2011年11月08日
もずやと学ぶ染織マーケティング<37回目>
11−2 産業の離陸?ーデファクトスタンダード
11−3 産業の離陸?ー拡張製品
11−4 産業の成長期
11−5 産業の成熟期と衰退期
もう、すっとばして行きますよ(^_^)
着物、というより伝統染織市場は、もうとっくに衰退期に入っています。
伝統工芸の中で、ライフスタイルが大きく変化しているのにもかかわらず、まだ業界を維持しているというのはある意味で驚異的だと想います。
陶磁器や漆器は家庭用品や美術工芸の分野に総括されてしまっています。
金属器もそうですね。ありとあらゆる伝統工芸品で、デパートで単独で売場を持って居るというのは着物だけです。
これには、表裏、いろんな要因があると想います。
呉服屋出身のデパートが多いというのもあるでしょうが、それだけが理由ではありません。
大きな理由としては、利幅が大きい事、集散地が京都・東京に極地化している事、扱いやメンテナンスが難しい事などがあると想います。
着物業界はもっと着物の振興に努力すべきだ、とずっと言われてきましたが、善悪は別として、伝統工芸の中で
これほど販売促進に努力している品目はないと想います。
日常使われることもなく、鑑賞用として飾られることもないのに、単独の売場、単独の店舗がまだ数多くある。
これはある意味驚異的と言えるのではないでしょうか。
陶磁器や金属工芸、漆器などが単独で大きな催事をしたという話も聞いたことがありません。
着物だけがなぜ、例外なのか?
ここを考えて見なければなりません。
沖縄の人なら、同じ伝統工芸に携わっている陶芸家や木工、漆器の人がどれだけ苦労しているかよく分かると想います。
ここで、ちょっと参考になるのが、デファクトスタンダードというものです。
事実上の標準規格という事ですね。
教科書で書かれているのはVTRにおけるVHSですね。昔は一時期ベータとうのもあったのです。
それがいつのまにかVHS一色になった。
だれかが始めに決めたのでも、唯一の再生技術であったわけでもないですが、事実上の標準になった。
これがデファクトスタンダードです。
着物は、といえば、全てがデファクトスタンダードですね。
仕立て方法、帯の合わせ方、小物にいたるまで、一応標準=きまり・しきたりというものがあります。
そういう標準化された市場の中に、絶対的ブランドがあるわけです。
『京都』ブランドですね。
加賀や沖縄が束になってかかっても、まったく勝ち目のない、圧倒的ブランドです。
京都=高級品という事になっています。
その中に、さらに人間国宝や皇室御用達、宮内庁御用達なんていうのもある。
スーパーブランドですね。
そこに絹製品=高い、手作り=高い、という付加価値が付いてきます。
京都で、絹で、手作りで、当然高い。
その中で、スーパーブランドは特別に高くて当たり前だ。
ということになっているわけです。
いろんな意味で、着物は超スーパー付加価値のかたまり、ということです。
他の工芸品も本当はそうなんですね。同じ事です。
ところが、他の工芸品は、一部の好事家しか購入しないのです。
お金があっても、なにかの記念に1000万円の壺を買おうという人は滅多にいない。
買うのは、『違いのわかる人』という事になります。
美術=絵画・彫刻などは、投機目的というのがあって、そのせいで作家名で値段があがり、市場がふくれあがる。
しかし、国内の伝統工芸品を投機目的で買う人はいないでしょう。
着物は超スーパー付加価値のかたまりですから、和文化に興味がある女性なら、一度は着てみたい。
お金があれば、良い物を着たい、と想うのは当たり前です。
ところが、着物を含め、繊維製品の善し悪しはそう簡単に見分けられるモノではありません。
市場が成熟し、デファクトスタンダードが確立しているにも関わらず、消費者の眼は全体としては好事家の域には達していない。
そして、市場の大半を女性が占めている、これも大きな特徴です。
市場が成熟して本物志向にならねばならないのに、現実には感性消費市場になっている。
そして、問題は、超スーパー付加価値のほとんどが感性を刺激するために、偽造・悪用されている、という事です。
超スーパー付加価値をバックにして、その周辺部分が巨大化している。
その周辺部分を享受することで、消費者は満足している。
着物を着るのではなく、着物を着ている気分や、環境を愛している、これが着物独特の魅力であるわけです。
あらゆる消費の主体は女性ですから、市場が他に比して大きくなるのは必然です。
供給側もそれをよく知っているから、本体をつくらずに、その付加価値のみを捏造するという事も出てくるわけですね。
私はその業界の中にいて、現実を見る度に、愕然とし、絶望もし、作り手のみなさんとどこへ向かって進んでいけばいいのか、と頭を抱える毎日です。
このマーケティングの話も終盤に入って、弱音を吐くようですが、基本的には『達観』するしかないのだろうと想います。
自分が良いと思う物を楽しく、精魂こめて、笑顔で作り続ける。
まわりの環境がいかに腐っていても、どんなに安物がはびこっていても、良い物はやっぱり良い。
良い物は必ず売れていくのです。そして、消費者に愛用されるのです。
結論は消費者が出してくれます。
ですから、何度か着たら、古着屋に売られるような作品ではなく、いつまでも手元にとどめて愛用していたけるような作品を作ろうではないですか。
そして、『どこの大作家が作った』という話ではなく、着やすいとか、美しいとか、本当の愛着を語ってもらえるような物作りをしましょう。
伝統工芸に身を置くみなさんは、その土地、そして自分の故郷の伝統を引き受けているのです。
それは、みなさんの誇りそのものなのです。
11−3 産業の離陸?ー拡張製品
11−4 産業の成長期
11−5 産業の成熟期と衰退期
もう、すっとばして行きますよ(^_^)
着物、というより伝統染織市場は、もうとっくに衰退期に入っています。
伝統工芸の中で、ライフスタイルが大きく変化しているのにもかかわらず、まだ業界を維持しているというのはある意味で驚異的だと想います。
陶磁器や漆器は家庭用品や美術工芸の分野に総括されてしまっています。
金属器もそうですね。ありとあらゆる伝統工芸品で、デパートで単独で売場を持って居るというのは着物だけです。
これには、表裏、いろんな要因があると想います。
呉服屋出身のデパートが多いというのもあるでしょうが、それだけが理由ではありません。
大きな理由としては、利幅が大きい事、集散地が京都・東京に極地化している事、扱いやメンテナンスが難しい事などがあると想います。
着物業界はもっと着物の振興に努力すべきだ、とずっと言われてきましたが、善悪は別として、伝統工芸の中で
これほど販売促進に努力している品目はないと想います。
日常使われることもなく、鑑賞用として飾られることもないのに、単独の売場、単独の店舗がまだ数多くある。
これはある意味驚異的と言えるのではないでしょうか。
陶磁器や金属工芸、漆器などが単独で大きな催事をしたという話も聞いたことがありません。
着物だけがなぜ、例外なのか?
ここを考えて見なければなりません。
沖縄の人なら、同じ伝統工芸に携わっている陶芸家や木工、漆器の人がどれだけ苦労しているかよく分かると想います。
ここで、ちょっと参考になるのが、デファクトスタンダードというものです。
事実上の標準規格という事ですね。
教科書で書かれているのはVTRにおけるVHSですね。昔は一時期ベータとうのもあったのです。
それがいつのまにかVHS一色になった。
だれかが始めに決めたのでも、唯一の再生技術であったわけでもないですが、事実上の標準になった。
これがデファクトスタンダードです。
着物は、といえば、全てがデファクトスタンダードですね。
仕立て方法、帯の合わせ方、小物にいたるまで、一応標準=きまり・しきたりというものがあります。
そういう標準化された市場の中に、絶対的ブランドがあるわけです。
『京都』ブランドですね。
加賀や沖縄が束になってかかっても、まったく勝ち目のない、圧倒的ブランドです。
京都=高級品という事になっています。
その中に、さらに人間国宝や皇室御用達、宮内庁御用達なんていうのもある。
スーパーブランドですね。
そこに絹製品=高い、手作り=高い、という付加価値が付いてきます。
京都で、絹で、手作りで、当然高い。
その中で、スーパーブランドは特別に高くて当たり前だ。
ということになっているわけです。
いろんな意味で、着物は超スーパー付加価値のかたまり、ということです。
他の工芸品も本当はそうなんですね。同じ事です。
ところが、他の工芸品は、一部の好事家しか購入しないのです。
お金があっても、なにかの記念に1000万円の壺を買おうという人は滅多にいない。
買うのは、『違いのわかる人』という事になります。
美術=絵画・彫刻などは、投機目的というのがあって、そのせいで作家名で値段があがり、市場がふくれあがる。
しかし、国内の伝統工芸品を投機目的で買う人はいないでしょう。
着物は超スーパー付加価値のかたまりですから、和文化に興味がある女性なら、一度は着てみたい。
お金があれば、良い物を着たい、と想うのは当たり前です。
ところが、着物を含め、繊維製品の善し悪しはそう簡単に見分けられるモノではありません。
市場が成熟し、デファクトスタンダードが確立しているにも関わらず、消費者の眼は全体としては好事家の域には達していない。
そして、市場の大半を女性が占めている、これも大きな特徴です。
市場が成熟して本物志向にならねばならないのに、現実には感性消費市場になっている。
そして、問題は、超スーパー付加価値のほとんどが感性を刺激するために、偽造・悪用されている、という事です。
超スーパー付加価値をバックにして、その周辺部分が巨大化している。
その周辺部分を享受することで、消費者は満足している。
着物を着るのではなく、着物を着ている気分や、環境を愛している、これが着物独特の魅力であるわけです。
あらゆる消費の主体は女性ですから、市場が他に比して大きくなるのは必然です。
供給側もそれをよく知っているから、本体をつくらずに、その付加価値のみを捏造するという事も出てくるわけですね。
私はその業界の中にいて、現実を見る度に、愕然とし、絶望もし、作り手のみなさんとどこへ向かって進んでいけばいいのか、と頭を抱える毎日です。
このマーケティングの話も終盤に入って、弱音を吐くようですが、基本的には『達観』するしかないのだろうと想います。
自分が良いと思う物を楽しく、精魂こめて、笑顔で作り続ける。
まわりの環境がいかに腐っていても、どんなに安物がはびこっていても、良い物はやっぱり良い。
良い物は必ず売れていくのです。そして、消費者に愛用されるのです。
結論は消費者が出してくれます。
ですから、何度か着たら、古着屋に売られるような作品ではなく、いつまでも手元にとどめて愛用していたけるような作品を作ろうではないですか。
そして、『どこの大作家が作った』という話ではなく、着やすいとか、美しいとか、本当の愛着を語ってもらえるような物作りをしましょう。
伝統工芸に身を置くみなさんは、その土地、そして自分の故郷の伝統を引き受けているのです。
それは、みなさんの誇りそのものなのです。
Posted by 渡辺幻門 at 11:52│Comments(1)
│染織マーケティング
この記事へのコメント
すみませんここを見逃していました。
できれば公開したくないのでコメント欄に反映させないで頂きたいのですが・・
沖縄の陶芸に関しては、壺屋が存在し、その上読谷工芸村であのように大きな規模でお弟子さんも何名も抱えてしかも何軒も、何故この時期やっていけるのかが染織から見ると不思議でなりません。単価が安い分需要がある?材料費がかからない?いろいろ要員はあると思いますが、学ぶべきヒントがあるようにも思いますがアプローチの方法が今のところ見つかりません。
着物がムードの商品であることは服飾の一アイテムなので納得しなければならないのですが、なぜ草を植える段階から糸にして織るという作業にハマってしまったかと考えると、モノづくりの原点であるという他にも、手で作業してここまでできるという誇り、少し前まではみんながこれをやっていたという歴史、そして、出来上がってきた布には、もう一般的には感じることも忘れてしまった布の力強さが、作り手の自己満足でしかないと言われればそれまでですが、明かに力のある布として感じられるからです。
で、これを感じるようになると、紡績糸の混織との違いが見えてくるし、絹に関しても、真綿紬のものは見えるようになる、機械で作った糸との違い、本物の布が見える感性が自然とみにつくのです。
Posted by i-jah at 2011年11月24日 10:07
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