義塾を解散してその売却資金をその運動にあてようと主張したこともあったという記録があります。晩年の福沢はそれほどに実業界あるいは日本の智徳の状態に危機感を抱いて亡くなったようです。『福翁自伝』の最後には、人生愉快でたまらなかったというように書いているんですが、実は自分の思想を受け継いだという門下生たちが自分の考え方を十分に理解しておらず、社会において違うことをしているのではないかという違和感を強く持っていたということが、様々な資料から明らかになってきています。
「衆心発達」を目指し、広く人々が高め合っていく状態が「文明」であり、慶應義塾出身者はその先導者でなければならないと考えた福沢でしたが、果たして福沢のいう「文明」は今日の日本にあるのでしょうか。また慶應義塾出身者はその担い手になり得ていると言えるでしょうか。時代状況が随分変わっているとはいえ、現状に卑屈にならず、自ら考え行動する精神的独立を保ち、なおかつ経済的にも独立した、真の独立した個人になっているだろうか、そういうことを今一度考えることは、慶應義塾出身者にとって無意味ではないと思います。独立した個人の全国各地での主体的な活動、社会活動によって、日本全体を高めていく、そういった成熟した民間の姿をいま我々は実践しているだろうか、そういうことを創立者を知ることによって身近に考える機会を持てるということ、それを慶應義塾出身者はもっと活かしても良いのではないかと思います。「独立」した「民」が育つところに「文明」があり、そこに人々の幸福もあると福沢は考えました。福沢という人は「独立」や「文明」というものを、どこか遠くの話ではなく、身近な自分の問題として時に思い返して考えるという、今日なお新しい問題を提起し続けてくれています。
Posted by 渡辺幻門 at
22:09
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