2009年06月15日
で、マーケティングではどう考えるか?
マーケティングというのは市場調査とか販売戦略に捉えられがちですが、それは狭義で、私たち村田派?マーケターの考え方は全く違います。マーケティングとは『問題解決志向』であると概念的に捉えるのが適当だと思います。マーケティングはサイエンスかアート(技術)かという論議がありますが、そんな物はナンセンスで、マーケティングとは狭義にはアートであり、way of thinkingなのです。
物・サービスが消費者に行く。消費者から代償として代金や反応が返ってくる。その結果を見て、物・サービスを作り替える。そしてまた消費者から・・・その繰り返し。そのたびに必要とされる問題に対して具体的に一つずつ解決案を出していこう、そして、その未来像も描き出そうというのがマーケティングの基本的枠組みです。戦略的ドメインの選定とか消費者細分化とか競争対抗戦略とかいろいろなマーケティングセオリーはあるのですが、それはあくまで『戦略』に位置するもので、『戦術』となるとまた状況に合わせたこまごまとした対応や作戦、対策が必要となってきます。マーケティングでは戦略は長期的なもの、戦術は短期的な物と定義しています。
で、その問題解決志向の論理展開ですが、簡単に言えば、起承転結で進みます。現状把握→問題点の抽出→その問題点に対する具体的施策→展望、というのが基本的な思考の仕方です。現状把握が緻密であり、問題点の抽出が抽象的で的を得ていないと、その後の具体的施策の提案が甘くなったり、的外れになったりするので、まず、今をどう捉えるのかが一番大切な問題なのです。そのためには、最後の展望につながる自らの描く理想像が必要となってきます。
『マーケティングは愛である』『恋愛もマーケティングである』とうのがキザな村田先生の持論で、自分をいかに売り込み、その結果どういう関係に持って行きたいのか、どういう付き合いを思い描いてその女性にアプローチし、愛情を表現するのか。そのために自分がすべきことは何か?それをフィードバックしながら前に進んでいく、すなわち恋愛こそがマーケティングの原型なのだと言うことです。
これを私たちはマーケティング志向というのですが、理路整然とした理論もなく、この思考方法は主にマーケターのマインドによって大きく左右されます。
前の日記で書いたヘッジファンドへの投資はヘッジファンドが全く情報公開をしていないという事ですから、現状把握も予想も無理なわけで、丸投げにしてしまった年金基金の自業自得と言われてもしかたないでしょう。なるべくしてなった、としいいようがないのです。
経験則に学べば、今回の事は予測できたわけですし、私が運用担当者なら、銀行金利が下げられた時点で、運用実績は下がるのが当然。リスクをとるよりも受給者に理解を得て、場合によっては基金を解散するくらいの勇気も必要だったのではないでしょうか?この自体は、『失敗してもヒトの金』という安易さの結末とは言えないでしょうか?
物・サービスが消費者に行く。消費者から代償として代金や反応が返ってくる。その結果を見て、物・サービスを作り替える。そしてまた消費者から・・・その繰り返し。そのたびに必要とされる問題に対して具体的に一つずつ解決案を出していこう、そして、その未来像も描き出そうというのがマーケティングの基本的枠組みです。戦略的ドメインの選定とか消費者細分化とか競争対抗戦略とかいろいろなマーケティングセオリーはあるのですが、それはあくまで『戦略』に位置するもので、『戦術』となるとまた状況に合わせたこまごまとした対応や作戦、対策が必要となってきます。マーケティングでは戦略は長期的なもの、戦術は短期的な物と定義しています。
で、その問題解決志向の論理展開ですが、簡単に言えば、起承転結で進みます。現状把握→問題点の抽出→その問題点に対する具体的施策→展望、というのが基本的な思考の仕方です。現状把握が緻密であり、問題点の抽出が抽象的で的を得ていないと、その後の具体的施策の提案が甘くなったり、的外れになったりするので、まず、今をどう捉えるのかが一番大切な問題なのです。そのためには、最後の展望につながる自らの描く理想像が必要となってきます。
『マーケティングは愛である』『恋愛もマーケティングである』とうのがキザな村田先生の持論で、自分をいかに売り込み、その結果どういう関係に持って行きたいのか、どういう付き合いを思い描いてその女性にアプローチし、愛情を表現するのか。そのために自分がすべきことは何か?それをフィードバックしながら前に進んでいく、すなわち恋愛こそがマーケティングの原型なのだと言うことです。
これを私たちはマーケティング志向というのですが、理路整然とした理論もなく、この思考方法は主にマーケターのマインドによって大きく左右されます。
前の日記で書いたヘッジファンドへの投資はヘッジファンドが全く情報公開をしていないという事ですから、現状把握も予想も無理なわけで、丸投げにしてしまった年金基金の自業自得と言われてもしかたないでしょう。なるべくしてなった、としいいようがないのです。
経験則に学べば、今回の事は予測できたわけですし、私が運用担当者なら、銀行金利が下げられた時点で、運用実績は下がるのが当然。リスクをとるよりも受給者に理解を得て、場合によっては基金を解散するくらいの勇気も必要だったのではないでしょうか?この自体は、『失敗してもヒトの金』という安易さの結末とは言えないでしょうか?
2009年06月15日
で、マーケティングではどう考えるか?
マーケティングというのは市場調査とか販売戦略に捉えられがちですが、それは狭義で、私たち村田派?マーケターの考え方は全く違います。マーケティングとは『問題解決志向』であると概念的に捉えるのが適当だと思います。マーケティングはサイエンスかアート(技術)かという論議がありますが、そんな物はナンセンスで、マーケティングとは狭義にはアートであり、way of thinkingなのです。
物・サービスが消費者に行く。消費者から代償として代金や反応が返ってくる。その結果を見て、物・サービスを作り替える。そしてまた消費者から・・・その繰り返し。そのたびに必要とされる問題に対して具体的に一つずつ解決案を出していこう、そして、その未来像も描き出そうというのがマーケティングの基本的枠組みです。戦略的ドメインの選定とか消費者細分化とか競争対抗戦略とかいろいろなマーケティングセオリーはあるのですが、それはあくまで『戦略』に位置するもので、『戦術』となるとまた状況に合わせたこまごまとした対応や作戦、対策が必要となってきます。マーケティングでは戦略は長期的なもの、戦術は短期的な物と定義しています。
で、その問題解決志向の論理展開ですが、簡単に言えば、起承転結で進みます。現状把握→問題点の抽出→その問題点に対する具体的施策→展望、というのが基本的な思考の仕方です。現状把握が緻密であり、問題点の抽出が抽象的で的を得ていないと、その後の具体的施策の提案が甘くなったり、的外れになったりするので、まず、今をどう捉えるのかが一番大切な問題なのです。そのためには、最後の展望につながる自らの描く理想像が必要となってきます。
『マーケティングは愛である』『恋愛もマーケティングである』とうのがキザな村田先生の持論で、自分をいかに売り込み、その結果どういう関係に持って行きたいのか、どういう付き合いを思い描いてその女性にアプローチし、愛情を表現するのか。そのために自分がすべきことは何か?それをフィードバックしながら前に進んでいく、すなわち恋愛こそがマーケティングの原型なのだと言うことです。
これを私たちはマーケティング志向というのですが、理路整然とした理論もなく、この思考方法は主にマーケターのマインドによって大きく左右されます。
前の日記で書いたヘッジファンドへの投資はヘッジファンドが全く情報公開をしていないという事ですから、現状把握も予想も無理なわけで、丸投げにしてしまった年金基金の自業自得と言われてもしかたないでしょう。なるべくしてなった、としいいようがないのです。
経験則に学べば、今回の事は予測できたわけですし、私が運用担当者なら、銀行金利が下げられた時点で、運用実績は下がるのが当然。リスクをとるよりも受給者に理解を得て、場合によっては基金を解散するくらいの勇気も必要だったのではないでしょうか?この自体は、『失敗してもヒトの金』という安易さの結末とは言えないでしょうか?
物・サービスが消費者に行く。消費者から代償として代金や反応が返ってくる。その結果を見て、物・サービスを作り替える。そしてまた消費者から・・・その繰り返し。そのたびに必要とされる問題に対して具体的に一つずつ解決案を出していこう、そして、その未来像も描き出そうというのがマーケティングの基本的枠組みです。戦略的ドメインの選定とか消費者細分化とか競争対抗戦略とかいろいろなマーケティングセオリーはあるのですが、それはあくまで『戦略』に位置するもので、『戦術』となるとまた状況に合わせたこまごまとした対応や作戦、対策が必要となってきます。マーケティングでは戦略は長期的なもの、戦術は短期的な物と定義しています。
で、その問題解決志向の論理展開ですが、簡単に言えば、起承転結で進みます。現状把握→問題点の抽出→その問題点に対する具体的施策→展望、というのが基本的な思考の仕方です。現状把握が緻密であり、問題点の抽出が抽象的で的を得ていないと、その後の具体的施策の提案が甘くなったり、的外れになったりするので、まず、今をどう捉えるのかが一番大切な問題なのです。そのためには、最後の展望につながる自らの描く理想像が必要となってきます。
『マーケティングは愛である』『恋愛もマーケティングである』とうのがキザな村田先生の持論で、自分をいかに売り込み、その結果どういう関係に持って行きたいのか、どういう付き合いを思い描いてその女性にアプローチし、愛情を表現するのか。そのために自分がすべきことは何か?それをフィードバックしながら前に進んでいく、すなわち恋愛こそがマーケティングの原型なのだと言うことです。
これを私たちはマーケティング志向というのですが、理路整然とした理論もなく、この思考方法は主にマーケターのマインドによって大きく左右されます。
前の日記で書いたヘッジファンドへの投資はヘッジファンドが全く情報公開をしていないという事ですから、現状把握も予想も無理なわけで、丸投げにしてしまった年金基金の自業自得と言われてもしかたないでしょう。なるべくしてなった、としいいようがないのです。
経験則に学べば、今回の事は予測できたわけですし、私が運用担当者なら、銀行金利が下げられた時点で、運用実績は下がるのが当然。リスクをとるよりも受給者に理解を得て、場合によっては基金を解散するくらいの勇気も必要だったのではないでしょうか?この自体は、『失敗してもヒトの金』という安易さの結末とは言えないでしょうか?
2009年06月15日
で、マーケティングではどう考えるか?
マーケティングというのは市場調査とか販売戦略に捉えられがちですが、それは狭義で、私たち村田派?マーケターの考え方は全く違います。マーケティングとは『問題解決志向』であると概念的に捉えるのが適当だと思います。マーケティングはサイエンスかアート(技術)かという論議がありますが、そんな物はナンセンスで、マーケティングとは狭義にはアートであり、way of thinkingなのです。
物・サービスが消費者に行く。消費者から代償として代金や反応が返ってくる。その結果を見て、物・サービスを作り替える。そしてまた消費者から・・・その繰り返し。そのたびに必要とされる問題に対して具体的に一つずつ解決案を出していこう、そして、その未来像も描き出そうというのがマーケティングの基本的枠組みです。戦略的ドメインの選定とか消費者細分化とか競争対抗戦略とかいろいろなマーケティングセオリーはあるのですが、それはあくまで『戦略』に位置するもので、『戦術』となるとまた状況に合わせたこまごまとした対応や作戦、対策が必要となってきます。マーケティングでは戦略は長期的なもの、戦術は短期的な物と定義しています。
で、その問題解決志向の論理展開ですが、簡単に言えば、起承転結で進みます。現状把握→問題点の抽出→その問題点に対する具体的施策→展望、というのが基本的な思考の仕方です。現状把握が緻密であり、問題点の抽出が抽象的で的を得ていないと、その後の具体的施策の提案が甘くなったり、的外れになったりするので、まず、今をどう捉えるのかが一番大切な問題なのです。そのためには、最後の展望につながる自らの描く理想像が必要となってきます。
『マーケティングは愛である』『恋愛もマーケティングである』とうのがキザな村田先生の持論で、自分をいかに売り込み、その結果どういう関係に持って行きたいのか、どういう付き合いを思い描いてその女性にアプローチし、愛情を表現するのか。そのために自分がすべきことは何か?それをフィードバックしながら前に進んでいく、すなわち恋愛こそがマーケティングの原型なのだと言うことです。
これを私たちはマーケティング志向というのですが、理路整然とした理論もなく、この思考方法は主にマーケターのマインドによって大きく左右されます。
前の日記で書いたヘッジファンドへの投資はヘッジファンドが全く情報公開をしていないという事ですから、現状把握も予想も無理なわけで、丸投げにしてしまった年金基金の自業自得と言われてもしかたないでしょう。なるべくしてなった、としいいようがないのです。
経験則に学べば、今回の事は予測できたわけですし、私が運用担当者なら、銀行金利が下げられた時点で、運用実績は下がるのが当然。リスクをとるよりも受給者に理解を得て、場合によっては基金を解散するくらいの勇気も必要だったのではないでしょうか?この自体は、『失敗してもヒトの金』という安易さの結末とは言えないでしょうか?
物・サービスが消費者に行く。消費者から代償として代金や反応が返ってくる。その結果を見て、物・サービスを作り替える。そしてまた消費者から・・・その繰り返し。そのたびに必要とされる問題に対して具体的に一つずつ解決案を出していこう、そして、その未来像も描き出そうというのがマーケティングの基本的枠組みです。戦略的ドメインの選定とか消費者細分化とか競争対抗戦略とかいろいろなマーケティングセオリーはあるのですが、それはあくまで『戦略』に位置するもので、『戦術』となるとまた状況に合わせたこまごまとした対応や作戦、対策が必要となってきます。マーケティングでは戦略は長期的なもの、戦術は短期的な物と定義しています。
で、その問題解決志向の論理展開ですが、簡単に言えば、起承転結で進みます。現状把握→問題点の抽出→その問題点に対する具体的施策→展望、というのが基本的な思考の仕方です。現状把握が緻密であり、問題点の抽出が抽象的で的を得ていないと、その後の具体的施策の提案が甘くなったり、的外れになったりするので、まず、今をどう捉えるのかが一番大切な問題なのです。そのためには、最後の展望につながる自らの描く理想像が必要となってきます。
『マーケティングは愛である』『恋愛もマーケティングである』とうのがキザな村田先生の持論で、自分をいかに売り込み、その結果どういう関係に持って行きたいのか、どういう付き合いを思い描いてその女性にアプローチし、愛情を表現するのか。そのために自分がすべきことは何か?それをフィードバックしながら前に進んでいく、すなわち恋愛こそがマーケティングの原型なのだと言うことです。
これを私たちはマーケティング志向というのですが、理路整然とした理論もなく、この思考方法は主にマーケターのマインドによって大きく左右されます。
前の日記で書いたヘッジファンドへの投資はヘッジファンドが全く情報公開をしていないという事ですから、現状把握も予想も無理なわけで、丸投げにしてしまった年金基金の自業自得と言われてもしかたないでしょう。なるべくしてなった、としいいようがないのです。
経験則に学べば、今回の事は予測できたわけですし、私が運用担当者なら、銀行金利が下げられた時点で、運用実績は下がるのが当然。リスクをとるよりも受給者に理解を得て、場合によっては基金を解散するくらいの勇気も必要だったのではないでしょうか?この自体は、『失敗してもヒトの金』という安易さの結末とは言えないでしょうか?
2009年06月15日
質量不変の法則【NHKマネー資本主義を見て】
今日の内容は年金基金がヘッジファンドに投資しして、大損をこいたというものでした。主題になっている年金基金は25%も資産を減らしたといいます。運用担当者も出演していましたが、この人は経済・投資というものをわかっていたのでしょうか?
そもそも、世界中の人が投資に血道を上げるようになったには理由があります。特に日本の場合ははっきりしています。銀行が本来払うべき預金金利を支払わなくなったからです。これに誰も抗議しなかった。それがこの結果を招いたとも言えるのです。バブル崩壊までは定期預金の金利は5〜6%ついていた様に記憶しています。その金利で人の良いおばあちゃんたちは、20〜30万円の物をデパートの外商から買い、その代わり、外商は電球を変えたり、瓶詰めの蓋を開けてあげたりして、細々としたお世話をしていたのです。そういう持ちつ持たれつの関係が成立していました。ところが、バブル崩壊で銀行の経営が危機に陥ると一斉に金利を引き下げました。定期預金にしていても、受け取れる預金は雀の涙です。当時、世の中には沢山の金利生活者といわれる人がいました。その人たちは、金利が下げられると生活ができなくなるわけです。とくに定年退職者は実際に年金を受け取れるまで時間があるし、退職金を定期預金にして、生活していましたし、年金を受け取れるようになれば、その金をレジャーや買い物に当てていたのです。それまで定期預金されていた金の行き先が、投資信託などのリスク商品だったわけです。リスク商品というからには当然リスクがあり、それまで銀行がとっていたリスクを商品購入者に背負わせ、自分たちはきっちり稼ぐというやり方に出たわけです。リスクがあるのですから、これは定期預金とは全く性質が違います。簡単に言えばギャンブルなのです。ギャンブルの常道として、はじめに必ず勝たせて、掛け金を大きくさせ、最後にがっぽりいただくというのがお決まりの筋書きです。投資をしたり、リスク商品を購入したほとんどの国民はこの銀行のトリックにまんまと引っかかったのです。
そもそも、地球の質量は一定なのです。種をまけば太陽の光さえあれば成長すると思われる植物でさえ、枯れるものがあっての循環をしているのであり、地球の質量、もっと言えば全宇宙の質量は不変なのです。これは中学校で習うのではないでしょうか。ですから、お金の行き先をAからBへ、BからCへ移動したところで、全体の量は全く増えないのです。増えているように見えているだけです。農水産、鉱業など一次産品をいかに加工しても全体の質量の合計は同じです。そこには利便性や機能性等の付加価値が加わるだけです。いわばこれが経済活動による富です。いくらヘッジファンドにお金を渡しても、サイババのように、お金が増える訳ではないのです。ポケットのビスケットをたたいても、数が増えても量は増えないのと全く同じです。それを増えた増えたと言っているだけです。ホリエモンがやった株式分割というのはまさにそれですね。
そもそも、近代経済学というのは大きな盲点を抱えていて、変数(変化する要因)を限定します。そのために、多くの条件を一定と仮定しなければならないのです。そんなことって世の中にありますか?森羅万象すべては常に移り変わっているのです。サブプライムローンの構築の場合はあろう事か、地価が下がることはないというのが、不変の前提となっていたのです。驚きです。MBAをとったような人が何故こんなことに疑問を持たなかったのか?狂っていたか、欲に目がくらんだか?・・・違うと思います。意図的に無視したのです。まんまと引っかけられたのです。麻雀でいえば、役満を振り込むように積み込みをされたのです。それにまんまと乗ってしまった。おまけに、ツモ順を自ら変更して、相手にツモらせてしまったのです。
私は大きな罪は、いま大学で近代経済学を教えている教授陣にもあると思います。私も、もちろん大学で経済学をかじりましたが、ある教授の『ゲームの理論』という講義で直感的に近代経済学がはらむ矛盾に気づきました。
経済学というのは、お金や物を経済的に回して、最大多数の幸福を追求するための学問であるはずです。それがねじ曲げられて、ある一部の人の利益追求に利用されるようになってしまいました。これは経済学の頽廃以外のなにものでもありません。
前にも書きましたが、これからの経済学は哲学や心理学や宗教学などを取り入れて、クロスディシプリナリーに地球規模の幸福を考える学問へと目指す道を変えるべきだと私は想うのです。
そもそも、世界中の人が投資に血道を上げるようになったには理由があります。特に日本の場合ははっきりしています。銀行が本来払うべき預金金利を支払わなくなったからです。これに誰も抗議しなかった。それがこの結果を招いたとも言えるのです。バブル崩壊までは定期預金の金利は5〜6%ついていた様に記憶しています。その金利で人の良いおばあちゃんたちは、20〜30万円の物をデパートの外商から買い、その代わり、外商は電球を変えたり、瓶詰めの蓋を開けてあげたりして、細々としたお世話をしていたのです。そういう持ちつ持たれつの関係が成立していました。ところが、バブル崩壊で銀行の経営が危機に陥ると一斉に金利を引き下げました。定期預金にしていても、受け取れる預金は雀の涙です。当時、世の中には沢山の金利生活者といわれる人がいました。その人たちは、金利が下げられると生活ができなくなるわけです。とくに定年退職者は実際に年金を受け取れるまで時間があるし、退職金を定期預金にして、生活していましたし、年金を受け取れるようになれば、その金をレジャーや買い物に当てていたのです。それまで定期預金されていた金の行き先が、投資信託などのリスク商品だったわけです。リスク商品というからには当然リスクがあり、それまで銀行がとっていたリスクを商品購入者に背負わせ、自分たちはきっちり稼ぐというやり方に出たわけです。リスクがあるのですから、これは定期預金とは全く性質が違います。簡単に言えばギャンブルなのです。ギャンブルの常道として、はじめに必ず勝たせて、掛け金を大きくさせ、最後にがっぽりいただくというのがお決まりの筋書きです。投資をしたり、リスク商品を購入したほとんどの国民はこの銀行のトリックにまんまと引っかかったのです。
そもそも、地球の質量は一定なのです。種をまけば太陽の光さえあれば成長すると思われる植物でさえ、枯れるものがあっての循環をしているのであり、地球の質量、もっと言えば全宇宙の質量は不変なのです。これは中学校で習うのではないでしょうか。ですから、お金の行き先をAからBへ、BからCへ移動したところで、全体の量は全く増えないのです。増えているように見えているだけです。農水産、鉱業など一次産品をいかに加工しても全体の質量の合計は同じです。そこには利便性や機能性等の付加価値が加わるだけです。いわばこれが経済活動による富です。いくらヘッジファンドにお金を渡しても、サイババのように、お金が増える訳ではないのです。ポケットのビスケットをたたいても、数が増えても量は増えないのと全く同じです。それを増えた増えたと言っているだけです。ホリエモンがやった株式分割というのはまさにそれですね。
そもそも、近代経済学というのは大きな盲点を抱えていて、変数(変化する要因)を限定します。そのために、多くの条件を一定と仮定しなければならないのです。そんなことって世の中にありますか?森羅万象すべては常に移り変わっているのです。サブプライムローンの構築の場合はあろう事か、地価が下がることはないというのが、不変の前提となっていたのです。驚きです。MBAをとったような人が何故こんなことに疑問を持たなかったのか?狂っていたか、欲に目がくらんだか?・・・違うと思います。意図的に無視したのです。まんまと引っかけられたのです。麻雀でいえば、役満を振り込むように積み込みをされたのです。それにまんまと乗ってしまった。おまけに、ツモ順を自ら変更して、相手にツモらせてしまったのです。
私は大きな罪は、いま大学で近代経済学を教えている教授陣にもあると思います。私も、もちろん大学で経済学をかじりましたが、ある教授の『ゲームの理論』という講義で直感的に近代経済学がはらむ矛盾に気づきました。
経済学というのは、お金や物を経済的に回して、最大多数の幸福を追求するための学問であるはずです。それがねじ曲げられて、ある一部の人の利益追求に利用されるようになってしまいました。これは経済学の頽廃以外のなにものでもありません。
前にも書きましたが、これからの経済学は哲学や心理学や宗教学などを取り入れて、クロスディシプリナリーに地球規模の幸福を考える学問へと目指す道を変えるべきだと私は想うのです。
2009年06月15日
質量不変の法則【NHKマネー資本主義を見て】
今日の内容は年金基金がヘッジファンドに投資しして、大損をこいたというものでした。主題になっている年金基金は25%も資産を減らしたといいます。運用担当者も出演していましたが、この人は経済・投資というものをわかっていたのでしょうか?
そもそも、世界中の人が投資に血道を上げるようになったには理由があります。特に日本の場合ははっきりしています。銀行が本来払うべき預金金利を支払わなくなったからです。これに誰も抗議しなかった。それがこの結果を招いたとも言えるのです。バブル崩壊までは定期預金の金利は5〜6%ついていた様に記憶しています。その金利で人の良いおばあちゃんたちは、20〜30万円の物をデパートの外商から買い、その代わり、外商は電球を変えたり、瓶詰めの蓋を開けてあげたりして、細々としたお世話をしていたのです。そういう持ちつ持たれつの関係が成立していました。ところが、バブル崩壊で銀行の経営が危機に陥ると一斉に金利を引き下げました。定期預金にしていても、受け取れる預金は雀の涙です。当時、世の中には沢山の金利生活者といわれる人がいました。その人たちは、金利が下げられると生活ができなくなるわけです。とくに定年退職者は実際に年金を受け取れるまで時間があるし、退職金を定期預金にして、生活していましたし、年金を受け取れるようになれば、その金をレジャーや買い物に当てていたのです。それまで定期預金されていた金の行き先が、投資信託などのリスク商品だったわけです。リスク商品というからには当然リスクがあり、それまで銀行がとっていたリスクを商品購入者に背負わせ、自分たちはきっちり稼ぐというやり方に出たわけです。リスクがあるのですから、これは定期預金とは全く性質が違います。簡単に言えばギャンブルなのです。ギャンブルの常道として、はじめに必ず勝たせて、掛け金を大きくさせ、最後にがっぽりいただくというのがお決まりの筋書きです。投資をしたり、リスク商品を購入したほとんどの国民はこの銀行のトリックにまんまと引っかかったのです。
そもそも、地球の質量は一定なのです。種をまけば太陽の光さえあれば成長すると思われる植物でさえ、枯れるものがあっての循環をしているのであり、地球の質量、もっと言えば全宇宙の質量は不変なのです。これは中学校で習うのではないでしょうか。ですから、お金の行き先をAからBへ、BからCへ移動したところで、全体の量は全く増えないのです。増えているように見えているだけです。農水産、鉱業など一次産品をいかに加工しても全体の質量の合計は同じです。そこには利便性や機能性等の付加価値が加わるだけです。いわばこれが経済活動による富です。いくらヘッジファンドにお金を渡しても、サイババのように、お金が増える訳ではないのです。ポケットのビスケットをたたいても、数が増えても量は増えないのと全く同じです。それを増えた増えたと言っているだけです。ホリエモンがやった株式分割というのはまさにそれですね。
そもそも、近代経済学というのは大きな盲点を抱えていて、変数(変化する要因)を限定します。そのために、多くの条件を一定と仮定しなければならないのです。そんなことって世の中にありますか?森羅万象すべては常に移り変わっているのです。サブプライムローンの構築の場合はあろう事か、地価が下がることはないというのが、不変の前提となっていたのです。驚きです。MBAをとったような人が何故こんなことに疑問を持たなかったのか?狂っていたか、欲に目がくらんだか?・・・違うと思います。意図的に無視したのです。まんまと引っかけられたのです。麻雀でいえば、役満を振り込むように積み込みをされたのです。それにまんまと乗ってしまった。おまけに、ツモ順を自ら変更して、相手にツモらせてしまったのです。
私は大きな罪は、いま大学で近代経済学を教えている教授陣にもあると思います。私も、もちろん大学で経済学をかじりましたが、ある教授の『ゲームの理論』という講義で直感的に近代経済学がはらむ矛盾に気づきました。
経済学というのは、お金や物を経済的に回して、最大多数の幸福を追求するための学問であるはずです。それがねじ曲げられて、ある一部の人の利益追求に利用されるようになってしまいました。これは経済学の頽廃以外のなにものでもありません。
前にも書きましたが、これからの経済学は哲学や心理学や宗教学などを取り入れて、クロスディシプリナリーに地球規模の幸福を考える学問へと目指す道を変えるべきだと私は想うのです。
そもそも、世界中の人が投資に血道を上げるようになったには理由があります。特に日本の場合ははっきりしています。銀行が本来払うべき預金金利を支払わなくなったからです。これに誰も抗議しなかった。それがこの結果を招いたとも言えるのです。バブル崩壊までは定期預金の金利は5〜6%ついていた様に記憶しています。その金利で人の良いおばあちゃんたちは、20〜30万円の物をデパートの外商から買い、その代わり、外商は電球を変えたり、瓶詰めの蓋を開けてあげたりして、細々としたお世話をしていたのです。そういう持ちつ持たれつの関係が成立していました。ところが、バブル崩壊で銀行の経営が危機に陥ると一斉に金利を引き下げました。定期預金にしていても、受け取れる預金は雀の涙です。当時、世の中には沢山の金利生活者といわれる人がいました。その人たちは、金利が下げられると生活ができなくなるわけです。とくに定年退職者は実際に年金を受け取れるまで時間があるし、退職金を定期預金にして、生活していましたし、年金を受け取れるようになれば、その金をレジャーや買い物に当てていたのです。それまで定期預金されていた金の行き先が、投資信託などのリスク商品だったわけです。リスク商品というからには当然リスクがあり、それまで銀行がとっていたリスクを商品購入者に背負わせ、自分たちはきっちり稼ぐというやり方に出たわけです。リスクがあるのですから、これは定期預金とは全く性質が違います。簡単に言えばギャンブルなのです。ギャンブルの常道として、はじめに必ず勝たせて、掛け金を大きくさせ、最後にがっぽりいただくというのがお決まりの筋書きです。投資をしたり、リスク商品を購入したほとんどの国民はこの銀行のトリックにまんまと引っかかったのです。
そもそも、地球の質量は一定なのです。種をまけば太陽の光さえあれば成長すると思われる植物でさえ、枯れるものがあっての循環をしているのであり、地球の質量、もっと言えば全宇宙の質量は不変なのです。これは中学校で習うのではないでしょうか。ですから、お金の行き先をAからBへ、BからCへ移動したところで、全体の量は全く増えないのです。増えているように見えているだけです。農水産、鉱業など一次産品をいかに加工しても全体の質量の合計は同じです。そこには利便性や機能性等の付加価値が加わるだけです。いわばこれが経済活動による富です。いくらヘッジファンドにお金を渡しても、サイババのように、お金が増える訳ではないのです。ポケットのビスケットをたたいても、数が増えても量は増えないのと全く同じです。それを増えた増えたと言っているだけです。ホリエモンがやった株式分割というのはまさにそれですね。
そもそも、近代経済学というのは大きな盲点を抱えていて、変数(変化する要因)を限定します。そのために、多くの条件を一定と仮定しなければならないのです。そんなことって世の中にありますか?森羅万象すべては常に移り変わっているのです。サブプライムローンの構築の場合はあろう事か、地価が下がることはないというのが、不変の前提となっていたのです。驚きです。MBAをとったような人が何故こんなことに疑問を持たなかったのか?狂っていたか、欲に目がくらんだか?・・・違うと思います。意図的に無視したのです。まんまと引っかけられたのです。麻雀でいえば、役満を振り込むように積み込みをされたのです。それにまんまと乗ってしまった。おまけに、ツモ順を自ら変更して、相手にツモらせてしまったのです。
私は大きな罪は、いま大学で近代経済学を教えている教授陣にもあると思います。私も、もちろん大学で経済学をかじりましたが、ある教授の『ゲームの理論』という講義で直感的に近代経済学がはらむ矛盾に気づきました。
経済学というのは、お金や物を経済的に回して、最大多数の幸福を追求するための学問であるはずです。それがねじ曲げられて、ある一部の人の利益追求に利用されるようになってしまいました。これは経済学の頽廃以外のなにものでもありません。
前にも書きましたが、これからの経済学は哲学や心理学や宗教学などを取り入れて、クロスディシプリナリーに地球規模の幸福を考える学問へと目指す道を変えるべきだと私は想うのです。
2009年06月15日
質量不変の法則【NHKマネー資本主義を見て】
今日の内容は年金基金がヘッジファンドに投資しして、大損をこいたというものでした。主題になっている年金基金は25%も資産を減らしたといいます。運用担当者も出演していましたが、この人は経済・投資というものをわかっていたのでしょうか?
そもそも、世界中の人が投資に血道を上げるようになったには理由があります。特に日本の場合ははっきりしています。銀行が本来払うべき預金金利を支払わなくなったからです。これに誰も抗議しなかった。それがこの結果を招いたとも言えるのです。バブル崩壊までは定期預金の金利は5〜6%ついていた様に記憶しています。その金利で人の良いおばあちゃんたちは、20〜30万円の物をデパートの外商から買い、その代わり、外商は電球を変えたり、瓶詰めの蓋を開けてあげたりして、細々としたお世話をしていたのです。そういう持ちつ持たれつの関係が成立していました。ところが、バブル崩壊で銀行の経営が危機に陥ると一斉に金利を引き下げました。定期預金にしていても、受け取れる預金は雀の涙です。当時、世の中には沢山の金利生活者といわれる人がいました。その人たちは、金利が下げられると生活ができなくなるわけです。とくに定年退職者は実際に年金を受け取れるまで時間があるし、退職金を定期預金にして、生活していましたし、年金を受け取れるようになれば、その金をレジャーや買い物に当てていたのです。それまで定期預金されていた金の行き先が、投資信託などのリスク商品だったわけです。リスク商品というからには当然リスクがあり、それまで銀行がとっていたリスクを商品購入者に背負わせ、自分たちはきっちり稼ぐというやり方に出たわけです。リスクがあるのですから、これは定期預金とは全く性質が違います。簡単に言えばギャンブルなのです。ギャンブルの常道として、はじめに必ず勝たせて、掛け金を大きくさせ、最後にがっぽりいただくというのがお決まりの筋書きです。投資をしたり、リスク商品を購入したほとんどの国民はこの銀行のトリックにまんまと引っかかったのです。
そもそも、地球の質量は一定なのです。種をまけば太陽の光さえあれば成長すると思われる植物でさえ、枯れるものがあっての循環をしているのであり、地球の質量、もっと言えば全宇宙の質量は不変なのです。これは中学校で習うのではないでしょうか。ですから、お金の行き先をAからBへ、BからCへ移動したところで、全体の量は全く増えないのです。増えているように見えているだけです。農水産、鉱業など一次産品をいかに加工しても全体の質量の合計は同じです。そこには利便性や機能性等の付加価値が加わるだけです。いわばこれが経済活動による富です。いくらヘッジファンドにお金を渡しても、サイババのように、お金が増える訳ではないのです。ポケットのビスケットをたたいても、数が増えても量は増えないのと全く同じです。それを増えた増えたと言っているだけです。ホリエモンがやった株式分割というのはまさにそれですね。
そもそも、近代経済学というのは大きな盲点を抱えていて、変数(変化する要因)を限定します。そのために、多くの条件を一定と仮定しなければならないのです。そんなことって世の中にありますか?森羅万象すべては常に移り変わっているのです。サブプライムローンの構築の場合はあろう事か、地価が下がることはないというのが、不変の前提となっていたのです。驚きです。MBAをとったような人が何故こんなことに疑問を持たなかったのか?狂っていたか、欲に目がくらんだか?・・・違うと思います。意図的に無視したのです。まんまと引っかけられたのです。麻雀でいえば、役満を振り込むように積み込みをされたのです。それにまんまと乗ってしまった。おまけに、ツモ順を自ら変更して、相手にツモらせてしまったのです。
私は大きな罪は、いま大学で近代経済学を教えている教授陣にもあると思います。私も、もちろん大学で経済学をかじりましたが、ある教授の『ゲームの理論』という講義で直感的に近代経済学がはらむ矛盾に気づきました。
経済学というのは、お金や物を経済的に回して、最大多数の幸福を追求するための学問であるはずです。それがねじ曲げられて、ある一部の人の利益追求に利用されるようになってしまいました。これは経済学の頽廃以外のなにものでもありません。
前にも書きましたが、これからの経済学は哲学や心理学や宗教学などを取り入れて、クロスディシプリナリーに地球規模の幸福を考える学問へと目指す道を変えるべきだと私は想うのです。
そもそも、世界中の人が投資に血道を上げるようになったには理由があります。特に日本の場合ははっきりしています。銀行が本来払うべき預金金利を支払わなくなったからです。これに誰も抗議しなかった。それがこの結果を招いたとも言えるのです。バブル崩壊までは定期預金の金利は5〜6%ついていた様に記憶しています。その金利で人の良いおばあちゃんたちは、20〜30万円の物をデパートの外商から買い、その代わり、外商は電球を変えたり、瓶詰めの蓋を開けてあげたりして、細々としたお世話をしていたのです。そういう持ちつ持たれつの関係が成立していました。ところが、バブル崩壊で銀行の経営が危機に陥ると一斉に金利を引き下げました。定期預金にしていても、受け取れる預金は雀の涙です。当時、世の中には沢山の金利生活者といわれる人がいました。その人たちは、金利が下げられると生活ができなくなるわけです。とくに定年退職者は実際に年金を受け取れるまで時間があるし、退職金を定期預金にして、生活していましたし、年金を受け取れるようになれば、その金をレジャーや買い物に当てていたのです。それまで定期預金されていた金の行き先が、投資信託などのリスク商品だったわけです。リスク商品というからには当然リスクがあり、それまで銀行がとっていたリスクを商品購入者に背負わせ、自分たちはきっちり稼ぐというやり方に出たわけです。リスクがあるのですから、これは定期預金とは全く性質が違います。簡単に言えばギャンブルなのです。ギャンブルの常道として、はじめに必ず勝たせて、掛け金を大きくさせ、最後にがっぽりいただくというのがお決まりの筋書きです。投資をしたり、リスク商品を購入したほとんどの国民はこの銀行のトリックにまんまと引っかかったのです。
そもそも、地球の質量は一定なのです。種をまけば太陽の光さえあれば成長すると思われる植物でさえ、枯れるものがあっての循環をしているのであり、地球の質量、もっと言えば全宇宙の質量は不変なのです。これは中学校で習うのではないでしょうか。ですから、お金の行き先をAからBへ、BからCへ移動したところで、全体の量は全く増えないのです。増えているように見えているだけです。農水産、鉱業など一次産品をいかに加工しても全体の質量の合計は同じです。そこには利便性や機能性等の付加価値が加わるだけです。いわばこれが経済活動による富です。いくらヘッジファンドにお金を渡しても、サイババのように、お金が増える訳ではないのです。ポケットのビスケットをたたいても、数が増えても量は増えないのと全く同じです。それを増えた増えたと言っているだけです。ホリエモンがやった株式分割というのはまさにそれですね。
そもそも、近代経済学というのは大きな盲点を抱えていて、変数(変化する要因)を限定します。そのために、多くの条件を一定と仮定しなければならないのです。そんなことって世の中にありますか?森羅万象すべては常に移り変わっているのです。サブプライムローンの構築の場合はあろう事か、地価が下がることはないというのが、不変の前提となっていたのです。驚きです。MBAをとったような人が何故こんなことに疑問を持たなかったのか?狂っていたか、欲に目がくらんだか?・・・違うと思います。意図的に無視したのです。まんまと引っかけられたのです。麻雀でいえば、役満を振り込むように積み込みをされたのです。それにまんまと乗ってしまった。おまけに、ツモ順を自ら変更して、相手にツモらせてしまったのです。
私は大きな罪は、いま大学で近代経済学を教えている教授陣にもあると思います。私も、もちろん大学で経済学をかじりましたが、ある教授の『ゲームの理論』という講義で直感的に近代経済学がはらむ矛盾に気づきました。
経済学というのは、お金や物を経済的に回して、最大多数の幸福を追求するための学問であるはずです。それがねじ曲げられて、ある一部の人の利益追求に利用されるようになってしまいました。これは経済学の頽廃以外のなにものでもありません。
前にも書きましたが、これからの経済学は哲学や心理学や宗教学などを取り入れて、クロスディシプリナリーに地球規模の幸福を考える学問へと目指す道を変えるべきだと私は想うのです。
2009年06月15日
汚れっちまった悲しみに
とは、山口県山口市に生まれた中原中也の詩です。
今、100年に一度の不況の中で、汚れちまった人を沢山見ます。
前に紹介したサミュエルスマイルズの『品性論』の中で、『人間の目標は信念と誠意をもって生きる、ということであり、人生の価値は、死の床でそれが達成できたかどうかだ』と書いてありましたが、一つの信念に基づいて、一生それを貫いて生きていくと言うことは、それだけ難しい事なのです。私たち商人なら、お金儲けということが大きな目標なのですが、それは一攫千金や濡れ手で粟という状態でも手に入ることがあります。しかし、死の床について、自らの信念を貫き通せたと思える為には、一点の曇りもあってはならない。生きている間ずっと課題としてつきまとう課題なのです。そういう意味では、汚れないで清らかな誠を貫徹する人生を追求するということは、人生自体を修行としてとらえる必要があるのだろうと思います。
そういう天高き理想を追い求める人への悪魔のささやきとは何かと言えば、欲以外の何物でもありません。金銭欲、物欲、名誉欲、性欲・・・数限りない欲=煩悩が人間を汚れた道に誘い込もうとします。そして、人間は次第に麻痺し、汚れたことにさえ気づかないようになってしまいます。
今の世の中においては、そういう気高き聖人を見ることができなくなってしまいました。しかし、かつては国民から心から尊敬される人が存在したのです。そして、そういう生き方が美しい生き方の模範とされていたのでした。それは本で読まなくとも、親子の会話や学校の先生とのふれあいの中で、いわば口伝という形で伝えられてきたのです。
それがいつの間にか、金やモノで動く人間を礼賛する世の中になってしまいました。私の幼少の頃は、金で動かない人間こそ価値のある人間と教えられたものです。プロ野球選手は育ててもらったチームへの恩義も忘れ後ろ足で砂をかけるようにして、メジャーへいく。大阪府の前知事は府民に多大な迷惑をかけておきながら、莫大な退職金を得、その返還要求を無視する。
心を軽んずる時代に、心を病むのは当然の帰結です。
政治家、実業家、その他それぞれの持ち場にいる人たちが、清く正しく生きることを目標とする世の中ならば、今回の経済危機もなかったのではないかと思いますし、今の政治の乱れもあり得なかったのではないでしょうか。
私も含め、清廉潔白であり続けると言うことは非常に難しく、時には誘惑に駆られる事も多々あります。罪を犯してしまうこともあるでしょう。でも、清く正しく生きていかねばならない、そういう気概をもって人生を乗り切っていくことが何より大切な事なのではないかと私は想うのです。
これから何度も汚れちまいそうになるでしょうけど、もし汚れても腐らない様に生きていかねばならない、そう思うこの頃です。
今、100年に一度の不況の中で、汚れちまった人を沢山見ます。
前に紹介したサミュエルスマイルズの『品性論』の中で、『人間の目標は信念と誠意をもって生きる、ということであり、人生の価値は、死の床でそれが達成できたかどうかだ』と書いてありましたが、一つの信念に基づいて、一生それを貫いて生きていくと言うことは、それだけ難しい事なのです。私たち商人なら、お金儲けということが大きな目標なのですが、それは一攫千金や濡れ手で粟という状態でも手に入ることがあります。しかし、死の床について、自らの信念を貫き通せたと思える為には、一点の曇りもあってはならない。生きている間ずっと課題としてつきまとう課題なのです。そういう意味では、汚れないで清らかな誠を貫徹する人生を追求するということは、人生自体を修行としてとらえる必要があるのだろうと思います。
そういう天高き理想を追い求める人への悪魔のささやきとは何かと言えば、欲以外の何物でもありません。金銭欲、物欲、名誉欲、性欲・・・数限りない欲=煩悩が人間を汚れた道に誘い込もうとします。そして、人間は次第に麻痺し、汚れたことにさえ気づかないようになってしまいます。
今の世の中においては、そういう気高き聖人を見ることができなくなってしまいました。しかし、かつては国民から心から尊敬される人が存在したのです。そして、そういう生き方が美しい生き方の模範とされていたのでした。それは本で読まなくとも、親子の会話や学校の先生とのふれあいの中で、いわば口伝という形で伝えられてきたのです。
それがいつの間にか、金やモノで動く人間を礼賛する世の中になってしまいました。私の幼少の頃は、金で動かない人間こそ価値のある人間と教えられたものです。プロ野球選手は育ててもらったチームへの恩義も忘れ後ろ足で砂をかけるようにして、メジャーへいく。大阪府の前知事は府民に多大な迷惑をかけておきながら、莫大な退職金を得、その返還要求を無視する。
心を軽んずる時代に、心を病むのは当然の帰結です。
政治家、実業家、その他それぞれの持ち場にいる人たちが、清く正しく生きることを目標とする世の中ならば、今回の経済危機もなかったのではないかと思いますし、今の政治の乱れもあり得なかったのではないでしょうか。
私も含め、清廉潔白であり続けると言うことは非常に難しく、時には誘惑に駆られる事も多々あります。罪を犯してしまうこともあるでしょう。でも、清く正しく生きていかねばならない、そういう気概をもって人生を乗り切っていくことが何より大切な事なのではないかと私は想うのです。
これから何度も汚れちまいそうになるでしょうけど、もし汚れても腐らない様に生きていかねばならない、そう思うこの頃です。
Posted by 渡辺幻門 at
16:49
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2009年06月15日
汚れっちまった悲しみに
とは、山口県山口市に生まれた中原中也の詩です。
今、100年に一度の不況の中で、汚れちまった人を沢山見ます。
前に紹介したサミュエルスマイルズの『品性論』の中で、『人間の目標は信念と誠意をもって生きる、ということであり、人生の価値は、死の床でそれが達成できたかどうかだ』と書いてありましたが、一つの信念に基づいて、一生それを貫いて生きていくと言うことは、それだけ難しい事なのです。私たち商人なら、お金儲けということが大きな目標なのですが、それは一攫千金や濡れ手で粟という状態でも手に入ることがあります。しかし、死の床について、自らの信念を貫き通せたと思える為には、一点の曇りもあってはならない。生きている間ずっと課題としてつきまとう課題なのです。そういう意味では、汚れないで清らかな誠を貫徹する人生を追求するということは、人生自体を修行としてとらえる必要があるのだろうと思います。
そういう天高き理想を追い求める人への悪魔のささやきとは何かと言えば、欲以外の何物でもありません。金銭欲、物欲、名誉欲、性欲・・・数限りない欲=煩悩が人間を汚れた道に誘い込もうとします。そして、人間は次第に麻痺し、汚れたことにさえ気づかないようになってしまいます。
今の世の中においては、そういう気高き聖人を見ることができなくなってしまいました。しかし、かつては国民から心から尊敬される人が存在したのです。そして、そういう生き方が美しい生き方の模範とされていたのでした。それは本で読まなくとも、親子の会話や学校の先生とのふれあいの中で、いわば口伝という形で伝えられてきたのです。
それがいつの間にか、金やモノで動く人間を礼賛する世の中になってしまいました。私の幼少の頃は、金で動かない人間こそ価値のある人間と教えられたものです。プロ野球選手は育ててもらったチームへの恩義も忘れ後ろ足で砂をかけるようにして、メジャーへいく。大阪府の前知事は府民に多大な迷惑をかけておきながら、莫大な退職金を得、その返還要求を無視する。
心を軽んずる時代に、心を病むのは当然の帰結です。
政治家、実業家、その他それぞれの持ち場にいる人たちが、清く正しく生きることを目標とする世の中ならば、今回の経済危機もなかったのではないかと思いますし、今の政治の乱れもあり得なかったのではないでしょうか。
私も含め、清廉潔白であり続けると言うことは非常に難しく、時には誘惑に駆られる事も多々あります。罪を犯してしまうこともあるでしょう。でも、清く正しく生きていかねばならない、そういう気概をもって人生を乗り切っていくことが何より大切な事なのではないかと私は想うのです。
これから何度も汚れちまいそうになるでしょうけど、もし汚れても腐らない様に生きていかねばならない、そう思うこの頃です。
今、100年に一度の不況の中で、汚れちまった人を沢山見ます。
前に紹介したサミュエルスマイルズの『品性論』の中で、『人間の目標は信念と誠意をもって生きる、ということであり、人生の価値は、死の床でそれが達成できたかどうかだ』と書いてありましたが、一つの信念に基づいて、一生それを貫いて生きていくと言うことは、それだけ難しい事なのです。私たち商人なら、お金儲けということが大きな目標なのですが、それは一攫千金や濡れ手で粟という状態でも手に入ることがあります。しかし、死の床について、自らの信念を貫き通せたと思える為には、一点の曇りもあってはならない。生きている間ずっと課題としてつきまとう課題なのです。そういう意味では、汚れないで清らかな誠を貫徹する人生を追求するということは、人生自体を修行としてとらえる必要があるのだろうと思います。
そういう天高き理想を追い求める人への悪魔のささやきとは何かと言えば、欲以外の何物でもありません。金銭欲、物欲、名誉欲、性欲・・・数限りない欲=煩悩が人間を汚れた道に誘い込もうとします。そして、人間は次第に麻痺し、汚れたことにさえ気づかないようになってしまいます。
今の世の中においては、そういう気高き聖人を見ることができなくなってしまいました。しかし、かつては国民から心から尊敬される人が存在したのです。そして、そういう生き方が美しい生き方の模範とされていたのでした。それは本で読まなくとも、親子の会話や学校の先生とのふれあいの中で、いわば口伝という形で伝えられてきたのです。
それがいつの間にか、金やモノで動く人間を礼賛する世の中になってしまいました。私の幼少の頃は、金で動かない人間こそ価値のある人間と教えられたものです。プロ野球選手は育ててもらったチームへの恩義も忘れ後ろ足で砂をかけるようにして、メジャーへいく。大阪府の前知事は府民に多大な迷惑をかけておきながら、莫大な退職金を得、その返還要求を無視する。
心を軽んずる時代に、心を病むのは当然の帰結です。
政治家、実業家、その他それぞれの持ち場にいる人たちが、清く正しく生きることを目標とする世の中ならば、今回の経済危機もなかったのではないかと思いますし、今の政治の乱れもあり得なかったのではないでしょうか。
私も含め、清廉潔白であり続けると言うことは非常に難しく、時には誘惑に駆られる事も多々あります。罪を犯してしまうこともあるでしょう。でも、清く正しく生きていかねばならない、そういう気概をもって人生を乗り切っていくことが何より大切な事なのではないかと私は想うのです。
これから何度も汚れちまいそうになるでしょうけど、もし汚れても腐らない様に生きていかねばならない、そう思うこの頃です。
Posted by 渡辺幻門 at
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2009年06月15日
汚れっちまった悲しみに
とは、山口県山口市に生まれた中原中也の詩です。
今、100年に一度の不況の中で、汚れちまった人を沢山見ます。
前に紹介したサミュエルスマイルズの『品性論』の中で、『人間の目標は信念と誠意をもって生きる、ということであり、人生の価値は、死の床でそれが達成できたかどうかだ』と書いてありましたが、一つの信念に基づいて、一生それを貫いて生きていくと言うことは、それだけ難しい事なのです。私たち商人なら、お金儲けということが大きな目標なのですが、それは一攫千金や濡れ手で粟という状態でも手に入ることがあります。しかし、死の床について、自らの信念を貫き通せたと思える為には、一点の曇りもあってはならない。生きている間ずっと課題としてつきまとう課題なのです。そういう意味では、汚れないで清らかな誠を貫徹する人生を追求するということは、人生自体を修行としてとらえる必要があるのだろうと思います。
そういう天高き理想を追い求める人への悪魔のささやきとは何かと言えば、欲以外の何物でもありません。金銭欲、物欲、名誉欲、性欲・・・数限りない欲=煩悩が人間を汚れた道に誘い込もうとします。そして、人間は次第に麻痺し、汚れたことにさえ気づかないようになってしまいます。
今の世の中においては、そういう気高き聖人を見ることができなくなってしまいました。しかし、かつては国民から心から尊敬される人が存在したのです。そして、そういう生き方が美しい生き方の模範とされていたのでした。それは本で読まなくとも、親子の会話や学校の先生とのふれあいの中で、いわば口伝という形で伝えられてきたのです。
それがいつの間にか、金やモノで動く人間を礼賛する世の中になってしまいました。私の幼少の頃は、金で動かない人間こそ価値のある人間と教えられたものです。プロ野球選手は育ててもらったチームへの恩義も忘れ後ろ足で砂をかけるようにして、メジャーへいく。大阪府の前知事は府民に多大な迷惑をかけておきながら、莫大な退職金を得、その返還要求を無視する。
心を軽んずる時代に、心を病むのは当然の帰結です。
政治家、実業家、その他それぞれの持ち場にいる人たちが、清く正しく生きることを目標とする世の中ならば、今回の経済危機もなかったのではないかと思いますし、今の政治の乱れもあり得なかったのではないでしょうか。
私も含め、清廉潔白であり続けると言うことは非常に難しく、時には誘惑に駆られる事も多々あります。罪を犯してしまうこともあるでしょう。でも、清く正しく生きていかねばならない、そういう気概をもって人生を乗り切っていくことが何より大切な事なのではないかと私は想うのです。
これから何度も汚れちまいそうになるでしょうけど、もし汚れても腐らない様に生きていかねばならない、そう思うこの頃です。
今、100年に一度の不況の中で、汚れちまった人を沢山見ます。
前に紹介したサミュエルスマイルズの『品性論』の中で、『人間の目標は信念と誠意をもって生きる、ということであり、人生の価値は、死の床でそれが達成できたかどうかだ』と書いてありましたが、一つの信念に基づいて、一生それを貫いて生きていくと言うことは、それだけ難しい事なのです。私たち商人なら、お金儲けということが大きな目標なのですが、それは一攫千金や濡れ手で粟という状態でも手に入ることがあります。しかし、死の床について、自らの信念を貫き通せたと思える為には、一点の曇りもあってはならない。生きている間ずっと課題としてつきまとう課題なのです。そういう意味では、汚れないで清らかな誠を貫徹する人生を追求するということは、人生自体を修行としてとらえる必要があるのだろうと思います。
そういう天高き理想を追い求める人への悪魔のささやきとは何かと言えば、欲以外の何物でもありません。金銭欲、物欲、名誉欲、性欲・・・数限りない欲=煩悩が人間を汚れた道に誘い込もうとします。そして、人間は次第に麻痺し、汚れたことにさえ気づかないようになってしまいます。
今の世の中においては、そういう気高き聖人を見ることができなくなってしまいました。しかし、かつては国民から心から尊敬される人が存在したのです。そして、そういう生き方が美しい生き方の模範とされていたのでした。それは本で読まなくとも、親子の会話や学校の先生とのふれあいの中で、いわば口伝という形で伝えられてきたのです。
それがいつの間にか、金やモノで動く人間を礼賛する世の中になってしまいました。私の幼少の頃は、金で動かない人間こそ価値のある人間と教えられたものです。プロ野球選手は育ててもらったチームへの恩義も忘れ後ろ足で砂をかけるようにして、メジャーへいく。大阪府の前知事は府民に多大な迷惑をかけておきながら、莫大な退職金を得、その返還要求を無視する。
心を軽んずる時代に、心を病むのは当然の帰結です。
政治家、実業家、その他それぞれの持ち場にいる人たちが、清く正しく生きることを目標とする世の中ならば、今回の経済危機もなかったのではないかと思いますし、今の政治の乱れもあり得なかったのではないでしょうか。
私も含め、清廉潔白であり続けると言うことは非常に難しく、時には誘惑に駆られる事も多々あります。罪を犯してしまうこともあるでしょう。でも、清く正しく生きていかねばならない、そういう気概をもって人生を乗り切っていくことが何より大切な事なのではないかと私は想うのです。
これから何度も汚れちまいそうになるでしょうけど、もし汚れても腐らない様に生きていかねばならない、そう思うこの頃です。
Posted by 渡辺幻門 at
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